名探偵 五
どうも。皆さんのお陰で今日も生きながらえている人格破綻者、林崎エセでございます。
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では、どうか今回の十一話目もお付き合いください。
「死んだってか?」
言いながら、根本がしゃもじのようなものを玉に向かって叩き付けた。どのような正式名称を与えられているのかぼくには分かりようもないその球体は、台の高山さんの前にぶつかり、飛び跳ねて、遊戯室の壁に激突した。根本は首を傾げる。
本田が黙ってマッサージチェアから立ち上がり、玉を拾ってかごに放り込んだ。
「死んだってどういうことだよ? 遺体でも見付ったのか?」
「いいえ」
宵子ちゃんが素早く首を振る。
「ただ、私が家を出た日から帰ってないんです。電話をかけてもだめ、行きそうなところをあたるのはどうせまだだと思うけれど、多分だめでしょう。……まあ自殺でしょうね」
「どういうこと?」
高山さんがめがねの裏側を光らせた。
「はあ。あの人は何と言いますか。半年くらい前からずっとそーゆー人なんです。放浪癖を身に着けるようなアクティブさは皆無だし、何か決定的なことがあったなら首吊るとか身を投げるとかする前に私を頼ってくるのが常。そういう時がたまたま昨日で、そんで私がいないってんで自分から死んじゃったんでしょう。いつかこーなるとは思ってました。まー良かったです。私の目の前で死なれたんじゃ気分悪い」
言いながら、宵子ちゃんは頭を抑えた。貧血を起こしたように、頭を垂れたまま動かない。目を逸らす本田に、顎を弄る根本。高山さんが飛びついて、体を支えた。
「部屋で休む?」
下を向いたままどうにか肯定したのだろう。高山さんに支えられ、宵子ちゃんは遊戯室を出て行った。
「やれやれ」
肩を竦める根本。
「とんでもない大事件が起こったな」
「解き明かしてみろよ、名探偵」
本田が不遜に言う。
「おまえら……」
茶化すような二人をとがめる言葉を出そうとして、ぼくは息が詰まった。この状況で、ぼくがこの二人を律することに意味があるのか? ぼくはなんて言おうとした?
「おまえが殺したんじゃねえの? 本田」
冗談のような口調で、根本。
「何を言いますやら」
「遠藤の母親の生存が最後に確認できたのが、出発一時間前に娘と会話をした時だ。それから何分かして外へ出たおまえは、水着を買って部室に戻って来た。その間四十分弱。遠藤の家に行って殺しをやって、それから帰ってくるには十分だ」
「はん。どうしてそんな非計画的な殺しをしなければならないんだよ」
「さあな。動機を明かすのは俺の性分じゃないんでね。理由なんて関係なく都合なんて興味なく情緒なんてどうでも良い。頭の良い奴が頭を使って繰り出した殺人トリックを鮮やかに解き明かしてそいつを嘲弄するのが、俺の名探偵としてのスタイルさ」
「はん。平和と正義と収入の為に他人の人生をめちゃくちゃにする刑事さんよりずっと性質が悪い。オレの読んだ推理小説の中にはただ性格の悪い探偵が多くいるが、おまえ程酷いのは一人もいない」
本田は喉で笑って
「まあオレは、それを傍観者として楽しむ以上のことは何もしないさ。オレは殺人犯じゃない。探偵はお相手じゃないんだ」
肘を直角に曲げて、首を振りながら遊戯室を歩く。
「考えてみろよ名探偵志望。オレに与えられた時間はたったの三十五分。いいや、現場近くの水着を買う時間を考えれば二十五分ってところ。……オレが犯人なら犯行は突発的なものと考えられ、前もって水着を用意しておまえらを騙すだなんてありえないからな……その二十五分の間に、遠藤の家まで行っておばさんを殺して、それから死体を消失させるなんて、どうすればできるんだ?」
「ふん」
根本は卓球の道具を放り投げ、それから
「確かに、殺すまでは可能でも、死体を片付けるのには無理があるな」
「そうともさ。穴掘って埋めるのがどんな手間だと思う? 細切れにして川にでも流すには何時間かかる? 鳥にヒモ付けてどっかに飛ばすなんて、いったい何匹捕まえりゃ良いんだろうな? たしかにミステリ研究会の中で唯一犯行が可能なのは、オレかも知れない。だがそのオレも、死体消失のウルトラCを思いつかなくっちゃ容疑者にすらならねえぜ」
せせら笑い、それから再びマッサージチェアに腰掛けて、本田は大きく深呼吸をした。
「ここは被害者の人間関係を洗って彼女を殺す理由のある者を疑うか、ただの失踪や誘拐の可能性を検討するのが論理的だと思うぜ。……論理的ね。これは絶対、オレの使う言葉じゃねえな」
機械の起動音が途絶える。「うお?」バカみたいな声を出して、本田は背後を覗いた。残り時間零分。百円玉を新たに投入することはしない。
「西条、これからどうする?」
突然名前を呼ばれて、ぼくは混乱した。体をかかしにして本田と根本のやり取りに聞き入っていたからだ。
「これから、というと?」
「おまえはみんなから頼りにされているんだからな。こういう事態に適した判断をするのは、おまえしかいない」
それは確かにその通りだ。あえて本田から言われる必要もなく、ぼくはミステリ研究会に対して驕りに似た責任があり、それをまっとうできるという傲慢に似た自信を持っていたはずである。この事態に対して何らかの対処を下せなくては、自分の中での整合性を保つことができなくなるだろう。
その必要があるのかどうかは、今ひとつ疑問だけれど。
「そうだね。……食事の後はゆっくり休んで、明日は寄り道せずにまっすぐ帰る。これ以外に何もできないと思うよ」
ぼくはぞんざいに思考して、ぞんざいに結論を出した。
「そうだな。まさにそのとおりだ。さすがは西条。冴えているね」
茶化すように言って、本田は遊戯室を出た。鼻を鳴らし、根本がそれに続く。
最後尾をぼくが歩く。大部屋には、高山さんと宵子ちゃんが待っている。憂鬱だな、と、ぼくはそんなことを思った。
宵子ちゃんを含め、食欲はいつもどおりあった。
特別、食卓に重苦しい雰囲気が流れたという訳でもない。例えばそう、死地へ出撃する兵隊の前夜祭なら、こんな気分で、これくらい騒ぐのではないかと思われるような、そんな晩餐だった。
食った後は疲れて横になった。真っ先に派手な寝息を立て始めたのは根本で、次に寝相の悪い高山さんがそこら中を転げまわり始める。本田は窓際で町の景色を眺めるばかりで、宵子ちゃんは寝ているのか、起きているのか、ただ横になって、不気味なほど静止していた。
ぼくはというと、今後のことを考える振りを自分に対して行いながら、ずっと眠れずにいた。
宵子ちゃんの母親は、殺されていようが殺されていなかろうが関係なく行方不明として処理されることだろう。それこそ名探偵でも現れなければ。
「なあ、西条」
本田が小声で言った。
「なんだよ」
「このミステリ研究会って、オレ達にとって最高の居場所だと思うんだよ」
それは、言うまでもない。
「みながみな、頭はおかしい、常識は知らない、要領は悪い、もちろん性格は醜悪だ。優しくしてもらうには優しい人間でなくてはならないのが常のこの世の中において、オレ達みたいなのが自分の居場所を得るためには、団結して新しいところを開拓するしかない」
「その、何もかも狂った醜悪な人間の中には、ぼくも入っているのかな?」
「おまえはその代表みたいなものじゃないか。そしてあの腐れ部長が影の長だな」
バカ面で笑う本田。
「根本も、宵子ちゃんも、分かってくれると思う。オレ達はずっとこうしているしかないんだって」
「そうだね、それが正義という奴だ」
ぼくがそう言ってやると、本田は
「正義ね。実に良い言葉だ。そういう言葉は、人の心の中で長いこと意識され続けるんだろうよ」
頷いた。
「その言葉、おまえが心の中でオレを評する時に使っていたことだろう?」
「まあね。それから、君を何がしかに例えるならば、何度も曲がって何度も無理やり真っ直ぐに治した大きな針がお似合いだ」
「はん。オレは文系じゃないんで、比喩っていうのが今ひとつ分からないんだ」
「ただ単に頭が弱いんだろう。おまえの場合」
ぼくは、笑いながらそう揶揄してやった。
「そうさ。腕力や胆力や社会力や知力の伴わない正義だなんて、ただの愚か者の愚かな行いなのさ。おまえはそれを良く分かっている。そしておまえはオレのことを頭の弱い人間だと言う。つまりおまえは、オレのことを救いようのない愚か者だと見下げ果てている訳だ」
「そうだよ。でもぼくは、君のことが嫌いじゃない」
「それは分かっている」
本田は、今度は自然に筋肉を綻ばせて
「おまえのことは誰よりもバカで誰よりもいけ好かない男だと誰よりも見下しているけれど、それでもオレは好きだぜ」
そう言った。
「光栄だね」
口ではそう答えたけれど、ぼくの心は何の反応もできなかった。そのことにぼくは震えた。自分という人間の有り様が、これまでの自分が幸福だと思っていたものの正体が、ついに露呈したような、そんな気がした。
「みんなそうさ。みんなみんな、お互いのことを蔑みながら、好きあっている。それで良い。そんな惨めな関係で良い。ずっと、これが続けば良い」
本田が言って、それっきり、会話は続かなかった。
宵子ちゃんの母親は、未だに見付っていない。失踪してから、もう四日になる。
毎日続けられる部活動に、宵子ちゃんは顔を出さなかった。心を傷めているのだとして、その彼女がここに現れないことが屈辱的でならない。
雨が降るのは本当に久しぶりだった。繰り返される水が砂を弾く音が耳朶をくすぐる。島での生活を思い出しながら、ぼくは黙って読書を続けた、
人が殺される小説を毎日のように読む人間達が、
お互いに依存し合い、必要にし合っている。
自分達の世界の外側で起きた悲劇は笑い事で、内側で起きた不幸によって軋みをあげる。
そんなどこにでもある城の中、茶番として仲間を殺し、それでも成り立って来たぼくらの関係。
楽しかった。幸せだった。
ぼくはそう思っていた。この城の中でどんなことが起ころうとも、帰ってくる場所はここだって。幸せになれるところにしか、人間はいることができないのだって。
だけれども、最近はこんな風にも考えるんだ。
その幸せは、本当は部室がぼく達に与えるものではなく、毎日ぼく達がこの部屋で行っている自慰行為によるものではないのかと。
冗談でも仲間を殺すごっこ遊びが、楽しいなんてことがあるはずないものね。
ノックの音がした。
「宵子ちゃん?」
真っ先に、ぼくは声をあげた。部屋には本田も、根本も、高山さんも揃っている。足りていないのは彼女だけなのだ。
「良く来たね」
鍵は閉めっぱなしだった。ぼくは扉に一番近い根本の方を見た。彼は一度、扉のほうを向くと、それから自分の腕のあたりを注視して、それから肩を竦める。
「本田、開けてやれ」
要領を得ない注文だった。
本田は首を傾げながらも、鍵を取り外し、扉を開放する。
「よお。心配していたぜ。間違っちゃったのかな、なんて思わないでもなかったよ……」
そして、カッターナイフが彼の首に突き刺さった。
宵子ちゃんがいつも持ち歩いていたそれが、拠点に記す旗のように本田にそり立って、刺さり目から真っ赤な血液が迸って脇の本棚を濡らした。
「へ?」
間抜けな声だった。ずっと気付くはずだったものにようやく気付いた、愚か者の声だった。
「宵子ちゃん?」
自分に掴みかかろうとする彼女から、本田は離れようとはしなかった。足から根を張ったようにその場を立ち尽くし、一方的な視線を宵子ちゃんに向け続ける。宵子ちゃんは首の脇に突き立ったカッターをさらに押し込まんとして、大きく詰め寄った。
「待て」
二人の間に跳び行ったぼくは、宵子ちゃんの肩を掴んだ。
「何をする気だ?」
「邪魔すんな西条てめぇ!」
一瞬、猛烈な空気がぼくの顔を吹き飛ばしたのかと思った。
「おまえがなんかしたか? おまえは何か役にたったか? 今更しゃしゃり出るのかよ」
宵子ちゃんの腕がぼくの顔の前を一閃。冷たい摩擦がまことしなやかにぼくの頬を迸り、激痛が爆発した。
「んなぁ」
脊椎反射の所為で首を殴り飛ばされたようになる宵子ちゃんを見据えながら、ぼくはその場にしりもちをついた。滴る血が床に落下する。
新しいカッターナイフを持ち直した宵子ちゃんは、それを振り回して本田に突っ込んだ。ただ何もせずに突っ立っていた本田の顔がぱっくりと裂けて、赤黒い肉がそこら中に飛び散る。
「ああぁあッ!」
高山さんが悲鳴をあげた。そのままぼくの肩にぶち当たりながら扉へ向かい、部室の外に出た。そんな彼女に、宵子ちゃんは目もくれない。それで良い、ぼくは思った。彼女が人を呼んで来てくれると良い。
人形のように静止する本田に、宵子ちゃんは目を白黒させている。何かを言いたそうに僅かに口を開閉させるも、音声が吐き出されることはなかった。
武器を持ち、狂乱する宵子ちゃんはもはや人間ではなかった。何も感じない、何も躊躇しない、ただ周囲に恐怖と被害を振りまくだけの存在。それに対して
「宵子ちゃん!」
そう呼びかけることだけに、ありったけの勇気が必要だった。首が軋みをあげそうな動作で、宵子ちゃんはゆっくりとこちらを向く。赤い鉄錆が迸るようなその目の色を見て、ぼくは慄いた。何もかもを放棄して、バカな臆病者のふりをして、そのまま凍り付いて情けを買う選択をしてしまいたくなった。
けれど、ここで足掻き続けないと、今までの全てが否定されてしまうから。
「どうしてそんなことをするんだ? そんなことをして、何になるんだ? 失うだけだよ、そんなの!」
「うるさい!」
宵子ちゃんが叩き付けたカッターナイフが、本棚のノベルス本に突き立った。
「おまえが言うな! おまえさえ気付いていれば何とでもなったのに! 私はずっとここにいたかった。ここが好きだった。ここ以外はみんな嫌いだった! どうでも良かった! ここがなくなったから、もう私は、私のこともどうでも良い!」
「何を言う!」
ぼくは吼えた。
「自分だけで全てが成り立っていると思うなよ! 勝手にバカなことするんじゃねえ!」
「どうして! どうしておまえにそれが言える?」
「言うしかねえよ! どうにもならないんだよ! ぼくは今だって君の先輩だ!このバカが!」
「バカは手前だ! 私よりたかだか一年だけ早く生まれたってだけで先輩面して優しげに偉そうに! しかも、しかも、何の役にも立ちやしない!」
内側から発せられる邪気で、宵子ちゃんはどうにかしてしまっていた。ぼくもそうだった。口を開けばそこから進入してくるのは数多のエゴで、自らの醜さに泣きそうになる。
まるで整合性が取れていない。
何がなんだか分からない。
でも、最初からそうだったんじゃないのか?
何もかもがちぐはぐで、かさぶただらけでがたがたで、捻じ曲がって、悪魔の胃の中のような部室の中で、それでもぼくらはずっと続いていた。
一本の筋なんかなくって、心のあり方は脳味噌のあり方にすぎなくて、言葉で説明できる訳もなく、都合の良い戯言に縋って来たばかりの愚か者。
「お母さんが死んだことで何がどう悪くなるってんだ! せいせいしたくらいだ! でも私はそれが嫌だった! それがまたムカついた。殺したくなった! どうでも良くなった! でもどうでも良いことはどうでも良くなくて、気が付いたら店でカッターを五本も六本も盗んでいたよ! お父さんにも迷惑かけた! でもそんなのどうでも良い! そんなことよりもずっと……、絶対にぃ……!」
宵子ちゃんは、ぼくに今まで見せたことのない、錆びだらけのカッターを取り出して、本田を向き直った。
「……こいつを殺さなきゃどうにもなんねえ! 殺したかねえけど死んでくれ!」
支離滅裂な言葉を吐いて、宵子ちゃんは本田に突っ込んだ。その目には涙が浮かんでいた。
二人分の絶叫が轟いて、宵子ちゃんと本田は抱き合うような姿勢でその場を転がって
本田だけが、立ち上がった。
その首からはナイフがなくなっていた。代わりに、彼の手の中に握りこまれている。最大まではの伸ばされたそれは、赤い血を帯びて、途中で折れていた。
「捨てられていたんだ」
本田は言って、宵子ちゃんを向く。握っているのは鉄錆色の刃で、左の目から生えているのは、途中で折れた銀色の刃だった。
「網でできた、感情そうなゴミ袋だった。彼女はその中にいた。中でもがきうごめく彼女は、その時のオレにはただ不気味なだけだった。助けてよう、助けてよう、彼女はずっと泣いていた。怖かった。意味が分からなかった。オレを責めるなよ、おまえらがその場に出くわしたら、オレと同じことしかできないはずだから」
「それは関係ない」
根本が嘲り笑うように言った。
「おまえは屑だ」
「黙れ」
本田は搾り出すような声で答えて、宵子ちゃんの体を抱く。
「オレが何もできない間中、捨てられていた彼女……宵子ちゃんは、一緒に捨てられたものの中から、何か使えそうなものはないかと探っていたのだと思う。とうとうオレがその場を逃げ出そうとした時、宵子ちゃんはカッターナイフで袋を突き破って外へ出たよ」
「逃げるのなら、最後の時に逃げればよかったのにな」
人を食ったような、根本の声。
「おまえに何が分かる!」
絶叫し、本田は宵子ちゃんを手放して窓の方へと走る。開放した窓か雨風が吹き込み、壮絶な音がした。
「はん。そんなことしたところで、おまえは死んでからも醜悪なままだよ」
その根本の言葉は、本田という存在を芯からしゃぶり尽くす如き台詞だった。
「黙れ」
それの言葉だけを力なく突き付けて窓の外に身を乗り出す本田に、ぼくは何もしなかった。無駄だと悟ったからだ。
その頃にはもう、水溜りを叩くただの雨音が、まるで土砂崩れを起こす山のような騒音に聞こえていた。どんな砂上の楼閣にも、形がある限り、創造と崩壊がある。
幸福のリスクはそれを失うこと。
分かっていたから、もうこれ以上取り乱す必要もなかった。
「あばよ、腐れ名探偵」
本田は根本にそう言った。ぼくには何も言ってくれなかった。
特別、残念だとは思わない。ならばなぜ、ぼくはそのことに気付いたのだろう。
落下音が響き渡り、すぐに雨の音で掻き消された。
「あの破綻者は、まったく酷い言い様だね」
肩を鳴らす根本。ぼくは宵子ちゃんに駆け寄って、その手の中から錆だらけのカッターナイフを奪い取り、机に置いた鞄の中に放り込んだ。
宵子ちゃんの肉体は既に冷たい生ゴミに過ぎないものになっていた。目を貫通した刃が脳味噌を抉っていたのだから、当たり前である。心とはもちろん脳味噌のことで、それをむちゃくちゃにされた彼女は既に人形も同然なのだ。
「死んでしまえばどんな女も、何の矛盾もないただの美しい少女だよ」
ニヒルな調子で笑って、根本はそう言った。
「それにしても、葬式の時に、荒探し染みた話題を振ってくるなんて、警察もなかなか熱心だよな。ご苦労ですねーっと」
宵子ちゃんの父親に頭を下げ、焼香をあげることだけはさせてもらった。あたしは面白いことが好きだ、そんなつまらないことはやってられない、そう言った高山さんは来ていない。
どういう訳か付いて来た根本と、二人だけの帰り道。本田はいない。あいつも死んだ。どうやら、校舎の三階程度の高さからの落下でも、地面に頭をぶつければ人は死ねるらしい。
「なあ根本? どうして本田は死んだんだと思う?」
その疑問について思索することは、まるでどこまで続くか分からない紐を手繰り続けるような不快感を伴う行為だった。それでも何とか決着を付けられなければ、ぼくの苦しみは少しも軽減されることは無い。
後始末だけは、なかなか慣れない。
「知らん」
根本はぞんざいに答えた。
「本田が死んだ訳。遠藤の暴走の理由。犬殺しの犯人。なーんにも分からん」
両手を背中で組んで、愉快そうにそう言う根本。ぼくは溜め息をついた。
「まったく。本当に腐れ名探偵なんだな」
「ああ。分からないものは分からん。俺も修行が足りないねぇ」
くくく、と笑って
「まあ。それでも俺が今回の事件に関わった甲斐は、十分にあったのさ。おもしろいものが見られたし、人を嘲り笑うことも十分にできたしな」
「おまえほど自分の醜さをむき出しにする人間を、ぼくは他に知らないよ」
などと、ぼくは嫌味を言った。それを聞いて、根本はむしろ上機嫌に顔を綻ばせる。
「露悪趣味じゃねえぜ。ただ隠すのが面倒なだけだ。この顔をぶら下げている限り、どんな風に振舞ったって、俺は醜い人間なんだからな」
もっともな言い分だった。
「それじゃあな。西条。また明日、部室で」
一つの提携分として、根本の口からそんな文句が滑り出す。
ぼくは無言で答えて、醜悪な友人と別れ、自らの帰路を進んだ。
家に帰ると、ぼくは携帯電話と、それから宵子ちゃんの手からもぎ取ったカッターナイフを取り出した。
ただ使っているだけでは、カッターナイフはこんなに錆だらけにはならない。たとえば血のような水分を纏うようなことがあれば、別だろうけれど。
携帯電話をじっと眺める。今からでも、これに誰かから電話がかかるかもしれない恐怖を思えば、首を掻き毟りたいほどだった。それなのに、どうしてこんなものをぼくが所有しているのかと言えば、ただ一人の人物と、スムーズに会話を取る為に他ならない。
呼び出すべき電話番号は、唯一つ。透き通った機械音が何度かぼくの耳元で震えた。そして
「もしもし。こちらは風間劾。そちらの詳細と用件を聞かせてください」
「部長、その受け答えはおかしいですよ。ぼくじゃなかったら笑ってしまう」
「ふむ。それはそうなのかもしれないな。すまないね、電話にでることにマニュアルがあるとは思わなかった」
部長がただの対人恐怖ならば、今のぼくの台詞でどれくらい思い悩んだだろう。だが悲しいかな、部長はそんな可愛げなど露ほども持ち合わせていない。ただ、自分の思ったとおりに受け答えするだけだ。
「そうですね。勉強すると良いです。……それはそうと、部長。教えてもらいたいものがあるんですが」
「ああ、分かっている。その用件で君がかけてくるような気がしたからこそ、僕が自分から受話器を取ったんだしね」
なるほど、そういうことか。しかしそれにしても、なるべくなら物理的な移動をしたくないという部長がわざわざ一階の電話まで降りてくるなんて、妙なこともあったものである。
「本田が死んだのだろう?」
あまりに飄々としたその言葉。ぼくは驚くことも腹を立てることもしない。この人は、異常なのだ。本田より、ぼくより、根本より。
「はい。宵子ちゃんもです」
「そうか。そう転ぶとはね。それで、その細かい顛末を、君は僕から教えて欲しいという訳だ」
「ええ」
今宵子ちゃんと本田の死を知った部長に、それを教えたぼくがその詳しい説明を求めるという形になる。この人と話していると、本当に妙な気分になるな。ぼくだって、頭は良い方のはずなのだけれど。
「対価は?」
「宵子ちゃんが始めて買ったカッターナイフです。警察に押収される前に確保しました」
「なるほど。いわくつきだね。分かった、それで良い」
部長は上機嫌そうにそう答えた。
「それを友達に流すつもりですか?」
「そうさ。まったく薄情な男でね。たまに何かおもしろいものをくれてやらないと、うちに来てくれなくなるんだよ。僕がひきこもりだからって、優越感に浸ってやがるんだな」
ぶつぶつ言いはじめる部長に、ぼくは少しだけ笑ってしまった。
読了ありがとうございます。
『名探偵』の章は次回で最終回となります。これから書き始めるところなのですが、頭を禄に使わずに乱発したチープトリックの数々を成仏させてやりたいなと考えています。
次回もお付き合いください。