人間 四
アクセスありがとうございます。
投稿が遅れて真に申し訳ありません。私は軟弱者故、小説の書けない精神状態が長く続いてしまいまして。昔書いた短編など上げて人にものを読んでもらう喜びを再確認しつつ、ようやくこの二十一話を完成させることができました。
投稿ペースはもちろん元に戻します。どうかこれからも、このいい加減な作家にお付き合いをお願いします。
霧崎次郎という折れた木片の断面みたいな性格をした男は、ぼくにとってこの世でもっとも取るに足らない存在である。取るに足らないということはそれはつまり無害だということで、奴はぼくにとって誰よりも話し相手に相応しい男ということでもあった。
そりゃそうだ。何せ霧崎はぼくのことを人間扱いしていない。ぼくが他人に求めているのは、こちらの言葉に対して何の行動も起こさず何の感慨も起こさず何の変化も起こさず精密な機械のようにただ応答だけをしてくれることだけ。その為に話し相手には言葉と理屈以外の全てを棄てていただくのが一番良い。
などと考えてみて、ぼくは自分が如何に勝手な人間なのかと思い知ることとなった。やれやれこんな性格をしていれば、そりゃ友達なんてできる訳がない。とにかくぼくの喋り方は人の神経を逆なでし、ぼくの態度は人を落ち着かなくさせる。はっきり言ってしまうがぼくは嫌な奴だ。高山さんや、或いは霧崎よりも、人間の模範から外れているのではないかと思う。
ただ、ぼくにとってそれはすでに、そういうことでしかなくなっていた。
根本弘との出会いがぼくをそんな風にしたのは確かだと思う。また、その根本弘にしたって、物心ついた時からずっとああだったという訳ではないのだろう。どう考えたって、奴は簡単に開き直るような可愛い男ではない。
「きゃはは。いひひひ」
おおよそ女の子が発するものとは思えない笑い声が、窓の向こうから聞こえてくる。見れば料理部の活動をサボった八坂さんが何やら読書に耽っているのが見えた。身を乗り出して表紙を確認してみると、タイトルは空想科学読本。
「アレかよ……」
彼女らしいと言えばそうなのだろう。と言うか、彼女の読書傾向を考えれば、今まで手を着けなかったのが不思議なくらいのものである。しかしあんな大笑いしてもらえれば作者としては感無量と言ったところだろう。
「何をあんな楽しそうに……」
恥ずかしくなるような恋愛小説を読んでいた柏さんが訝しげに窓の向こうを見詰めた。不可解そうに首を捻る。柏さんにとっての八坂さんのイメージとは、何があっても鉄面皮を貫くことにあるのだろう。ぼくも始めて彼女の笑顔を見た時はぎょっとしたものだ。
「あら。欅さんじゃない。いらしたの?」
途端に無表情になって、八坂さんが柏さんの方を向いた。氷よりはコンクリートを連想させる顔である。
「柏だよ。……わざとやってる?」
何がそんなにおもしろいの? ねぇ知っている? ウルトラマンの質量って……。などと会話を始める二人。これで結構仲が良いのだ。と言うか島の連中を含めても八坂さんの友達なんて柏さん以外にぼくは知らない。
ほとんど噛み合わない、グローブからボールを取り落とし続けるような言葉のキャッチボール。それでも対話は持続する。ああ、いいな。と、ぼくは少しだけ思った。
カツン。
と言うより、ドカッ。
ノックと言うにはそれはあまり乱暴で、しかしどこか力無かった。このまま返事をしなければ扉の向こうの存在は簡単に消滅してしまうだろうと、そんな風に思われる。
ぼくは首を傾げて、それから少しばかり頭を捻り、最後には「どーぞぉ」と軽く返事をしておいた。間が空くこと、五秒ほど。
開かれた扉から出現したのは、驚くほど端正な出で立ち。
霧崎次郎だった。
「あんた。何でこんなところ……」
柏さんが面食らったように目を向いた。霧崎は軋んだ調子ではにかんで
「おまえらだけか。いやぁ助かった。人殺し小説の愛好会って言うから、どんなとんでもないのがいるのかと思ったよ」
「それは偏見だよ美少年。ぼくらミステリ研究会の構成員は、教養と常識ある上品な人物ばかりさ」
「へぇ。じゃあさ変態。おまえはデビラーの十一原則が言えるのかよ? 教養人の常識だぜ?」
「そんなのは実在しないんだろう?」
「ご名答」
「ちょっ。……あんたら面識あったんだ」
柏さんが戸惑ったままに呟いて、それから窓の方を一瞥する。八坂さんはと言えば突然現れた美少年をガラス球のような目でじっと見詰めている。睨んでいるというのか。しかし奥へ引っ込むことはしていない。
「で? 何の用だい? 美少年。入部したいというならもちろん歓迎するけれど?」
「まぁさか。俺は基本文学しか読まねぇっての」
「愛読書は?」
「『囲われた世界』」
へらへら笑いながら、霧崎はポケットの携帯電話を取り出す。おまえにそれはまるで似合わないなぁとか思っていると、柏さんが小さく息を漏らした。
「落ちてたぜ」
そう言って、霧崎は柏さんに携帯電話を投げて渡した。それから「んじゃ、お邪魔しましたって」扉から外に出る。
「ちょっと。待っ。ありがとう」
その声はおそらく聞こえただろう。根拠は無いが、ぼくにはそのように思えた。
ぼくは「悪いね」と部室にそれだけを言って、霧崎の後を追った。
「どーゆー風の吹き回しだよ。おまえが学校に来るなんて」
すぐに追いついて、その背中に話しかける。霧崎は流暢に
「別に。落し物を届けに来ただけさ。教室に入る気にはならなかったから、部活が始まる時間まで待って、ね。前からミステリ研とやらには興味があったし、まあ良い機会だろう?」
「柏さんの家に届ければ良いじゃないか」
「俺はあいつの家は知らん」
「ふうん。……まあ、成長したんだねぇ」
にやけ面で、ぼくはそんなことを言ってやった。「うるせぇ」軽くあしらわれる。
「……というか。どうして彼女の携帯電話を、君が持っているんだよ」
「ついさっき見付けた。いつもの廃墟の、傍に落ちてたんだよ」
「おまえ。またあそこに行ったのか?」
何と言う糞度胸。ぼくは感嘆を隠せなかった。
「そりゃ、別に避けるに足る合理的理由なんてないよ」
「生ゴミ一つ落ちてるだけ、で済ませて良いことじゃないと思うぜ。そりゃ、君にはその手の嫌悪感が薄いんだろうが。でも彼女の捜索はもう始まっているに違いない。運悪く君が中にいる時、誰かが入って来たらどうするんだよ? 無用心だな」
「ぎゃはは。おまえに無用心を言われたかねぇよ。いよいよとなったら捕まるのはおまえの方だろう?」
「儲けは山分けだって」
「いらねーっつの。俺は無欲なんでね」
ぎゃははと笑って、霧崎は両手を晒し、それから歪に顔の筋肉を曲げた。この上なく、愉快そうな仕草だった。
「しかしよ変態。本当におまえはあれで良かったのか?」
「ぼくは良いさ。むしろ美少年のやってることの方が非合理的だと思うよ。おまえには何の得もないじゃないか」
靴を履いて、外に出る。九月の太陽はやはり心地悪かった。体育祭が近いというので、体育の授業には妙に力が入っているのだ。まったく持って暑いったらない。
「しかし変態。こんな時間から抜けて出て良いのかよ?」
「構わないさ。どうせ読書なんて、本来は一人でやるものだからね。寄り集まること事態に大した意味はない」
「そうじゃなくて。文化祭の準備とかしろよ。手腕の見せ所だろう」
「小説なら家で書いているさ。思いっきりライトな子供の読み物。部長の友達も書いてくれるそうで」
「へぇ」
廃墟に辿り着き、当たり前のように中へ。階段を上り、天井の穴を確認した。
「いい加減匂うようになって来たな」
「そうだね」
普光院摩子の死体に誰かが手を触れた形跡はなかった。ぼくは安心感を噛み締めて、それから霧崎の方を向き直る。すると彼は
「どこかに処分した方が賢明だと思うぜ?」
「どうやって運ぶんだよ?」
「黒いゴミ袋に突っ込む。できるだけ遠くに行って、山の天辺に穴でも掘って埋めよう」
「運んでいる最中、見付からないとも限らないよ。ここに置いといた方が安全だ」
天井に貼り付けたガムテープを張りなおす。
「鍵だってかけてるだろう?」
「それがむしろ怪しんだ。と言って、外す訳にもいかん」
などと軽く問答。まったく、柏さんと八坂さんは良い。少なくとも、人に聞かれて困るような会話をしなくて済むのだから。
「まあ。言われてみるとここに置きっぱなしが、一番無難か。いつかどこか遠くに移動させなくちゃいけないのは確かなんだが。いいやそれもどうだろう。どこで発見されたって、身元不明ってことにはならないだろうし……」
「ああ。それなら問題ない。肉をミンチに加工するのなら、おまえの得意分野だろう?」
軽口を叩いておいて
「難しく考えすぎるなよ。ぼくらが殺したんじゃないんだから、いざ見付かっても、そうそう大したダメージは受けないに違いない」
ぼくは肩を竦めておいて、いつもの六畳間へ向かう。ちらと、一度も行ったことの無い奥の部屋を覗いた。
「……そうさねぇ」
霧崎は呟いて、ぼくを追い越して歩く。六畳間に腰を下ろし、ふうと二人一緒に息を吐く。二人とも、結構まいっているのだった。
不審者が出没しているらしい。
高校生くらいの背丈のある男で、大きな籠の中に自分で書いたという詩集を大量に詰め込んでいる。人と目が合うなり、金品を要求した挙句詩集を押し付けて去っていくのだそうだ。その詩集の内容は人が読めばぞっとするような、或いは冷笑するような、そういう著者が痛々しい代物であり、値段分の価値はほとんどないという。
金を取った上におもしろくもない詩集を人に読ませるなんて、何と言う迷惑な男だろう。と、その噂を聞いたぼくはまずそんな感想を抱いた。しかし、すぐに思い直す。その男がしていることは、ぼくがミステリ研究会の活動と称して自分の小説を人に読ませるのと同次元のこと。ぼくにその男をバカにする資格はない。
そういったことを霧崎に話してみたところ、あの美少年、何と問題の詩集を買ったことがあるのだという。その男とやらの素性について尋ねてみるに、霧崎が詩集を買ったのはぼくらと同世代くらいの女の子で、詩集の作者の妹を名乗っていたのだという。
『その女。名前はナミノナニノ……ナミノナミノ……ミナミノ……。……確か、ミナミノミナミノみたいな名前だった気がする』
『ミナミノミナイノミナイな名前か』
『違う。ミナイノミナイノみたいな名前だ』
『ミナイノミタイノミタイな名前?』
『違う。ミタイミタイミタミナミタミナ…………すまん。分からなくなった』
とにかくそのミナミさんだ。彼女が出没したという公園に、ぼくは向かっていた。霧崎が狙いそうな子猫ちゃんたちがたくさん生息した、遊具の少ない割に面積のある公園である。人はまばらで、子供を遊ばせに来た母親と、散歩の老人くらいしかいない。やけにベンチが多いのが特徴的である。
妹がここに来たのであれば、同じように兄も姿を見せるのではないかというそんな推測だった。兄妹なら行動範囲も似ているかもしれない。兄の詩集を売りに来るような妹と、妹に自分の詩集の売り子をさせる兄、仲良しであると考えるのが自然だろう。
「こんなところで何をしているのかしら?」
高山さんが後ろからぼくに声をかけた。人口の花園を安々と踏み躙りながらの登場である。さすがは高山さん、毎度あっぱれというべきだろう。
「何って。……別に反抗期で家を出て、夕暮れの公園で自分探しをしていた訳じゃないんだよ」
「反抗期は成長の証よ。あなたには一生来ないわ」
高山さんは随分とあんまりなことを言って
「まあ。あなたなら深夜三時に閉店したデパートのおもちゃ売り場でレゴブロックをいじっていても、おかしくはないでしょうけれど」
そう締めくくった。
「そういう君はどうしたんだい? 君の両親は厳格な人だった気がするけれど?」
「そ。だから今、反抗期なの」
それだけ言って、高山さんはぼくの隣に腰掛ける。肩が触れ合う距離だった。
「西条君、何か飲み物買ってよ」
「お金がないのかい?」
「別に。ただの節約よ」
「はは。君らしいなぁ」
ぼくは肩を竦めて
「やめておくよ。ここで一度奢っちまったら、これから何度たかられるか分かったもんじゃない」
高山さんはそういう人物だ。今のところ、少なくともミステリ研究会においての発言力ではぼくが優位だが、それでも隙を見せれば或いは彼女のマリオネットにされかねないのだ。
「そう? ……ところでさ、西条」
高山さんは少し間をおいて
「霧崎次郎とあなた、交友があるそうじゃない」
「そうだけれど?」
柏さんから聞いたのだろうか。確かに、それは彼女には意外なことなのかもしれない。霧崎はひきこもりで、彼が誰かと繋がりを持つことなど、なかなか想像できないだろう。
「学校の傍の、パチンコ屋の廃墟」
心の中に手を突っ込まれた気がした。
「あそこ、案内してくれないかしら? 霧崎の友達ならできるでしょう?」
引っ掻き回される。
「……可能と言えば可能だな。でも残念、見せたくないものがあるんだよ」
勤めて飄々と、核心部分を明かしてしまう。こうすれば高山さんも、これ以上手が出しにくくなるだろうと判断した。いつもは鍵がかかっているあの廃墟だ。非力な女の子に、強行突破は不可能だ。
「ふうん。……じゃあ、あそこのこと、人に言いふらしちゃう」
「それは君にとってもおもしろいことじゃないだろう? 大丈夫、その内巻き込んであげるからさ」
誘導尋問なら引っ掛かっておいた方が良い。
ある程度、好奇心を満足させてあげなくちゃ。興味本位で何をするやら。
「そ。んじゃ、何か飲み物買ってきてよ」
「それもだめ」
危ない賭けだったが、しかし高山さんは
「あらそう」
たのしそうに笑って、それから立ち上がった。
「寝場所に困っているのなら、内に来なよ」
「勘弁してよね」
別に、家出している訳じゃないんだから。そう言って、高山さんは公園を去った。
食えない女だ。
ぼくは息を吐いて、自分の女友達の在り方に少し苦笑する。ぼくなんかが相手だったから良い、しかし世の中には恐ろしい厄介者がたくさんいる。変なのに目を付けられなければ良いな、などと老婆心で考えていた時
「振られたみたいだな」
などと、仕事を報告するロボットのような声で呟いて
「可哀想に」
なんて、日曜朝のテレビアニメに声を入れる声優のように言ったその男。
肩には巨大な籠、中には素人の手製らしき大量の書物。
「ミナミさんの兄ですか?」
ぼくがそう訊くと、男はほんの一瞬、脳味噌のぜんまいを巻き終える程度の時間、硬直する。それから漫画みたいに笑い
「そうだよ」
と答えた。
「買ってしまった」
……のはぼくの責任であって噂のように酷い商売をしている訳ではない様だ。肝心の詩の内容の方も然程稚拙だという訳でもない。人間の魂を抉り取って紙に焼いたみたいな力強さを感じる。
「痛々しいというのは、言いえて妙だよな」
などと苦笑する。心の中のやわらかい部分をあけっぴろにしたその内容は、何とも痛ましいのだった。読む人によってはそれを気持ち悪いと表現するかもしれない。
屋敷に帰り着いて、詩集を四畳半の自室に放っておく。霧崎に勧められた『囲われた世界』は本棚の奥に引っ掛かっていた。それを読む。……ああ、これはおもしろいかも。ぼくも十歳くらいの頃、こんなことを考えていたものだ……。
「ミメイ! 朝だってばミメイ!」
トモが扉にタックルを繰り返す。ぼくは頭を何度か引っかいて、それから畳の上で眠りこけていたことを思い出した。指の間に引っ掛かっていた『囲われた世界』を畳み、本棚の目立つところに突っ込んでおく。そろそろ整理して、読み終えたものをミステリ研究会に持って行くべきかも知れない。
「ミメイ!」
「返事がない。既に死んでいるらしい」
などと軽口を叩いて、ぼくはのそり、立ち上がった。時間は五時四十七分。寝ていようと思えば後二時間は余裕があるのだが、あえてそうする理由もないだろう。全身が痛いし、トモの相手でもしていれば登校に相応しい時刻にもなるだろうと考え、扉を開く。
「ミメイ。ニュースだよ。ニュース!」
「それは気になるなぁ」
今日も眠ることができなかったらしく、トモは外から帰った服装をしていた。この子は服を全部で三着しか持っていない。本人が希望すれば屋敷のあちこちから人間が殺到して、国中のメーカーからトモが気に入るものを買い揃えることだろうが、だからこそ、彼女は格好に無頓着だ。
「木原狭霧って覚えてる?」
「覚えてるも何も。忘れられる訳がない。あんな」
言葉に詰まり、しかしぼくはすぐに
「……に、仲が良かったんだ」
「えぇ~。ミメイ、それ本当? 大丈夫なの? 殺し屋とか雇わなくて良い? 心配ならすぐに雄大さんに声かけるけれど?」
「どういうことかな?」
あの子なら、今は病院にいるはずだ。
当然、二度と出られる訳もない。
「逃げたんだって」
珍しくも、トモは両足を地面に着けているのが明白な状態で、そう言った。
「うそぅ?」
「本当」
何故か不適な表情をして、トモはその場で一周する。それからポケットの写真を一枚取り出して
「どぞ」
ぼくの方に投げて渡して来る。
この町の、昨日の公園のベンチで横たわるその少女。枯れ木のような肢体と言い、血の通わない寝顔と言い、間違いない。これは狭霧ちゃんだ。
「今はどうしてる?」
「知らない。これが一番最近の写真」
「どうしてこれが、こんなところにある?」
「浪野さんがくれたんだよ」
「クソったれ!」
あの女め。何の所属もなく誰の味方でもなく哲学も持たず、しかし目的だけが嫌にはっきりしている実力者ほど厄介なものはない。その目的が常人に理解できないものであるのならそれは尚更。行動のことごとくが意味不明で、しかし常に、誰かにとってそれは有害だ。
「クソったれとは。これは個人的な意見ですが、そのような乱暴な言葉遣いをされていますとお友達が減ってしまいます最上陽並様。それともあなた方の世代及び地域ではそのような文句が流行しているのでしょうか? だとすれば個人的に、ついていけそうなセンスではございません」
まるでどこかからテレポートでもして来たかのように、突然に存在感を示したのはメイド服の女性。百七十五センチ程の肉感的な体躯、端正な顔に埋め込まれた、紙屑を丸めたような瞳と、口元のホッチキスの歯が不気味である。
「何模さん。あなた今度は何がしたいんですか? それからぼくは西条だといつも言っているでしょう?」
「これは個人的な意見ですが」
何模さんはいつものようにそう前置きして
「その名前はあなた様のご友人がお付けになったもので、それを名乗る合理的な理由は既にない。ならば、あなた様をこの愛に溢れた世界に産み落としてくださった、尊き両親のつけた名を名乗った方が良いのでは? あなた様の存在は一組の男女が手を繋いだ故のものだと、決して忘れてはいけないように、個人的に思います」
ホッチキスの歯を揺らしながら、静かな口調で饒舌に、そのロマンシストは話す。
「ぼくは自分の両親に執着していません。理由がありませんから」
「なんと言う親不孝なのでしょう、と個人的に感じます」
「殺し屋さんに言われたくありません」
勤めて不機嫌に、ぼくはそう言う。
「ひょっとして。狭霧ちゃんが逃げ出したのにも一枚噛んでるんじゃないですか?」
「そのとおりです」
何模さんは上品に頭を下げ
「最上陽並様。相変わらず聡明でいらっしゃる。個人的に、感服いたします」
「ああそうですか」
ぼくはこれ見せよがしに溜息をつく。
「トモ。まさかおまえが連れてきたんじゃないだろうな。この人」
「うん。もちろん違うよ。屋敷に入ったのは知っているけれど……まさか、ここまで来るとはねぇ」
トモは苦笑する。こいつにこんな表情をさせるなんて大したものだ。
「真に勝手ながら。わたくし、あなた様にある人物の話を訊きたくて参りました」
深々と頭を下げ、しかし体はトモよりも前に
「オウムガイ、という殺し屋について、尋ねたく」
「知りません」
ぼくはすぐに答えた。
「ぼくは善良極まる小市民の子です。そちらさんの、殺し屋さんがどうだのいう話とは関係がないのです」
「真に失礼ながら」
浪野さんはさらに頭を深く下げ、そしてさらにぼくに近付いて
「陽並様。それはいささか傲慢というものです」
個人的に、とは付かなかった。
「自分一人で何とかできると考えないように。逆説、打破できぬ状況があれば、あなた様はそれを諦めてしまわれるのでしょう? 愚かなことです」
深々と下げられたその頭は、ぼくの胸のあたりにあった。
ぼくは勤めて自然に、何ともないように肩を竦めて
「それは、ありがたい忠告だね」
何とかそういうことができた。
「できるだけ、早いほうが良い。片付けてもらいたい死体がある」
「どなたの?」
「普光院摩子」
「なら、何も問題ありません」
何模さんは頭を上げて
「今日中にでも、解決いたします」
頭の中で蜂蜜を沸騰させているような、そんな笑みを浮かべた。
ぼくは二度、嘆息せざるを得なかった。相手が誰だろうが、ものを頼んでおいてこんな態度をするものではないのだが。
「結局あなたは、何がしたいんですか?」
分かり切ったことを訊くと
「皆が手を繋いで歩き、転び、朽ち果てるようにしたいのです」
良く分からない言葉が返って来た。
学校には行かなかった。変わりに、尋ねたのは霧崎のいるパチンコ屋の廃墟だった。
ぼくという人間はあらゆる事情に対して酷薄な態度をとる癖があるけれど、こと人間関係に対しては誠実な方だと自覚している。もっとも、誠実なる概念に対してぼくはあまり誠実ではないので、結局のところ、ぼくはそこまで人情家という訳ではないのだが。
「来ているのなら、一番好都合なんだけれどな」
奴がどんな生活リズムを送っているのか、ぼくにはてんで見当が付かない。もっとも、昔の同級生とは会いたくないだろうから、ここに来る時間だけは何となく想像が付く。皆が授業を受けている時間……運動場にいる生徒に見付かる。放課後……運動部。いいや、霧崎はもう、そんなの気にしていないのかもしれない。昨日の朝、出会った時に比べて奴がどうにかなっていたのは、確かなのだから。
むしろ、こういった時間の感覚を持つべきなのは、何模さんみたいにやましいところのある人間だろう。略奪者か、襲撃者、或いは、何かを隠しに来た人物。彼らが何かするとしたら、深夜か早朝。
「おぅい。美少年。遊びに来たよーん」
外側の鍵は開いているのに、返事がない。寝ているのか。それからしばらく扉を蹴ったり殴ったりしてみたが、一向に応答がなかった。面倒に思い、駄目元でドアノブに手をかけてみる。
開いた。
これはいったい、どういうことだろう。あの臆病な霧崎が施錠を忘れるなんて。
嫌な予感は、当然した。
霧崎以外の何者かの手が入っているかもしれない。
ぼくは扉を背に、二階へ進んだ。いつもの六畳間。猫の死骸、喉元から腰までをナイフで開かれて、ぶちまけた内臓がそこら中にとぐろを巻いている。だが、それ以外に外傷は見られない。
霧崎の奴。何だ、これは。
随分と、楽な殺し方じゃないか。
ぼくは首を傾げる。しかし深く考えている時間は無い。二階中を這いずり回り、霧崎の姿を探す。
台所、浴室、トイレ、そして、最奥のあの部屋。
数メートルまで近付いただけで、血と糞尿の混ざり合ったような、とんでもなく不愉快な臭気が漂って来る。
霧崎がぼくを近づけなかったその部屋に、何かがあるだろうことはもちろん分かっていた。それが霧崎の弱みで、彼が摩子さんの死体をここの外に出したがっていた理由であろうことも。
ここにいるのか?
ぼくは襖を開く。
「……!」
意識が熱風に晒され、吹き飛んで、溶けて消えて。
両眼は、柱に首輪で繋がれたその少女に縫い付けられる。ぼくはその場で腰が抜けて、尻餅をついた。
狭霧ちゃんがそこにいる。
これは、どこの悪魔の仕業だ?
ぼくは建物中の空気が冷水に変わるような錯覚を味わった。むちゃくちゃな激流を作った水は大きな渦を巻いて、ぼくの心を絡めとリ、混乱へと追いやる。
色彩が反転したような視界が移すのは、大量の紙切れと、血と。奥には青いバケツ。少女はぼくの方を見ようともしない。ただ柱に寄りかかり、目をつぶり、じっと、動かないまま。その美しい姿は、人形とも死体とも、眠り姫とも形容することはできなかった。この上なく明瞭な意識を持ち、禍々しく、深く、濃く、膨大な感情を抱え、それを爆発させ続けている、紛れも無い生きた人間だ。
「…………っ……っ……っっ! ……!」
這うように、足の速い亀のように、ぼくは無様にその部屋を飛び出した。廊下を進み、目に入った階段に突っ込むと同時に、全身を傷みと酔いが支配して、次に鈍重な音が響いた。
どうやら転がり落ちたらしい。
ならば、ここは一階だ。
ぼくは床に頭を打ちつけ、どうにか平静を取り直す。ガラスの破片は落ちておらず、ぼくは体のどこにもけがはしていなかった。震える足で立ち上がり、下手糞な人形視に操られるよう糸人形のように、どうにか一歩を踏み出した。
「おぅい、誰かいるのか?」
微かに感じたその声。ぼくはここから逃げることよりも、その声に向かうことを選んだ。声の主は万能の者で、彼によって全てが解決されると、ぼくはそう信じたのだ。
一階の、パチンコ台が並ぶそのスペース。
全身をガムテープでイスに括り付けられた霧崎次郎が、朦朧とした視線をこちらに放っていた。
読了ありがとうございます。
これからもお付き合いください。