■シーンⅡ 狩霊-Syuryou-
暗い路地の奥で、氷が砕ける音がこだまする。
夜闇の淵より昏い眼差しの少女が、氷と共に砕けたモノを見下ろしている。
「馬鹿が。つまらん口上を待ってくれるのは、フィクションの中だけだ」
――――嘲笑。
名門大学附属中学の制服を僅かも汚さずに獲物を仕留めた狩人は、身長と大差ない大きさの刀を軽々と振り回し、袋小路へとネズミを追い詰め、表情一つ変えずに命を刈り取った。
椿にとって屍ですらないNOISEなど、羽虫と戯れる猫の感覚で狩れる獲物に過ぎなかった。
彼女の獲物は、近隣の街に住む一般人のみならず、討伐任務に当たったソルジャー部隊にさえも脅威をまき散らす存在だった。二足歩行をする大型の獣に似た姿をしており、鋭い爪と複数の角で以て、幾人ものソルジャーを葬ってきた危険なNOISE――だったのだ。
少なくとも、やむを得ず駆り出された椿に、標的として定められるまでは。
化物じみた肉体強化の力と驚異的な回復力によって、他者を寄せ付けない絶対的な強者の立場を確立していたNOISEは、単身立ちはだかった小娘を獲物だと誤認した。それが、運の尽きだということなど知る由もなく。またも一方的な狩りの始まりだと、愉悦の笑みさえ浮かべた。
NOISEの元に送られてきたソルジャー部隊は、近隣支部に所属する末端職員だった。それが本来は当たり前で、対策本部直属の戦闘員が派遣されるのは稀である。そんな、組織の裏事情など知る由もないNOISEにとって、目の前の少女は満を持して駆り出された精鋭ではなく、ついにろくな人員もなくなった管理局が寄越した、哀れな生贄に映った。
「なんだァ? 今度の獲物はこんなガキかよ」
品定めするような不快な視線が、ほぼ真上から降り注ぐ。
その視線に晒されただけで震え上がる隊員もいたが、椿は光のない目で見つめ返すのみだった。それを強がりと判断したこともまた彼の大きな過ちだったが、いまとなっては無意味なことだ。
「あーあー、つまんねえなあ。散々ザコ狩りした結果がメスガキのお守りとは。これじゃあ狩りを楽しむヒマもありやし……な、……ッ!?」
余裕の台詞は、彼を襲った衝撃が遮った。
いったい、なにが起きたのか。見せつけるように翳していた鋭い爪を帯びた腕が、肘から綺麗に消えていた。斬られた自覚すらもなく、一瞬で。
「そうだな。残念ながら、狩りを楽しむ暇はなさそうだ」
ぞわりと、背筋を悪寒が走ったのを感じた。
少女が、ではなく。NOISEが。圧倒的強者であるはずのNOISEが恐れた。
恐れた。あんな子供相手に。恐れた。恐れた。恐れた?
視界の端に映る自分の手が、命を刈り取る武器であるそれが、小刻みに震えている。そのことを認めたくなくて、NOISEは咆哮をあげた。手負いの獣の細やかな抵抗でしかないそれは、椿を僅かも怯ませることはなく。
「抵抗くらいはしてみせろよ。あたし、弱い者イジメは趣味じゃないんだ」
低く平坦な声に呼応するかの如く、周囲の気温が下がっていく。空気中の水分が凍り付き、光を反射して煌めいている。
精神的な悪寒だけでなく、肉体的にも寒く冷たい。獣の毛皮などではどうにもならないほどに。歯の根が合わない、実に不快な音が自分の口元から響いているのを彼は痛感していた。気付けば、肘からの出血は止まっていた。皮肉にも、彼女の絶対零度の氷によって。それが彼の寿命を僅かに延ばす羽目となってしまったのは、きっと不幸でしかないのだろう。
「ッざけるなァアアア!!!」
咆哮と共に振り下ろされた爪は、椿の振う刀によってあっさりと防がれた。鞘も刃も柄も全てが白一色の、氷で打ったかのような刀だ。
ギィン、と耳障りな金属音を伴ってはじき返され、NOISEは目を瞠った。
フェイントもなにもなく真っ直ぐに、ただ愚直に上から殴りつけるだけの攻撃など当たるはずもないのだが、最早その程度の思考さえ奪われていた。攻撃の力を利用していなしたあとの返す刀でいとも容易く残りの腕も切り落として。吹き出すはずだった血は、無慈悲な氷にせき止められた。
「クソ……ッ!!」
直後、本能が鳴らす警鐘に従い踵を返して逃げだした獣の背を、椿はつまらないものを見る目で暫し見送った。
「クソックソックソッ! メスガキの分際で、巫山戯やがって!」
――――何故こんなことになったのか。
人間だった頃は、誰もがNOISEの男を下位の存在と見做し、侮り、無視するか、或いは嘲笑してきた。オタク。金づる。サンドバッグ。足係。それが男の代名詞だった。群れるしか能のない馬鹿ばかりの大学では自分のような崇高な頭脳の持ち主は迫害されるものだとわかってはいたが、無能な輩に付き合わされるのは楽ではないと、迫害されながらも周囲の全てを見下していた。
そんな退屈な人生に転機が訪れた。都内で唯一、深淵接続が試せる漫画喫茶。其処で深淵接続を試みたとき、男の鬱屈とした世界が開けたのだ。
ログインした直後、目の前にどこからともなく少女のアバターが現れて、男に《銀の靴》を一つ手渡した。誰が操るアバターかは知らないが、深淵接続で使用するなにかのアイテムだろうと思い受け取った。男が手に取った瞬間、それは無数の英数字群と化して男を包み込み、抵抗の間もなくするりと入り込んできて、そして。
『ガッ……! ァ……?』
普通であれば脳を破壊しても可笑しくない情報の群が、一瞬で脳内に叩き込まれた。深淵接続の最中でありながら激しい頭痛と吐き気、目眩に襲われ、椅子に固定されている男の体がガクガクと痙攣している。電脳空間に潜り込んでいる男の精神体もその場に蹲り、吐き気を耐えるように肩で大きく息をしていた。
それから、どれほどの時間が経ったのか。次に男が顔を上げたときには、謎の少女のアバターは何処にもいなかった。だが、そんなことは最早どうでも良かった。胸の奥から沸き立つ高揚感と、圧倒的な全能感が男を支配していた。やはり自分は優れた存在だったのだと確信した。
衝動のままに駆け出したい気持ちを抑え、男はまず深淵接続を解除して自分のスマートフォンを見た。案の定、其処にはこれまで男を金づるとして使ってきたグループからの呼び出しがあった。
『キヒッ……ヒヒッ』
口角が歪につり上がるのを感じながら、男は過去の惨めで無様なサンドバッグ役であった自分を演じて、怯えるふりで承諾した。メッセージツールで良かった。通話だったら声に笑いが滲み出てしまっていただろうから。
件のグループの男たちは、いつも人気の無い路地裏にある廃店舗を遊びの舞台に選ぶ。其処なら扉に鍵がかけられる上に表通りから離れているため、どれほど泣いても、叫んでも、お節介な人は現れない。それはつまり、NOISEの男にとっても好都合だということ。
おどおどと怯える演技をしながら現れた男を、ニタニタ笑いながら複数の男が取り囲む。誰もが派手な身形をしていて、ギラつくアクセサリが耳や指や首元で輝いている。
『オタク君、わかってるよね?』
正面に立つ、リーダー格の男が手のひらを見せてなにかを催促する。
『オレらのお友達代、今月まだだっただろ?』
『う、うん……いま払うから、だから……』
『はい時間切れー! ぎゃははっ!』
怯えながら財布を出そうとした男の頬を、ガツンと衝撃が襲った。シルバーの指輪が輝く拳が、不格好に振り抜かれている。以前は恐ろしくて仕方なかったその痛みも、いまはなにも感じない。こんな連中に怯えていたのかと思うと、可笑しくて仕方なかった。
『へ、へへ……』
『はぁ? なに笑ってんだコイツ』
『怖くて壊れちまったんじゃねーの? このキモオタにヤクやる度胸はねえだろ』
『だよなぁ。つーかキモいから笑ってんじゃ――――』
黙らせようと振り上げた手が、恫喝の語尾が、不自然に途切れた。ゴトリという重い音がして、それから、ゴロゴロとなにかが転がる音がする。先ほどまでニヤニヤ笑っていた派手な男たちが、凍り付いたように固まった。どれもこれも、揃って間抜け面だ。
『は……?』
殴りかかろうとしていた男の右腕と頭部が、床に転がっていた。半笑いの瞬間に切り落とされた首が、不格好な表情を張り付けたまま、天を仰いでいる。
男たちは、暫くなにが起こったか理解出来なかった。理解出来るはずもなかった。
あのオタクが、反撃するどころか、反論することすら出来なかった弱者のオタクが、自分たちに刃向かうなどあり得ないのに。足元に転がっているのは、紛れもなく仲間の一人で。
『お友達代、払ってほしいんだろ? なあ! なあ! 友達なら遊んでくれるよなあぁ!?』
『ヒィッ!』
顔を上げた男たちは、目尻に涙を浮かべて震え出した。
耳までつり上がった口、肥大化した腕に、獣のような爪、頭部から生える無数の角と、暗灰色の毛皮。見る間に膨れ上がっていく体は、貧相で惨めだったオタク男の名残など欠片も見られない。
現実にあり得てはならない化物の存在に、男たちは引き攣った声を漏らして尻餅をついた。黒いスラックスの股間が、じわりと変色する。
『うわあっ!』
殆どが動けずにいる中、一人が仲間を見捨てて逃げようと扉に駆け寄った。
『だめだろ? お友達を見捨てたりしたら。お前ら、いつもつるんでる仲良しだもんなぁ?』
『ぎゃぶっ!』
男の背中から胸へ、獣の腕が貫通した。貫かれた男は一度大きく痙攣して、そのまま息絶えた。獣は死んだ男を人形劇の人形のようにぶら下げたまま、逃げ遅れた男たちに向き直った。
『お前らがしてきたように、今度は俺がお前らを支配してやるよ』
乱暴な幼児が人形にそうするように、手足を千切り、首を引き抜き、胴体を絞り、放り投げて、踏みつけて、叩きつけて、何度も何度も叩きつけて、叩きつけて。原型が失われて、漸く遊ぶ手を止めた。廃店舗内に、獣の荒い息遣いだけが響く。血に塗れた壁と床、そして天井が、埃を被って薄汚い灰色になっていたことも忘れて、鮮やかな赤一色の化粧を纏っている。
それから、死んだ男たちのお仲間やセフレの女たちを呼び出しては蹂躙してきた。金づるの男が居場所を知っていると言えば、ちょっと遊んでやるだけで吐くだろうと思って会いに来るのだ。
さすがに殺しすぎて管理局とやらに見つかったときは焦ったが、ソルジャーなどというわりには大した使い手はいなかった。誰も彼も男の再生力を超えられず、惨めに死んでいった。
もう、なにも恐れるものは無い。この力があれば何だって壊せる。支配できる。不安も恐怖も、全て克服した。全ての弱者を支配できる。
そう、確信したのに――――
「逃げろ。逃げなければ死ぬぞ。逃げても殺すがな」
極地の冷気が、背後から迫るのを感じた。
強者であったはずのNOISEが、惨めなネズミのように薄汚い路地を駆け回る。出血はない。彼女の氷が未だ張り付いている。逃すまいと爪を立てられているかのように。傷口に痛みもない。凍てついた切断部付近は最早何の機能も持たない肉の塊と化していた。
驚異的であったはずの再生力を上回る強靱な氷が、彼に僅かの修復も赦さない。
「ざけんな! 俺は……俺は支配者になったんだ! 群れるしか能のないバカ共も、バカに群がるバカメスも殺してやった! 俺が正義だ! 俺が……ッ」
「支配者を名乗るには、頭も能力も弱すぎだ」
その言葉を彼が認識出来たかどうか。次の瞬間には、NOISEの全身が氷に包まれていた。
趣味の悪いオブジェのようなものが路地の奥で形成され、そして、無慈悲に砕かれる。
「……屍化はしないか。なにか条件でもあるのか……?」
一つ息を吐き、後方支援部隊、隠の要請を送る。十数人の命を奪ってきたNOISEは、今後は研究所で何らかの役に立つことだろう。
「ゲルダ様。途中に落ちていた腕を拾ってきたのですが、落とした部位は以上でしょうか?」
到着した隠の隊員が、丸太のような腕を二人がかりで持ちながら声をかけてきた。
腕の切断面には氷が張り付いており、断面側を抱えている隊員が寒そうにしている。
「ああ、悪い。拾っておけば良かったな」
「いえ、これも仕事ですから。あとはやっておきますので、ゲルダ様は先にお戻りください」
リーダー格の証である白い狐の半面をつけた男がそういうと、黒い狐の面頬をつけた隊員たちが一様に直立の姿勢で胸元へ拳を当てる格好を取った。下位から上位への敬礼――心臓に誓い、命をかけることを意味するこの礼は、何度受けても慣れない。
「わかった。頼んだ」
「畏まりました」
隠たちに見送られつつ、夏の熱気を纏いながら、一人帰路につく。明日もまた死者を保つために地下へ潜り、死者たちの寝室を氷で満たす。たとえまともじゃないと言われても、死は常に生者の隣でじっと邂逅を待っているのだから。




