人間 三
アクセスありがとうございます。林崎です。
今回もお付き合いください。
他のどの動物と比べても、猫以上に人間的なものなど存在しはしない。その仕草、行動、表情、思想、どれもこれも、高貴ぶって優秀ぶって勝ち誇った、いけすかないクラスメイトを連想させる。
そんな訳だから、俺は猫を殺す前にまずは廃墟のどこがしかに放つようにしている。その行為はただの機械的な虐殺であってはならないのだ。ナイフを片手に追い掛け回し、エアーガンで背後から狙い、少しずつ血を流させ弱らせてしとめるからこそ、圧倒的なカタルシスを得ることができる。こういう時、俺の心は一人の戦士、或いは殺し屋のそれへと高まるのだった。他の何もかもを放棄し、目の前の敵をより効率的に、より確実に、より完璧にしとめることだけを考えるベルセルク。思考の十割を殺戮が支配しているその時、全身に迸る痛いほどの快感は、これ以外では決して得られないだろう。
「ぎゃはは」
相手が完全に沈黙してしまってからは、勝利の余韻に浸るだけのお遊びだ。目を向いて痙攣し、もはや真っ赤なスライムのようになったそれを足蹴に、体の随所にBB弾を捻じ込んで行く。目やら鼻やら臓器やらを摘出するノウハウをネットで見つけたことがあるが、それができる境地に辿りつくのにもそう時間はかからないように思われた。裂けた体内を凝視する嫌悪感や苦痛を与える恐怖感を焼け付くような快感として受け止められている。
もう少しだ。
もう少しで俺は、本物の狂人になることができる。もう後三本か、或いは二本。俺を縛り付けている糸が吹っ切れてしまえば、もはや殺人すらいとわなくなれるだろう。
「いひ、いひ、いひひひ」
猫の頭を踏む、踏む、踏み躙る。ぐちゃぐちゃのそれはアメーバのように床と俺の足裏とで糸を引いた。刃が腹の中を駆け抜けるような錯覚。甘露を吐き出すような快感。狂人のテンションを保ったまま、俺は少女のいる部屋まで一気に駆けた。
柱に繋がれた少女はげっそりとやせ細り、ふすまが開かれるやおよそ焦点の合わない目をきょろきょろとこちらに向けさせようとする。俺は勢いに任せてエアーガンをその少女に向けて、それからすぐに取り落とした。
こんなのはお遊びだ。
BB弾で撃ったところで傷つけられる相手はただの猫だけだ。俺はナイフを握り締め、その少女の方に一歩近寄る。
にやり、と
乾ききったその嘲笑に、俺の全身から血の気が引いた。途端に、髪の毛が吹き飛んだような圧倒的な悪寒が全身を支配して、その場に倒れ付して動けなくなる。筋肉の繊維の隙間中に氷の粒を詰め込まれたような不快感に、俺は悲鳴をあげながら床を転がった。どこにいるとも知れない悪魔が、確かに俺を狙っている。
何分そうしていただろう。体力を失うと同時に平静を取り戻した俺の背後から、声帯をこすり合わせるようなその声が響く。
「無理」
ちくしょう、バカにしやがって。俺は少女の方を向き直り、狙うでもなくナイフを放り投げた。少女は避けようともせずに顔面でそれを受け止める。端正な頬に一筋の血が噴出した。
「ふざけんな、ふざけんな、ふざけんな……」
何と無様なのだろう。俺は自分をひたすらに呪った。結局俺は、人殺しになどなれないのだろうか。半端に相手の痛みを想像して、それを悦楽に還元する技能も無く、度胸もなく、勢いも数秒足らずで、基本的に弱虫で……。
「うわあぁあっ!」
エアーガンを手にとって、それで少女をひたすらに打ち据えた。僅かに残った体力と気力を振り絞り、前だけを見据え、沸騰した脳味噌が悲鳴をあげるのにも容赦せず。
そこら中に飛び散ったのは、この矮躯のどこにあったのかも知れないような血肉であって、漏れ出すように響くのは鈍い苦悶の声だった。自分は少女を完全に殴り殺してしまうのだろうかと、恐怖と希望の軋轢した感覚から逃げるように、俺はとうとう運動神経までも狂わせて殴打を続けた。
自分がやっていることに意味はないと、今この時は分かっている。
だが、終わってしまえば、そこにあるのは人殺しの自分なのだ。
柱に向かって体をよじり、頭だけを守るように全身を床へ沈める。俺は足を使い始めた。一瞬、ナイフを取りに行こうかという考えが頭を擡げたが、少しでも落ち着いてしまえば時間に飲み込まれてしまうことは目に見えていたので、どれだけ非効率的だろうがこの攻撃を続けるしかない。
「おい」
畳に向かって爪を立て、口から血を吐いて悶える少女に憐憫を感じてしまう自分がたまらなく情けなかった。体が軋む。精神が軋む。このままぽっきりと折れてしまえば、俺の目的は完遂される。
狂いたいのだ。
どうしても。
奴らは俺のことをなんと言っただろう。力があるのを示す為に、何もできないお坊ちゃんではないことを示す為に俺が払った努力に、奴らはなんと言って俺を嘲っただろう。どうして畏怖しただろう。
こうする以外に、俺はどうやって溜飲を下げられるというのだろう。
笑いたきゃ笑え、哀れに思うのも勝手だ。だが、おまえらの首にカッターを突き立ててやるのは、この、俺なのだ。
見ていろ、俺は気狂いだ。
「いるんだろう? おい」
耳を傾けてはいけない。そう思った。今は、人と通じることは諦めよう。今は? ふざけるな。俺はずっと、未来永劫、一度として、誰かを求めてはいけない。
本当にそうか?
「びしょーねーん? いるんだろー!」
とうとう全ての力を使い切って、俺はひざを折ってそこに座り込んだ。
少女はと言うと、そんな俺の姿をただ辟易したようにちらと見るだけ。低血圧みたいに頭を振るって、奥歯らしき形の白い物体と共に血を吐き出した。それから人をバカにしきった口調で
「がんばりましたねぇ。すごいです」
などと、舌ったらずに言った。
「昼寝中かーい? それともお取り込み中? 返事しなよー寂しいじゃないか。ねー」
入り口のドアを蹴っ飛ばす音。西条の野郎だ。かなりふざけている。奴のにやにや笑いを頭に浮かべてむかついて、それでどうにかこうにか気力を奮い立たせた俺は、何とか立ち上がり、転びそうに階段を降りてから鍵と扉を開放する。
「どうした? 美少年。今日は随分と反応が遅かったじゃないか」
拾ったのだろうコンクリートブロックを扉にぶつけようとしていた西条が、子供みたいな口調でそう訊いた。
「いいや。ちょっと、厄介な相手がいてな」
俺が心底、疲れ切った声でそう言うと
「それで? どうにかなったのかい?」
西条は厚顔無恥にそう訊いて来た。俺は
「おまえみたいにうまくはいかねえよ」
と、今日初めての男に皮肉を言った。
「それにしても汗びっしょりだね。中は暑いだろう? 九月の暑さほど鬱陶しいものはこの世に存在しないよね。けれど同時に、この世でもっとも尊い気候でもある」
「俺は七月が好きだけれどな」
「へぇ。意外だね。ぼくはてっきり、おまえは六月と十一月が好きな類の人間だと思っていたよ」
「おまえが九月を好きだというのも十分におもしろい話だぜ」
「それは違うよ。ぼくが好きなのは三月だから」
頭を使わずに西条に返事をしながら、いつもの六畳間に辿り着く。途中に転がっていた猫の死骸に対して、西条はやはり一瞥もくれなかった。
「それで? 今日は何の用で?」
「随分とつれないんだな。用もなく遊びに来ちゃいけないのかい?」
にやにやとする西条の顔の真ん中に拳を叩き込んでやりたい思いをどうにか押さえ、俺は一度息を吐いて気分を整えた。まったくこの男は、俺に対して庇護欲でも抱いているのだろうか。或いは、こいつもこの廃墟を気に入っているという考え方もできる。だがやはり一番正解に近いのは、気紛れと惰性による交流といったところだろう。
などと考えてみたところで、こいつに対しては何の寂寥も抱けないのだけれど。
「そう言われると嬉しいものがあるねぇ。友情でも感じてくれているのか?」
勤めて皮肉っぽく、俺がそう言ってやると、西条は顔色を一つも変えずに
「当たり前じゃないか」
と言ってのけた。なんて奴だ。
「……まったくおまえは大した野郎だよ。舌先三寸どころか、自分自身の存在すらも三寸程度にしか扱っていない。さぞかし女を口説くのがうまいだろうに」
「まさか。好きな女性がぼくに酷いことばかり言うんでまいっているくらいさ。『絶対に幸福になれなさそうな奴』『世界で一番生きているのが無意味な男』酷いだろう?」
「そりゃ、まあ確かに、寸鉄釘刺すって感じだが。……その女はやめといた方が良いんじゃないか? おまえなんかと関わらないで、ふつうに幸せになるべきだと思うんだが……」
「やっぱりそう思うかな? ……しかし美少年。おまえもたいがい美少年だけれど、そんなに美少年なら一度くらいもてたためしがあるんじゃないのかい? 何せ美少年は美少年だし、それに、今は狂気の時代。危ない男ほど人気が出るもんだろう?」
「危ないって……ねぇ? 確かに、そこいらの不良を治めている最強番長だか、おとなしい顔して自分や仲間に仇名す者には容赦しない性格の秀才やら、一歩譲って哲学あるシリアルキラーとかなら、まあキャラクターとしてはそこそこ優れているし、今の時代、ある程度の魅力が備わることだろうさ。だが、そういう奴らはクールかクレバーだからこそ成立する。少女とかの弱者しか狙わない殺人鬼は魅力も減ったくれも無いただの忌避すべき変態だろうし、一口に殺人と言っても強姦殺人に魅力があるとは俺には思えん。暴力的な人物にしたって、自分の妻にだけ変態的な暴力を振るうような輩が格好良いか? 危ない奴なら誰でも魅力的だというのは違う」
「そういう考え方を適用しても尚、おまえはなかなかイイと思うけれどね?」
「ふざけんな」
俺は両手を晒す。
「おまえは猫を殺すだろう? それは人を殺すのと比べればスケールが小さいし、弱者狙いと言うことで卑怯とも言える。だが、その姑息さこそおまえの魅力だと思うんだ。ゴミを漁り、鳩を虐めるカラスに哀愁を感じるのと同じこと。ふとした八つ当たりでナイフを振り回しがむしゃらに殺人をしておまわりにとっつかまるような愚か者に、どうしてか憧れてしまうのと似た理屈さ」
「……そりゃ退廃的な感受性だこと。さすがミステリ好きは違うねぇ」
「そうだね。人一人殺す如き雑事の為に、針の穴に糸を通すような天地をひっくり返すような神の如きトリックを展開するからこそ殺人犯人は魅力的なんだ」
「あっそう。……だがお生憎様。俺は今まで一度だって、女に好かれたことはねぇよ」
「そうなのか」
西条は心底意外といった風にそう言った。僅かに表情が揺らぐ。
「今時の女の子の感性は分かるようで良く分からないよね。単純なようでその実単純だけれど一枚ずれているようでいてその実十枚くらいずれている感じ。まったくもてるのは難しいな。もっときちんと対策を考えないと」
「もてる奴は何も考えなくてももてるし、その逆も然りだろう?」
「まさか。もてる奴になるように勤めれば良い話じゃないか」
「……ああ。なるほど」
そりゃ、俺には無い発想だったな。
「さて、中学男子らしくもてる方法について話し合ったところ。ねぇ美少年。ここ最近、ご近所で人間の死体がばんばん発生しているのだけれど、心当たりあるかい?」
どうやらそれを訊きにやってきたらしい。少しばかりの安堵感を噛み締めながら、俺は肩を竦めて
「俺の仕業じゃあねえぜ。それだけ確かだな」
「あっそうかい? ……ふうん。残念だな」
どうして残念なのか、俺は考えることもせずにそのぼやきを聞き流し
「人が死にまくっているっつーのはおまえにとっては人が殺されまくっているって意味なんだろうけれどよ。……連続殺人」
「そ。いわゆる連続殺人。とは言っても、被害者は三人。内の学校の生徒が行方不明になったから、多分四人だろうね」
「あっそう。被害者に共通点は?」
「脳味噌が抉り取られている、財布を抜き取られている。それだけさ。金持ちばかり狙われているのかと言えばそうでもない」
「ふうん」
財布はともかく、脳味噌は怖いなぁ。……というかそんな荒唐無稽な話、絶対に尾びれの類だと俺は思うけれど。何れにせよ、西条のような悪趣味な変態が、興味を惹かれるのも無理からぬ事件。
「相変わらずつれないな。おもしろがらないならせめて気の毒がったらどうだい?」
軽薄な口調の西条。
「世界には俺の好きな奴と俺の嫌いな奴とどうでも良い奴がいる。知り合いが死んだってぇ知らせは聞いてねえし、俺には関係も興味も責任も無い話だよ」
「責任……ときたか。やれやれ、美少年は分からないな」
西条は鼻を鳴らして
「それは、美少年と一番縁遠い言葉じゃなかったのかい?」
「そうかもな。……なるほど、そういうことか」
「まったく。いいかい。美少年は文句無し異議無し遺憾なしの筋金入り破綻者なんだ。だったらもう少し不適合者に徹さないと、ずっと今のまま何も変わらないよ」
「ああそうかい。そいつはごめんなさいね。……で、どうすりゃ良い? その事件に対するおまえの見解を聞いてやれば良いのか?」
「分かってるじゃないか。さっすが美少年。クールだよ」
手のひら返しいきいきとして西条は言った。身振り手振りが四割り増し。的確なタイミングで的確に使えば女にもてそうな態度だな、こりゃ。
「美少年はニュースって見るかい?」
「俺にはそんな悪趣味はねえよ」
「そうかい? ぼくは結構好きだな。つまんないところは死ぬほどつまんないけれど、笑えるところは死ぬほど笑えるよ。ぼくがもう少し死にやすかったらもう毎日でも死んでいるくらいなものさ。……で、それによると、警察病院からある女の子が脱走したらしい」
「んなこと、ニュースで報じて良いのかよ?」
「良いんでない? 少なくとも報じられていたのだから、それは報じて良いということでない? ……まあそんなのはどうでも良いことだ。ああ取るにたらない。まったくもって誰も興味を持たないような問題だよ。わざわざそんなどうでも良いことを持ち出すだなんて、美少年も随分とくだらない感受性をしているものだね。まったく、これは反省すべきことだとぼくは思うが、まあそれはそれとして……」
などと床をしばきながらまくし立てて
「その脱走した女の子、この近くの駅で目撃されている。それから一度、この近所の公立中学の、その学区内の公園に姿を現していると言う話だ。割合、綺麗な服装をしていたと言う話だよ。その時点では、ということになるのだろうけれど」
「……それはそれは。まさか、そいつが犯人だとかくだらないことを言うんじゃないだろうな?」
西条は心外だと言った風に
「くだらないとはいったいなんだね? それはまともな思考を重ねた上での判断か? だとすればお笑い草だと言うしかないだろうよ。……良いかい? その女の子が目撃された情報は、その二つしかない。脱走してから既にもう何日もたっているのに、女の子はどうやってものを食べているのだと思う?」
「……強盗やら空き巣やら万引きやらやってら、今頃バレて無い訳がないってか?」
俺は溜息をついた。
「強盗でも空き巣でも万引きでもなければ殺人ってか? まるで論理的じゃない。人殺して財布奪って生活費にあてていて、それが捕まらないなら、強盗その他だって平気だろうが」
「……ああ。言われてみれば」
頭良いね、美少年。という西条に、俺はこれ見せよがしに大きく溜息をついて
「推理小説の読みすぎも極まれりだな。何でもかんでも殺人に結び付けようとする。……ありとあらゆる問題を人殺しで解決しようとする。他に手段があるのも完全無視だ」
言ってやると、西条は肩を竦めて
「ミステリってのはそういうもんだからね。よっぽど技術の無い作者じゃないと、この点はどうしようもない。ぼくみたいなただの妄想野郎作家モドキにはこれが限界さ」
「……ああ。作家的思考のつもりだった訳ね」
「まあね。何事も途中で放棄しがちのぼくが、小説の執筆だけは最後までちゃんとできたから。好きな子にも褒めてもらえたし、自信も付いてね。しばらくこれをやってみようと思ってるんだよ」
「へえ。そりゃ良いことじゃないの?」
この男が惰性以外で何かをすることもあるんだな。俺は感心しつつ、同時、ある種の諦観に首を振るった。
なるほど、実にこいつらしい自慰行為。
何も変わっちゃいないのは、こいつも同じか。
「だったらさ。その小説、主人公っつーか殺人犯人っつーか。その女の子のポジションの奴には、パトロンがいるってーことになるんだろうな」
「パトロン?」
「おう。ヒロインに対するヒーロー、陳腐な比喩で足長おじさん」
「それは先人への冒涜だよ」
「うっせ。とにかくこれなら辻褄はあうだろう? 飯を食わしてくれる便利屋がいれば良いんだ。警察の調査もある程度シャットアウトできるし、物語にもなりやすい。いっそそのパトロンを主人公にすれば良い。……家に帰れば部屋にいたのは可憐な少女と、その隣には真っ赤な死体。テレビから流れる無機質な声は、その少女が凶悪な殺人鬼であることを告げている。少女は自分をかくまってくれと言う。イカれた頭のその主人公は何らかの理由でそれを承諾し、二人の共同生活がそこで始まる訳だ。……さっきの話じゃねえが、頭のおかしな美形の殺人鬼って、キャラクターとしてはかなりスタンダートだからな。男と女の心理描写をうまいことやってやれば、まずまずのものが書けると思うぜ」
「……なるほどね。女の子の背景を謎めかして描くことができれば、社会派ミステリって趣に仕上げることもできる訳だ。そうだな……主人公との過去の繋がりっていう具合はどうだろう? それから、主人公は年端もいかない小学生か中学生にしたいね。……まあ少年法の問題とかもあるし、中学生ってことになるんだろうが」
「へえ。おまえセンスあるじゃん」
「だろう? ……まあ、このストーリーを矛盾無く仕上げるのは、野球に通じない人間が取材無しで野球選手の話を書くのと同じくらい難しいだろうけれど」
さすがに書くことを想定している人間は現実的なことを言ってくれる。
まあ、確かに。どうしたって警察の動きをないがしろに描いたんじゃ、異常かつ背徳的な二人の関係を盛り上げることはできないもんな。
「……それ以上に。何と言うか。今この時代に通用するネタじゃないよね。かなり陳腐だし。しょせんは私小説止まりか、良いところでネット小説止まりの設定」
「はん。ネット小説の登場人物みたいな奴が何を言うんだか……」
「それはおまえだよ美少年。美形の異常者なんて、どこにでもありそうなクソキャラじゃないか。しょせん、お話を悪趣味で暴力的なものにする程度の役割しか果たせないのに、リスクばっかり高い。下手な小説の下手なキャラクターの見本のような奴が何を言う?」
どうも、少しばかり怒らせてしまったらしい。自分を格好良い主人公だと信じている節のあるこの変態に、俺の今みたいな台詞はちょうど怒りのつぼだった訳だ。
「ぎゃはは。まあ確かに、俺だってたいがい陳腐な登場人物みたいな輩だな」
素直に認めておいて
「小説のキャラみたいな奴が現実にいるっつーのも、おもしろいことだねぇ。それはつまり、人間の想像力が偶然だの自然だの運命だのに打ち負けているってー話だよな。ブッとんだキャラや設定を作りたいのに、現実には一筋縄じゃいかない奴や場所がたくさんある。事実、警察の檻から脱走して来るようなとんでもねぇ女子がいるんだからおっかねぇ。まったく何が起こるか分からない世の中だ」
適当に話題を変えておいた。これ以上怒っても仕方がないと判断したのか、西条は「それはそうだね」と呟くように言って
「よし。ぼくはこれから、この部屋を出て、この廃墟の出入り口の扉を開くこととしよう。その過程で、如何に奇天烈なことが起こるのか、それを妄想してみようじゃないか」
「ふうん。それでよりとんでもないことを思いついた方が勝ちという訳だ」
程度の低い遊びだが、こいつとならば楽しめることだろう。西条も同じことを俺に対して思ったに違いない。
「まずは俺だ。……扉を開けると、武装した特殊部隊に包囲されている!」
「なるほど奇天烈かもしれないな。で? それはどういう経緯でそうなったんだ?」
「おまえは実はある組織を抜け出した元工作員。それをひっとらえにやって来た連中が、ここを訪れた」
俺がそう答えると、西条は苦笑しながら「なるほどね」と力無く呟いて
「まさに、といった具合だね。事実は小説よりも……」
何かぶつぶつやっている。
「随分と粋なことを思いつくね。ひょっとして美少年、映画はスパイ物が好みだったり?」
「おう。モデルガン収集の趣味も、その影響だ」
「ふうん。じゃあ、ぼくの番だ。……扉の外は見るも無残な屍山血河。街中を這いずり回ってみても、どこもかしこも死体だらけ。それもそのはずここは戦場。ぼくらがこの中で暢気に話をしている間に、日本に宣戦布告しに来た外国の部隊によって虐殺劇が展開されていたのだ」
何ともこいつらしい荒唐無稽な話だった。もっとも、その点を俺のと比べればどっこいどっこいだし、戦争の始まりはいつも唐突なものと言うのでまったく現実感がないのかと言えばそうでもない。
「で? どっちの勝ちだろうね?」
「俺の負けだ」
素直に認めてやると、西条は「やったね」などと嘯いてみた。それはいつもの、声帯を振るわせただけの身の無い言葉だったが、まあこいつも本気の勝負をしたかった訳ではないのだろう。
だがそんなこいつも、まさか思うまい。
この二階の最奥の部屋には、首輪を付けられた女が俺に飼育されているだなんて。
「じゃあ、想像に対する現実というのを確かめてみようかな」
「そうだな」
西条はいい加減にこの暑いばかりの廃墟からおさらばする為、俺はそんな西条を見送る為に畳を立ち上がる。部屋の外に出て、廊下を進み、やはり西条は猫の死骸に一瞥もくれず、代わりに天井に空いた大きな穴に興味を惹かれたようで
「この中に何か隠しているんじゃないだろうな? えっちぃ本とかさ」
などと言っては、俺をからかおうとした。どだい、その穴に気付いたのは今この時である。どうにも、こいつは年頃の中学生らしくも、その手の話をしたがるところがあるらしい。
「ねぇよ。俺は精神的な発育が人と比べて遅くってね。まだまだそういうことに興味をもてないんだな」
「そうかい?」
などと気の無い返事の後、穴に背を向けてから奥の部屋を一瞥。そう言えばあそこって言ったこと無いなー何があるのかなー、などという思考が伝わって来る。俺はそんな西条の手を引いて「行こうぜ」と照れたような声を出してやる。そっちの部屋に気付かれるのならば、穴の中にエロ本を隠していると思われた方がましだ。西条の興味はすぐに天井に移って「そうだねぇ」といやらしい声をだし、わざとらしく穴から目をそむけ、すぐ傍の階段を降る。
まったく鍵をかける程度の警戒じゃたりないかもしれないな。いっそのこと、こいつと秘密を共有してやろうか、などと考える。あの女に愛着はないし、西条によってどんな目に合わされたところで俺の知ったことではない。いいや、いくらこいつでも、いきなり襲い掛かるような真似はしないか。あの時奴が俺の上に乗って来たのは、猫の死骸を使って嫌がらせをした俺に対する制裁のような意味もあったのだろうことだし。しかしその場合、こいつは誰の為に俺を粛清しようと考えたんだろうな? 一緒に出てきた、あの背の高い女だろうか。
などと考えながら階段を進む。コンクリートでできたその階段は、靴で何度も踏まれて滑りやすくなっている。転ばないように注意することはとっくに西条に注意してあったが、こいつはあまり気にしていないようだ。こんなところですべるような間抜けは俺くらいのものかな、などと内心で苦笑していた平和な俺の視界に飛び込んできたのは、顔が緑色で目玉が飛び出して口からは血やら痰やらつかない妙な色の液体を吐き出した、魚みたいな面の、腐ったみたいな女だった。
こいつは、確か。
普光院だっけか?
「あっちゃあ。これは酷い」
西条がオーバーアクション気味に肩を竦めて、それからすごぶる不愉快な笑みを浮かべる。
「分かるかい。これが死体というものだよ」
なるほど、これが、事実は小説よりも奇なりということか。まさか、扉のこちら側で何かが起こるなんて想像もつかなかった。まったくやっぱり現実には適わない。
などと考えたところで、ぎゃははと笑ってしまうことはできそうもない。俺は全身の血が温度を失うような気分で、頭が爆発しそうな恐怖を抱え、その死体に視線を縫い付けにされていた。
なるほど。結局俺は、この程度の異常者なのか。
何匹と言わず猫を解体し、首輪で支配した女を虐待する、血も涙も正気も失ったはずのこの俺が、まだ綺麗なはずのその死体に精神を潰されてしまったことは、認めざるをえないことだった。死体の画像ならネットでいくらでも見ているくせに、それが予告なく現実に現れただけでこんな有様。
全身の力が抜けた俺は、虚勢を張ることも意識せず、頭を抑えて階段の手すりにもたれかかった。
読了ありがとうございます。
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