逃避行 一
はじめまして。現実逃避の目的で小説を書く若輩者、林崎エセと申します。アクセスしていただいて本当にありがとうございます。
傑作と呼べる作品が仕上がりましたので、なれないインターネットにさらさせていただいた次第にございます。
私はあまり気分の良い気性の持ち主ではありませんし、作品にもそれは反映されております。それをあらかじめ釈明させていただきまして、それでもどうか、恐縮ながら、真剣に読んでいただけたら幸いです。
根本弘の一日は、洗面所の鏡を見て仰天するところから始まる。
なんじゃこの顔は!
あまりの醜貌に弘は腰を抜かしそうになるが、後ろへ飛んで緊急回避、鏡に対して防御姿勢をとり、こらえ切った。しばらく震え、そして決意を固めてからゆっくりと顔をあげる。
弘の顔は酷かった。不細工なんてものではない。もはや芸術だ。しかし、古今東西の芸術家がこぞって『醜い顔』というテーマのもと、十年がかりで創作したところで、これほどのものはできないだろう。それほどの大傑作だ。まさしく神より授かった醜貌と言える。
顔を洗い、朝食を食べてから、弘は洗面所に戻る。歯を磨く際、鏡を凝視してしまわないようにする努力はもちろん怠らない。自分の顔の醜さに呆然として、口の中の泡を飲み込んでしまい、鼻腔からシャボン玉を噴出したことがあるのだ。
着替えをして、中学校に着いて教室の戸を開ける。教室の中の者たちはそれに反応して弘の方を向いてから、悲鳴を噛み殺す様な表情をしてすぐ目を逸らす。こういう時、弘はこんな顔をしているのが自分で良かったと思う。だって鏡以外で自分の顔を見ることがないもの!
弘が通っているのは平均偏差値のなかなか高い私立中学だったが、別に難しい受験がある訳でも落体の制度がある訳でもない。ただ学費さえ納めてしまえば在学できる。弘はここで落ちこぼれており、教師から良く小言を言われていた。
そのことについて弘はこう考えている。まず自分は生まれた時から醜い。それはつまり、生まれた時から親兄弟にあまり気にかけてもらえなかったということだ。もちろん両親にそんなつもりはないが、弘の顔は本能に訴えかけるレベルの醜さなので、無意識のうちに弘から遠ざかってしまうのだろう。そして幼い子供が勉強するモチベーションと言えば、褒められたい或いは叱られたくないということだ。親に何も構ってもらえなかった弘は小学生の頃から碌に勉強せず、今現在落ちこぼれてしまっている訳である。
この考えは決して親に対する責任転移ではない。弘は、あらゆる不幸の元凶は自分の醜い顔である真実を、きちんと理解しているだけだ。そのはずである。
背後から弘への批評が聞こえてくる。教養に恵まれた女たちが語彙力と表現力を生かして弘の顔を酷評しているのだった。これを止めようと思えば簡単だ。適当な女の肩を掴みこちらを向かせ、この醜い顔を見せ付けてやれば良い。そうすればその女は弘に体を触れられたショックと顔に対する恐怖で泣き出すことは間違いなく、他の女たちも彼女を介抱するので必死になり、弘の顔が醜いという分かりきったことを論ずる余裕など無くすだろう。もっとも、弘は紳士なのでそんなことは決してしない。
いつもいつもこんな具合だったから、弘の性格は捻じ曲がっていた。人を信用せず、自分の殻に閉じこもって一人劣等感と戦う毎日。そして時々、弘は生きていることが申し訳なくなり、また時々、弘は世界が憎らしくなるのだった。
「おはよう、根本君」
天使の声がして、弘は振り返った。と、同時に天使は顔を背け、そして申し訳なさそうに弘の胸元あたりに視線を向ける
学校で弘に挨拶なぞしてくれる人間は限られている。弘に声をかけてそれで振り向かれでもしたら大惨事だからなのは言うまでもないかもしれない。
そんな中で、大宮渚という少女は弘におはようを言ってくれる。もちろん弘の顔を凝視しようとはせず彼の胸元ばかりを見てくるのだが、それは致し方がないことだ。
「根本君はいつも早いよね。おうちが近いの?」
「いいや、歩いて二十分ほどの距離だ」
とりとめのない話題を振ってくれる。そんなことが弘には慈雨のようだった。自分が女の子と会話できるのだ、この自分が!
大宮はまさに聖母のような女だった。慈悲深く優秀で、そしてなかなか可愛らしかった。モデルのような、とか、アニメみたいな、だなどと表現はさすがに当てはまらないが、弘にはむしろそれくらいが良かった。大宮が人間味を感じさせないような美貌であれば、弘はある種の不信を感じることだろう。
とにかく弘は、大宮のことを何より慕っていた。
「じゃあ恵まれているじゃない。あたしなんて汽車を乗り継いで来てるんだよ。毎朝五時半に出発して、七時十七分にこの近くの駅に着いて、そこから歩くの」
「そりゃ大変だな。でも大宮は頭良いから、少し無理してもこの学校に来る甲斐があるってもんだろう?」
そう言うと、大宮は微笑んだ。今のは自分の成績が悪いことの愚痴を、大宮に押し付ける形になってしまったのではないだろうか、そう考えると弘は申し訳なくなった。
「というか、親は送ってくれないのか?」
弘はそう取り繕ったが、これではただの詮索である。弘は口下手な男だった。こんな顔をして生まれてくれば自然と人と話す機会も少なくなるので、コミュニケーション能力が欠如してくるのも仕方がない。
「やだぁ。そんなのまるでお嬢様みたいじゃない」
「お嬢様ね……。でも出発が五時半だぜ、五時半。しんどくねぇ?」
「まあね。……でも、慣れるよ。汽車はラッシュだけれど、この田舎じゃ座れない程じゃないし、勉強だってできる」
「駅から酷く歩くんだろう?」
「深冬ちゃんが着いて来てくれるから、つらくない。ねえ」
大宮がそう言ったので、弘は彼女の後ろにも少女がいるのに気付いた。
更科深冬という女生徒だ。大宮の親友で、いつも後ろに付いているので、弘は彼女の名前を知っていた。
更科は弘の顔をまじまじと、後でデッサンしようとでも思っているかのように眺めていた。すげえ度胸だ。人間離れしている。
自然と、弘は更科と目を合わせる形になる。弘の眼球は裏返ったような有様だったが、更科は怯まなかった。
こういう時、弘はありがたいものを拝ませてもらっているような気分になり、同時に、言い知れない不気味さを感じるのだった。更科は今時の中学生にあり得ない様な無垢な美貌を持っている。弘の顔が醜さを追及した芸術なら、更科の顔は美しさを追求したものということになる。
「すまん更科。今気付いた」
言わなくても良いことを、バカ正直な弘は話す。更科は眉一つ動かさずに
「あなたは良いものを持っていますよねぇ。それ、私、欲しいですよぅ」
と訳の分からぬことを言った。
「もう、深冬ちゃん。人に何か言う時はちゃんと考えてからにしなさい」
姉のように、大宮は言った。
「大宮さん、どうしてこれと話しするですか?」
その言葉に邪気はまったくない。大宮は少し眉を潜める。
「良いさ」
弘は笑って
「更級。おまえこの間の模擬試験、一番だったな。おめでとう」
と言った。
更科は稀に見る秀才だった。いっそ天才と言っても良いくらい。その点においても、更科と落ちこぼれの弘は対極にいた。
「どうやったらあんな点数が取れるんだ?」
「本の内容を覚えるですよぅ。後、先生の話を聞きましょう」
「だめなんだ。それで点が取れるのは頭の良い奴だけだ」
「できないって思ってたら本当にできないよ。実を結ぶと信じて、ちゃんと予習復習をしなくちゃ」
大宮がそう言った。もっともだと弘は思う。
来年は自分も受験生だ。こんな顔の息子に学費を払って私立中学にいれてくれた両親の為にも、がんばらなければ。
という思いは、チャイムの音にかき消された。
勉強をがんばるといっても一時間目の授業が倫理ではどうしようもないではないか。というか中学生のカリキュラムに倫理などと格好つけるのが弘には気に入らない。道徳で良いや、道徳で!
「人は外見じゃないよな。大切なのはハートだな。例えば結婚相手だって、年収一千万以下の男は屑だと思っていて、ほとんど使わないブランド物を家に溜め込んでいて、少し気分を損ねると人の髪の毛を罵ってくる女なら、いくら美人でも御免だよな」
担任教師(確か工藤とか言ったか?)が人というものについて力説する。偉く例えが具体的だが、この更年期に突入しそうな担任は過去につらい思い出でもあるのだろうか。
弘は教師と目が合った。チョークを振り回しながら教室中の顔色をうかがっていた教師は、弘の顔を見た途端に一気に血の気を引かせ、『申し訳ありません!』と謝る様に教科書に顔を伏せる。そして「三十一ページ開け」と情けない声で言った。
左ページには高名な哲学者の顔写真と解説が乗っており、右ページにはその人物が書いた本の内容が要約され、絵までついて解説されていた。弘はその哲学者の顔写真に髭を生やしてやりたい衝動に駆られた。その衝動に身を任せることに何の躊躇いも無かった。
シャープペンシルを取り出したところで、弘はそれに気付いた。右側のページに張り付いている、小さな紙切れ。縦が三、横が四センチほどのそのコピー紙をさらって、弘は首を傾げた。こんなのを挟んだ憶えはない。
『あなたが願えば、私は人を誰でも一人、殺します。
赤が青を塗りたくるのが、その証拠です。
オウムガイより。親愛なる四人の聖者の一人、根本弘様へ』
誰だ、こんな幼稚な悪戯をしたのは。弘は思った。
ご丁寧なことに、これは手書きではなくワープロソフトか何かで製作されたものだった。筆跡を残さない配慮というなら、お笑い種だ。こんな紙切れ、誰かに公開してしまえば効果がなくなる。もしも誰かが殺された時、皆が弘を疑うことになるからだ。
もっとも、自分はこの紙切れを人に見せるつもりは毛頭ない。弘には、こんなくだらないことで話しかける相手がいないのだ。だからこそ、オウムガイとやらは自分にこの手紙を寄越したというのだろうか?
その時、本が閉じられる音が響いた。その方に向くと、肥満の女生徒が教科書を取り落としていた。教科書の傍には何やらプリントの切れ端のようなものが落ちており、弘はまさかな、と思った。
隣の席に座っていた更科が教科書と切れ端を拾って、肥満の女生徒に渡した。女生徒は更科に頭を下げ、落としたものを受け取る。
そして、途端にバカらしくなった。幼稚だのと思いながら、自分はこの紙切れに対して何かと分析しているではないか。それはなぜか、おもしろいからというそれだけの理由だ。何と低俗なことか。
弘は紙切れを畳んでポケットに仕舞った。後でゴミ箱に捨てよう、そう思った。
女生徒の方を見る。十条早苗。弘にしては珍しく名前を覚えていた。それはというと、十条の肥満があまり酷かったから、ではなく、数ヶ月前の出来事に起伏する。
一年生の頃、マラソン大会というのがあり、弘は町内を走り回った。学校に戻ると、そこにはうまそうなスポーツドリンクが走り終えた自分たちを労ってくれている。汗をかき、喉の渇いていた弘はしかし、先に出発した隣のクラスの奴らが混みあったので、ふだんから感じている人間に対する遠慮感から入り込むことができなかった。そこにゴールして来た女生徒はその巨体を生かして人垣を掻き分けて進み、二つのスポーツドリンクを手に戻って来た。そして片方を、決して目を合わせぬようにしながら弘に付きつけたのである。
弘は、おお、神よ! と天を拝んだ。どうして神は、この美しい心の持ち主に相応の外見を与えてくださらなかったのか。
疲れて帰って来た女生徒は、まず弘の醜貌に仰天し、それから気付いたのだろう。弘がスポーツドリンクを取れずに困っていることに。
その心の美しさに反して、女生徒は肥満で、顔にはにきびやそばかすが無数にあり、弘と比べれば大地が翻るような美貌だが、常人と比べるとやや不細工と言えた。自分が醜いのは自分の心の醜さにも起伏する、自分に相応しい外見がこれなのだ、というような考えを心のどこかに持っていた弘はこれが衝撃的だった。
弘の中では、美しい心の持ち主は、美しくなければならなかった。それは、顔が醜くとも心は綺麗、などと言って自分を慰めることを嫌った弘の理屈である。だが女生徒は真っ向からそれを破って来たのだ。
二年生に進級し、女生徒と同じクラスになって、弘は早速彼女の名前を調べたのだった。
弘が確信を持ってフルネームを諳んじめる女子は現在、大宮渚と、更科深冬と、十条早苗と……それから 柳沢佳織くらいのものではないだろうか。そうそう、柳沢だ。
柳沢は、今までの人生の中で弘が唯一、同類と定めた相手だった。柳沢はいつも同姓に取り囲まれ、言葉の暴力に晒されている。勉強に疲れたクラスメイトが求めたストレスのゴミ置き場、それが柳沢。
どうして柳沢がそんな目にあっているのかと言えば、それは彼女の外見に起伏する。彼女は真横から、或いは真下から顎の方を拝む形で覗けば、美しい少女となる。序列で言えば大宮以上更級未満と言った所だ。だが正面から見ると、目全体よりも下側に配置された眼球が、まるで墨汁を煮詰めたような鈍い光を放っていて、恐ろしく不気味だった。そのパーツだけ摘出すれば、弘のものに対して十分の一程の醜さを誇っている。なんという醜さだろう!
ちなみに言うと、男子に弘を取り囲んでその醜さを罵るような連中はいない。誰もが弘に一歩でも近付くのは御免だからである。だから男子がするストレスの解消と言えば、女子に苛められている柳沢を近くで眺め、それを嘲り笑うことだった。それも柳沢にとって気分の良いものではないだろう。そんな訳で、弘は自分の分の屈辱を柳沢に背負って貰ったような申し訳ない気分を抱えていた。
休み時間になると、最後尾の席に座る室長が弘のもとにやって来た。
「弘、これを見てもらえるか?」
そのように言われて、嫌だ、と答えるのははたして許されるのだろうか。そんなどうでも良いことを考えながら弘はその紙切れを受け取った。
『あなたが願えば、私は人を誰でも一人、殺します。
赤が青を塗りたくるのが、その証拠です。
オウムガイより。親愛なる四人の聖者の一人、碇本零人様へ』
碇本零人というのは室長の名前だろう。
「悪戯だろう? これなら俺のところにも来たよ」
「知っている」
「どうして?」
弘は首を傾げる。
「おれの席は最後尾なんだ。つまり、クラスのみんなが何をしているのか、分かるということだ」
碇本はにやにやとした笑みを弘に向けた。さすが室長、大した観察力である。
「それよりこれだ」
「だから悪戯だよ」
室長たる男がこんな悪戯に惑わされるなんて、弘はそう思った。
「悪戯だが、決して無視できない類だと思わないか? この紙はおれの教科書に挟まっていた、つまり机の中を勝手に荒らしたということだ」
「それはそうだが……」
「この手紙への返事として、誰それを殺してくださいと大声で叫び、黒板に書く輩が現れかねない」
「ちょっと待て……。大声で叫ぶ? 黒板に書く?」
「願うというのはそういうことだろう? このオウムガイというのはおそらくクラスメイトの誰かしかだろうし、何らかの手段でそいつに殺したい奴が誰か伝えれば、それで良い」
なるほど合理的な解釈である。
「でも、この手紙がそう何枚も出回っている訳じゃあ……」
弘がそう言うと、碇本は手招きをした。すると、距離を置いていた女生徒がやって来る。柳沢だ。
「彼女には既に話を着けてある」
「……ちょっと待て。いくら教室の最後尾にいるからって、どうして誰に手紙が回っているか分かる?」
「おれが確認できたのが、おまえたち二人だけということだ。……他にいてもおかしくないし、ひょっとしたらこの遊びはもう教室中、学校中に蔓延しているのかもしれない」
それはそうだ。クラスの爪弾きで者である弘にすら回ってくるとなると、この手紙は大分流行っているということにならないか?
「弘に柳沢も、この手紙には関与するな。黙っていてくれ」
「どうして、そんな必要があるんだい?」
人をバカにしたような声で、柳沢が言った。
「ボクが思うに。さっさと発表してしまえば、手紙の秘密性がなくなって面白みも消滅する。誰もこんな遊びしなくなるんじゃないかな?」
「そんなこと、クラスの威信に……」うろたえる碇本に、柳沢は
「ふん。こんな低俗な遊びが蔓延しているクラスに、威信も何もあるのかね?」
と両手を開いた。指を噛む癖でもあるのか、皮が被れて酷い有様である。
「待て、見ろよ」
と言って、弘は自分の手紙を取り出した。
『あなたが願えば、私は人を誰でも一人、殺します。
赤が青を塗りたくるのが、その証拠です。
オウムガイより。親愛なる四人の聖者の一人、根本弘様へ』
「この四人の聖者っていうのは、この手紙を持っているのが四人だというのを示していないか?」
「ふん。そんなことにはもう気付いている。だがこの手の遊びはいい加減で、四人の聖者が五人いたり十九人いたりするものだろう? 或いは、四人の聖者というのは一月ごとに再設定されるものと言う可能性もある」
「だが、聖者が本当に四人しかいない可能性もある」
碇本が言った。
「もう一人誰がこの手紙を持っているのかをおれは探ってみる。だから、おまえたちはこの手紙のことは忘れていてくれ」
なるほど、それが一番良いように思われた。
「それなら心当たりがあるよ、碇本」
「水臭いな。男同士、名前で呼び合わないか?」
碇本はにやにやとして言った。
「……零人。十条が教科書落としてたろ、その時、中から紙切れが飛び出していたのを、俺は見たんだ」
「ほう、それは気付かなかった。弘はなかなか観察力があるな」
「席が近かっただけだよ」
弘が言うなり、碇本は十条のもとへ歩いて行った。柳沢と弘の二人が残される。
「室長は肝心の可能性について何も触れていない」
柳沢が言う。
「何だ、そりゃ」
「このオウムガイに、本物の殺傷能力が備わっている可能性だよ」
弘は少し驚き、胸の辺りが潤うような感覚を覚えた。いけすかない印象を人に与えるこの柳沢も、話してみれば、少女らしくも非現実を欲しているみたいではないか。弘はつい笑顔になる。
柳沢は教室中を見渡した。皆、弘の方を避けている。当然だ。好き好んでこの醜い面を眺めようとするものなどいるはずもない。柳沢は首を振ってから「どうしてこんなことに気付かなかったのだろう」と嘆くように言った。
「なあ、君の傍にいさせてくれないか? 殊更に醜い君の傍にいれば、性悪達にボクの瞳を揶揄されることはない」
今度は、柳沢をオウムガイに殺してもらう考えが弘の頭を掠めた。もちろん、弘は紳士だからそんなことは絶対にしないのだが。
それから午前中の授業が進んでいく中で、オウムガイとやらは何の行動も起こさなかった。何の騒ぎ起こらなかったし、誰も殺されなかったし、『赤が青を塗りたくる』こともなかった。
もっとも、弘は初めからそんなこと期待しちゃいない。そりゃ、オウムガイという殺し屋が実在するというならば、弘は誰かしら指名して殺してもらうことを、まるで検討しない訳がないだろう。自分の心があまりまともではないことを、弘はちゃんと理解している。
オウムガイが動けば弘にとって邪魔な奴が一人いなくなるし、その日の学校も休みになる。つまらない授業がなくなって、家でテレビゲームにでも精を出せるという訳だ。こりゃ良いや! しかし弘が願ったことが実現したためしはないし、冷静に考えたところで殺し屋からの手紙が自分に届く理由などない。
給食のメニューは牛乳とコッペパンとシチューと、良く分からないハムやらレタスやらを使った料理だ。毒を仕込むならどれだろう、弘は無駄なことを考えて給食当番が食器やらを持ってくるのを待った。
「ねもとひろし」
舌ったらずな声は今朝聞いたものだった。
「何だ、更科」
机の隣に立っている女生徒に、弘は振り向いた。相変わらず端正な顔をしている。自分たちが並んだ様は、ちょうど美女と野獣といった趣だろうか? 否、更科は美女というより美少女で、美女は大宮あたりに相応しい。そして自分は野獣などと可愛いものではない。いっそ兵器だ。
「大宮さんの後ろを付けてください」
弘は大宮の方を向く。友人らしい女たちと何やら話をしている。弘は少し混乱した。
「どうして?」
「私があなたに頼むからです」
それでは分からない。
「お願いします、彼女を守ってくださいよぅ」
更科は深々と頭を下げた。短めの髪が落ちて、弘の肩に触れる。このまま放置すると何時間でもその体勢でいそうな雰囲気だったので、弘は要求を受けることにした。そっちが楽そうだったからである。
「分かったよ、おまえの言うとおりにする」
更科は笑窪を作った。
「ありがとうございます」
正面から美しい笑顔を拝ませてもらえたので、弘には礼など必要なかった。
ちょこちょこ歩いて、更科は大宮の隣で彼女の裾を引く。大宮が微笑んで振り返るのが見える。更科が何か言う、大宮は何度か頷いて、周囲の女たちに手を振ってから教室の出口に向かった。弘は慌ててそれを追う。
どうして自分はこんなことをしているのだろう、弘はそう思った。自分は今、大宮をストーキングしているものと同然だ。
こんな行い、許される訳がない。決してばれないようにしなければ。などと考えて、弘は気付かなかった。更科は彼女を後ろから見守ってくれと弘に願っていた。しかし言葉どおり後ろから大宮を守らずとも、すぐ隣に来れば良い話ではないか。
なるだけ自分の存在を人に気付かせないようにする習慣から、存在感を消すことは得意だった。それにもし大宮が振り返ったとしても、そのまま歩いて彼女を追い越してしまえば良いのだ。
結局、大宮は図書室に到着するまで弘に気付かなかった。弘は図書室でそこらの本を手にとって、机に座る。横目で大宮を観察することも忘れない。
大宮は図書室の教師に声をかけ、それから頭を下げると、図書室のパソコンをいじくり始めた。弘は、このパソコンは図書委員が仕事をする時に使うもの、という知識しかなかったが、それで十分に状況が分かった。大宮は図書委員の仕事をする為にここに来たのだ。
しかしこんな妙な時間に仕事をするなんて、どういうことだろう。更科が関係していることは確かだろうから、後で彼女に訊くことにする。
大宮はキーボードを叩き終えると、やや焦った調子で図書室を出た。今更気付いたが、今頃は給食の配膳がされている時間であって、弘としてもこんなことをしている場合ではない。本を片付ける時、図書室の教師がこちらをちらと見た。弘にはその訳が分かった。自分が手に持っていた本は『性犯罪のモチベーション』というものすごい学術書だったからだ。表紙からしてアダルティである。同級生に見られたら、自分のこの顔と相乗効果でとんでもない誤解を受けるに違いない。……というのはエロ本を買う度胸もない弘の考えであって、同級生の中には既に経験してしまっている者もいるので、そんなことはないのだが。
教室に戻ると、更科が大宮の給食の配膳をしていた。大宮はそれに気付いて、更科に「ありがとう」と礼を言う。更科は申し訳なさそうに俯いた。
見れば、自分の分の配膳も既に済んでいるではないか。更科がやってくれたのだろう。弘は更科に親指を立てた。更科は大きく両腕を振る。ヘリを発見した遭難者みたいだ。
「大宮、これを見てくれ」
碇本が大宮に近付く。自分から彼女に声がかけられるなんて、ハンサムで成績優秀で人望がある碇本がうらやましい。むしろ妬ましい。ていうか殺してやりたい。そんなことを思ったのは、弘にとって、大宮渚はもっとも重要な女性だったからだ。自分のことを差別しないだとか、自分のことを気遣ってくれるだとか、そんなことは関係なく、他に明確な理由があるかと聞かれればいくらでも言えて、そして確かに
弘は大宮渚に恋をしていた。
「君のお陰だよ」
言って、碇本はトロフィを掲げた。金色のでかい奴。
「おめでとう碇本くん。でも何度も言うけれどあたしのお陰なんてことはないわ」
碇本は大宮にトロフィを押し付ける。困ったように、大宮はそれを受け取った。
「いいや、君の協力がなければ企画そのものがあり得なかった。ありがとう」
大宮ははにかむように笑った。近くにいる生徒の誰かが二人に拍手をくれてやる。弘には何があったか分からなかった。自分の席に帰る碇本を掴まえて、尋ねてみる。人に対して遠慮のある自分に、なぜそれができたのだろう。弘は不思議だった。
「一年生の頃の自由研究でさ、植物の葉や根や花粉の持つ性質が、何にどう作用するのかを、実際に植物を育てて調べたんだ。その際、特別草花に詳しい大宮に協力してもらってね。お陰で賞がもらえた。たらい回しにされた挙句、今日、トロフィが返却されることになっていたんだ。それで、改めて彼女に礼をと思った」
ふうん、と弘は気返事をした。弘の自由研究と言えば、トカゲが一ヶ月の間にどれだけ大きくなるかというむちゃくちゃ簡単なものだった。だが碇本はかなり精密にかなり努力して植物について調べたんだろう。でもなきゃ賞なんて取れない。ご苦労なことだ。
「おっと。すまない」
碇本は思い出したように席に戻ると、皆に呼びかけて席に着かせた。弘もそれに従う。そして『いただきます』の合図。
シチューはなかなかうまかった。自分がオウムガイならこれに裁縫針でも混ぜるだろうと、物騒なことを考えた。
午後の最初の授業は体育だった。女子はプールで水泳、男子は運動場を様々な形式で走るというもの。
この炎天下で、自分たちだけが暑くしんどい思いをするというのは、男子にとって心地の良いことではなかったが、男女がプールでひしめき合うのも難なのでそれは仕方がない。ならばせめて球技でもさせてくれれば気が紛れるだろうが、陸上競技のカリキュラムが残っているのでそれを消化しなければならなかった。
女子の中でも、どんな汚い者(たとえば弘だ)が入ったのか分からないプールに漬かるのは嫌だと仰るお嬢様がおり、彼女らは泳がず見学するだけだ。見学の対象となるのはプールで泳ぐ女達ではなく、もっぱら男子生徒である。
「キャー!」
黄色い声が弘の耳朶を揺さぶった。百メートル走で碇本が十二秒前半の記録を出したのである。弘は地面に唾棄を飛ばした。ハンサムで、頭が良くて、室長で、それで運動神経まで良いとは、やはり碇本は殺意を抱くに相応しい男だ。
「相変わらずだな」
生徒の誰かが碇本に言った。「おまえは何でもできるよな」
「何でもはむりだけれど、」碇本は言って、「一度決めたことを確実に消化するのが、多くのことを成す否決さ。だから室長にだってなれた」
彼が言うとそれは釈迦の説法になる。弘は碇本に対する殺意を強めた。そして女子達の追い討ち
「カックイー!」
「尊敬しちゃう!」
「陸上部に入らないの?」
ほらほらこいつらの顔には極太のマジックで書いてあるぜ。『ああ、碇本君。あなたとしたいわ、今すぐ、ここで』弘は地面の砂を蹴り、舌打ちを繰り返し、天を仰いで「美形はいーよなー」と嘯いた。それを聞いた女子は一瞬、弘の方を嫌悪の目で見て、そしてすぐに目を逸らす。「ねえねえ、今週の土曜日にあたし達……」と碇本を口説きにかかった。
ちくしょう。こいつらの頭上に爆弾でも落ちてこないものか。
体育教師が弘に声をかける。「おまえの番だ」教師は誤って弘の顔を見てしまうも、そこは根性の座った体育会系。眉を顰めるだけでこらえ切った。はん、やるじゃねえか。
スタート地点に立つ。「よぅい、スタート!」声と共に弘は足を踏み出した。流れ行く周囲の景色など構っていられる余裕もなく、風を感じる情緒もなく、ただ一心不乱に体を動かした。
気品のかけらもなくたくましさのかけらもなく、この世で一番醜い頭を乗っけた肉の塊は、転がり込むようにゴールする。そして、彼の世界に光が戻って来た。少しの静寂が過ぎて
「十一秒六一!」
弘の記録が読み上げられる。無駄だと思いつつも、弘は女子たちの方を向かざるを得なかった。汚物か或いは大罪人を見るような視線。何あいつ化け物みたいな顔してるくせに空気読みなよ。弘は両手を掲げて、首を振った。
そうともさ。ヒーローの役はハンサムに任せておけ。自分はそのヒーローの物語を汚して歪めてめちゃめちゃにしてやるのだ。俺の運動能力は、その為にあるんだから。
誰も弘に何も言わない。褒めてやるなんて愚かなことをして、それで調子にのった弘に絡まれでもしたら、柔な生徒はまず発狂してしまう。だが十一秒六一という記録は奴らの脳裏に焼きついて離れないし、それは同時に、弘の醜さも奴らに叩き込まれることだろう。そして一生、俺の顔を思い出して震えるが良い!
そう思った時、弘の体に残った体温は徐々に冷めて、そして弘を狂わせるような自己嫌悪感と罪悪感が弘の心に発生する。そして叫びたくなる。俺はなんて卑しいんだぁ!
弘の運動センスは天才的で、週に何度かスポーツジムに通い、各種のトレーニングに励むだけで、あらゆる競技の記録を更新できた。だがあらゆることに無気力な弘が、どうしてジム通いを続けられるというのだろう。ちゃんとした理由がある。
もてる男と言うのは美しいだけではなく、たいていの場合、運動能力においても優れているというのは、弘にとって、統計に基づいた確かな事実だった。だから、弘は体を鍛えることをやめられない。
つまり、半端な記録を出して税に浸っているもてる男共のプライドを、この醜い俺が蹂躙してくれる! というのが、トレーニングを続けるモチベーションだったのだ。
もちろん、そんなこと、弘は知りたくない。弘の唯一の矜持は、自分は自分の醜さを認めるし、またそれを悪用したりはしない。行為だけは常に紳士でいる、ということだ。だから、自分は高僧なる自己鍛錬として、体を鍛えているのだ。そうだろう!
だがもちろん、真実は隠しきれないし、自分をごまかしきることはできない。
「弘!」
弘の肩に碇本の拳がぶつかった。碇本は無垢な笑顔をしていて、心の底から弘を祝福するようだった。女子の愛想笑いが聞こえてくる。
「すげえよ!」
その単純な文句は、弘にとって恐ろしく暴力的な言葉だった。だが弘は、碇本の背後に光の射すのを感じた。弘は碇本の靴の裏にキスをした。もちろん、想像の中で。
「ふむ。天は二物を与えずというが、君の運動能力は、君が醜いだけに与えられたのかな?」
その時、冷めた金属を連想させる、抑揚のない声が弘の耳朶を打った。
「だとすればボクにも何かしか才能が備わっていないと不公平だというものだ。それとも神は醜さという十字架の重みを軽視しているのかもしれない。君くらいの顔でないと、神はそれとつりあう様な才能を与えないのだろうか」
碇本に黄色い声を浴びせていた女たちの隣。同じく見学中の柳沢だった。
柳沢。おまえは俺たち醜い者の中では一番楽だろう。だがしかし、おまえは自分の瞳の醜さを後生大事に抱え込むことになる。その重みから数刻でも開放される素晴らしい時を、おまえは絶対に味わうことができない。
「大宮。なあ、大宮を呼んでくれ。弘がすげぇ!」
碇本が女たちにそう言った。女たちは碇本だけを見て、そしてプールの方を向く。
大宮だって? 弘は、やめろよ照れ臭い! と叫び出しそうになった。だが、心の何もかもが軋轢している今の弘にはそんなこともままならない。
「なあ、大宮。弘が」
白い顔をした大宮がこちらを向いて
そして
「ギャアァーッッッ!」
空気を微塵切りにするかのように鋭く、爆風を起こさんばかりに巨大な、刹那の悲鳴がプールから運動場に響き渡り
大宮の口から、おびただしい量の赤いものがまるで泉のように溢れ出し、そして堰くような断末魔を上げた後、彼女はくすんだ青色に沈んでいった。
「ひぃいい!」
大宮の近くにいた女が彼女から飛びのく。青いプールに広がる血と吐瀉物から逃げ惑った。
「嫌だぁー!」
プールから上がれ。赤色がプールを染め上げて、自らを汚すより前に。
「気持ち悪いよぉ!」
「助けて、早く引き上げて!」
阿鼻叫喚の地獄絵図だった。血の池が波紋のように形成され、女生徒達を襲う。彼女らは命を賭すような勢いで逃げる、逃げる、逃げる。
「あんた何すんのよぉおお!」
誰かが誰かの足にしがみ付いた。誰かが誰かを蹴りまくる。しかし誰かは足から離れようとせず、必死でしがみ付いている。「うわぁああ!」二人は共にプールへ沈んで行く。誰かが誰かを打った。打ち返そうとした誰かは気付く、そんなことをしている場合ではない。いつどんな汚い物がここに漂ってくるかもしれない。それは真っ赤な血かもしれないし、胃の異物かもしれないし、或いは吐き出された臓物かもしれない。
「落ち着きなさい!」
プールの外にいた女教師がそう叫んだ。彼女は手に、タオルなどを干す長い竿のようなものを持っていた。
「みんな、落ち着いて。冷静に、プールから上がって」
「みんな上がっちゃったら、先生はそれからどうするですか? 大宮さんを、それで掻き出すですか?」
皆がプールの外か端にいるこの状況で、中央付近に立っている少女がいた。
その美しい少女、更科は、細い腕で醜く赤い水を掻き分ける。すると、赤色はプールの端へ端へ拡散して行き、女生徒たちを襲った。悲鳴。混乱。
だが、更科は分かっていた。この大きなプールが、人間の血だけで赤く染まりきることはないと。だから、彼女を見付けるのは簡単だ。青いプールの極一部分、赤いところを探って、体の一部分にでも触れてしまえば。
「大宮さん。もう大丈夫ですよぅ」
更科は意識を失った大宮を引き上げ、そして強く抱擁する。それは、失った半身をこの身に取り戻す為の行いのように見えた。