名探偵 四
どうも。みなさんのお陰で今日も生きながらえている人格破綻者、林崎エセでございます。アクセスありがとうございます。
尋常じゃないテンポの音楽を作業用BGMにして執筆することが多く、少しばかり文章が狂っていることを事前にお詫びしておきます。見苦しくてすいません。
時間が許す限り遂行したのですが、それでもおそらくガタガタです。おかしなところを見つけて、それから指摘していただけると幸いです。
それでは、今回もお付き合いください。
如月創介と言えば特に心の歪んだ若者に絶大な人気を持つミステリ作家で、ぼくらの世代を代表する殺人鬼でもある。
殺人鬼に代表される時代を生きなければならないという事実は、今時珍しく客観性と論理性を身につけた真っ当な若者にとっては迷惑の極みであろうけれど、ぼくらのように創介のカリスマに押されるばかりの多数派には、それはむしろ名誉なことであると言えた。リアルタイムで創介の殺人を楽しめなかった子供たちはなんて不幸なんだろうとさえ思う。被害者遺族にこういうことを言う度胸は誰にもないのだけれど。
創介の殺人は純粋極まる殺人行為であるように思われた。情緒も哲学も或いは目的すらないような、対象に拘らず方法に拘らず現場に拘らず時間帯に拘らない殺人鬼。特徴があるとすれば殺された人数で、平均的には毎日一度というアホなペースで殺人が行われていたことから、人口爆発を食い止める為に政府が外国から殺し屋を雇ったなんてこれまたアホな仮説が雑誌に掲載されたほどである。
以前でさえ有名だった創介が本格的に大ブレイクを果たしたのは、自首した後に『殺人記』という小説を出版したことによる。この小説は『私』という主人公がひたすら人を殺しまくる様子と、その中での彼の情緒が凄まじい筆力で描写されているというもの。どうも創介が犯した殺人は小説を書く為の布石だったようで、そのスケールの大きさと作家精神の気高さに世界中のミステリファンは感動で打ち震え、涙した。
「という訳で。ここが如月創介資料館です」
「いえー!」
部員がいっせいに拍手を打ち鳴らした。
あれから一週間。ぼくらは部員旅行の計画を実行していた。もちろんというか、費用の申請は通った。たとえ夏休みの真っ只中であろうとフル稼働している我らが生徒会は、ぼくらの心にある如月創介への情熱を受け止めてくれたようである。別に部長のコネをちらつかせた訳ではない。
「ネットで立ち上がった創介のファンサイト、オレ毎日アクセスしてたよ。観覧するのはなかなか難しかったけれど」
「隠しリンクを見つけるの大変だったわ。でも被害者の状態とかすごく詳しくって」
「資料館ができたのも肯けるよな。ネット人口しかあれを見られないなんて悲しすぎる」
もちろんというか、殺人鬼の資料館などと作れる訳が無い。歴史に残る大作家の資料館という体裁だ。作家創介と殺人鬼創介はそれぞれ切り離せない関係にあるので、資料館には彼の殺人についての資料もある。創介の有名作品一つにつき一部屋が宛がわれ、作中の殺人現場の精巧な模型やら推理のポイントを纏めた文章やらが展示されている。そしてここ、地下二階の一際大きな部屋がすなわち『殺人記』のフロアーである。
「実際の事件で最初の被害者となったのが、創介の妻で如月昭子さん。作中での名前は多中田家代子で、やはり主人公の妻。夫に忠実なロボットのような人物だったということだ」
「ああ。四つんばいになって主人公のイスになるシーンには慄いたな」
「あたしは笑ったけれどね」
各々が感想を言いながら地下二階を進む。ちなみに言うと、資料館い着いてすぐにぼくらはエレベーターで地下二階に向かった。進路などまるで気にしていない。うまいものは最初に食らうのが、高山さんの哲学なのであった。
「どうだ? なかなか上品な旅行になりそうだろう?」
計画者のぼくは胸を張って行った。昨日は移動日で、駅弁を食いながら新幹線を乗り継ぎ、途中で古本屋をいくつか回って来た。今日のこの後は一度旅館に戻って昼食、午後からはお楽しみの海である。
いくら文化部の旅行とはいえ、夏にそこを訪れないというのは頭のおかしな人間の所業だ。本田も根本も、もちろんぼくもあまりまっとうな神経をしていない方だが、女の子の水着姿を見たくないほど耄碌してはいないのだ。
「はい。楽しいですね。西条先輩」
宵子ちゃんがはにかんで言う。この子の笑顔はいつも綺麗だ。守ってあげたくなる。
「そうだね、参加できてよかったじゃないか」
「ええ。……でも、帰ったらお母さん、なんて言うかな?」
心の中にある闇を表情に反映させた、宵子ちゃんの浮かない顔。
「どうしたんだい?」
彼女がこういう顔を見せることは珍しい。八坂さんほどではないにしろ、宵子ちゃんは無表情な方だ。表情を見せるのは意図的に笑って見せる時だけ。
「いいえ。……何も言わずに、メモだけで来ちゃいまして」
そう言えばというか、出発の一時間くらい前、部室に集まった時に電話が来ていたな。明るい声色が携帯電話から漏れ出しているのを聞いた。
「大丈夫。何の問題もない。怖がる必要はないからね!」
本田がそうまくし立てた。避けるような笑みに充血した目。宵子ちゃんが不気味そうに身をよじる。
「どうしたんだよ本田。体調悪いのか?」
「いいや、昨日は眠れなくってね」
坊主頭をかきむしって、本田が笑った。こいつにもそんなことがあるのだろうか。
「……なあ西条」
「どうした、根本?」
「この記念館、作中の事件の真相が分かりすぎるほど分かるんだが」
「そうさ。ここは創介の作品をコンプリートしている人間しか入れない聖域だよ。そう思って、一週間前に創介の小説はみんな君に渡したじゃないか」
「……『三百十八ページ』と『殺人記』しか読んでねえよ」
これは困った。まったく、有名どころだけでも読んでおけって言ったはずなのに。
「……そもそも、一週間に十五冊の本を読むのは、時間的に不可能なんじゃないか?」
「そんなことあるかよ。一冊に三時間かかるとして、一日に九時間読書すればちょうど五日さ」
根本があんぐり口を開けている。まあ今のペースはふつうなら少しばかり無茶なのだけれど、創介のおもしろさは通常の枠内では図れないので十分に可能なはずだ。ぼくが始めて創介に触れた時は、一日に十五時間も読書をしたものである。授業中、部活中、風呂の中、トイレ中、睡眠時間以外ほとんど。
資料館では五時間ほどの時間を過ごした。スケジュールはあまり過密にならないようにしているので、これくらいは問題ない。
ホテルのレストランでの食事はなかなか充実していた。上品な西洋料理である。限られた経費の中で、これだけのものを食わせてやれる自分が誇らしい。けれどまあ、これから向かう海水浴場に海の家があれば、こんなに頭を悩ませる必要もなかっただが。
「そう、海である」
などと口に出してしまうほどの高揚感。仲間と共に海水浴というイベントは、やはり素晴らしいものだ。部長も来れば良かったのにと思う。
タクシーなんて金のかかるものは使わない。徒歩での移動、十五分。あのホテルは海水浴場が近いことが売りなのだ。
水平線まで続く海の風景。濁った緑色ではない。空の色を反射した、美しい青色だ。砂浜には無数に散らばる核家族、野郎共、少女達、カップル、抱き合う二人の筋肉隆々の男、エトセトラ。
綺麗なものは全て自分の心にある、外遊びなどに興味はないというスタンスを貫き続けるミステリ研究会メンバー達も、これにはさすがに感動している。本田はバカみたいに騒いでいるし、高山さんは不適な笑みを浮かべている。宵子ちゃんは興奮を隠しきれない表情。根本は呆然と海を見入っていた。
「さて。泳ぎますか」
着替えはホテルで済ましてある。各々、上に羽織ったものを脱ぐだけだ。みんなの素肌に、それぞれの注目が集まる。
まずは根本がすごい。マッチョの言葉が似つかわしい肉体美である。向こうのホモカップルに割って入るべきだ。
それからもちろん、女の子に注目。幼児体系の高山さんに、骨の浮いた宵子ちゃん。うむ、素晴らしい。スタイリストなら雑誌でいくらでも見られるからね。身近な人間の体躯だからこそ良いのだ。
「その傷、泳ぐときに痛くないか?」
根本が宵子ちゃんに言った。
「……我慢します」
宵子ちゃんの脇の下あたり、火傷の跡が転々として、そのさらに下には刃物の傷があった。それぞれ完治していない。腕や足にも痣や古傷らしいものがいくつかあり、その痩躯と相俟ってあまり健康的な印象を与えることはない。
「どうしてそんな有様になったんだい?」
と、ぼくが訊くと
「痒かったもので」
宵子ちゃんは答える。浮かない顔だ。
「さあー。さあー。泳ぐぜい! 野郎共、突撃だ!」
追求しても仕方がないということか、本田が声を荒げた。予想通りの、筋肉に恵まれないだらしない体である。肥満というほど悲惨ではないのが救いだな。
「あれ? その水着は新品かい?」
「おう。……どうして分かったんだ?」
ぼくが尋ねると、本田は呆けた顔でそう言った。
「……ラベルがついてるんだよ」
赤面し、あわてて引き剥がす。そしてみなの笑い声。
「……いいや。昨日の出発時刻にさ。置きっ放しにしていた学校の水着を持ってくるつもりでいたんだけれど、腐ってて。それで慌てて買いに行ったんだ」
ちゃんと洗っておけ。というか持って帰れよ。
「そう言えば、みんなでまず部室に集まってから、用があるって行って外に出たんだよな。おまえ」
「ああ」
三十分で戻って来ると言って、三十五分で戻って来たのだったな。予定していた時刻の一時間ほど前にはみんな集っていたので、問題はなかった。
「あんな住宅街に服屋があるなんて、助かるよ」
あの、宵子ちゃんの家の近くにある、何かのアルファベットを並べた服屋、けっこう繁盛していたんだっけな。あのあたりは服にこだわりなんてない人が多くて、彼らは遠くのデパートに出かけずにあそこで済ませるのだ。ぼくの居候先の人もそうしている。
あの住宅街はけっこう住み心地が良いのだ。本屋と古本屋があるし、学校まで家から十分しかかからない。小学生の頃は一人で駄菓子屋に通っていたものだ。あそこの主人、今も元気にしているだろうかな。
「ええい。オレの水着の話はよせ。改めてー。行くぞ、野郎共!」
「おー!」
ぼくらにとって、夏らしい夏がようやく始まった。真水ばかりで、カキ氷すら食べていなかったものな。
そして、無茶をして泳ぎ回った挙句運動不足たちの体力は底を尽きたのだった。
ホテルに帰ればそれはもうばたんきゅー。一番安い大部屋の畳に寝転がる少年少女。「ジュース買ってきてくれー」「お絞りか何かないの?」「うう。水風呂に三時間入らされたこと、思い出します……」それぞれがそれぞれの言葉を吐き出している。
「……まあ、楽しかったから良かったじゃねえか」
デジタルカメラを操作しながら、まだまだ元気な根本が言った。向こうで仲良くなったタケムラさん(オカマ言葉の男性。筋肉隆々)とセダカワさん(強面の男性。筋肉隆々)に撮って貰った、全員集合の写真を見て頬を綻ばせている。そろそろ研究会に対する愛着が沸いてきたらしい。良いことだ。
「そうだね。それにしても、君はよくよく同性愛者の男性に好かれやすい人間みたいだ」
「……否定はしない。それから、レズビアンには嫌われやすいんだよな。豚呼ばわりされた。……あの碇本も、それは同じだったかな?」
「碇本君と言えば、あの人気者の秀才かい? 暴力事件がきっかけで学校に来なくなったけれど」
「……ああ」
当時生徒会役員だったあの万能家、碇本零人から、ぼくらはよくよく目の敵にされたものだ。ミステリ研究会創立に当たって激論を交わしたことがある。部長のお陰で何とかあしらうことができたものだが、報復があるかもしれないとあれからずっと怯え続けてきた。頭も切れるし、意思も強いあの男は、このままずっと病院だか自宅だかにいてくれた方が好都合である。
「目標なんだ」
突然、根本がそんなことを言った。
「はあ?」
「いやさあ。根本の根と、碇本の碇って、土の中に張るか水の中に落とすかの違いはあるけれど、同じようなものじゃないか」
「……そうだね」
そんなどうでも良いことに気が付くなんて、よほど碇本のことを思っていたのだろう。仲が良かったのか、宿敵同士だったのか。
「あいつは、とんでもなく強くて、卑怯なほど美しい男だ。傍にいるのが不愉快なくらい。殺してやりたいと何度思ったか分からん。だから俺は、劣等感を解消しようと、あいつを乗り越えて踏み潰して見下してやろうと試みた。結果は大敗北だったよ」
「へえ」
「それから、ずっと目標のままだ。もうあいつはぶっ壊れちまっていると言うから、奴につりあう目標を探して、そいつを潰してやるつもりだ。そういう奴が簡単に見つかるとは、思えねえけれどさ」
カメラに向けられた視線は、自らの醜貌を見ているのかもしれなかった。そう言えば、人間は鏡や写真を通してしか自分の顔を見ることができないのである。根本だって、意識して生活すれば自分の顔を見ないですむはずだ。そうすれば誰にも劣等感も味あわなくて良い。こいつには自分の武器がちゃんとあるのだ。脳髄にせよ、体力にせよ、意思の強さにせよ。
ただ、相手が悪いのだ。
碇本を知るぼくは、ついそんなことを考えた。
「風呂行こうぜ」
根本が言った。
「おう本田。そんなところで寝転がってないで、一っ風呂浴びてすっきりしようや。大嫌いな塩水が体中にたっぷりじゃあ、気持ち悪いだろう?」
「本当だ。ぼくたちは今の今まで、毒の海でいたことになるね」
そう言うと本田はごろりと寝返りをうって
「オレを起こせ」
と言った。
根本が両腕を持って、畳を引きづりながら本田を廊下へ追いやった。
宿泊するホテルに大浴場があったことは偶然だ。如月創介資料館と海の双方に近い位置にあるホテルという条件を満たしていたホテルに、たまたま西洋風の素晴らしい大浴場があったというだけ。
ぼく個人としては、和の温泉旅館という趣の方が好きなのだが、贅沢は言えない。どこぞの国の王様のような気分で巨大な風呂を楽しむのもこれはこれで悪くないものだ。
「ビバノンノン」
鼻をつく煙の匂いは素晴らしく、体に浸透する湯の暖かさはすなわち極楽気分。タイルの壁に張られた温泉の効能の説明を何ともなしに読みながら、ぼくはだんだんと眠くなっていた。さすがに疲れているのかもしれない。無理もないだろう。今まで見得を張っていられたのが不思議なくらいだ。
白い霧が顔を覆う。うつらうつら。顔を締め付ける狭霧は、孤島からぼくを離さない。
孤島。刑務所のもののような食事。四畳一間の二人部屋。土谷君。クラスメイト。八坂さん。ブームメント。霧。
木原狭霧。
「あびゃ」
顔にお湯がかかった。鼻に進入した熱湯を噴出し、溺れたような気分である。
「何をうとうとしているんだ? こんなところで寝たら危ないぞ」
本田が手で水鉄砲を作り、放ったのだ。いつの間にか元気になっていたらしく、冴えた目がこちらを鋭く捉えている。根本がここに連れてきたのは正解だったということだ。
「やったな、こいつ」
小学三年生の頃に発明した西条式スペシャルバージョンを本田に向かって連射する。一度の砲火量は通常の射撃と比べて劣るものの、準備にかかる時間を遥かに短縮できるのだ。
本田の目を鼻を狙い、ぼくは容赦のない射撃を続ける。「うわ。ぎゃ!」ことごとく命中する水の弾丸から逃げるように身をよじった本田がタイルに頭をぶつけた。「ぐおお」本気で痛がっている。ふざけすぎたかな。
「何やってんだよ」
その肉体美を惜しげもなくさらし、湯の中にふんぞり返った根本が尊大に言った。どうやらリッチな気分らしい。顔さえまともならなかなか決まって見えるだろうに、残念である。
「遊んでいただけさ。風呂場遊びと言えば水鉄砲」
「なるほど」
根本がそう言うと、ぼくの顔に水が吹き飛んできた。いつの間にかぼくの傍まで忍び寄っていた右手が発砲したらしい。
「そりゃ、そりゃ」
左手も加わって弾丸の数は二倍。片手で撃ち出すなんて随分器用な奴だ。手が妙にでかいので威力の方もぼくの両手と大差がない。
「まいった。まいった」
これはかなわないと思い、ぼくは降参の声をあげた。「ふふん」根本が鼻を鳴らす。本気で喜んでいるらしい。どうもこいつは、どんな事柄でも、きちんと白黒が着くなり一喜一憂する性質があるらしい。
「西条、あっけねえぞ」
「そういうおまえはぼくに負けた癖に」
「負けてねえ。……うら」
本田の弾丸がぼくの鼻の頭に命中する。こいつは手の中にたっぷりの水を掬うのが得意らしく、威力と命中率はなかなかのものだ。
「本田、やっちまえ」
根本が応援の声をあげる。「おうよう」調子付いた本田のさらなる連撃。ぼくは水中に潜って一先ず事なきを得た。だがずっと潜水して無呼吸でいられる訳もなく、水上で発射準備を終えた本田がぼくの浮上をてぐすね引いて待っている。ぼくは水の中から可能な限り本田を攻撃してから、息が持たなくなって手を振った。白旗である。
「よっしゃあ」
水からあがると、本田がうれしそうにガッツポーズ。こんなこと喜べるなんて、何とも羨ましい奴だ。ぼくのように捻くれていない、純粋な心の持ち主。
と言っても、本田は自らの心を殴って削るようにまっすぐさを保っているようであるが。
「西条くーん」
くぐもった大声が聞こえた。壁の向こう側、女湯からである。
「シャンプーその他をちょうだーい」
高山さんだ。はなからぼくらのものを使うつもりで、自分では何も持ち込まなかったらしい。他の客もいるのに、図々しい女だ。
喚起にかかる費用を削減する為か、男湯と女湯を隔てる壁は天井まで届いていない。なるほど、ここから石鹸やら投げ込めば向こうに届きそうである。でも、他のお客さんの頭を直撃しないとも限らないから、止めたほうが利口だろう。
「おーう」
などと考える隙、根本が次々とボトルを投げ込んだ。今日の為に用意した、小型のシャンプー、リンスー、ボディソープである。最後に手ぬぐい。それで完了。
「ありがとー」
高山さんは普段しゃべらないし、大声を出すなんてことはほとんどない。それゆえにクラスメイトからは内気な人間だと思われているようだが、とんでもない。恐ろしく肝のでかい女なのだ。
「まったく高山の奴。相変わらず破天荒だなあ」
おもしろがるように、本田が言った。
「彼女はずっとそうだからね。合理的な理由があれば、どんなことでも恥知らずにやってのける」
「ふうん。……ところでさ」
根本が湯船に帰って来て、口を開く。
「犬を殺して、俺たちの部室に放り込んだ奴、分かったかもしれない」
「本当かよ!」
ぼくは叫んだ。
「どうしてこんなところで気づくんだい? お湯の所為で血の巡りが良くなって、思考が冴えたのかい?」
「それもある。だが、本当に大事なのは……」
根本は男湯と女湯を隔てる壁を指差した。退屈な印象を与える青一色の壁を、上にある楕円形ガラスに描かれた海の様子で補っている。あれが壊れたら大惨事だろう。
「あれだ」
「どういうことだ?」
ぼくは首を傾げた。
「つまりだ。部室に犬の死骸があるからって、部室の扉を通る必要がないってことだよ」
「そんなバカな!」
本田が素っ頓狂な声を出す。
「部室で犬を殺すのに、部室に入らなくてどうするんだよ? 開いていた窓から入るってんのはご法度だぜ、部室は三階だ」
「ふん。どうして部室で殺す必要性があるんだよ」
にやにやと、まるでいけすかない名探偵のような声色で、根本は話を続ける。
「死体が人ではなく犬であることや、細切れになっていたことに注目だ」
「はあ?」
訳が分からない、といった風に本田が間抜けに叫ぶ。
「いいか。犬の死骸ならな、軽いから簡単に投げることができるんだよ。さっき俺が、洗剤のボトルを女湯の方に投げ込んだようにな」
「分解した犬の死骸を、下から三階の窓に放り込んだって言うのかい?」
ぼくがそう言うと、根本は
「そこまで分かっていながら、真相に気づかないなんて。どうやら目を背けたいようだな。そんなにあの隣人が好きなのか?」
そう、嘲るように笑った。
「八坂詩織のことだな」
本田が不適に言う。
「そうだ。彼女が属している料理部は、俺たちの部室のすぐ向かいにある。お互いに窓を開いて言葉のやり取りをすることもある。犬の死骸を放り込むのも、簡単だろう」
「まさか。あの運動音痴にできる訳がない!」
ぼくは吼えた。
「窓と窓の距離はざっと二メートル半。それだけの距離、不安定な形状をした犬の肉を投げるなんて彼女には無理だ」
「おまえ、自分が言ってることがおかしいって分からないか? ふつうはできるぞ」
「彼女はふつうじゃない。ハンドボール投げ四メートルだ。コントロールの力も皆無」
「どうしてそんなの知ってるんだよ。ストーカーか」
本田が茶々を入れるのに、ぼくは
「古い知り合いなんだよ」
と答える。
「というか、どうして八坂さんが、ぼくらにそんな嫌がらせ染みたことをするんだ? 動機がないだろ。他に容疑者はいくらでもいる。料理部の鍵が手に入る人間なんて、いくらでも」
「そうだな。あのナマクラ教師の鍵の管理は杜撰だからな」
根本はせせら笑って
「まあ、とりあえずとっかかりは掴めたってことで。犯人が分かったって言ったのは、ただの見得だよ。本当は何も分かっちゃいない。続きは外でピンポンでもしながら考えようぜ」
と言うので、ぼくらは湯船からあがる。のぼせるのを忘れていたらしく、全身の血が鉄になったように体がだるかった。
ルールは良く分かっていないけれど、それでも卓球は好きだ。
飛んできた玉を弾き返す行為にこれといった意味は感じないけれど、仲間と何がしかのゲームを行っているというのは、それだけで楽しいものだ。必死な顔で玉を追いかける本田を見るのもおもしろい。
「もう止めた。しんどい」
息が上がり、本田が近くのマッサージチェアに転がる。百円を投入。ぶおーんぶおーん。「おひょひょひょ」どうやら極楽気分のようだ。
「俺とやるか? 西条」
牛乳を飲んでいた根本が言った。
「良いけれど、あまり強く打たないでくれよ」
「それは、名探偵に閃くなというようなものだ」
台に立ち、しゃもじのようなそれを片手に構える。ぼくもそれに応えた。
「西条。それは両手に持つものじゃない」
「ふうん。そうなんだ」
などとレクチャーされながら、ぼくと根本はゲームを始める。やはりこいつは強敵だ。反応の速さと言い腕力の強さと言い、ことごとくが逸品ものである。
「やってるわね」
女湯から上がって来た高山さん、宵子ちゃんが遊戯室に現れる。白熱した試合に見入り、ふうんとばかりに二度、頷いた。彼女はもとは卓球部の人間である。玉を部室の隅々に散らばらせるのが得意な彼女を、部長とぼくがヘッドハンティングしたのだ。
「いえい」
俺の勝ち、とばかりに根本が両手を九十度に掲げる。実に嬉しそうだ。
「あたしとやんない」
高山さんが前へ出る。ぼくはしゃもじのようなものを彼女に握らせた。
「おう」
二人の試合は、ぼくにも分かるくらいにはハイレベルだった。少なくともどちらかのワンサイドゲームということはない。
「たまの旅行なんだ。学校でのあれやこれやは忘れてしまうのが良い。そうだよね」
ぼくはそう呟いて、宵子ちゃんに同意を求める。他人に同意を求める行為というのは、基本的には相当下劣なことだが、それだけにやらずにはいられない。
「ですよね。救われる時間がなくっちゃ、息が詰まっちゃう」
寝巻きに着替えた彼女は、自分の手首に注意を払っているようだった。この夏場に長袖の少女趣味。実際宵子ちゃんは少女なのだからこれで良い。これが良い。これでこそ至高!
「ねえ、先輩」
「なんだい?」
何も言わない高山さんは、表情だけを綻ばせて一心不乱に卓球を続ける。対戦相手の根本は、その顔を窺うことはできなくとも、体中から発散する楽しげな雰囲気は隠しきれていない。
彼らを眺める本田。体中を機会にほぐされて、普段のバカ面が剥がれてしまっている。何かを憂うみたいな、どこか寂しそうな表情だ。誰にもバカにしか見えないバカな彼の、その心の中が誰よりも凸凹でガタガタで、その癖にまっすぐであることはぼくらは知っている。
宵子ちゃんは彼らを見回して、それからぼくの方を向いて言った。
「ずっと、一緒ですよ」
言葉の海をさまよって、ぼくはただ
「ああ」
と答えた。
卑怯者だった。
「ところでさ。明日の予定なんだけれど、昨日と同じ古本屋を巡っていてもあんまり意味はないし、途中で一つくらい観光地に行くというのはどうかな?」
などとぼくが言うと、宵子ちゃんの携帯電話が鳴る。
「失礼します」
ミステリ研究会の人間で携帯電話を持っている者は稀だ。ぼくの他には、根本に、それと宵子ちゃんくらいのもの。友達が少ない人間が集まる部活動だという理由もある。
一番の訳は、どこにいようともそれを持ち歩いているだけで何者かからの束縛を受けるということだ。いつどんな嫌な奴から電話がかかってくるかもしれないという恐怖には思い出すたびにぞっとしてしまう。よほど必要に駆られない限り絶対に家に置いておきたい道具の一つだ。宵子ちゃんだって、本当はそうなのだろう。彼女の属性は、時間を共有するぼくならば分かる。
「はい。そう……本当に? どうして!」
電話に向かって感情的にまくし立てる宵子ちゃん。いつもは静かで落ち着いた彼女のその姿にみなが戸惑う中、ぼくはそれを、何故だか冷静に注視することができた。
「そんな……。私は関係ない! ええ? あなたはいつも何もしてくれない癖に、そんなこと言うの? ……誰の所為よ! できることなら、ずっとこっちにいたいくらいなのに……。はあ? ……ごめんなさい。そんなことない」
予感がした。
幸せのリスクはいつか終わりを告げること。それを知っているからには、いつも、怯えて、腹を傷めて、時に全てから逃げ出してバカの振りをしたくなることもある。
「そんなことない。私は好きだった。……ええ。もうどうでも良いわ。好きにして、多分、あなたは変わらないだろうから。……うるさい、切るわよ」
そう言って、彼女は親指をボタンに叩きつけて
「お母さんが、死にました」
そう言った。
読了ありがとうございます。
ぶっ壊れていたパソコンを今日新しいものに変えたので、これから投稿ペースを早めていけるように努力いたします。或いは、他の物語を平行して書くのも良いですね。楽しみが二倍とは素晴らしい。修行の効率も高まりますし。
もちろんこの作品はまだまだ続きますので、これからもずっとお付き合いくださるようお願いします。
それでは、また会いましょう。さようなら。