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醜い奴ら  作者: 川崎真人
2/35

逃避行 二

 プールの設備の傍に救急車がやって来て、そこに大宮の体が乗せられた。大宮を物干し竿で掻き出そうとした教師を含む数人が乗り込む。それに更科が続いた。

 「おまえは生徒だろうが」

 体育教師に止められる。更科はそれを振り払って救急車に突っ込もうと試みるが、体格の差は如何ともし難い。更科が押さえ込まれている間に、救急車は出発した。

 弘は憤慨した。あの状況で誰よりも大宮のことを思いやっていたのは、違いない、彼女の親友である更科だ。生徒が一人でも救急車に乗ってしまうのは、どれほど厄介だというのだろう。

弘は更科に同情した。弘自身、恋する大宮に付き添ってやりたいと思って諦めていたので、更科の気持ちは悶えるほど良く分かる。

 「更科、諦めろ。後で見舞いに行けば……」

 弘の言葉など気にも留めずに、更科はスクール水着のまま救急車を追いかけて行った。運動場を 裸足で爆走している。弘達男子の体育教師は一瞬、目を丸くして、そしてすぐに更科を追いかけ始めた。

 「捕まるかしら、更科さん」

 野太い女の声に振り返ると、水着を纏った巨体がそこにあった。

 「どうだろう。追いかけっこで、モチベーションが劣る方が勝る方を掴まえるのは至難だ。いくら二人の体力に差があると言っても……」

 十条早苗は軽く喉で笑って。

 「私、真っ先にプールから上がったわ」

 十条の巨体なら、それはおそらく難しくないように思われた。

 「仕方ないよ。ふつうは、あれは、怖い」

 異常なのは更科だ。更科の、大宮に向ける友情の度合いが凄まじい。

 否、あれはただの友情に収まりきるものではないのではないだろうか。友情なら、助けた相手を抱きしめるなんて儀式的な行いはしないように思われる。

 あの、大宮を抱きしめる更科は、いつも見せる更科の美貌よりもさらに一段と美しく

 そして狂っていた。

 恍惚そのものだった。赤色のプールの中で、神の如き美少女がそんな表情を浮かべ、同じく美しい女を抱いている。世界一の芸術家があの光景に筆を取ったとしたら、そいつは間違いなく自分の実力不足を嘆いて自殺する。

 「私達が見限っているこの世界は、時にあんな姿を見せるのね」

 十条が言った。

 だが、しかし。

 自分の醜さをそのまま美しさに還元したとして、あの二人と自分は、どちらが上なのだろう。

 弘は、そんなことを考えてしまう自分を呪った。

 「ところで、十条」

 「ええ。根本君。……『赤が青を塗りたくる』」

 プールのくすんだ青色が、透明な水を彩る。太陽を反射しながら揺れる青色に、少女が血を吐く。広がる赤い波紋。

 「酷すぎる」

 オウムガイは実在した。奴は自分の殺人能力を示す為に、それだけの為に、大宮をあんな風にした。

 死んでしまっただろうか。

 あれだけ血を吐いて、生きていられるとは思えない。

 「『親愛なる四人の聖者』」

 十条が呟く。

 聖者。赤が青を塗りたくる。オウムガイという名前と言い、まるで文面を考えながら文字を紡いだような、ぞんざいで陳腐な文句。

 オウムガイにとっては、これは一つの遊びでしかないのかもしれない。

 だとすれば

 「醜い」

 弘はそう思った。

 

 翌日、あのまま更科は学校に戻って来なかった。ひょっとしたら、水着のまま病院にたどり着いたのかもしれない。

 体育館で集会のようなものがあった後、残りの日程は無視して弘達は帰らされた。こんなことなら、更科を救急車に乗せてやれば良かったのではないかと弘は思う。

 もろもろの事情があるのだろう。大人は大変だねぇ!

 「結局、おれ達は大宮を見捨てたことになるのかもしれないな」

 碇本が弘に行った。珍しいな、と思う。今は保健体育の授業中、隣のクラスに移動して、空いた席に自由に座って良いというので、碇本は弘の隣にいる。どうせ弘の隣なぞ誰も座りたがらないだろうことは分かっていたので、それは都合が良かった

 本来の日程ではこの日、男子はプールを使うことになっていたのだが、あんなことがあったプールには入りたくないというので、カリキュラムを編集して性教育を受けることになった。そうなると男子と女子のカリキュラムがずれてくるのも厄介で、女子は今頃弘達の教室で授業を受けている。

 「あんな手紙で、大宮が死ぬと誰に分かる?」

 弘は言った。「死ぬとは限らないだろう」と碇本。

 「体の中のものを全部吐き出す勢いだったじゃねえか」

 「それはない。胃腸の中にあるものを血と一緒に吐き出したら、あれくらいは出る。……それにしても女たちは大げさだよ。余程大宮に近寄らなければ、汚されることはあるまい」

 碇本はおそらく、あの時のことを思い出しながらそう言った。

 「パニックだったんだろう? プールで泳いで、気持ちが高ぶっていた時なんだから、あんな風になるのもしょうがない」

 「そうだね。彼女らはしょせん中学生だ。同級生がものすごい勢いで腹の中から赤いものを噴出し始めたら、おれだって逃げる。同じように逃げている周りのやつらの中には悲鳴を上げているのもいるだろう。そうしたら、もうとても正気は保っていられない。プールは容易く、血の池に変わる」

 そこまで言って、碇本は体育教師から注意を受けた。いけねぇ、うるさくしすぎた。

 「せんせー。オレたちはいつプールに入れるんですか?」

 肝の据わった生徒がそんなことを訊いた。授業を中断される形だが、下手にあしらうと余計に厄介なことになる。体育教師はせきをして

 「たぶん、明日からだな。……おまえら以外にも使わせていない」

 大げさなこった。弘は思った。

 もしもあの状況にいたとしても、弘はまるで動じることはないだろう。大宮が体からどんな汚いものを吐き出そうが、汚物そのものよりもさらに数百倍醜い弘にはへいちゃらだ。だが自分のことを綺麗だと思っている奴らには、耐え難い恐怖に違いない。

 体育教師はもう一度せきをして

 「膣内に射精された無数の精子は、卵子を求めて踊り狂う。そして、一組の精子と卵子が結合して、子供を作るもとになる。それがセックスだ」 

 初めての性教育。ここで笑ったり恥ずかしがったりするとそいつはまだガキということになってしまうので、皆、何でもなさそうにその授業を聞いている。

 「セックスというその行為が子供を作る為のものであると、どうして人類は知ることができたんですか?」

 と、何やら難しいことを誰かが訊いた。

 「生理的な行いは全てそうだが、セックスという行為には快感が付きまとう。その快感を得ようとする思いが、すなわち本能と言うやつだ。それを求めた結果だろう」

 「本能ねぇ」

 碇本が憂鬱そうにそう呟いた。そして

 「子供を作ることが、本能なんですよね。……だったら、どうして自慰や同姓間の性行為が存在するんですか?」

 と質問する。

 「女とする時の為の練習行為だと、先生は思っている」

 「しかし、一生の間、同姓だけを愛する人間もいます」

 碇本が偉くはっきりした声でそう言った。

 「ジェンダーについてはまたの機会に詳しく説明するが……同性愛は、まあ、言ってみれば特殊な事例と言うか、何かの間違いと言うか」

 おいおいそりゃ差別だろ!

 「人間の十人に一人は同性愛者らしい。人間というのは、それだけ自らの本能に反した情緒を持つ生き物だということになる。……だからこそ、人々は自分以外を慈しみ、助け合い、発展してこられたということになるが……」

 生き物は本来、自分のことしか愛さない、みたいなことを体育教師は言った。

 「話を戻そう。人間には染色体というのがあって……」

 授業を脱線させられたのは、ものの一分だった。弘は残念な気分になりながら、黒板の染色体XYを書き写し始めた。

 

 大宮を見舞おう、という提案は碇本の口から出たものだった。どうやら彼は、手紙で予告をされていながらに大宮に血を吐かせてしまったことに、本気で負い目を感じているらしかった。

 「ボクは遠慮するよ。それから根本、君もやめておいた方が良いんじゃないかな? その顔を見れば、大宮の様態は確実に悪化する」

 柳沢はそう言って見舞いを拒んだ。彼女がただの薄情者でないらしいことは、見舞い品として図書室の本を何冊か寄越して来たことで分かる。「ボクの目はこのとおり醜いし、生まれた時から具合も良くないんだが、とうとう失明しそうになったことがあってね。その手術後に入院したんだが、その時思ったのは、病室程退屈なところはないということだ」

 もちろん十条にも声をかけた。だが十条の両親は随分と教育熱心らしく、すぐに予備校に行かねばならないのだそうだ。それも二件くらい掛け持っているらしい。忙しいこった。

 と、いうので、大宮への見舞いは弘と碇本の二人だけですることになった。大宮の友達の誰かと出くわすことになるかもしれない。彼女の身内にも挨拶することになるだろうか。

 いずれにせよ、オウムガイの件を話すつもりはなかった。あれは四人だけの秘密ということ。オウムガイにとってそっちの方が都合は良いだろう、なるべく向こうに逆らわないようにしながら、こちらからは何も要求しない、というのが碇本の判断だった。

 その大学病院はなかなか設備が充実して、そして綺麗だった。大宮の病室は二階にある。弘は途中に売店を見付けた。すげぇ! 生理用品の専門店だ! こんなのあるんだ!

 個室に入ると、はたして中には白いベッドに横たわった大宮がいた。布団の中には無数の管が入っていて、どうやらこれらは、大宮の体のどこかに繋がっているらしい。

 「ああ、ありがとう二人とも。お見舞いに来てくれたの?」

 意外な程元気な声で大宮は言った。弘は安堵の息を着く。今頃は霊柩車の準備中、ということも十分ありえると思っていたからだ。

 「安心したよ。元気そうで」

 「とても元気じゃないよ。体中に色んなもの射し込まれて焼けるみたいに痛いし、それに熱も今引いたところで、前は四十度もあったんだよ! 四十度! それから絶食絶飲って何? 拷問?」

 大宮らしくない子供染みたまくし立てだった。余程しんどいのだろう。

 「いるのは更科だけか?」

 碇本が訊く。椅子に座った更科が、ベッドに体を預けて人形のようになっていた。新品らしい服に着替えてこそいたが、学校のプールの匂いが漂っている。

 「眠っているのか?」

 その言葉に反応して、更科は凄まじい機敏さで起き上がり、碇本の方を向く。ウィーン、ウィーンというロボットの音が聞こえてきそうだった。

 「深冬ちゃん、ずっとあたしの傍にいてくれたんだよ。先生が帰ってからも」

 目の下に青黒い隈ができ、顔色もあまり良くない。ともすれば大宮よりも病人らしいなりだったが、それは弘がどんなに努力をしても顔の醜さをごまかせないのと同じで、どんなになっても美少女は美少女だった。

 「親は?」

 弘はなんとなくそれを訊く。

 「忙しい人だから、多分来れないと思う」

 大宮は答えた。弘は幾許かの安心を覚えた。と、いうのも大宮の両親と開講するというのは、内気な弘にはなかなか緊張することだからである。そんな風に勝手な考え方をする自分が呪わしい。

 「どうして、あんなことになったんだ?」

 碇本が訊いた。それは弘も気になる。

 「知らないよ。新種のアレルギーがどうだの説明されたけれど、つまるところお医者さんも分かっていないみたい。どうも、医学的にもまったく新しいそうよ」

 「じゃあ、君は今、研究対象という立場にある訳だ」

 碇本がそう言って頷いた。

 「大宮さんを管まみれの薬漬けにされるのも嫌だったのに。そんなの許しませんよぅ」

 更科が言った。彼女なら何をしでかすか分からない。医者や看護士に暴力を振るうくらいはしそうだ。

 妙な雰囲気が流れたので、それを取繕う為に、弘は柳沢の見舞い品に付いて話した。図書室の本を借りてきてくれているので、今から渡すよ。

 「へぇ。柳沢さん、気が利いているわね」

 大宮は嬉しそうだ。これなら柳沢も浮かばれるだろう。

 弘は鞄から本を取り出す。不精な弘の鞄の中は大分ごちゃごちゃしているので、必然的に、本もあっちこっちに散らかっていた。一冊ずつ取り出す。

 『3.7メートル』『死体ごっこ』『毒林檎の群れ』『三百十八ページ』『死ねない生首』『人食いの魔女』……病人に殺人系ミステリと猟奇系ホラーばかり与えるのはいかがなものか。柳沢も、嫌がらせのつもりではないはずだ。きっと。

 一冊ずつ更科に渡し、彼女がベッドの傍の棚に置く。一冊の本が更科の目に留まった。

 「この本、何も書いてありませんよぅ」

 『三百十八ページ』という本を更科は捲る。本当だ。どのページも白紙じゃねぇか! 落丁の本を置いとくなよ、図書委員! 

 「ああ、それね。あたしも驚いたんだけれど、そういう本みたい。三百十八ページ分の紙を捲る間に読者が感じたことが、この物語なんだって」

 と、図書委員の大宮が言った。

 「柳沢さんも賢いね。この本なら、何度読んでも違う物語が楽しめてずっと飽きない」

 なるほどそれは言いえて妙だが……。それはつまり、他の五冊を読み終えたら、この本を捲りながら適当に妄想でもしていろということか。

 「柳沢は目の手術をしたと言っていたからな。おそらく、術後しばらく目が開かなかったに違いない。その間、彼女はずっとこの『三百十八ページ』を読んでいたんだ」

 碇本がそんなことを言った。ようするに妄想で時間を潰していたんだろ! 

 「何の情報も入って来ない時、人は自分の思いと向き合うことになる。つまりこの本を読むと言うのは、自分の心を読むということだ」

 更科が『三百十八ページ』を畳んだ。

 「見せてくれよ。本当に何も書いていないのか?」

 碇本が更科から本を取り上げる。そして一ページずつ捲る。「こりゃたまげた」

 「どうだった?」

 「本当に全部真っ白なのに驚いた」

 「何考えてた?」

 「それが、その」

 碇本は頭を掻く。

 「おまえのものすごい顔が、ずっと見開きに載っているみたいだった」

 弘は顔を顰める。

 「悪い、そういうつもりじゃないんだが……」

 そういうつもりってなんだよ! 弘は不愉快になる。

 「それだけ碇本君に思われているってことよ。良かったね、根本君」

 大宮がフォローする。それを聞いて弘は

 「なるほどそう言う捉え方もあるな……」

 などと考えた。

いや、気持ち悪いわ!

 「大宮さん。何か読みます?」

 更科が棚の前でそう言った。

 「お客さんが来ているのに?」

 「そんなことが、大宮さんの行動を変える理由にはなりません」

 碇本は愛想笑いをした。弘は笑うことに慣れていなかった為、仏頂面でいた。

 「深冬ちゃん。この人達は、あたしのお見舞いに来てくれたんだ」

 「……」

 更科がこちらを向いた。そしてゆっくり頭を垂れる。碇本はまた愛想笑いをする。弘は頭を掻いた。

 「ところで、いつ退院できるんだ?」

 「分からない。でも、模擬試験には間に合わせるって」

 それを訊いて、弘は安心する。弘もオウムガイから大宮を見捨てた四人の内の一人なのだ。精神衛生の為には、大宮に加わる被害はなるべく小さい方が良い。

 自分勝手な理屈だが、自己嫌悪するほどではないだろうと弘は思う。誰にだってこれくらいあるもんねっ。

 「それにしても、どうしてこんなことになったんだろう。生まれてから一度も、大きな病気にかかったことないんだけれどなぁ」

 弘の心に針が打ち込まれた。

 「まさか、誰かに毒を盛られたなんて」

 「許しません」

 碇本を見る。まだ愛想笑いを浮かべていた。

 「だとしたら給食かな? なんて、そんな毒を盛るなんて、それこそ探偵小説みたいなことありっこないか」

 大宮は笑った。

 「そうです。誰にも、毒を盛る時間なんてなかった」

 更科が言う。見ると、『人食いの魔女』という本のページを一枚一枚捲っており、ちょうど中庸あたりが開いていた。

 「その本、どんな内容だ?」

 「カニバリズムですねぇ。十七世紀の頃北米のインディアンは戦争で捉えた捕虜を、三日三晩拷問してそれから食べたそうですよぅ。拷問に耐えて強くなった生贄を食らって、その強さを貰ったんだそうです」

 更科は恍惚の表情を浮かべた。「ロマンスですねぇ」

そう言えば、大宮の給食を配膳したのは彼女だったかな?「大宮さーん。点滴差し替えますよ」

 看護士が点滴台を伴ってやって来た。更科が彼女を不愉快そうに見たが、しかし逆らうことはしないらしい。医療技術に対してそれなりの信頼を置いているようだった。

 「あたしの体、どんな具合です? 何か分かりましたか?」

 大宮が訊いた。看護士は笑って

 「さあね」

 と言った。

 「隣町の水族館に行って、西館の水槽でオウムガイに訊けば分かるよ」

 弘が言った。何それ、看護士は愛想笑いを浮かべた。笑い皺のできた人だった。


 翌日の朝も、概ねいつもどおりの風景が教室にあった。碇本は人気があり、柳沢は瞳を揶揄されていて、弘は自分の顔を人に見せないよう突っ伏していた。

 今日も更科は来ていなかった。テストも遠くないのに、このままでは学年トップの更科の成績が錆びるんじゃなかろうか、と学校は気が気でないらしい。と言っても、更科なら二日だか三日だか休んだところで、一度くらいテストでぱっとしない成績をとったところで、へっちゃらなのかもしれなかった。

 ……ということを碇本に話してみたところ

 「そんなことあるもんか。全国順位ってのは、中学三年間の平均点の勝負だ。それも、更科くらいになると小数点第二位の世界。普段五教科で四百九十点取っている奴が、一度四百七十点を取ってしまうと、もう取り返しがつかなくなる」

 それを聞いて、ご苦労なこったな! と弘は思った。

 「そんなにして良い点取っていても、努力と結果の釣り合いがむちゃくちゃじゃねえか。人生八十点っていうだろう? どうしてそんな躍起になるんだ? おまえはどうなんだ?」

 と、弘は学年順位一桁の碇本に訊いた。少し笑って

 「おれの場合、一度決めちまっているから」

 碇本が憂鬱そうに、しかし誇らしげに言った。

 「何を?」

 「勉強することさ。評価されるって言うのは、好かれるってことに等しい。それはものすごく嬉しいことだ。おれは社会から評価を受ける為に、勉強においても優秀であり続けることを決めているんだ。一度決めた目標を確実に消化するのが、おれのルール」

 それは立派な心がけだな。弘は感心と不快感を同時に覚える。

 「みんな、おまえみたいな考えで勉強しているもんなのか?」

 少なくとも、更科はそうは見えない。

 「そうじゃねえよ。おれみたいな不自由でアホみたいな哲学している奴、他にいるもんか」

 「じゃあどんな理由で」

 「自分より下劣な奴を少しでも増やしたい……というモチベーションが一番ポピュラーで、健全だな。後、貧乏な特待生は、学費免除を解かれないよう必死だろう。……それだとか、親に生活の全てを管理されていて、勉強するしかないだとか……」

 そして、碇本はちらと十条の方を見る。大きな体に、お手製の単語手帳を抱え込んでいる。

 「彼女、学年順位でおれと競っている」

 「そりゃすげえな」

 「塾の掛け持ちと、日常生活の中で常に数学や英語について考えることで今の成績を得た」

 「へえ」

 普段から自分の醜さについて考えている弘には羨ましい話だった。いつもいつも自分の得意な勉強について考えているなんて!

 「尋常なことじゃあないぜ? たぶんあいつは、自分が勉強する意味が分かっていない。……というか実際、よっぽど自分の優秀さにこだわらないかぎり、勉強なんて程々で問題ないもんだ。この中学で全体の三分の一くらいの順位が取れていれば、将来に不安はまったくなくてすむ。あいつはそれを分かっている。分かっていて、あんな勉強をしなくちゃいけないなんて、まさに地獄だ」

 こんな顔で生きるのよりか? と訊きそうになったが、それは弘の矜持に関わるのでやめた。自分の顔を人に当て付けてはならない。

 「よっぽどストレス溜まっているだろう。いっそ自殺とかやりかねないくらいだ。同級生か、弟か妹か、飼い犬飼い猫でもいじめていたらまだしも、十条はそんなことしないだろうしな……」

 十条早苗。

 こんなに醜い弘にさえも思いやりのある、素晴らしい女生徒。

 それがどうして、あんな肥満で、にきびやそばかすだらけの顔をしていて、おまけに勉強の無間地獄に苦しめられているのだろう。

 この世に神はいないのか。

 

 その日、弘たちの学年が使う男子トイレで、隠されていたカメラが発見された。

 天井の隙間やらをうまく使い、高名に隠されていたそれらを発見したのは、ふざけて便座の上で立って遊んでいたアホな男子生徒だった。

 「カメラを仕掛けた奴がこのクラスにいたら、後で名乗り出て欲しい。今ならまだ、処分は学校の内部だけで済ませてやる」

 退学って意味じゃねえか! 弘は思った。

 まったく男子トイレで盗撮をやるなんて、奇特な奴がいるもんだ。弘は碇本の取り巻きたちの顔を思い浮かべた。あいつらならやりかねない。

 意外と、教師あたりが犯人かもしれないぜ。ほら、あの四十越えて独身の国語教師。あいつが中学男子の放尿シーンに欲情する変態かもしれねぇ! そんな会話が聞こえてくる。成績のことでしょっちゅうその教師にいびられていた弘は、その会話に参加したくてたまらなかった。だが彼らをこの醜い顔で怯えさせてはいけない。弘は紳士なので自重する。

 「静かにしろ! とにかくだ。……テストも近いし、思うところもあったんだろう。その辺は慮ってやる。このクラスにはいて欲しくないと先生は思うが、もしいたら、後で名乗り出ろ。……いつか分かるんだぞ。簡単に調べられる。カメラはなかなか高価だったからな、購入した店を調べれば一発だ」

チャイムの音。ホームルームが終わった。

三々五々のグループがそれぞれ会話を始める。話題はおそらく、盗撮犯のことだ。

 「まったく気持ち悪いよな。誰の仕業だよ」

 「だから、国語の石川だって」

 「ありうる! でもさ、大人だったら非合法でその手のDVDとか手に入れるんじゃないか?」

 「なんかすげえ!」

 「じゃ、トイレに仕掛けてあったのは?」

 「子供だろ、生徒」

 「どいつだってんだ?」

 弘の前方の席に、女たちが集まっている。そこで行われているのは、クラスメイトにとって、他愛もない日常の一部分になってしまった、誰にも予想ができるそのやり取り。

 醜い者は、疑われる。近所で事件が起これば、まず疑われるのは嫌われ者だ。

 女生徒の群れが柳沢に集っていた。

 「君達の思考回路はいささかステレオタイプが過ぎる。男友達のいない女子は皆変態なのか?」

 「あんたは特別変態の匂いがすんのよ! だからあんたが犯人だ」

 「そんな風に思われていたのならとても残念だ。傷心した。だが、変態のような雰囲気を漂わせている、そして男友達がいない。だから、ボクが犯人である。そんな理屈で人を性犯罪者にするのは、あんまりではないかね?」

 「理屈で話をするのは、そうしなくちゃ自分を守れない証拠。あなたは、理屈無しじゃあ、誰からどう思われても仕方がないような人間なのよ。あなた、自分がどれだけ嫌われているか分かってる? 疑われてもしょうがないわよ」

 「……っ」

 「おまえって喋り方からおかしいもんね。よほど心が捻じ曲がっているんだなぁ、仕方がないよなぁ。男子トイレにカメラを仕掛けてもしょうがない」

 「……貴様ら」

 「論より証拠ね。そもそもねぇ、あんたのその目が、性犯罪者の目だわ」

 気持ち良い程の爆笑が広がった。

 相手にするから良くないのだ、弘はそう思う。だが柳沢の心はかたくなで、常に追い詰められた小動物のように攻撃的だ。人をあげつらうような喋り方は、おそらく劣等感の裏返しであろうことが、同じ人種の弘には分かった。

 醜い奴がもっとも損をする瞬間だった。だがもちろん、女生徒たちも本気で柳沢が盗撮犯だと思っている訳ではない。模擬試験を控え、勉強の苦痛で苛立つ彼女らが、そのストレスを押し付けているだけ。汚いところに何を捨てようとも、良心は痛まないものだ。

 今にも泣き出しそうな柳沢を、誰も救おうとはしなかった。死人の目をした女、柳沢。あの根本弘と同種類の女。柳沢を救ったところで、そいつは人格者でも、ましてヒーローでもない。物好きの変人の、異形共の仲間入り。

 王子様に助けられるのは、美しい姫。或いはそれに順ずる存在。それが物語のセオリー。何がしかのメタファーを含んだ話でもなければ、この基本は覆されていない。この国の、あらゆる書物が、映像作品が、醜い女を貶める。

 「こんな目をしているだけで、どうしてボクはこんなに不遇なんだ! ボクだって、好き好んでこんな顔に生まれたんじゃない!」

 恥も外聞もなく、柳沢はそうわめき散らした。そして失笑がとどろく。

 やめるんだ柳沢。弘は歯軋りする。

 そんな風に言ったら、みじめになるだけだ。自らの醜貌を受け入れろ、それだけが俺たちの矜持だ。

 そうだろう。

 「そうでしょうねぇ」

 女生徒が言った。

「でもさ、あなたの大好きな理屈で言うとね。醜いあなたが唯一、自分を証明できる詭弁って奴を持ち出すよ。……醜く生まれた人間は、その醜さゆえに前向きになれないし、性格も暗くなり、そして犯罪に走る……」

 それを聞いて、弘は、世界が色彩反転を起こしたような錯覚を感じた。

 それは、それは。

 おまえが。

 おまえがおまえがおまえがおまえがおまえがおまえがおまえがおまえがおまえがおまえがおまえがおまえがおまえのその顔でそんな

 まともな顔をしたおまえのような奴が、それを言うのか。

 「……そう思うと可愛そうだな」

 「だな。こんな顔じゃ、努力してもどうしようもないもんな」

 「なあ、ちょっと言いすぎじゃねぇの? こいつら」

 男子生徒たちの声

 「黙れえええええぇっっっ!」

 弘は掻き消す。

 「綺麗な顔をしている癖にてめえら死に晒せ偽善者共ぉ!」

 同情の気持ちが、同情の態度が、同情の言葉が

 不愉快だ不愉快だ不愉快だ不愉快だ不愉快だ不愉快だ不愉快だ不愉快だ。

 柳沢はついに泣いていた。その醜い瞳から涙を流していた。醜い奴の醜い泣き顔だった。

 「見ろぉ! この顔を見ろおおぉ!」

 男子生徒を一人捕まえて、弘は自分の顔を近づけた。相手の顔とすりあわん所まで。男子生徒は悪魔のような醜貌に表情をくしゃくしゃにし、情けない悲鳴を上げて後ろに下がる。そのまま机にぶつかり、倒れた。

 「おまえも泣いてんじゃねええぇ!」

 柳沢は嗚咽を上げてから、弘の顔を見た。

 「……根本、ボクは」

 蚊の泣くような声。それは、奪われた者の哀れみをたたえていた。

 醜い者の特権。醜い者の唯一の利点。

 何でも至らぬところを自らの醜貌の所為にできるということ。

 弘には、もうそれはなくなった。

 綺麗な者に一度でも指摘されてしまえば、それはあまりにみじめな逃避行だった。

 「黙れ」

 おまえには最初から、気高くある権利などなかった。どうせおまえは明日からも、今日までと何も変わらないに違いない。

 だがしかし、俺も。

 そう思うと、弘は泣けてきた。

 「……弘」

 碇本が弘を呼ぶ。心配そうな声色。

 それを無視して、弘は鞄を背負った。

 「何よあいつ……」

 女性との声がした。

 教室から出て、弘は、自分が堕ちたということを実感した。

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