人間 一
どうも。皆さんのお陰で今日も楽しく生きています。林崎です。
アクセスありがとうございます。
『さようなら絶望先生』のアニメがおもしろいです。あんな感じの独自な作品世界を構築するのはさぞ楽しいことだろうなぁ、と思ってパソコンの前で一時間ほどうなってみました。その結果被害者の腹に仕掛けられた爆弾が事件の凶器だというオチのミステリがまとまってしまいました。コピーキャラをいくらか作っただけで満足してしまったのが敗因でしょう。今はそのデータは掃き溜め用のフォルダに捻じ込まれています。楽しかったから良いとしましょう。
醜い奴ら第四章はきちんと時間をかけてプロットを作っていますので、私のできる最良の小説が書けていると思います。ご安心ください。
それでは、この人格破綻者にお付き合いをお願いします。
「論理って何だと思う? 変態」
「どうした美少年。ペルソナ崩しの少年の話でも読んだのかい?」
いつもどおりの、他人の不幸を眺めるような笑みを浮かべた西条が、質問に答えるでもなくそう言った。
「何だそりゃ? 知らねぇな。……おまえと違って俺は、物語よか現実の方が好きなんだよ」
「へぇ、そりゃ意外だな」
驚きを示す為か、顔の前に手を添える西条。その表情は柔和そうな薄い笑みのままで固定されているので、ジェスチャーのとおりの感情を持っているのかどうかは怪しい。
「……ああ。なるほど、おまえは主人公に感情移入をしないのかい?」
「うん? まあそういうことになるのかな?」
などと首を傾げて見せると、すると西条は
「論理って言うのは、人を納得させる呪文だよ」
と含みのある声で言った。
おおよそ、自分の台詞に酔っているような口調だった。
「ふうん。どういうことだ?」
「おまえは今、なるほどと言った。……物語より現実が好きな、でも現実で良い思いをしていない人間が、物語の出来事に感心できないということは、それはつまり主人公になりきるということが無い……という論理をぼくは展開し、おまえは納得した」
俺は再び首を傾げたい思いにかられたが、何とかこらえきり
「そうなるな」
そう頷いた。
「だがおまえは、本当は主人公にめちゃくちゃ感情移入するほうだったり?」
「……まあな」
俺が物語を嫌いなのは、読み終えた後の寂寥感が地獄だからだ。
「おまえは論理によって、無理に納得させられた訳だ」
と、西条は締めくくる。
「でもさ。論理には、物事の不明を明らかにする性質もあるぜ。Aなら○、それ以外なら×。論理関数だな」
俺が口を挟むと、西条は愉快そうに
「数や機械だって、言い訳くらいするさ。いいや、機械だって人間だって何もかも、言い訳でできているようなものだろうよ。世界の存在がそもそも神様の言い訳なのさ」
「……おまえ文系だろう? もう少し哲学者っぽい喋りをできないのか?」
「カッコ付けるのは好きだけれど、得意ではないんだ」
自嘲するでもなく、西条は釈明した。
変態野郎に俺が提供した質問は酷く抽象的な会話を生んだ。意味があったかと言えばそんなことは絶対にないし、楽しかったかと言えば首を傾げざるを得ない。ただ、時間が過ぎたことだけは確かなので、納得はできた。
論理的というならトランプゲームをする時の西条がまさにそうだった。あらゆる局面に対して前もって用意したかのごとく正確な思考を行なう、実にクレバーな戦い方を彼は好んだ。つまりめちゃくちゃ弱かったと言うことなのだが、ポーカーだけは一度も勝たせてもらえなかった。いつも気持ち悪い笑いを顔に貼り付けているものだから、手札がまるで読み取れないのである。
何れにせよ、西条のその戦い方がゲームを良く楽しんでいるようには俺には思えなかった。ひょっとしたら奴は人生に対しても同じような姿勢をとっているのかもしれないと考えたら、奴はこの俺を哀れな思いにさせる。
西条未明は恐ろしく怠惰で無気力な男だと言えた。もっとも、彼を知る全ての人間がそのように思うとは限らない。暇な時間を読書や勉強に捧げ、所属する部活動では重要な役割を果たすべく様々なことに奔走し、夜中に俺を見付けるやいなや女だと勘違いして襲い掛かり馬乗りになるような、そんな西条を怠惰な人間だと判ずるのは難しい。
だが、性質の悪いのは、西条はことごとくをただの惰性だけで行なっているということだ。自分の意思で何も判断しない。心が凍りついたまま脳味噌だけ働かせて、何を変えるつもりも何を成すつもりもなく、機械が仕事をこなす様にただ漠然と生きているだけの男。
そんな人間だったからこそ、世界の存在を神様の言い訳とまで言いやがったのだろう。
などと、知り合って間もない男のことを考えるのにもいい加減に飽きて来たところ。時計をちらと眺め、午前の九時を確認する。俺はもう少しだけベッドに入っていることにして、布団の中に深くもぐった。
奴の小説のことを思い出した。あいつはただ書きたいようにあんな代物を作り上げたのだろうと思う。技巧なんて微塵も無いただの自慰行為。小説なんて現実で満たせない欲求を描いただけのもの。はたして俺が小説を書いたらどうなるのだろう。何とも無しに空想を重ねていると、二組の連中の顔が頭に浮かんで来た。好意的な言葉を投げかけながらこちらに擦り寄ってくる連中を、はたして俺はどうしてやるべきなのだろう? そんなことを考えていると、しだいに俺の意識は形を失った。
夢を見た。場所は教室で、連中が俺の机の上にひたすらシャープペンを積み上げているというものだった。夢にしては偉く具体的な内容だったと言える。
体中から噴出した汗が不快でたまらない。俺は布団を引き剥がして、それから跳ねるように床に降り立つ。
時計を見ると午後の二時だった。一日でもっとも暑い時間。せめてクーラーをつけて眠れば良かったと後悔しながら、俺は大きく伸びをした。
朝一度目を覚まして、起き上がれずに布団の中でもがき、二度眠の後には昼になっている。こんなのはしょっちゅうだったし、とりあえず何の問題もなかった。食事は自分で勝手にしているので母さんとの兼ね合いを考える必要もない。ネットで出会ったひきこもり仲間のように、親と顔を合わせるのがつらいということもなかった。
ダメ人間だと蔑むならば甘んじて受け入れよう。何と言われたって、それが的を得ていようと外していようと、俺は平気だ。言葉というものに対する認識が希薄なのか、他人の意思に興味が無いのか、それはとにかく俺の生まれつきの性。こんな俺とまともに会話が成立するのはそれこそ物好きか変態くらいのものだろう。
「次郎君? お友達よ」
部屋の外から母さんの声がした。偉く嬉しそうに弾んでいるその間抜けな声は、過保護のダメ親が自らの気性を表現したものだ。「ああん?」ひきこもりのダメ息子が答えると、次の瞬間には丁寧なノックが扉から鳴り響く。
「次郎くぅん」
猫撫で声でそういう母さんに、俺は扉を開けてやった。引っ手繰るようにして子機を受け取り、「霧崎ですが? 何ですか?」と通話の相手に声をかける。誰ですか、とは言わなかった。
「こんにちは、ワタシ」
柏だった。母さんがどこか嬉しそうにしていたことから予想はついた。こんなダメ息子に電話をかけてくれるしかも女子のクラスメイト。可愛がるのも当たり前のこと。
「ひさしぶりだな」
と、俺が言うと
「ひさしぶり? まだ二日だか三日だか。むしろ最近じゃない?」
まるで頭を使わない言葉が電話越しに俺の耳朶を打った。稚拙な感情がそのまま口をついた具合。ほとんど自然に言葉狩りをしてしまうのは、真面目さ故の柏の悪癖だった。
「それもそうだな。……いや、最近時間が流れるのが遅くてよ」
そのとおり、最近は時間の濃度が高すぎる。西条が廃墟を訪ねてくる所為でもあったし、廃墟で飼い始めたあいつの為でもあった。ひきこもりとは言えそこそこ充実した毎日を送っている俺だった。
「良い気なもんだね」
柏は溜息を交えて言った。なるほどもっともだと思う。学校に通わない怠け者が何を『時間が流れるのが遅い』と言うのだ。対して柏の奴は昨日も今日も南浦にいじめられたり勉強したりで大変なのだろう。
それなのに俺のところに電話をかけて来てくれる。まあ、頼んだ訳じゃないがね。
「おまえも引きこもっちまえ。進学の心配なら大丈夫、予備校でも探してやるから」
「……あんたが通いなさい」
「面倒だね。俺は勉強は嫌いなんだ」
「良く言うわよ」
柏が溜息をつく。
「分かってる? あんた、内のクラスで一番目か二番目に頭良いのよ? また戻ってきなさいよ」
「やだね」
数式やら英文やら習う意味も分からんしおもしろくも無い。
「好きで勉強ができるんじゃない。俺は良い大学に入りたいとか思ってねぇし。将来は工場で扇風機の部品でも組み立てながらだらだら生きたいよ」
もともと気が小さい性質だったから授業は真面目に受けたし宿題もやった。自分の穴を発見すれば、何となくそこを埋めるようにした。お陰か成績は抜きん出て良くて、それで母さんに進められた有名進学校に転校してみた結果が、今のこの様である。
「じゃあどうして内に来たのよ?」
「おまえらの親は教育ママだろう? 内の親は思いつくことは全部息子にやってみるような親なんだ。最近はおとなしいけれどな」
手のつけようが無いのだろう。まあ、そう思うように俺が仕向けたのだが。せっかく引きこもったのだから、静かに暮らしていたいものだ。
「……ねえあんた? 本当のところ、学校に戻りたいと思う?」
もちろんそうに決まってる。
「まさか? 誰があんなところに」
「……ごめんなさい」
俺がぶっきらぼうに言うと、柏が悲しそうにそう呟いた。
「どうなんだよ、最近の学校はよ。何か良いことでもあったか?」
「……言いたくない」
辟易したように、柏はそう口にした。何となく予想はしていたことだが、俺がいなくなった暁にはこいつがいじめられっこに就任したらしい。気の毒なことだと思うし、何かしてやりたいとも思う。
「なんか嫌なことがあったら言ってみろ。ムカつく奴がいたらそいつの家のポストにぞっとするようなラブレターをA4用紙十枚に書いて詰め込んで来てやるから」
「良いわよ。ワタシ一人でできるから」
少し上ずった柏の声。なるほど虚勢だろう。
「私一人でできるって、おまえなんか考えあんの? それとも俺が何か良いアイデアを提供しようか? どうやって人を不愉快にさせるかって考えてると、実行が追いつかなくなっちまうんだよねぇ」
「……霧崎。あんたはどうしてそうなのよ」
「そう、ってね。ぎゃはは!」
哄笑し、俺は子機を軽く振って
「別に俺は他と比べてそうでもこうでもどうでもねぇよ。人から何と思われても気にならない性なだけさ」
「恥知らずね」
「ぎゃははは! 俺からすりゃ、誰かに好かれようと思って四苦八苦胃を傷めている奴の気が知れないね。何か得があるんですかぁ? 俺を好いてくれる奴は俺に金でもくれるんですかぁ?」
脳から支持を受ける前に、口が自主的に仕事を果たした。どちらかと言えば饒舌な俺だが、頭を使わずに発言するなんてことはめったに無い。あまり尋常な事態とは言えないだろう。
「だいたいよ。ふつう分かるもんか? 考えられるもんか? 誰が俺のことをどう思っているかなんてよ? 俺だって人のことをどうこう思えるもんじゃねぇんだ。ムカつく奴はみんな死ね、それ以外はどうでも良い。結局そんなもんだろ? 連中だってそうだ、俺のことどうこう思ってねぇ。その場からいなくなれば今までもいなかったことにされる。学校の帰り道を付き合わせた石っころのことをおまえはどれくらい覚えてる? バスルームの壁に裸を見られるのを恥ずかしがる奴がどこにいる? なりふり構って生きるなんて窮屈でたまんねぇ。俺はもう御免だ。ずっとここに引きこもってやる」
石ころを一気に吐き出したような、喉が焼け唇が裂け、脳がシェイクされるような悦楽。心の深いところから心地良い灼熱が俺の体内をむちゃくちゃに蹂躙した。
「人に嫌われるような自分に生まれちまって、自分で居場所を確保できるほど強くないなら、悪いことは言わん。さっさと逃げちまえ。人に怯えて回りに紛れて、考えと違うことを言って欲望と違うことを思って、死んだように生きるよりはずっとましさ」
結局、たどり着いたのはいつもと同じ終点だった。
「おまえも引きこもっちまえ。公立に転校しても良い。滑稽だろうが無様だろうが、おまえのことなんて、連中はすぐに忘れる」
「ワタシはあんたみたいに弱くない」
叩き込むような声だった。
「無遅刻無欠席無早退で進級してみせるわ。絶対よ、宣言する。ワタシならできるの」
「ぎゃは! ぎゃははははあぁ!」
何こいつ?
マジで言ってんの? ありえねぇ。
「ぎゃはは! ぎゃははははは! おまえなぁ、バカじゃねえの? ただの勢いで言ってる訳じゃないのは分かるぜ。でももう少しおまえは賢くなった方が良い。意思の強さ、芯の硬さ、大いにご立派。だがな、そんな風に強く決意しちゃって、もし失敗したら真面目ちゃんなおまえ、大分酷い自己嫌悪に陥るよな? 途方もない敗北感、無力感、世界中が自分の敵になったような錯覚。二度とお外に出られないのは確実だろうなー? ひょっとしたら死にかねないぜ? あー怖い怖い、おーおー怖い。これは警告だ、ひゅーこの俺様がおまえに警告してやるぜ。無いぜぇ、ふつーこんなの、おー? ……良いから明日は休め。俺んとこ電話かけるなんて、大分きてんだろう?」
「…………」
こいつが俺の家に電話をかける時は、決まって精神が疲弊している。自分の弱さに打ちひしがれた柏は、逃亡者たる俺と話をして整合性を保とうとするのだ。
なるほど自意識過剰な人間らしい。わざわざ俺みたいな奴に電話をかけなきゃ安心できないなんて、まったく哀れな女だ。
「二日前と、そのまた二日前。その前は土日挟んで四日だったな。……気合入れようとしてるとこに水を向けさせてもらう。おまえそろそろもうだめだよ。おまえと話すのは嫌いじゃないし、これからは毎日付き合ってやっても良い。回りくどいことはしねぇ、きちんと愚痴を聞いてやる。でもな、心が挫けてからじゃだめなんだ。随分綺麗なそのプライドが大事なら、この辺で軽く溜飲を下げるようなことしといて、そっから逃げろ」
「うるさい!」
鼓膜を貫かんばかりの機械音が俺の脳味噌を揺らした。
「あんたにゃ何も言われたかないわよ!」
「ぎゃはは! そいつはもっともだ」
あまり正しすぎて、吐き気を催すような話だ。
俺よりおまえのがずっと強いし賢い。そりゃそうだ、強くあろうとすることからも逃避した俺と、そこに立っているおまえ。俺がおまえに勝てるところなんて何一つない。
「まーいーや。おまえの言うとおり、俺が何を言っても無意味だしな。てめぇで判断しねぇとな。ぎゃはは」
それでも、俺の戯言くらい受け流せよ。
「じゃーな柏。俺はそろそろ散歩に出かけるから」
ぎゃはは、と俺は笑って
「またな」
そう言って、通話を切った。
無理すんな。
それだけ伝えるのに、俺はどれだけの言葉を尽くして、どれだけあいつを不愉快にしてしまっただろうか。
そんなことを考えると首を絞められるような気分になる。死にそうだ。だから人間は嫌いだった。なまじ自分と同じような姿をしているから恐ろしい。何を考えているか、何を思っているか、どう突付けばどんな反応をするか。それを理解できてしまう上に俺は人恋しがりで、その癖にあまり口が達者ではなかった。
「だー、ちくしょう」
あらゆるコミュニケートを放棄して、自分の部屋に閉じこもったのは正解だと思う。結局俺は弱虫なのだ。人間としてやっていけないのならば、人間をやめてみるのが一番合理的だろう。
「殺してやる」
人間なんてみんな死んでしまえ。どうでも良い、どうにでもなれ、どうとでも言え。おまえらのことなんて知ったことではない。などとぼやきながら辿り着いたのはいつもの公園。
危険だからという理由で次々と撤去された遊具の跡に、空ろな砂が積もっている。滑り台、鉄棒、ブランコはまだ生き残っているらしい。ボールを蹴り回す小学生の喧騒に、俺のボルテージはいきり立ち、喉にせり上がって来たのは煙のような邪気。
「殺してやる」
口に出したその言葉は途方も無い快感を生んだ。全身に鳥肌が立ち、狂おしい程のこそばがゆさが俺を取り巻いた。「ぎゃははははは」哄笑し、俺は地面を思い切り蹴り飛ばした。
「ひひひ。ひひひひひ。ひひ」
腹を抱え、その場にうずくまる。たまらなかった。血と肉の迸る、裂くような悦楽が迸る。どこか何もないところに打ち上げられるような開放感を胸一杯に吸い込んで
「ああぁあひゃっひゃあひゃぁっ」
俺は爆発した。脳味噌が融解しそのまま蒸発するような圧倒的な躁。「ぎゃはは!」立ち上がり周囲を見回すと、注がれるのは公園中の視線。間抜け面の小学生、ぞっとしたようなカップル、釘付けにされたような中年の女。それらのことごとくを受け付けず、俺は公園の隅、静かに澄ましてこちらに見向きもしない猫を強く捉える。
……残念、運が悪かったね子猫ちゃん。
何者かに操られたような気分で、俺はその猫に近付いた。小さくおいでおいで。首をかしげる猫の仕草は限りなく人間的で、それが俺の中のやわらかいところを鋭く貫く。倒れ付したくなるような歓喜が駆け巡り、俺はじれったい接近を放棄して猫に飛び掛った。
「何をしていますか?」
それぞれの文字が意思を持ったような声色が、背後から俺に浴びせられた。
「ああん?」
途端に心が挫け、全身から力が失われた。その場に崩れ落ちてしまいそうになるのをこらえ、俺はなんとか彼女の方を向く。耳障りな声を発して、猫がそこから逃げ出したのを感じた。妙に安心するような心境を振り払い、その女の方を凝視する。
「何の用?」
そう言うのがとりあえずの精一杯だった。
俺より頭半分低いその女は偉く端正であどけなく、ちょうどあの変態が見たら絶叫しそうな塩梅だった。美醜に疎い俺が感嘆するほどのその容姿の持ち主は、猫の真似をするように可愛らしく首をかしげると、そのまま上目遣いで
「あなた、良い人ですね?」
と訳の分からないことを言った。
「そうだが? 何か」
公園のこんな隅っこまで来ているということは、俺の様子をずっと窺っていたということになる。猫を捕らえる時は可能な限り狂人のテンションになるようにしている俺に、まっとうな人間なら誰も近付けはしない。
ようするにこいつはヤバい。
あの変態野郎と同じくらいか、それ以上には。
「ちょっと待っててください」
俺に背を向けて、少女はどたどたとベンチの方に走る。大きい目の箱を両肩で提げて、重たそうにこちらに帰って来た。
「三百円ですよぅ」
少女は煌びやかに笑う。箱に詰まっているのは本というには少しばかり薄っぺらな紙束。箱に貼り付けられた紙にはマーカーで大きく『私の詩集買ってください』。なるほどさっきのは客引きのお世辞だったという訳だ。俺はぎゃははと笑って
「あいよ」
ポケットの小銭を適当に掴んで少女に突きつける。少女はそれを意図的に地面にぶちまけて、そして箱から一冊を俺に渡す。座り込み、たどたどしく百円玉を三つ手にとって、残りを俺に返して来た。
「……これ、君が書いたの?」
「兄です。一つだけ私の詩がありますけれど」
立ち上がりながら、少女は答えた。
「ふぅん」
こいつみたいなのが売り子ならさぞ買ってくれる奴も多いだろうに。その兄貴もなかなか考えたもんだな。
「売り上げは私のものになる約束です」
「そうかい」
随分と無欲で芸術家肌な兄貴だな、などと思いながら、ただ『詩集』とだけ書かれた表紙を裏返す。『大宮港』というのは作者の名前だろう。男の名前か女の名前か、或いはペンネームか。
「君の名前は?」
なんとも無しにそう聞いてやると
「浪野です。浪野何模」
覚えにくい名前だな、と俺は思った。
いつもの廃墟に辿り着いた俺の手の中には子猫の一匹もいなかった。浪野との会話で少しばかり疲弊したのは確かなので、どちらにせよ動物を殺す気力など残っていないだろうが。
西条の野郎には、動物を殺すことに何の抵抗も無いなどとほざいて見せた俺だが、そしてそれを鵜呑みにして見せた西条だが。よほど神経回路の掻っ切れたテンションを保てなくては生き物を殺すなんてとても無理だ。そもそも何も感じずに動物を殺せる人間が、どうしてあえて自ら動物を殺してみせるのだろう。抵抗が無いなら悦楽も無い訳で、単純な背徳感だけで動物殺しのリスクを犯して見せるほど、俺は切れちゃいないのだ。
あの変態は俺のことを危ない奴だと思っているようだし、もちろんそれは間違ってはいない。だが俺が動物を殺すのは人間を殺す度胸がないからで、人間を殺したがるのは人間の意思に触れる機会に恵まれていないからだ。母さんは俺のことを息子とは思っても人間だとは思っていないし、柏は自分自身と会話しているような感覚で俺と話をする。西条は俺のことを人間扱いしているがそれにしてもあいつは例外だった。何者かと通じて影響を与えてやりたい欲望を持て余した俺は、もう暴力に頼るしかなかったのだ。猫を殺し、あの手この手で人に嫌がらせをする。一方的で饒舌な屁理屈をまくし立て、怯える相手をおもしろがる。そんな嗜好の持ち主を人畜無害と表現する奴は、その価値観にとんでもない欠陥があるに違いないだろう。俺は狂人か、それに近い何者かだ。そうと認めざるを得ない。だがその俺に、この俺を上回るほど狂人だと言わしめるほど、西条の奴は常軌を逸している。
「いいや、それは少し語弊がある」
奴を狂人……人間だと認めてしまう訳にはいかない。
何にも責任は無く、何にも原因は無く、何の哲学も奴には無く何の理由も奴には無い。奴が顔色を一つ変えずに瀕死の猫を踏み殺して見せたのは、ただ単純な、なんでもない個性の顕現だ。そして『あのまま、死ぬまで、苦しみ続けるなんて可哀想だったから』などと厚顔無恥に答えやがる。それは確かに筋の通った理屈だったかもしれない。だが、もしも奴がまっとうな男だったら、その理屈に準じるに当たって、どれだけの精神力を必要としたことだろう。
あの男はそうすべきだと思ったとおりのことを、何の葛藤もなくやってしまえる。
そこには強さも弱さも無い。ただ、心がぶっ壊れて、考えることが思うことを食ってしまっているのだった。あんな変態の有言実行ほど、恐ろしいものはおおよそ他にありえないだろう。
あんな奴がこの世にいるからには、不精な俺でも何がしかの対策を施さない訳にはいかなかった。
ポケットから取り出した小さな鍵で、ついこの間取り付けたばかりの南京錠を開放した。不器用な俺が蝶番の仕組みを取り付けるのはつらかった。あまりうまくいかないので自分の奥歯を噛み潰してしまいそうになったものだ。
「ようし、開いた」
それから内側からも鍵をかけ、脇の階段を上る。鼻をひくつかせてみるも、掃除の後で大量に撒いた消臭剤の匂いしかしなかった。頬を歪ませて笑う俺は大満足。本当に臭くて仕方がなかったから。
あの変態野郎ならあれさえも、興奮する、と言ってのけるのかもしれないなと考えると、とんでもない輩と付き合っているのだなという薄ら寒さが心に蘇る。
二階の一番奥の、窓の無い六畳間。向き出しの柱に首輪で繋がれた少女に向かって、俺は大宮港の詩集を投げ付ける。
「おもしろいものを持ってきたぞ」
少女は折れた右足を引き攣るように、その詩集を手に取った。肌が骨に張り付いたような少女は、歪なほど痩せた指を詩集にまとわせ、それから一ページを破り捨て、さらに一ページを破り捨て、みみっちくなったのか残りの全てのページを鷲掴みにして引き千切った。
大量の紙と戯れる少女を見ながら、俺は首を捻り、今日も今日とてどうやってこいつを殺すのかについて考え始めた。
読了ありがとうございます。
とうとう語り部を代えてしまいました。霧崎次郎、西条なんかよりもずっと書きにくい奴です。まずは彼独自の感受性を理解するところからがんばりましょう。
これからは群像劇ほどではないにしろ、語り部を交代させながら書いていくつもりです。ミステリだし、なるべくなら三人称は使いたくない、でもいろんな人物を描写しなくちゃいけない、ということです。
ちなみに今回の章、新キャラは一人しか登場させないつもりです。その一人も名前だけなら前の章に出てきていますね。どうしてこうなったのかというと、単純に私が息切れしたというだけです。本当になさけない話ですね。
この林崎をかまっていただいている読者の皆様、本当にありがとうございます。ぼくなんぞ人間のできていない者の小説をきちんと読んでくださる人がいるのかどうか、投稿してから不安でたまらなく、しばらくしてユニーク数が回り始めた時の感動は本当に筆舌に尽くしがたいものでした。世界中の色々なものを肯定したくなり、生きているのを楽しめるようになれたのは皆様のお陰であります。
ずっとずっと楽しく小説を書き続けて生きたいと思います。これからもお付き合いくださるように、心からお願いいたします。