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知らぬ訳にはいかない大東亜・太平洋戦争

零(ぜろ)からの挑戦

大東亜(太平洋)戦争終結80年慰霊作品。

皇紀2600年(昭和15年)
それは零戦が海軍航空隊に採用された年である。折しも大東亜太平洋戦争開戦1年前の事であった。この日本海軍航空隊の至宝とも言える零戦の開発をしたのは二人の若い設計者であった。この物語はそんな二人の若き設計者の血のにじむ様な努力により掴んだ栄光と挫折に満ちた激動の時代を生き抜いた波乱万丈の物語である。

追悼・故堀越二郎氏(1903年〜1982年)
三菱重工名古屋航空機製作所の技師として零戦を開発した。昭和36年からは技師長として活躍し、その後は防衛大学校や日本大学の教授として若人に教鞭をとった。零戦開発の設計主務者として数々の無理難題を乗り越えて零戦を名機として完成させる。そんな堀越氏であったが、そんな彼も零戦についてはそれ程高い評価を下していた訳では無かった。

追悼・故曾根嘉年氏(1910年〜2003年)
堀越二郎氏の右腕として零戦開発を支えた曾根氏は、目立ちたがりではなく、コツコツと自分の課題を見つけてはそれを、淡々とこなして行く人であった。全くのゼロに近い当時の航空機技術力しかなかった日本ではあったが、零戦の成功のお陰で、日本人も技術力がある事を世界に証明した。その経験が無ければ、現在の日本の航空機開発競争も無かったであろう。曾根氏の功績は非常に大きい。

開戦後敵無しの無双ぶりを発揮していた零戦と日本海軍であったが、次第に米軍に研究されてきて、思うように戦えなくなっているのを現場の兵士達は知っていた。零戦の登場は華々しかったが、次第に坂を転げ落ちる投石の様に、悲惨な最期が待っているとは知らず今日も敵を撃ち落とす為に、太平洋へと零戦は飛び立って行った。
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エピソード 101 ~ 121 を表示中
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