『話す者』
さあ、皆様がご正気でいらっしゃるのはここまでです。というのもわたくしが今宵ご披露するのは不思議も不思議、奇怪も奇怪、ある魔性に出逢った者の末路、あるいは惑溺させられた悲しくも嬉しく、恐ろしくも可笑しなお話でございます。如何に空想物語に慣れ親しんできた皆様とて聞けば惑い、聞き終える頃には正体不明になっておりましょう。回れ右したくばご自由にどうぞ。途中退場したくば御引止め致しません。さて、どこからお話ししましょうか。
「嗚呼、迷ってしまったなあ。また迷ってしまった」
闇の奥に潜む者に語り掛けるように、男は独り言ちた。子の行儀の良さに目を光らせる母に言い訳でもするような調子で呟いた。先ほどまで背後についていた街の灯は遠く離れ、空の縁に微かにかかるばかり、頭上で忠告するように瞬いていた星明かりも木の葉の合間に朧気で、そんな深い森の奥に男はいた。歩いていた。春のように若くもないが秋のように老いてもいない。人生の半ばも迎えていない男だ。生来の怠け者ではないが、今を生きるために最低限の仕事しかしていなかった。かつては山を庭に駆け回り、渓流を物ともせずに泳ぐような子供時代を生き抜いた逞しい男だったが、今は枯れ木のように痩せ細っている。
男の霞んだ声に応える者はいない。さりとて夜闇の向こうには確かにこの森に棲んでいる者たちの気配がある。風を弓に掻き鳴らす葉擦れの音に、柔らかな土をそっと踏みつけて駆け抜ける音、急かすように連なる獣の吐息の歌。森に潜む者どもはぶつぶつと呟く男の声を遠巻きにしつつ、しかし離れすぎることなく塑像でも眺めるように男の様子を窺っている。
「困ったなあ。これは困った。どうしたものか。どうしたものかなあ」
森に迷っているという言葉とは裏腹に、男の足取りは確かで、勝利を信じる軍勢のように闇も正体不明の気配にも動じることなく突き進んでいる。それでもやはり男は道に迷っている様子で、同じ場所を長い時間かけてぐるぐると回っていた。
「おや、そうかい?」と男は独り少しばかり声を上擦らせる。喜びを抑えても零れ出るという様子だ。「こっちに行けばいいのかな?」
そう言って、行く方向を変えるが、それでも男は同じ場所をぐるぐるぐるぐると大きく回り続ける。ふと、朧気な明かりが木々の奥に現れた。営みの灯が輝き、炊事の煙が揺蕩っている。男もその明かりを視界の端に捉えているが意にも介さず、それでもやはり男は森を迷い続けた。
「こっちかね? そっちかね? 悪い悪い。方向音痴というやつかな。いつからだって? どうだったかな。呆れたかい? 拗ねないでおくれ」
男はただひたすらに歩き、闇に話しかけ、確固たる足取りで迷い続ける。人肉か腐葉土か知れない感触を踏みつけても、濡れた手か温い風か知れない感触に首を触れられても、構わず気にせず歩き続ける。まるで夢の中を歩いているかのように男は呆けたような表情を浮かべ、声を弾ませ、どこにもたどり着かない歩を進める。
が、唐突に男は立ち止まり、首を傾げ、耳を澄ませた。男とは別の声が聞こえたのだ。獣や鳥や虫でもない。風や葉擦れや魔性でもない。確かな人の声に、むしろ男は身を震わせ、恐る恐る近づいていく。
木々の奥へ慎重に歩み寄り、藪の向こうを覗き込む。と同時に悲鳴を聞く。しゃがれた悲鳴の主は男よりも一回りか二回り年老いた男で、杖を突いている。余りの多い衣を着て、鼻孔をさするような刺すような香りを放っている。
「おや、あんたは街の薬師さんじゃないかね?」
男が問いかけると、老人はほっと息をつく。
「そういうあんた様は誰かね? あたしを知っているということは丘向こうの郷里の者かね」
「そうだよ。漁師をやってる者だ。今は山魚を売った帰りだが。どうやらお疲れのようだ」
「然様。その上、道に迷い、夜も更け、足をくじいてしまった。あんた様の郷里へ行くところだ。肩を貸してくれるかね?」
「お安い御用だ。さあ、思う存分使っておくれ。もはや背負うもののない軽い肩だ」
男は薬師の老人に肩を貸し、森を行く。その足取りはやはり確かで、迷いはない。
「こう暗くては敵わんな。いつの間に道を外れたのか」と老人はぼやく。「お前さんはこの暗闇で道が分かるのかね?」
「もちろん。がきの頃から走り回った野山だよ。目を瞑ってたって好きなところへ行けるものさ」
「それなら良いが。目は開けておいてくれよ?」
男の先導で二人は闇に塗り潰された森を進み、東西に横たわる丘を回り込み、ぽつりぽつりと今灯されたかのように郷里の明かりが見えてきた。丁度森も抜け、燃え立つような月と星に二人は照らされる。
「どんなもんだい。木々も起伏も頭の中にしっかり入ってるからね。最も疲れない距離を行くのも簡単なもんだよ」
老人はまじまじと男を見つめた後に頭を下げる。
「すまないね。疑っていたわけじゃないが、だがあんた、あたしに会うまで道に迷ってやいなかったかい? あんたの声が聞こえたが、誰かと話しているように聞こえたな」
男は老人の皴を数えるかのように見つめ、溜息をつく。
「嬶と、僕の妻と話していたんだよ」
老人はちらと振り返り、真っ暗な穴が空いているかのような森を盗み見る。
「あんたは独りだったんだろう?」
「いいや」と言いつつ男は観念したようにはにかむ。「……ああ、そうだ。だけどね。声が聞こえるんだよ。嬶の声が。僕が迷っていると、特に道に迷ったりしていると。こっちだよ、あっちだよって声が聞こえるんだ。どんなに遠く離れていても聞こえる。その声に従えば間違いないって寸法さ」
「間違いないなら迷わなかろう?」と老人は問うが男は照れ臭そうに笑うばかり。老人は唸るような声を漏らし、何かを思い返すように考える。「あんたはミラスキウレに巡り合ったのかもしれないね」
「何だい? それは」
「魔性だよ。人に話しかけて、その内容は多岐に渡るが、得てして聞いた者は惑わされる。同じ場所をぐるぐると迷わさせる」
「おかしな魔性がいたもんだ。一体何が目的でそんなことを?」
「それについては、あたしが昔、ある漁村の夫婦に聞いた話があるんだが……」そう言って薬師の老人は語り始めた。
ある海のそばの漁村に一人の女が住んでいた。特別なところのないありふれた海の女だ。村の男に嫁ぎ、愛と情と従順さで夫を支えて生きていた。海に生きる者として泳ぎは上手いが、漁をするのは村の男たちで海の女の仕事というと船を掃除したり、網を繕ったり、獲れた魚を加工したりだ。女は夫と喜びも悲しみも分け合って、不満や愚痴をぶつけ合って、仲睦まじく暮らしていた。
しかしある日、夫は漁に出た切り帰らぬ人となってしまった。それもまた、海辺に生きる者たちにとっては珍しくもない話だがその女の悲しみはいかばかりか。夫を失った当人の悲しみは海も野原も関係なく深く暗いものだった。
寡婦となった女は生きる傍ら海辺で祈りを捧げる日々を送った。海の神の怒りを買ってしまったのなら鎮まるように、お調子者だった男の冥福を願うべく、寄せては返す波のように海風に掻き消える祈りを絶やすことなく続けた。
夫が海に消えてどれくらい経った頃だろうか。女は砂浜に跪き、目を瞑り、日々の変わらぬ祈りを唱えていた。が、唱え終える前に目を開き、水平線を眺め渡した。
「あんた? あんたなのかい?」
昼も過ぎて、潮風の吹き荒ぶ海には船一つなく、当然人っ子一人いない。だが女には確かに夫の声が聞こえた。随分と耳にしていなかったが、忘れるはずもない調子は良いが掠れた声だ。
「ねえ、もっかい声を聞かせておくれ。……嗚呼、あんた。その潮風に嗄れた声、忘れやしないよ。いったいどうして声だけで帰って来たんだい?」
女が辛抱強く待っていると、やはり女の耳に返事が届く。声を聞く限りは元気そうだ。とても死人の声には聞こえない。とはいえ、他の誰もと同様に女は死人の声など聞いたことはないが。
「そうだよ。あたしは生きてるよ、もちろん。海辺で祈りを捧げていたらあんたの声が聞こえたんだ。一体全体どういうことなのさ」
塩辛い風と共に届く声と女は会話する。
「冥府、から? いつから海神様はそんなに気前が良くなったの? ともかくあたしは嬉しいよ。声が聞こえるだけでも祈りを捧げ続けた甲斐があるってものだよ」
それからの日々を寡婦の女は新妻のように生きた。短い死別が終わり、新たな日々を生きることに喜びさえ感じた。働く合間に海辺を訪れ、姿のない夫と言葉を交わした。一人で生きる辛さが吹き消されたわけでもないが、夫の声に支えられて生きた。迷えば相談し、迷っていなくとも相談した。欲を言えれば声以外も全て返して欲しかったが、欲張って海神様を怒らせるようなことになって、冥府から漁村に通じる声の秘密の通り道を塞がれては困るので決して口にはしなかった。
当然、村の者たちは夫を亡くした女の頭はおかしくなってしまったのだと考えた。だからといって日々の働きに文句の付け所はなく、幻聴でも夫の声に支えられているのなら、同情はすれども二人のお喋りに水を差そうとは誰も思わなかった。
だがある日、砂浜で泣き崩れている女を、最も親しい友人が見つけた。涙と洟で顔をぐちゃぐちゃにし、声を枯らして泣く女を友は家へと連れ帰り、落ち着くのを待った。
「一体どうしたの? 幼馴染の私にも話せないってことはないんでしょう?」
友が尋ねると、女は訥々と事情を語り始めた。夫が死に、その声が聞こえたところから始まり、件の話へ。
「それであの人が言ったの。まだ若い身空なんだから再婚しろって」
幻の夫の声に言われなくとも、女が落ち着いたらその話をしようと漁村の皆は考えていた。幸い若い独り身の男はまだ何人かいて、同情がきっかけかもしれないが女に思いを寄せている者がいた。
女の友は、しかしその話をするのはまだ先だと口を閉ざし、辛抱強く女の話を聞く。
「そんなつもりはないって言い返したの。言い返しちゃったの。考えてみれば、あの人に言い返すなんて初めてだったかもしれない。でも、あたしは、あたしにも譲れない事はあって……」
そんなものは時間の解決する問題だろうと女の友は心の内で思う。一方、昔から強情なところがあったな、と思い返しもする。
「言い合うことはあっても、あの人の勧めは、あの人の決めたことで、でもあたしはこうして話をできるあんたを知らないふりなんて出来やしないって言ったんだ。そしたら、そしたら……」
次の日から返事をくれなくなったのだという。女は夫が当てつけにやっているのだと涙声で訴えるが、友人には何も言えなかった。そもそも女の夫はもう死んだのだから。夫が話さなくなったのではなく、女が聞かなくなったのに違いない。それはこれから真っ当に生きるならば僥倖だ、と女の友は考えた。
女の日々の営みは夫と死別した直後へと戻った。つまり生活の合間に砂浜へ通って、祈りを捧げる日々だ。少し違うのは夫の返事がなくとも、海に話しかけ続けたことだ。
時間による解決は見られなかった。女がそれほどに深く夫を愛しているとは誰も思っていなかった。女自身でさえもだ。あるいは最後の言い合いのために意固地になってしまっているのかもしれない。それは女にも分からなかった。
「あれはミラスキウレっていうらしいわ」
季節が移り変わった頃、ある日の昼過ぎ、女たちで舟歌を歌いながら網を編んでいた時、女の友人が囁いた。
「あれって?」と女もひそやかに尋ねる。「ミラスキウレ? 何の話?」
「海辺であんたに語り掛けていた魔性よ。前に村にやってきた神官様に聞いたの」
「魔性が何だってあたしのことを揶揄うのさ」
「知らないわ。だけどその神官様はミラスキウレについてよくご存じだったのよ」
そういうと女の友は又聞きした話を語り始める。
ある山を根城とする賊がいた。神聖さから遠く離れた男と高貴さに縁のない女の間に生まれた男だ。賊は苦痛と悲嘆、そして罪悪に塗れた人生を送っていた。腐ったものでなければ盗んだものを食べ、泥水を啜るか奪った酒を舐め、愛も喜びも知らず、欲望と恐怖だけが荒れ狂う人生の指針だった。
しかし賊にとってはそれらが日常であり、初めから終わりまで決まりきったことだった。賊がまだ物心つくかつかない頃に盗むことや傷つけることを教えたのは世間様で、教えられた通りの生き方をしているまでなのだ。
ある日、賊が仕事もそこそこに山の奥に身を隠し、枝葉の天蓋の下、微睡みに耽っていた時、声を聞いた。誰だか知らないが、人の塒に押し入ってこようとは図々しい奴だ、と賊は憤り、いつ手に入れたのかも忘れた錆びついた曲剣を取ると錆びついていない鋭い眼差しで声の主を探してまわった。が、誰も見つからなかった。それでも声は聞こえ続け、疲れ果てた賊はようやく声に耳を傾ける気になった。
「一体何を言ってやがんだ?」
知っている言葉を話しているのだが、生来他者の言葉に耳を傾けて来なかった賊は意味を聞き取るのが難しかったのだ。それでも同じことを繰り返しているようなので、朝霞が消え去っていくように段々と明瞭になっていく。
姿なき声は賊の罪を数え上げていた。賊にとってはささやかな罪から、その重さをよく知る大罪まで、もはや覚えていない幼少の頃の罪から、つい先日、似たような輩と集まって犯した罪まで。ひとの足をわざと踏んづけただとか、家屋に押し入り、盗みを働いた末に火をつけただとか。
そればかりか賊の知らない賊の罪の顛末まで、声は語るのだった。あの時、蹴とばした子供は肋骨の骨を折り、未だに苦しんでいる。あの時、盗んだ金は業病に苦しむ娘を救う高価な薬を買うためのものだった。中には悪人に対して行われた罪もあったが、声の主はいかに賊の行為によって人々が苦しんでいるかを語るのだった。
「うるせえんだよ! 誰なんだてめえ!?」と賊が山に向かって叫ぶと、声の主は答えて、曰く、神だ。
賊にとってはますます苛立たされた。神など何の役にも立たないことを賊はよく知っていた。酷い人生だが、中には善意から説教を垂れる者もいた。神へ祈れだとか、善行を為せだとか。賊は気まぐれに、説教の通りのことを為したこともあった。が、それだけだった。
声など聞かなければいいのだと賊は開き直る。元々、他者の声に耳を傾けることなどなかったのだから、容易いことだ。
だが声は繰り返し繰り返し、賊の罪を数え、他者の苦しみを賊の苦しみかのように語り掛け続けた。聞かないことは容易ではなく、賊に罪悪感が芽生えるのも程なくしてのことだった。
己の罪に憔悴しきり、まともに悪行も為せなくなった賊はついに観念し、声に赦しを乞うた。
すると声は別のことを語り始めた。これまでの語りが、賊の為してきた悪行ならば、それからの語りは賊の為すべき善行だった。
だからといってすぐに素直に声に従えるわけではなかった。
悪行には得るものがあり、善行にはそれがない。そのような甲斐のない行為に賊は恐怖さえ感じた。賊とて知っている。悪行でも善行でもないが、見返りのある労働というものがこの世にあることを。声にそのことを訴えてみたりもする。だが声の語る内容は変わらない。どころか見返りなどあるべきではない、とまで声は話す。
このまま苛まされ、憔悴の果てに殺されるのでは、と賊は考えたが、他に出来ることなどなかった。声の言うままに善行をなす。反吐が出るような徳を積む。苦しんでいる人を助ける。苦しんでなくとも助ける。こちらの方がずっと苦しいのに、と賊は心の中で叫びながら助ける。まるで岩の裏の湿った土に蠢く虫を探すように善行が為されるべき営みを探し求める。
助けた者たちが何かを言っていても聞こえなかった。姿のない声が五月蠅く、そうでなくとも聞き覚えのない言葉だったから意味がよく分からなかった。苦しみから救った人が笑っているのを見ると苛立ちさえ覚えた。何故笑われなければいけないのか分からなかった。
だが、食べ物を差し出された時に全てが変わった。死にかけていたことに初めて気づいた。差し出された食べ物は善行の見返りではなく、感謝の念の現れだと気づいた。助けた者たちの言葉もまた同じだと気づいた。男は涙を流した。哀れな自分のために初めて涙を流した。
それでも声が止むことはなく、男はそれを受け入れ、為すべきことを為し続けた。気が付けば声の求めないことも為していた。誠実に生き、敬虔ささえ身に着けた。多くの人々に愛されるようになり、神殿で身を清めもした。徳の高い神官の手伝いをするうちに感化し、自身もまた神官となるべく学び、行を修め始めた。
いつの頃からか声は聞こえなくなった。しかしそれに気づくべきではなかったのかもしれない。
男は再び苛まれ始める。今度は不安にだ。本当に自身の為している行為は善行なのかどうか、徐々に分からなくなり始めた。声の言うままにやって来た行いならば繰り返せばいいが、新たな出来事は次々に目の前に現れる。声とは別に自身を導いてくれる高位の神官に相談することも憚れた。まだ世に遍く神聖なるものを学び始めたばかりの男が、神の声を聞いていたなどと尊大なことを口にはできなかった。不安は徐々に男の心を圧し潰し始め、耐え切れなくなる前に男は神殿を飛び出し、山へと向かった。神の声を求めて、幽境なる奥深い山へと分け入っていく。元は塒にしていた山の神秘に、今では垣間見ることができた。しかし声は聞こえなかった。男は訴える。
「助けてください。あなたのお導きがなければ私は正しきを為せません!」
しかし誰も答えない。
「あなたのお導きがなければ私は再び悪を為してしまうかもしれません!」
男は涙ながらに訴えるが、答える者はいない。
「せめて初めの頃のように私の罪をお数えください! 私の償うべき罪の数々を! 多くを殺し、騙し、奪いました! それを償える善行を為して見せます!」
姿なき声は沈黙していたが、男に答える者がいた。黙って神殿を抜け出し、山の奥深くへ分け入る男の後をついてきた神官たちだ。
賊は捕らえられ、そして後は処刑を待つばかりとなった。狭い牢獄で償いの時を待つ賊のもとに、師であった高位の神官がやって来た。
「一体お前は何と話していたのだ?」と高位の神官は尋ねた。
もはや神官への道を断たれた咎人は答える。「神の声です」と。そしてこれまでのことを洗いざらいすべて告白した。
もはや師ではない神官は、もはや弟子ではない咎人の尊大な考えを嘲る。
「それはミラスキウレだろう。お前は揶揄われたのだ」
「何ですか? それは」
「聖職に身を置く者が知っていても詮無い噂だ。だが、まあ、一度は師として導いた弟子の、これが最期なのだ。聞かせてやろう。これは出入りの薬師に聞いた話だが……」神官は魔性の物語について語り始める。
ある男がいた。生気のない男だ。何をするにもやる気がなく、生きているのが不思議なくらいに何も頓着のない男だ。親の仕事を引き継ぎ、何とか生き延びているというありさまだった。
とはいえ、何も理由なく気力がないわけではない。大して幸福に満ちた人生ではなかったが、健康に育ち、妻に恵まれ、概ね人生は上向いていた。ありふれた田舎に生きる、平凡な男だったが、妻が妊娠し、稼ぎも足りていて、ありふれた幸福に満ちていた。もうすぐ父になろうという日々に気を引き締め、ほんの少しでも妻を楽にしてやるべく、身を粉にして働いていた。が、しかし腹の子と共に妻は死んだ。足を滑らせ、流れの速い渓流へと落ち、溺死したのだった。呆気ないものだった。
何もかもに絶望し、生きる意味を失った男がそれでも生に何とかしがみつけていた理由は男だけが知る秘密だった。
いつものように山魚を街で売って帰る夜も遅い道すがら、いつも通り抜ける森を前に男は呟く。
「さあ、今日も声を聞かせておくれ」
そうして男は歩き慣れた森の中へ、奥へ奥へと分け入っていく。
「嗚呼、迷ってしまったなあ。また迷ってしまった」
闇の奥に潜む者に語り掛けるように、男は独り言ちた。子の行儀の良さに目を光らせる母に言い訳でもするような調子で呟いた。先ほどまで背後についていた街の灯は遠く離れ、空の縁に微かにかかるばかり、頭上で忠告するように瞬いていた星明かりも木の葉の合間に朧気で、そんな深い森の奥に男はいた。歩いていた。春のように若くもないが秋のように老いてもいない。人生の半ばも迎えていない男だ。生来の怠け者ではないが、今を生きるために最低限の仕事しかしていなかった。かつては山を庭に駆け回り、渓流を物ともせずに泳ぐような子供時代を生き抜いた逞しい男だったが、今は枯れ木のように痩せ細っている。
男の霞んだ声に応える者はいない。さりとて夜闇の向こうには確かにこの森に棲んでいる者たちの気配がある。風を弓に掻き鳴らす葉擦れの音に、柔らかな土をそっと踏みつけて駆け抜ける音、急かすように連なる獣の吐息の歌。森に潜む者どもはぶつぶつと呟く男の声を遠巻きにしつつ、しかし離れすぎることなく塑像でも眺めるように男の様子を窺っている。
「困ったなあ。これは困った。どうしたものか。どうしたものかなあ」
森に迷っているという言葉とは裏腹に、男の足取りは確かで、勝利を信じる軍勢のように闇も正体不明の気配にも動じることなく突き進んでいる。それでもやはり男は道に迷っている様子で、同じ場所を長い時間かけてぐるぐると回っていた。
「おや、そうかい?」と男は独り少しばかり声を上擦らせる。喜びを抑えても零れ出るという様子だ。「こっちに行けばいいのかな?」
そう言って、行く方向を変えるが、それでも男は同じ場所をぐるぐるぐるぐると大きく回り続ける。ふと、朧気な明かりが木々の奥に現れた。営みの灯が輝き、炊事の煙が揺蕩っている。男もその明かりを視界の端に捉えているが意にも介さず、それでもやはり男は森を迷い続けた。
「こっちかね? そっちかね? 悪い悪い。方向音痴というやつかな。いつからだって? どうだったかな。呆れたかい? 拗ねないでおくれ」
男はただひたすらに歩き、闇に話しかけ、確固たる足取りで迷い続ける。人肉か腐葉土か知れない感触を踏みつけても、濡れた手か温い風か知れない感触に首を触れられても、構わず気にせず歩き続ける。まるで夢の中を歩いているかのように男は呆けたような表情を浮かべ、声を弾ませ、どこにもたどり着かない歩を進める。
が、唐突に男は立ち止まり、首を傾げ、耳を澄ませた。男とは別の声が聞こえたのだ。獣や鳥や虫でもない。風や葉擦れや魔性でもない。確かな人の声に、むしろ男は身を震わせ、恐る恐る近づいていく。
木々の奥へ慎重に歩み寄り、藪の向こうを覗き込む。と同時に悲鳴を聞く。しゃがれた悲鳴の主は男よりも一回りか二回り年老いた男で、杖を突いている。余りの多い衣を着て、鼻孔をさするような刺すような香りを放っている。
「おや、あんたは街の薬師さんじゃないかね?」
男が問いかけると、老人はほっと息をつく。
「そういうあんた様は誰かね? あたしを知っているということは丘向こうの郷里の者かね」
「そうだよ。漁師をやってる者だ。今は山魚を売った帰りだが。どうやらお疲れのようだ」
「然様。その上、道に迷い、夜も更け、足をくじいてしまった。あんた様の郷里へ行くところだ。肩を貸してくれるかね?」
「お安い御用だ。さあ、思う存分使っておくれ。もはや背負うもののない軽い肩だ」
男は薬師の老人に肩を貸し、森を行く。その足取りはやはり確かで、迷いはない。
「こう暗くては敵わんな。いつの間に道を外れたのか」と老人はぼやく。「お前さんはこの暗闇で道が分かるのかね?」
「もちろん。がきの頃から走り回った野山だよ。目を瞑ってたって好きなところへ行けるものさ」
「それなら良いが。目は開けておいてくれよ?」
男の先導で二人は闇に塗り潰された森を進み、東西に横たわる丘を回り込み、ぽつりぽつりと今灯されたかのように郷里の明かりが見えてきた。丁度森も抜け、燃え立つような月と星に二人は照らされる。
「どんなもんだい。木々も起伏も頭の中にしっかり入ってるからね。最も疲れない距離を行くのも簡単なもんだよ」
老人はまじまじと男を見つめた後に頭を下げる。
「すまないね。疑っていたわけじゃないが、だがあんた、あたしに会うまで道に迷ってやいなかったかい? あんたの声が聞こえたが、誰かと話しているように聞こえたな」
男は老人の皴を数えるかのように見つめ、溜息をつく。
「嬶と、僕の妻と話していたんだよ」
老人はちらと振り返り、真っ暗な穴が空いているかのような森を盗み見る。
「あんたは独りだったんだろう?」
「いいや」と言いつつ男は観念したようにはにかむ。「……ああ、そうだ。だけどね。声が聞こえるんだよ。嬶の声が。僕が迷っていると、特に道に迷ったりしていると。こっちだよ、あっちだよって声が聞こえるんだ。どんなに遠く離れていても聞こえる。その声に従えば間違いないって寸法さ」
「間違いないなら迷わなかろう?」と老人は問うが男は照れ臭そうに笑うばかり。老人は唸るような声を漏らし、何かを思い返すように考える。「あんたはミラスキウレに巡り合ったのかもしれないね」
「何だい? それは」
「魔性だよ。人に話しかけて、その内容は多岐に渡るが、得てして聞いた者は惑わされる。同じ場所をぐるぐると迷わさせる」
「おかしな魔性がいたもんだ。一体何が目的でそんなことを?」
「それについては、あたしが昔、ある漁村の夫婦に聞いた話があるんだが……」そう言って薬師の老人は語り始めた。
ある海のそばの漁村に一人の女が住んでいた。特別なところのないありふれた海の女だ。村の男に嫁ぎ、愛と情と従順さで夫を支えて生きていた。海に生きる者として泳ぎは上手いが、漁をするのは村の男たちで海の女の仕事というと船を掃除したり、網を繕ったり、獲れた魚を加工したりだ。女は夫と喜びも悲しみも分け合って、不満や愚痴をぶつけ合って、仲睦まじく暮らしていた。
しかしある日、夫は漁に出た切り帰らぬ人となってしまった。それもまた、海辺に生きる者たちにとっては珍しくもない話だがその女の悲しみはいかばかりか。夫を失った当人の悲しみは海も野原も関係なく深く暗いものだった。
寡婦となった女は生きる傍ら海辺で祈りを捧げる日々を送った。海の神の怒りを買ってしまったのなら鎮まるように、お調子者だった男の冥福を願うべく、寄せては返す波のように海風に掻き消える祈りを絶やすことなく続けた。
夫が海に消えてどれくらい経った頃だろうか。女は砂浜に跪き、目を瞑り、日々の変わらぬ祈りを唱えていた。が、唱え終える前に目を開き、水平線を眺め渡した。
「あんた? あんたなのかい?」
昼も過ぎて、潮風の吹き荒ぶ海には船一つなく、当然人っ子一人いない。だが女には確かに夫の声が聞こえた。随分と耳にしていなかったが、忘れるはずもない調子は良いが掠れた声だ。
「ねえ、もっかい声を聞かせておくれ。……嗚呼、あんた。その潮風に嗄れた声、忘れやしないよ。いったいどうして声だけで帰って来たんだい?」
女が辛抱強く待っていると、やはり女の耳に返事が届く。声を聞く限りは元気そうだ。とても死人の声には聞こえない。とはいえ、他の誰もと同様に女は死人の声など聞いたことはないが。
「そうだよ。あたしは生きてるよ、もちろん。海辺で祈りを捧げていたらあんたの声が聞こえたんだ。一体全体どういうことなのさ」
塩辛い風と共に届く声と女は会話する。
「冥府、から? いつから海神様はそんなに気前が良くなったの? ともかくあたしは嬉しいよ。声が聞こえるだけでも祈りを捧げ続けた甲斐があるってものだよ」
それからの日々を寡婦の女は新妻のように生きた。短い死別が終わり、新たな日々を生きることに喜びさえ感じた。働く合間に海辺を訪れ、姿のない夫と言葉を交わした。一人で生きる辛さが吹き消されたわけでもないが、夫の声に支えられて生きた。迷えば相談し、迷っていなくとも相談した。欲を言えれば声以外も全て返して欲しかったが、欲張って海神様を怒らせるようなことになって、冥府から漁村に通じる声の秘密の通り道を塞がれては困るので決して口にはしなかった。
当然、村の者たちは夫を亡くした女の頭はおかしくなってしまったのだと考えた。だからといって日々の働きに文句の付け所はなく、幻聴でも夫の声に支えられているのなら、同情はすれども二人のお喋りに水を差そうとは誰も思わなかった。
だがある日、砂浜で泣き崩れている女を、最も親しい友人が見つけた。涙と洟で顔をぐちゃぐちゃにし、声を枯らして泣く女を友は家へと連れ帰り、落ち着くのを待った。
「一体どうしたの? 幼馴染の私にも話せないってことはないんでしょう?」
友が尋ねると、女は訥々と事情を語り始めた。夫が死に、その声が聞こえたところから始まり、件の話へ。
「それであの人が言ったの。まだ若い身空なんだから再婚しろって」
幻の夫の声に言われなくとも、女が落ち着いたらその話をしようと漁村の皆は考えていた。幸い若い独り身の男はまだ何人かいて、同情がきっかけかもしれないが女に思いを寄せている者がいた。
女の友は、しかしその話をするのはまだ先だと口を閉ざし、辛抱強く女の話を聞く。
「そんなつもりはないって言い返したの。言い返しちゃったの。考えてみれば、あの人に言い返すなんて初めてだったかもしれない。でも、あたしは、あたしにも譲れない事はあって……」
そんなものは時間の解決する問題だろうと女の友は心の内で思う。一方、昔から強情なところがあったな、と思い返しもする。
「言い合うことはあっても、あの人の勧めは、あの人の決めたことで、でもあたしはこうして話をできるあんたを知らないふりなんて出来やしないって言ったんだ。そしたら、そしたら……」
次の日から返事をくれなくなったのだという。女は夫が当てつけにやっているのだと涙声で訴えるが、友人には何も言えなかった。そもそも女の夫はもう死んだのだから。夫が話さなくなったのではなく、女が聞かなくなったのに違いない。それはこれから真っ当に生きるならば僥倖だ、と女の友は考えた。
女の日々の営みは夫と死別した直後へと戻った。つまり生活の合間に砂浜へ通って、祈りを捧げる日々だ。少し違うのは夫の返事がなくとも、海に話しかけ続けたことだ。
時間による解決は見られなかった。女がそれほどに深く夫を愛しているとは誰も思っていなかった。女自身でさえもだ。あるいは最後の言い合いのために意固地になってしまっているのかもしれない。それは女にも分からなかった。
「あれはミラスキウレっていうらしいわ」
季節が移り変わった頃、ある日の昼過ぎ、女たちで舟歌を歌いながら網を編んでいた時、女の友人が囁いた。
「あれって?」と女もひそやかに尋ねる。「ミラスキウレ? 何の話?」
「海辺であんたに語り掛けていた魔性よ。前に村にやってきた神官様に聞いたの」
「魔性が何だってあたしのことを揶揄うのさ」
「知らないわ。だけどその神官様はミラスキウレについてよくご存じだったのよ」
そういうと女の友は又聞きした話を語り始める。
ある山を根城とする賊がいた。神聖さから遠く離れた男と高貴さに縁のない女の間に生まれた男だ。賊は苦痛と悲嘆、そして罪悪に塗れた人生を送っていた。腐ったものでなければ盗んだものを食べ、泥水を啜るか奪った酒を舐め、愛も喜びも知らず、欲望と恐怖だけが荒れ狂う人生の指針だった。
しかし賊にとってはそれらが日常であり、初めから終わりまで決まりきったことだった。賊がまだ物心つくかつかない頃に盗むことや傷つけることを教えたのは世間様で、教えられた通りの生き方をしているまでなのだ。
ある日、賊が仕事もそこそこに山の奥に身を隠し、枝葉の天蓋の下、微睡みに耽っていた時、声を聞いた。誰だか知らないが、人の塒に押し入ってこようとは図々しい奴だ、と賊は憤り、いつ手に入れたのかも忘れた錆びついた曲剣を取ると錆びついていない鋭い眼差しで声の主を探してまわった。が、誰も見つからなかった。それでも声は聞こえ続け、疲れ果てた賊はようやく声に耳を傾ける気になった。
「一体何を言ってやがんだ?」
知っている言葉を話しているのだが、生来他者の言葉に耳を傾けて来なかった賊は意味を聞き取るのが難しかったのだ。それでも同じことを繰り返しているようなので、朝霞が消え去っていくように段々と明瞭になっていく。
姿なき声は賊の罪を数え上げていた。賊にとってはささやかな罪から、その重さをよく知る大罪まで、もはや覚えていない幼少の頃の罪から、つい先日、似たような輩と集まって犯した罪まで。ひとの足をわざと踏んづけただとか、家屋に押し入り、盗みを働いた末に火をつけただとか。
そればかりか賊の知らない賊の罪の顛末まで、声は語るのだった。あの時、蹴とばした子供は肋骨の骨を折り、未だに苦しんでいる。あの時、盗んだ金は業病に苦しむ娘を救う高価な薬を買うためのものだった。中には悪人に対して行われた罪もあったが、声の主はいかに賊の行為によって人々が苦しんでいるかを語るのだった。
「うるせえんだよ! 誰なんだてめえ!?」と賊が山に向かって叫ぶと、声の主は答えて、曰く、神だ。
賊にとってはますます苛立たされた。神など何の役にも立たないことを賊はよく知っていた。酷い人生だが、中には善意から説教を垂れる者もいた。神へ祈れだとか、善行を為せだとか。賊は気まぐれに、説教の通りのことを為したこともあった。が、それだけだった。
声など聞かなければいいのだと賊は開き直る。元々、他者の声に耳を傾けることなどなかったのだから、容易いことだ。
だが声は繰り返し繰り返し、賊の罪を数え、他者の苦しみを賊の苦しみかのように語り掛け続けた。聞かないことは容易ではなく、賊に罪悪感が芽生えるのも程なくしてのことだった。
己の罪に憔悴しきり、まともに悪行も為せなくなった賊はついに観念し、声に赦しを乞うた。
すると声は別のことを語り始めた。これまでの語りが、賊の為してきた悪行ならば、それからの語りは賊の為すべき善行だった。
だからといってすぐに素直に声に従えるわけではなかった。
悪行には得るものがあり、善行にはそれがない。そのような甲斐のない行為に賊は恐怖さえ感じた。賊とて知っている。悪行でも善行でもないが、見返りのある労働というものがこの世にあることを。声にそのことを訴えてみたりもする。だが声の語る内容は変わらない。どころか見返りなどあるべきではない、とまで声は話す。
このまま苛まされ、憔悴の果てに殺されるのでは、と賊は考えたが、他に出来ることなどなかった。声の言うままに善行をなす。反吐が出るような徳を積む。苦しんでいる人を助ける。苦しんでなくとも助ける。こちらの方がずっと苦しいのに、と賊は心の中で叫びながら助ける。まるで岩の裏の湿った土に蠢く虫を探すように善行が為されるべき営みを探し求める。
助けた者たちが何かを言っていても聞こえなかった。姿のない声が五月蠅く、そうでなくとも聞き覚えのない言葉だったから意味がよく分からなかった。苦しみから救った人が笑っているのを見ると苛立ちさえ覚えた。何故笑われなければいけないのか分からなかった。
だが、食べ物を差し出された時に全てが変わった。死にかけていたことに初めて気づいた。差し出された食べ物は善行の見返りではなく、感謝の念の現れだと気づいた。助けた者たちの言葉もまた同じだと気づいた。男は涙を流した。哀れな自分のために初めて涙を流した。
それでも声が止むことはなく、男はそれを受け入れ、為すべきことを為し続けた。気が付けば声の求めないことも為していた。誠実に生き、敬虔ささえ身に着けた。多くの人々に愛されるようになり、神殿で身を清めもした。徳の高い神官の手伝いをするうちに感化し、自身もまた神官となるべく学び、行を修め始めた。
いつの頃からか声は聞こえなくなった。しかしそれに気づくべきではなかったのかもしれない。
男は再び苛まれ始める。今度は不安にだ。本当に自身の為している行為は善行なのかどうか、徐々に分からなくなり始めた。声の言うままにやって来た行いならば繰り返せばいいが、新たな出来事は次々に目の前に現れる。声とは別に自身を導いてくれる高位の神官に相談することも憚れた。まだ世に遍く神聖なるものを学び始めたばかりの男が、神の声を聞いていたなどと尊大なことを口にはできなかった。不安は徐々に男の心を圧し潰し始め、耐え切れなくなる前に男は神殿を飛び出し、山へと向かった。神の声を求めて、幽境なる奥深い山へと分け入っていく。元は塒にしていた山の神秘に、今では垣間見ることができた。しかし声は聞こえなかった。男は訴える。
「助けてください。あなたのお導きがなければ私は正しきを為せません!」
しかし誰も答えない。
「あなたのお導きがなければ私は再び悪を為してしまうかもしれません!」
男は涙ながらに訴えるが、答える者はいない。
「せめて初めの頃のように私の罪をお数えください! 私の償うべき罪の数々を! 多くを殺し、騙し、奪いました! それを償える善行を為して見せます!」
姿なき声は沈黙していたが、男に答える者がいた。黙って神殿を抜け出し、山の奥深くへ分け入る男の後をついてきた神官たちだ。
賊は捕らえられ、そして後は処刑を待つばかりとなった。狭い牢獄で償いの時を待つ賊のもとに、師であった高位の神官がやって来た。
「一体お前は何と話していたのだ?」と高位の神官は尋ねた。
もはや神官への道を断たれた咎人は答える。「神の声です」と。そしてこれまでのことを洗いざらいすべて告白した。
もはや師ではない神官は、もはや弟子ではない咎人の尊大な考えを嘲る。
「それはミラスキウレだろう。お前は揶揄われたのだ」
「何ですか? それは」
「聖職に身を置く者が知っていても詮無い噂だ。だが、まあ、一度は師として導いた弟子の、これが最期なのだ。聞かせてやろう。これは出入りの薬師に聞いた話だが……」神官は魔性の物語について語り始める。
ある男がいた。生気のない男だ。何をするにもやる気がなく、生きているのが不思議なくらいに何も頓着のない男だ。親の仕事を引き継ぎ、何とか生き延びているというありさまだった。
とはいえ、何も理由なく気力がないわけではない。大して幸福に満ちた人生ではなかったが、健康に育ち、妻に恵まれ、概ね人生は上向いていた。ありふれた田舎に生きる、平凡な男だったが、妻が妊娠し、稼ぎも足りていて、ありふれた幸福に満ちていた。もうすぐ父になろうという日々に気を引き締め、ほんの少しでも妻を楽にしてやるべく、身を粉にして働いていた。が、しかし腹の子と共に妻は死んだ。足を滑らせ、流れの速い渓流へと落ち、溺死したのだった。呆気ないものだった。
何もかもに絶望し、生きる意味を失った男がそれでも生に何とかしがみつけていた理由は男だけが知る秘密だった。
いつものように山魚を街で売って帰る夜も遅い道すがら、いつも通り抜ける森を前に男は呟く。
「さあ、今日も声を聞かせておくれ」
そうして男は歩き慣れた森の中へ、奥へ奥へと分け入っていく。
「嗚呼、迷ってしまったなあ。また迷ってしまった」
闇の奥に潜む者に語り掛けるように、男は独り言ちた。子の行儀の良さに目を光らせる母に言い訳でもするような調子で呟いた。先ほどまで背後についていた街の灯は遠く離れ、空の縁に微かにかかるばかり、頭上で忠告するように瞬いていた星明かりも木の葉の合間に朧気で、そんな深い森の奥に男はいた。歩いていた。春のように若くもないが秋のように老いてもいない。人生の半ばも迎えていない男だ。生来の怠け者ではないが、今を生きるために最低限の仕事しかしていなかった。かつては山を庭に駆け回り、渓流を物ともせずに泳ぐような子供時代を生き抜いた逞しい男だったが、今は枯れ木のように痩せ細っている。
男の霞んだ声に応える者はいない。さりとて夜闇の向こうには確かにこの森に棲んでいる者たちの気配がある。風を弓に掻き鳴らす葉擦れの音に、柔らかな土をそっと踏みつけて駆け抜ける音、急かすように連なる獣の吐息の歌。森に潜む者どもはぶつぶつと呟く男の声を遠巻きにしつつ、しかし離れすぎることなく塑像でも眺めるように男の様子を窺っている。
「困ったなあ。これは困った。どうしたものか。どうしたものかなあ」
森に迷っているという言葉とは裏腹に、男の足取りは確かで、勝利を信じる軍勢のように闇も正体不明の気配にも動じることなく突き進んでいる。それでもやはり男は道に迷っている様子で、同じ場所を長い時間かけてぐるぐると回っていた。
「おや、そうかい?」と男は独り少しばかり声を上擦らせる。喜びを抑えても零れ出るという様子だ。「こっちに行けばいいのかな?」
そう言って、行く方向を変えるが、それでも男は同じ場所をぐるぐるぐるぐると大きく回り続ける。ふと、朧気な明かりが木々の奥に現れた。営みの灯が輝き、炊事の煙が揺蕩っている。男もその明かりを視界の端に捉えているが意にも介さず、それでもやはり男は森を迷い続けた。
「こっちかね? そっちかね? 悪い悪い。方向音痴というやつかな。いつからだって? どうだったかな。呆れたかい? 拗ねないでおくれ」
男はただひたすらに歩き、闇に話しかけ、確固たる足取りで迷い続ける。人肉か腐葉土か知れない感触を踏みつけても、濡れた手か温い風か知れない感触に首を触れられても、構わず気にせず歩き続ける。まるで夢の中を歩いているかのように男は呆けたような表情を浮かべ、声を弾ませ、どこにもたどり着かない歩を進める。
が、唐突に男は立ち止まり、首を傾げ、耳を澄ませた。男とは別の声が聞こえたのだ。獣や鳥や虫でもない。風や葉擦れや魔性でもない。確かな人の声に、むしろ男は身を震わせ、恐る恐る近づいていく。
木々の奥へ慎重に歩み寄り、藪の向こうを覗き込む。と同時に悲鳴を聞く。しゃがれた悲鳴の主は男よりも一回りか二回り年老いた男で、杖を突いている。余りの多い衣を着て、鼻孔をさするような刺すような香りを放っている。
「おや、あんたは街の薬師さんじゃないかね?」
男が問いかけると、老人はほっと息をつく。
「そういうあんた様は誰かね? あたしを知っているということは丘向こうの郷里の者かね」
「そうだよ。漁師をやってる者だ。今は山魚を売った帰りだが。どうやらお疲れのようだ」
「然様。その上、道に迷い、夜も更け、足をくじいてしまった。あんた様の郷里へ行くところだ。肩を貸してくれるかね?」
「お安い御用だ。さあ、思う存分使っておくれ。もはや背負うもののない軽い肩だ」
男は薬師の老人に肩を貸し、森を行く。その足取りはやはり確かで、迷いはない。
「こう暗くては敵わんな。いつの間に道を外れたのか」と老人はぼやく。「お前さんはこの暗闇で道が分かるのかね?」
「もちろん。がきの頃から走り回った野山だよ。目を瞑ってたって好きなところへ行けるものさ」
「それなら良いが。目は開けておいてくれよ?」
男の先導で二人は闇に塗り潰された森を進み、東西に横たわる丘を回り込み、ぽつりぽつりと今灯されたかのように郷里の明かりが見えてきた。丁度森も抜け、燃え立つような月と星に二人は照らされる。
「どんなもんだい。木々も起伏も頭の中にしっかり入ってるからね。最も疲れない距離を行くのも簡単なもんだよ」
老人はまじまじと男を見つめた後に頭を下げる。
「すまないね。疑っていたわけじゃないが、だがあんた、あたしに会うまで道に迷ってやいなかったかい? あんたの声が聞こえたが、誰かと話しているように聞こえたな」
男は老人の皴を数えるかのように見つめ、溜息をつく。
「嬶と、僕の妻と話していたんだよ」
老人はちらと振り返り、真っ暗な穴が空いているかのような森を盗み見る。
「あんたは独りだったんだろう?」
「いいや」と言いつつ男は観念したようにはにかむ。「……ああ、そうだ。だけどね。声が聞こえるんだよ。嬶の声が。僕が迷っていると、特に道に迷ったりしていると。こっちだよ、あっちだよって声が聞こえるんだ。どんなに遠く離れていても聞こえる。その声に従えば間違いないって寸法さ」
「間違いないなら迷わなかろう?」と老人は問うが男は照れ臭そうに笑うばかり。老人は唸るような声を漏らし、何かを思い返すように考える。「あんたはミラスキウレに巡り合ったのかもしれないね」
「何だい? それは」
「魔性だよ。人に話しかけて、その内容は多岐に渡るが、得てして聞いた者は惑わされる。同じ場所をぐるぐると迷わさせる」
「おかしな魔性がいたもんだ。一体何が目的でそんなことを?」
「それについては、あたしが昔、ある漁村の夫婦に聞いた話があるんだが……」そう言って薬師の老人は語り始めた。
ある海のそばの漁村に一人の女が住んでいた。特別なところのないありふれた海の女だ。村の男に嫁ぎ、愛と情と従順さで夫を支えて生きていた。海に生きる者として泳ぎは上手いが、漁をするのは村の男たちで海の女の仕事というと船を掃除したり、網を繕ったり、獲れた魚を加工したりだ。女は夫と喜びも悲しみも分け合って、不満や愚痴をぶつけ合って、仲睦まじく暮らしていた。
しかしある日、夫は漁に出た切り帰らぬ人となってしまった。それもまた、海辺に生きる者たちにとっては珍しくもない話だがその女の悲しみはいかばかりか。夫を失った当人の悲しみは海も野原も関係なく深く暗いものだった。
寡婦となった女は生きる傍ら海辺で祈りを捧げる日々を送った。海の神の怒りを買ってしまったのなら鎮まるように、お調子者だった男の冥福を願うべく、寄せては返す波のように海風に掻き消える祈りを絶やすことなく続けた。
夫が海に消えてどれくらい経った頃だろうか。女は砂浜に跪き、目を瞑り、日々の変わらぬ祈りを唱えていた。が、唱え終える前に目を開き、水平線を眺め渡した。
「あんた? あんたなのかい?」
昼も過ぎて、潮風の吹き荒ぶ海には船一つなく、当然人っ子一人いない。だが女には確かに夫の声が聞こえた。随分と耳にしていなかったが、忘れるはずもない調子は良いが掠れた声だ。
「ねえ、もっかい声を聞かせておくれ。……嗚呼、あんた。その潮風に嗄れた声、忘れやしないよ。いったいどうして声だけで帰って来たんだい?」
女が辛抱強く待っていると、やはり女の耳に返事が届く。声を聞く限りは元気そうだ。とても死人の声には聞こえない。とはいえ、他の誰もと同様に女は死人の声など聞いたことはないが。
「そうだよ。あたしは生きてるよ、もちろん。海辺で祈りを捧げていたらあんたの声が聞こえたんだ。一体全体どういうことなのさ」
塩辛い風と共に届く声と女は会話する。
「冥府、から? いつから海神様はそんなに気前が良くなったの? ともかくあたしは嬉しいよ。声が聞こえるだけでも祈りを捧げ続けた甲斐があるってものだよ」
それからの日々を寡婦の女は新妻のように生きた。短い死別が終わり、新たな日々を生きることに喜びさえ感じた。働く合間に海辺を訪れ、姿のない夫と言葉を交わした。一人で生きる辛さが吹き消されたわけでもないが、夫の声に支えられて生きた。迷えば相談し、迷っていなくとも相談した。欲を言えれば声以外も全て返して欲しかったが、欲張って海神様を怒らせるようなことになって、冥府から漁村に通じる声の秘密の通り道を塞がれては困るので決して口にはしなかった。
当然、村の者たちは夫を亡くした女の頭はおかしくなってしまったのだと考えた。だからといって日々の働きに文句の付け所はなく、幻聴でも夫の声に支えられているのなら、同情はすれども二人のお喋りに水を差そうとは誰も思わなかった。
だがある日、砂浜で泣き崩れている女を、最も親しい友人が見つけた。涙と洟で顔をぐちゃぐちゃにし、声を枯らして泣く女を友は家へと連れ帰り、落ち着くのを待った。
「一体どうしたの? 幼馴染の私にも話せないってことはないんでしょう?」
友が尋ねると、女は訥々と事情を語り始めた。夫が死に、その声が聞こえたところから始まり、件の話へ。
「それであの人が言ったの。まだ若い身空なんだから再婚しろって」
幻の夫の声に言われなくとも、女が落ち着いたらその話をしようと漁村の皆は考えていた。幸い若い独り身の男はまだ何人かいて、同情がきっかけかもしれないが女に思いを寄せている者がいた。
女の友は、しかしその話をするのはまだ先だと口を閉ざし、辛抱強く女の話を聞く。
「そんなつもりはないって言い返したの。言い返しちゃったの。考えてみれば、あの人に言い返すなんて初めてだったかもしれない。でも、あたしは、あたしにも譲れない事はあって……」
そんなものは時間の解決する問題だろうと女の友は心の内で思う。一方、昔から強情なところがあったな、と思い返しもする。
「言い合うことはあっても、あの人の勧めは、あの人の決めたことで、でもあたしはこうして話をできるあんたを知らないふりなんて出来やしないって言ったんだ。そしたら、そしたら……」
次の日から返事をくれなくなったのだという。女は夫が当てつけにやっているのだと涙声で訴えるが、友人には何も言えなかった。そもそも女の夫はもう死んだのだから。夫が話さなくなったのではなく、女が聞かなくなったのに違いない。それはこれから真っ当に生きるならば僥倖だ、と女の友は考えた。
女の日々の営みは夫と死別した直後へと戻った。つまり生活の合間に砂浜へ通って、祈りを捧げる日々だ。少し違うのは夫の返事がなくとも、海に話しかけ続けたことだ。
時間による解決は見られなかった。女がそれほどに深く夫を愛しているとは誰も思っていなかった。女自身でさえもだ。あるいは最後の言い合いのために意固地になってしまっているのかもしれない。それは女にも分からなかった。
「あれはミラスキウレっていうらしいわ」
季節が移り変わった頃、ある日の昼過ぎ、女たちで舟歌を歌いながら網を編んでいた時、女の友人が囁いた。
「あれって?」と女もひそやかに尋ねる。「ミラスキウレ? 何の話?」
「海辺であんたに語り掛けていた魔性よ。前に村にやってきた神官様に聞いたの」
「魔性が何だってあたしのことを揶揄うのさ」
「知らないわ。だけどその神官様はミラスキウレについてよくご存じだったのよ」
そういうと女の友は又聞きした話を語り始める。
ある山を根城とする賊がいた。神聖さから遠く離れた男と高貴さに縁のない女の間に生まれた男だ。賊は苦痛と悲嘆、そして罪悪に塗れた人生を送っていた。腐ったものでなければ盗んだものを食べ、泥水を啜るか奪った酒を舐め、愛も喜びも知らず、欲望と恐怖だけが荒れ狂う人生の指針だった。
しかし賊にとってはそれらが日常であり、初めから終わりまで決まりきったことだった。賊がまだ物心つくかつかない頃に盗むことや傷つけることを教えたのは世間様で、教えられた通りの生き方をしているまでなのだ。
ある日、賊が仕事もそこそこに山の奥に身を隠し、枝葉の天蓋の下、微睡みに耽っていた時、声を聞いた。誰だか知らないが、人の塒に押し入ってこようとは図々しい奴だ、と賊は憤り、いつ手に入れたのかも忘れた錆びついた曲剣を取ると錆びついていない鋭い眼差しで声の主を探してまわった。が、誰も見つからなかった。それでも声は聞こえ続け、疲れ果てた賊はようやく声に耳を傾ける気になった。
「一体何を言ってやがんだ?」
知っている言葉を話しているのだが、生来他者の言葉に耳を傾けて来なかった賊は意味を聞き取るのが難しかったのだ。それでも同じことを繰り返しているようなので、朝霞が消え去っていくように段々と明瞭になっていく。
姿なき声は賊の罪を数え上げていた。賊にとってはささやかな罪から、その重さをよく知る大罪まで、もはや覚えていない幼少の頃の罪から、つい先日、似たような輩と集まって犯した罪まで。ひとの足をわざと踏んづけただとか、家屋に押し入り、盗みを働いた末に火をつけただとか。
そればかりか賊の知らない賊の罪の顛末まで、声は語るのだった。あの時、蹴とばした子供は肋骨の骨を折り、未だに苦しんでいる。あの時、盗んだ金は業病に苦しむ娘を救う高価な薬を買うためのものだった。中には悪人に対して行われた罪もあったが、声の主はいかに賊の行為によって人々が苦しんでいるかを語るのだった。
「うるせえんだよ! 誰なんだてめえ!?」と賊が山に向かって叫ぶと、声の主は答えて、曰く、神だ。
賊にとってはますます苛立たされた。神など何の役にも立たないことを賊はよく知っていた。酷い人生だが、中には善意から説教を垂れる者もいた。神へ祈れだとか、善行を為せだとか。賊は気まぐれに、説教の通りのことを為したこともあった。が、それだけだった。
声など聞かなければいいのだと賊は開き直る。元々、他者の声に耳を傾けることなどなかったのだから、容易いことだ。
だが声は繰り返し繰り返し、賊の罪を数え、他者の苦しみを賊の苦しみかのように語り掛け続けた。聞かないことは容易ではなく、賊に罪悪感が芽生えるのも程なくしてのことだった。
己の罪に憔悴しきり、まともに悪行も為せなくなった賊はついに観念し、声に赦しを乞うた。
すると声は別のことを語り始めた。これまでの語りが、賊の為してきた悪行ならば、それからの語りは賊の為すべき善行だった。
だからといってすぐに素直に声に従えるわけではなかった。
悪行には得るものがあり、善行にはそれがない。そのような甲斐のない行為に賊は恐怖さえ感じた。賊とて知っている。悪行でも善行でもないが、見返りのある労働というものがこの世にあることを。声にそのことを訴えてみたりもする。だが声の語る内容は変わらない。どころか見返りなどあるべきではない、とまで声は話す。
このまま苛まされ、憔悴の果てに殺されるのでは、と賊は考えたが、他に出来ることなどなかった。声の言うままに善行をなす。反吐が出るような徳を積む。苦しんでいる人を助ける。苦しんでなくとも助ける。こちらの方がずっと苦しいのに、と賊は心の中で叫びながら助ける。まるで岩の裏の湿った土に蠢く虫を探すように善行が為されるべき営みを探し求める。
助けた者たちが何かを言っていても聞こえなかった。姿のない声が五月蠅く、そうでなくとも聞き覚えのない言葉だったから意味がよく分からなかった。苦しみから救った人が笑っているのを見ると苛立ちさえ覚えた。何故笑われなければいけないのか分からなかった。
だが、食べ物を差し出された時に全てが変わった。死にかけていたことに初めて気づいた。差し出された食べ物は善行の見返りではなく、感謝の念の現れだと気づいた。助けた者たちの言葉もまた同じだと気づいた。男は涙を流した。哀れな自分のために初めて涙を流した。
それでも声が止むことはなく、男はそれを受け入れ、為すべきことを為し続けた。気が付けば声の求めないことも為していた。誠実に生き、敬虔ささえ身に着けた。多くの人々に愛されるようになり、神殿で身を清めもした。徳の高い神官の手伝いをするうちに感化し、自身もまた神官となるべく学び、行を修め始めた。
いつの頃からか声は聞こえなくなった。しかしそれに気づくべきではなかったのかもしれない。
男は再び苛まれ始める。今度は不安にだ。本当に自身の為している行為は善行なのかどうか、徐々に分からなくなり始めた。声の言うままにやって来た行いならば繰り返せばいいが、新たな出来事は次々に目の前に現れる。声とは別に自身を導いてくれる高位の神官に相談することも憚れた。まだ世に遍く神聖なるものを学び始めたばかりの男が、神の声を聞いていたなどと尊大なことを口にはできなかった。不安は徐々に男の心を圧し潰し始め、耐え切れなくなる前に男は神殿を飛び出し、山へと向かった。神の声を求めて、幽境なる奥深い山へと分け入っていく。元は塒にしていた山の神秘に、今では垣間見ることができた。しかし声は聞こえなかった。男は訴える。
「助けてください。あなたのお導きがなければ私は正しきを為せません!」
しかし誰も答えない。
「あなたのお導きがなければ私は再び悪を為してしまうかもしれません!」
男は涙ながらに訴えるが、答える者はいない。
「せめて初めの頃のように私の罪をお数えください! 私の償うべき罪の数々を! 多くを殺し、騙し、奪いました! それを償える善行を為して見せます!」
姿なき声は沈黙していたが、男に答える者がいた。黙って神殿を抜け出し、山の奥深くへ分け入る男の後をついてきた神官たちだ。
賊は捕らえられ、そして後は処刑を待つばかりとなった。狭い牢獄で償いの時を待つ賊のもとに、師であった高位の神官がやって来た。
「一体お前は何と話していたのだ?」と高位の神官は尋ねた。
もはや神官への道を断たれた咎人は答える。「神の声です」と。そしてこれまでのことを洗いざらいすべて告白した。
もはや師ではない神官は、もはや弟子ではない咎人の尊大な考えを嘲る。
「それはミラスキウレだろう。お前は揶揄われたのだ」
「何ですか? それは」
「聖職に身を置く者が知っていても詮無い噂だ。だが、まあ、一度は師として導いた弟子の、これが最期なのだ。聞かせてやろう。これは出入りの薬師に聞いた話だが……」神官は魔性の物語について語り始める。
ある男がいた。生気のない男だ。何をするにもやる気がなく、生きているのが不思議なくらいに何も頓着のない男だ。親の仕事を引き継ぎ、何とか生き延びているというありさまだった。
とはいえ、何も理由なく気力がないわけではない。大して幸福に満ちた人生ではなかったが、健康に育ち、妻に恵まれ、概ね人生は上向いていた。ありふれた田舎に生きる、平凡な男だったが、妻が妊娠し、稼ぎも足りていて、ありふれた幸福に満ちていた。もうすぐ父になろうという日々に気を引き締め、ほんの少しでも妻を楽にしてやるべく、身を粉にして働いていた。が、しかし腹の子と共に妻は死んだ。足を滑らせ、流れの速い渓流へと落ち、溺死したのだった。呆気ないものだった。
何もかもに絶望し、生きる意味を失った男がそれでも生に何とかしがみつけていた理由は男だけが知る秘密だった。
いつものように山魚を街で売って帰る夜も遅い道すがら、いつも通り抜ける森を前に男は呟く。
「さあ、今日も声を聞かせておくれ」
そうして男は歩き慣れた森の中へ、奥へ奥へと分け入っていく。
「嗚呼、迷ってしまったなあ。また迷ってしまった」
闇の奥に潜む者に語り掛けるように、男は独り言ちた。子の行儀の良さに目を光らせる母に言い訳でもするような調子で呟いた。先ほどまで背後についていた街の灯は遠く離れ、空の縁に微かにかかるばかり、頭上で忠告するように瞬いていた星明かりも木の葉の合間に朧気で、そんな深い森の奥に男はいた。歩いていた。春のように若くもないが秋のように老いてもいない。人生の半ばも迎えていない男だ。生来の怠け者ではないが、今を生きるために最低限の仕事しかしていなかった。かつては山を庭に駆け回り、渓流を物ともせずに泳ぐような子供時代を生き抜いた逞しい男だったが、今は枯れ木のように痩せ細っている。
男の霞んだ声に応える者はいない。さりとて夜闇の向こうには確かにこの森に棲んでいる者たちの気配がある。風を弓に掻き鳴らす葉擦れの音に、柔らかな土をそっと踏みつけて駆け抜ける音、急かすように連なる獣の吐息の歌。森に潜む者どもはぶつぶつと呟く男の声を遠巻きにしつつ、しかし離れすぎることなく塑像でも眺めるように男の様子を窺っている。
「困ったなあ。これは困った。どうしたものか。どうしたものかなあ」
森に迷っているという言葉とは裏腹に、男の足取りは確かで、勝利を信じる軍勢のように闇も正体不明の気配にも動じることなく突き進んでいる。それでもやはり男は道に迷っている様子で、同じ場所を長い時間かけてぐるぐると回っていた。
「おや、そうかい?」と男は独り少しばかり声を上擦らせる。喜びを抑えても零れ出るという様子だ。「こっちに行けばいいのかな?」
そう言って、行く方向を変えるが、それでも男は同じ場所をぐるぐるぐるぐると大きく回り続ける。ふと、朧気な明かりが木々の奥に現れた。営みの灯が輝き、炊事の煙が揺蕩っている。男もその明かりを視界の端に捉えているが意にも介さず、それでもやはり男は森を迷い続けた。
「こっちかね? そっちかね? 悪い悪い。方向音痴というやつかな。いつからだって? どうだったかな。呆れたかい? 拗ねないでおくれ」
男はただひたすらに歩き、闇に話しかけ、確固たる足取りで迷い続ける。人肉か腐葉土か知れない感触を踏みつけても、濡れた手か温い風か知れない感触に首を触れられても、構わず気にせず歩き続ける。まるで夢の中を歩いているかのように男は呆けたような表情を浮かべ、声を弾ませ、どこにもたどり着かない歩を進める。
が、唐突に男は立ち止まり、首を傾げ、耳を澄ませた。男とは別の声が聞こえたのだ。獣や鳥や虫でもない。風や葉擦れや魔性でもない。確かな人の声に、むしろ男は身を震わせ、恐る恐る近づいていく。
木々の奥へ慎重に歩み寄り、藪の向こうを覗き込む。と同時に悲鳴を聞く。しゃがれた悲鳴の主は男よりも一回りか二回り年老いた男で、杖を突いている。余りの多い衣を着て、鼻孔をさするような刺すような香りを放っている。
「おや、あんたは街の薬師さんじゃないかね?」
男が問いかけると、老人はほっと息をつく。
「そういうあんた様は誰かね? あたしを知っているということは丘向こうの郷里の者かね」
「そうだよ。漁師をやってる者だ。今は山魚を売った帰りだが。どうやらお疲れのようだ」
「然様。その上、道に迷い、夜も更け、足をくじいてしまった。あんた様の郷里へ行くところだ。肩を貸してくれるかね?」
「お安い御用だ。さあ、思う存分使っておくれ。もはや背負うもののない軽い肩だ」
男は薬師の老人に肩を貸し、森を行く。その足取りはやはり確かで、迷いはない。
「こう暗くては敵わんな。いつの間に道を外れたのか」と老人はぼやく。「お前さんはこの暗闇で道が分かるのかね?」
「もちろん。がきの頃から走り回った野山だよ。目を瞑ってたって好きなところへ行けるものさ」
「それなら良いが。目は開けておいてくれよ?」
男の先導で二人は闇に塗り潰された森を進み、東西に横たわる丘を回り込み、ぽつりぽつりと今灯されたかのように郷里の明かりが見えてきた。丁度森も抜け、燃え立つような月と星に二人は照らされる。
「どんなもんだい。木々も起伏も頭の中にしっかり入ってるからね。最も疲れない距離を行くのも簡単なもんだよ」
老人はまじまじと男を見つめた後に頭を下げる。
「すまないね。疑っていたわけじゃないが、だがあんた、あたしに会うまで道に迷ってやいなかったかい? あんたの声が聞こえたが、誰かと話しているように聞こえたな」
男は老人の皴を数えるかのように見つめ、溜息をつく。
「嬶と、僕の妻と話していたんだよ」
老人はちらと振り返り、真っ暗な穴が空いているかのような森を盗み見る。
「あんたは独りだったんだろう?」
「いいや」と言いつつ男は観念したようにはにかむ。「……ああ、そうだ。だけどね。声が聞こえるんだよ。嬶の声が。僕が迷っていると、特に道に迷ったりしていると。こっちだよ、あっちだよって声が聞こえるんだ。どんなに遠く離れていても聞こえる。その声に従えば間違いないって寸法さ」
「間違いないなら迷わなかろう?」と老人は問うが男は照れ臭そうに笑うばかり。老人は唸るような声を漏らし、何かを思い返すように考える。「あんたはミラスキウレに巡り合ったのかもしれないね」
「何だい? それは」
「魔性だよ。人に話しかけて、その内容は多岐に渡るが、得てして聞いた者は惑わされる。同じ場所をぐるぐると迷わさせる」
「おかしな魔性がいたもんだ。一体何が目的でそんなことを?」
「それについては、あたしが昔、ある漁村の夫婦に聞いた話があるんだが……」そう言って薬師の老人は語り始めた。
ある海のそばの漁村に一人の女が住んでいた。特別なところのないありふれた海の女だ。村の男に嫁ぎ、愛と情と従順さで夫を支えて生きていた。海に生きる者として泳ぎは上手いが、漁をするのは村の男たちで海の女の仕事というと船を掃除したり、網を繕ったり、獲れた魚を加工したりだ。女は夫と喜びも悲しみも分け合って、不満や愚痴をぶつけ合って、仲睦まじく暮らしていた。
しかしある日、夫は漁に出た切り帰らぬ人となってしまった。それもまた、海辺に生きる者たちにとっては珍しくもない話だがその女の悲しみはいかばかりか。夫を失った当人の悲しみは海も野原も関係なく深く暗いものだった。
寡婦となった女は生きる傍ら海辺で祈りを捧げる日々を送った。海の神の怒りを買ってしまったのなら鎮まるように、お調子者だった男の冥福を願うべく、寄せては返す波のように海風に掻き消える祈りを絶やすことなく続けた。
夫が海に消えてどれくらい経った頃だろうか。女は砂浜に跪き、目を瞑り、日々の変わらぬ祈りを唱えていた。が、唱え終える前に目を開き、水平線を眺め渡した。
「あんた? あんたなのかい?」
昼も過ぎて、潮風の吹き荒ぶ海には船一つなく、当然人っ子一人いない。だが女には確かに夫の声が聞こえた。随分と耳にしていなかったが、忘れるはずもない調子は良いが掠れた声だ。
「ねえ、もっかい声を聞かせておくれ。……嗚呼、あんた。その潮風に嗄れた声、忘れやしないよ。いったいどうして声だけで帰って来たんだい?」
女が辛抱強く待っていると、やはり女の耳に返事が届く。声を聞く限りは元気そうだ。とても死人の声には聞こえない。とはいえ、他の誰もと同様に女は死人の声など聞いたことはないが。
「そうだよ。あたしは生きてるよ、もちろん。海辺で祈りを捧げていたらあんたの声が聞こえたんだ。一体全体どういうことなのさ」
塩辛い風と共に届く声と女は会話する。
「冥府、から? いつから海神様はそんなに気前が良くなったの? ともかくあたしは嬉しいよ。声が聞こえるだけでも祈りを捧げ続けた甲斐があるってものだよ」
それからの日々を寡婦の女は新妻のように生きた。短い死別が終わり、新たな日々を生きることに喜びさえ感じた。働く合間に海辺を訪れ、姿のない夫と言葉を交わした。一人で生きる辛さが吹き消されたわけでもないが、夫の声に支えられて生きた。迷えば相談し、迷っていなくとも相談した。欲を言えれば声以外も全て返して欲しかったが、欲張って海神様を怒らせるようなことになって、冥府から漁村に通じる声の秘密の通り道を塞がれては困るので決して口にはしなかった。
当然、村の者たちは夫を亡くした女の頭はおかしくなってしまったのだと考えた。だからといって日々の働きに文句の付け所はなく、幻聴でも夫の声に支えられているのなら、同情はすれども二人のお喋りに水を差そうとは誰も思わなかった。
だがある日、砂浜で泣き崩れている女を、最も親しい友人が見つけた。涙と洟で顔をぐちゃぐちゃにし、声を枯らして泣く女を友は家へと連れ帰り、落ち着くのを待った。
「一体どうしたの? 幼馴染の私にも話せないってことはないんでしょう?」
友が尋ねると、女は訥々と事情を語り始めた。夫が死に、その声が聞こえたところから始まり、件の話へ。
「それであの人が言ったの。まだ若い身空なんだから再婚しろって」
幻の夫の声に言われなくとも、女が落ち着いたらその話をしようと漁村の皆は考えていた。幸い若い独り身の男はまだ何人かいて、同情がきっかけかもしれないが女に思いを寄せている者がいた。
女の友は、しかしその話をするのはまだ先だと口を閉ざし、辛抱強く女の話を聞く。
「そんなつもりはないって言い返したの。言い返しちゃったの。考えてみれば、あの人に言い返すなんて初めてだったかもしれない。でも、あたしは、あたしにも譲れない事はあって……」
そんなものは時間の解決する問題だろうと女の友は心の内で思う。一方、昔から強情なところがあったな、と思い返しもする。
「言い合うことはあっても、あの人の勧めは、あの人の決めたことで、でもあたしはこうして話をできるあんたを知らないふりなんて出来やしないって言ったんだ。そしたら、そしたら……」
次の日から返事をくれなくなったのだという。女は夫が当てつけにやっているのだと涙声で訴えるが、友人には何も言えなかった。そもそも女の夫はもう死んだのだから。夫が話さなくなったのではなく、女が聞かなくなったのに違いない。それはこれから真っ当に生きるならば僥倖だ、と女の友は考えた。
女の日々の営みは夫と死別した直後へと戻った。つまり生活の合間に砂浜へ通って、祈りを捧げる日々だ。少し違うのは夫の返事がなくとも、海に話しかけ続けたことだ。
時間による解決は見られなかった。女がそれほどに深く夫を愛しているとは誰も思っていなかった。女自身でさえもだ。あるいは最後の言い合いのために意固地になってしまっているのかもしれない。それは女にも分からなかった。
「あれはミラスキウレっていうらしいわ」
季節が移り変わった頃、ある日の昼過ぎ、女たちで舟歌を歌いながら網を編んでいた時、女の友人が囁いた。
「あれって?」と女もひそやかに尋ねる。「ミラスキウレ? 何の話?」
「海辺であんたに語り掛けていた魔性よ。前に村にやってきた神官様に聞いたの」
「魔性が何だってあたしのことを揶揄うのさ」
「知らないわ。だけどその神官様はミラスキウレについてよくご存じだったのよ」
そういうと女の友は又聞きした話を語り始める。
ある山を根城とする賊がいた。神聖さから遠く離れた男と高貴さに縁のない女の間に生まれた男だ。賊は苦痛と悲嘆、そして罪悪に塗れた人生を送っていた。腐ったものでなければ盗んだものを食べ、泥水を啜るか奪った酒を舐め、愛も喜びも知らず、欲望と恐怖だけが荒れ狂う人生の指針だった。
しかし賊にとってはそれらが日常であり、初めから終わりまで決まりきったことだった。賊がまだ物心つくかつかない頃に盗むことや傷つけることを教えたのは世間様で、教えられた通りの生き方をしているまでなのだ。
ある日、賊が仕事もそこそこに山の奥に身を隠し、枝葉の天蓋の下、微睡みに耽っていた時、声を聞いた。誰だか知らないが、人の塒に押し入ってこようとは図々しい奴だ、と賊は憤り、いつ手に入れたのかも忘れた錆びついた曲剣を取ると錆びついていない鋭い眼差しで声の主を探してまわった。が、誰も見つからなかった。それでも声は聞こえ続け、疲れ果てた賊はようやく声に耳を傾ける気になった。
「一体何を言ってやがんだ?」
知っている言葉を話しているのだが、生来他者の言葉に耳を傾けて来なかった賊は意味を聞き取るのが難しかったのだ。それでも同じことを繰り返しているようなので、朝霞が消え去っていくように段々と明瞭になっていく。
姿なき声は賊の罪を数え上げていた。賊にとってはささやかな罪から、その重さをよく知る大罪まで、もはや覚えていない幼少の頃の罪から、つい先日、似たような輩と集まって犯した罪まで。ひとの足をわざと踏んづけただとか、家屋に押し入り、盗みを働いた末に火をつけただとか。
そればかりか賊の知らない賊の罪の顛末まで、声は語るのだった。あの時、蹴とばした子供は肋骨の骨を折り、未だに苦しんでいる。あの時、盗んだ金は業病に苦しむ娘を救う高価な薬を買うためのものだった。中には悪人に対して行われた罪もあったが、声の主はいかに賊の行為によって人々が苦しんでいるかを語るのだった。
「うるせえんだよ! 誰なんだてめえ!?」と賊が山に向かって叫ぶと、声の主は答えて、曰く、神だ。
賊にとってはますます苛立たされた。神など何の役にも立たないことを賊はよく知っていた。酷い人生だが、中には善意から説教を垂れる者もいた。神へ祈れだとか、善行を為せだとか。賊は気まぐれに、説教の通りのことを為したこともあった。が、それだけだった。
声など聞かなければいいのだと賊は開き直る。元々、他者の声に耳を傾けることなどなかったのだから、容易いことだ。
だが声は繰り返し繰り返し、賊の罪を数え、他者の苦しみを賊の苦しみかのように語り掛け続けた。聞かないことは容易ではなく、賊に罪悪感が芽生えるのも程なくしてのことだった。
己の罪に憔悴しきり、まともに悪行も為せなくなった賊はついに観念し、声に赦しを乞うた。
すると声は別のことを語り始めた。これまでの語りが、賊の為してきた悪行ならば、それからの語りは賊の為すべき善行だった。
だからといってすぐに素直に声に従えるわけではなかった。
悪行には得るものがあり、善行にはそれがない。そのような甲斐のない行為に賊は恐怖さえ感じた。賊とて知っている。悪行でも善行でもないが、見返りのある労働というものがこの世にあることを。声にそのことを訴えてみたりもする。だが声の語る内容は変わらない。どころか見返りなどあるべきではない、とまで声は話す。
このまま苛まされ、憔悴の果てに殺されるのでは、と賊は考えたが、他に出来ることなどなかった。声の言うままに善行をなす。反吐が出るような徳を積む。苦しんでいる人を助ける。苦しんでなくとも助ける。こちらの方がずっと苦しいのに、と賊は心の中で叫びながら助ける。まるで岩の裏の湿った土に蠢く虫を探すように善行が為されるべき営みを探し求める。
助けた者たちが何かを言っていても聞こえなかった。姿のない声が五月蠅く、そうでなくとも聞き覚えのない言葉だったから意味がよく分からなかった。苦しみから救った人が笑っているのを見ると苛立ちさえ覚えた。何故笑われなければいけないのか分からなかった。
だが、食べ物を差し出された時に全てが変わった。死にかけていたことに初めて気づいた。差し出された食べ物は善行の見返りではなく、感謝の念の現れだと気づいた。助けた者たちの言葉もまた同じだと気づいた。男は涙を流した。哀れな自分のために初めて涙を流した。
それでも声が止むことはなく、男はそれを受け入れ、為すべきことを為し続けた。気が付けば声の求めないことも為していた。誠実に生き、敬虔ささえ身に着けた。多くの人々に愛されるようになり、神殿で身を清めもした。徳の高い神官の手伝いをするうちに感化し、自身もまた神官となるべく学び、行を修め始めた。
いつの頃からか声は聞こえなくなった。しかしそれに気づくべきではなかったのかもしれない。
男は再び苛まれ始める。今度は不安にだ。本当に自身の為している行為は善行なのかどうか、徐々に分からなくなり始めた。声の言うままにやって来た行いならば繰り返せばいいが、新たな出来事は次々に目の前に現れる。声とは別に自身を導いてくれる高位の神官に相談することも憚れた。まだ世に遍く神聖なるものを学び始めたばかりの男が、神の声を聞いていたなどと尊大なことを口にはできなかった。不安は徐々に男の心を圧し潰し始め、耐え切れなくなる前に男は神殿を飛び出し、山へと向かった。神の声を求めて、幽境なる奥深い山へと分け入っていく。元は塒にしていた山の神秘に、今では垣間見ることができた。しかし声は聞こえなかった。男は訴える。
「助けてください。あなたのお導きがなければ私は正しきを為せません!」
しかし誰も答えない。
「あなたのお導きがなければ私は再び悪を為してしまうかもしれません!」
男は涙ながらに訴えるが、答える者はいない。
「せめて初めの頃のように私の罪をお数えください! 私の償うべき罪の数々を! 多くを殺し、騙し、奪いました! それを償える善行を為して見せます!」
姿なき声は沈黙していたが、男に答える者がいた。黙って神殿を抜け出し、山の奥深くへ分け入る男の後をついてきた神官たちだ。
賊は捕らえられ、そして後は処刑を待つばかりとなった。狭い牢獄で償いの時を待つ賊のもとに、師であった高位の神官がやって来た。
「一体お前は何と話していたのだ?」と高位の神官は尋ねた。
もはや神官への道を断たれた咎人は答える。「神の声です」と。そしてこれまでのことを洗いざらいすべて告白した。
もはや師ではない神官は、もはや弟子ではない咎人の尊大な考えを嘲る。
「それはミラスキウレだろう。お前は揶揄われたのだ」
「何ですか? それは」
「聖職に身を置く者が知っていても詮無い噂だ。だが、まあ、一度は師として導いた弟子の、これが最期なのだ。聞かせてやろう。これは出入りの薬師に聞いた話だが……」神官は魔性の物語について語り始める。
ある男がいた。生気のない男だ。何をするにもやる気がなく、生きているのが不思議なくらいに何も頓着のない男だ。親の仕事を引き継ぎ、何とか生き延びているというありさまだった。
とはいえ、何も理由なく気力がないわけではない。大して幸福に満ちた人生ではなかったが、健康に育ち、妻に恵まれ、概ね人生は上向いていた。ありふれた田舎に生きる、平凡な男だったが、妻が妊娠し、稼ぎも足りていて、ありふれた幸福に満ちていた。もうすぐ父になろうという日々に気を引き締め、ほんの少しでも妻を楽にしてやるべく、身を粉にして働いていた。が、しかし腹の子と共に妻は死んだ。足を滑らせ、流れの速い渓流へと落ち、溺死したのだった。呆気ないものだった。
何もかもに絶望し、生きる意味を失った男がそれでも生に何とかしがみつけていた理由は男だけが知る秘密だった。
いつものように山魚を街で売って帰る夜も遅い道すがら、いつも通り抜ける森を前に男は呟く。
「さあ、今日も声を聞かせておくれ」
そうして男は歩き慣れた森の中へ、奥へ奥へと分け入っていく。
「嗚呼、迷ってしまったなあ。また迷ってしまった」
闇の奥に潜む者に語り掛けるように、男は独り言ちた。子の行儀の良さに目を光らせる母に言い訳でもするような調子で呟いた。先ほどまで背後についていた街の灯は遠く離れ、空の縁に微かにかかるばかり、頭上で忠告するように瞬いていた星明かりも木の葉の合間に朧気で、そんな深い森の奥に男はいた。歩いていた。春のように若くもないが秋のように老いてもいない。人生の半ばも迎えていない男だ。生来の怠け者ではないが、今を生きるために最低限の仕事しかしていなかった。かつては山を庭に駆け回り、渓流を物ともせずに泳ぐような子供時代を生き抜いた逞しい男だったが、今は枯れ木のように痩せ細っている。
男の霞んだ声に応える者はいない。さりとて夜闇の向こうには確かにこの森に棲んでいる者たちの気配がある。風を弓に掻き鳴らす葉擦れの音に、柔らかな土をそっと踏みつけて駆け抜ける音、急かすように連なる獣の吐息の歌。森に潜む者どもはぶつぶつと呟く男の声を遠巻きにしつつ、しかし離れすぎることなく塑像でも眺めるように男の様子を窺っている。
「困ったなあ。これは困った。どうしたものか。どうしたものかなあ」
森に迷っているという言葉とは裏腹に、男の足取りは確かで、勝利を信じる軍勢のように闇も正体不明の気配にも動じることなく突き進んでいる。それでもやはり男は道に迷っている様子で、同じ場所を長い時間かけてぐるぐると回っていた。
「おや、そうかい?」と男は独り少しばかり声を上擦らせる。喜びを抑えても零れ出るという様子だ。「こっちに行けばいいのかな?」
そう言って、行く方向を変えるが、それでも男は同じ場所をぐるぐるぐるぐると大きく回り続ける。ふと、朧気な明かりが木々の奥に現れた。営みの灯が輝き、炊事の煙が揺蕩っている。男もその明かりを視界の端に捉えているが意にも介さず、それでもやはり男は森を迷い続けた。
「こっちかね? そっちかね? 悪い悪い。方向音痴というやつかな。いつからだって? どうだったかな。呆れたかい? 拗ねないでおくれ」
男はただひたすらに歩き、闇に話しかけ、確固たる足取りで迷い続ける。人肉か腐葉土か知れない感触を踏みつけても、濡れた手か温い風か知れない感触に首を触れられても、構わず気にせず歩き続ける。まるで夢の中を歩いているかのように男は呆けたような表情を浮かべ、声を弾ませ、どこにもたどり着かない歩を進める。
が、唐突に男は立ち止まり、首を傾げ、耳を澄ませた。男とは別の声が聞こえたのだ。獣や鳥や虫でもない。風や葉擦れや魔性でもない。確かな人の声に、むしろ男は身を震わせ、恐る恐る近づいていく。
木々の奥へ慎重に歩み寄り、藪の向こうを覗き込む。と同時に悲鳴を聞く。しゃがれた悲鳴の主は男よりも一回りか二回り年老いた男で、杖を突いている。余りの多い衣を着て、鼻孔をさするような刺すような香りを放っている。
「おや、あんたは街の薬師さんじゃないかね?」
男が問いかけると、老人はほっと息をつく。
「そういうあんた様は誰かね? あたしを知っているということは丘向こうの郷里の者かね」
「そうだよ。漁師をやってる者だ。今は山魚を売った帰りだが。どうやらお疲れのようだ」
「然様。その上、道に迷い、夜も更け、足をくじいてしまった。あんた様の郷里へ行くところだ。肩を貸してくれるかね?」
「お安い御用だ。さあ、思う存分使っておくれ。もはや背負うもののない軽い肩だ」
男は薬師の老人に肩を貸し、森を行く。その足取りはやはり確かで、迷いはない。
「こう暗くては敵わんな。いつの間に道を外れたのか」と老人はぼやく。「お前さんはこの暗闇で道が分かるのかね?」
「もちろん。がきの頃から走り回った野山だよ。目を瞑ってたって好きなところへ行けるものさ」
「それなら良いが。目は開けておいてくれよ?」
男の先導で二人は闇に塗り潰された森を進み、東西に横たわる丘を回り込み、ぽつりぽつりと今灯されたかのように郷里の明かりが見えてきた。丁度森も抜け、燃え立つような月と星に二人は照らされる。
「どんなもんだい。木々も起伏も頭の中にしっかり入ってるからね。最も疲れない距離を行くのも簡単なもんだよ」
老人はまじまじと男を見つめた後に頭を下げる。
「すまないね。疑っていたわけじゃないが、だがあんた、あたしに会うまで道に迷ってやいなかったかい? あんたの声が聞こえたが、誰かと話しているように聞こえたな」
男は老人の皴を数えるかのように見つめ、溜息をつく。
「嬶と、僕の妻と話していたんだよ」
老人はちらと振り返り、真っ暗な穴が空いているかのような森を盗み見る。
「あんたは独りだったんだろう?」
「いいや」と言いつつ男は観念したようにはにかむ。「……ああ、そうだ。だけどね。声が聞こえるんだよ。嬶の声が。僕が迷っていると、特に道に迷ったりしていると。こっちだよ、あっちだよって声が聞こえるんだ。どんなに遠く離れていても聞こえる。その声に従えば間違いないって寸法さ」
「間違いないなら迷わなかろう?」と老人は問うが男は照れ臭そうに笑うばかり。老人は唸るような声を漏らし、何かを思い返すように考える。「あんたはミラスキウレに巡り合ったのかもしれないね」
「何だい? それは」
「魔性だよ。人に話しかけて、その内容は多岐に渡るが、得てして聞いた者は惑わされる。同じ場所をぐるぐると迷わさせる」
「おかしな魔性がいたもんだ。一体何が目的でそんなことを?」
「それについては、あたしが昔、ある漁村の夫婦に聞いた話があるんだが……」そう言って薬師の老人は語り始めた。
ある海のそばの漁村に一人の女が住んでいた。特別なところのないありふれた海の女だ。村の男に嫁ぎ、愛と情と従順さで夫を支えて生きていた。海に生きる者として泳ぎは上手いが、漁をするのは村の男たちで海の女の仕事というと船を掃除したり、網を繕ったり、獲れた魚を加工したりだ。女は夫と喜びも悲しみも分け合って、不満や愚痴をぶつけ合って、仲睦まじく暮らしていた。
しかしある日、夫は漁に出た切り帰らぬ人となってしまった。それもまた、海辺に生きる者たちにとっては珍しくもない話だがその女の悲しみはいかばかりか。夫を失った当人の悲しみは海も野原も関係なく深く暗いものだった。
寡婦となった女は生きる傍ら海辺で祈りを捧げる日々を送った。海の神の怒りを買ってしまったのなら鎮まるように、お調子者だった男の冥福を願うべく、寄せては返す波のように海風に掻き消える祈りを絶やすことなく続けた。
夫が海に消えてどれくらい経った頃だろうか。女は砂浜に跪き、目を瞑り、日々の変わらぬ祈りを唱えていた。が、唱え終える前に目を開き、水平線を眺め渡した。
「あんた? あんたなのかい?」
昼も過ぎて、潮風の吹き荒ぶ海には船一つなく、当然人っ子一人いない。だが女には確かに夫の声が聞こえた。随分と耳にしていなかったが、忘れるはずもない調子は良いが掠れた声だ。
「ねえ、もっかい声を聞かせておくれ。……嗚呼、あんた。その潮風に嗄れた声、忘れやしないよ。いったいどうして声だけで帰って来たんだい?」
女が辛抱強く待っていると、やはり女の耳に返事が届く。声を聞く限りは元気そうだ。とても死人の声には聞こえない。とはいえ、他の誰もと同様に女は死人の声など聞いたことはないが。
「そうだよ。あたしは生きてるよ、もちろん。海辺で祈りを捧げていたらあんたの声が聞こえたんだ。一体全体どういうことなのさ」
塩辛い風と共に届く声と女は会話する。
「冥府、から? いつから海神様はそんなに気前が良くなったの? ともかくあたしは嬉しいよ。声が聞こえるだけでも祈りを捧げ続けた甲斐があるってものだよ」
それからの日々を寡婦の女は新妻のように生きた。短い死別が終わり、新たな日々を生きることに喜びさえ感じた。働く合間に海辺を訪れ、姿のない夫と言葉を交わした。一人で生きる辛さが吹き消されたわけでもないが、夫の声に支えられて生きた。迷えば相談し、迷っていなくとも相談した。欲を言えれば声以外も全て返して欲しかったが、欲張って海神様を怒らせるようなことになって、冥府から漁村に通じる声の秘密の通り道を塞がれては困るので決して口にはしなかった。
当然、村の者たちは夫を亡くした女の頭はおかしくなってしまったのだと考えた。だからといって日々の働きに文句の付け所はなく、幻聴でも夫の声に支えられているのなら、同情はすれども二人のお喋りに水を差そうとは誰も思わなかった。
だがある日、砂浜で泣き崩れている女を、最も親しい友人が見つけた。涙と洟で顔をぐちゃぐちゃにし、声を枯らして泣く女を友は家へと連れ帰り、落ち着くのを待った。
「一体どうしたの? 幼馴染の私にも話せないってことはないんでしょう?」
友が尋ねると、女は訥々と事情を語り始めた。夫が死に、その声が聞こえたところから始まり、件の話へ。
「それであの人が言ったの。まだ若い身空なんだから再婚しろって」
幻の夫の声に言われなくとも、女が落ち着いたらその話をしようと漁村の皆は考えていた。幸い若い独り身の男はまだ何人かいて、同情がきっかけかもしれないが女に思いを寄せている者がいた。
女の友は、しかしその話をするのはまだ先だと口を閉ざし、辛抱強く女の話を聞く。
「そんなつもりはないって言い返したの。言い返しちゃったの。考えてみれば、あの人に言い返すなんて初めてだったかもしれない。でも、あたしは、あたしにも譲れない事はあって……」
そんなものは時間の解決する問題だろうと女の友は心の内で思う。一方、昔から強情なところがあったな、と思い返しもする。
「言い合うことはあっても、あの人の勧めは、あの人の決めたことで、でもあたしはこうして話をできるあんたを知らないふりなんて出来やしないって言ったんだ。そしたら、そしたら……」
次の日から返事をくれなくなったのだという。女は夫が当てつけにやっているのだと涙声で訴えるが、友人には何も言えなかった。そもそも女の夫はもう死んだのだから。夫が話さなくなったのではなく、女が聞かなくなったのに違いない。それはこれから真っ当に生きるならば僥倖だ、と女の友は考えた。
女の日々の営みは夫と死別した直後へと戻った。つまり生活の合間に砂浜へ通って、祈りを捧げる日々だ。少し違うのは夫の返事がなくとも、海に話しかけ続けたことだ。
時間による解決は見られなかった。女がそれほどに深く夫を愛しているとは誰も思っていなかった。女自身でさえもだ。あるいは最後の言い合いのために意固地になってしまっているのかもしれない。それは女にも分からなかった。
「あれはミラスキウレっていうらしいわ」
季節が移り変わった頃、ある日の昼過ぎ、女たちで舟歌を歌いながら網を編んでいた時、女の友人が囁いた。
「あれって?」と女もひそやかに尋ねる。「ミラスキウレ? 何の話?」
「海辺であんたに語り掛けていた魔性よ。前に村にやってきた神官様に聞いたの」
「魔性が何だってあたしのことを揶揄うのさ」
「知らないわ。だけどその神官様はミラスキウレについてよくご存じだったのよ」
そういうと女の友は又聞きした話を語り始める。
ある山を根城とする賊がいた。神聖さから遠く離れた男と高貴さに縁のない女の間に生まれた男だ。賊は苦痛と悲嘆、そして罪悪に塗れた人生を送っていた。腐ったものでなければ盗んだものを食べ、泥水を啜るか奪った酒を舐め、愛も喜びも知らず、欲望と恐怖だけが荒れ狂う人生の指針だった。
しかし賊にとってはそれらが日常であり、初めから終わりまで決まりきったことだった。賊がまだ物心つくかつかない頃に盗むことや傷つけることを教えたのは世間様で、教えられた通りの生き方をしているまでなのだ。
ある日、賊が仕事もそこそこに山の奥に身を隠し、枝葉の天蓋の下、微睡みに耽っていた時、声を聞いた。誰だか知らないが、人の塒に押し入ってこようとは図々しい奴だ、と賊は憤り、いつ手に入れたのかも忘れた錆びついた曲剣を取ると錆びついていない鋭い眼差しで声の主を探してまわった。が、誰も見つからなかった。それでも声は聞こえ続け、疲れ果てた賊はようやく声に耳を傾ける気になった。
「一体何を言ってやがんだ?」
知っている言葉を話しているのだが、生来他者の言葉に耳を傾けて来なかった賊は意味を聞き取るのが難しかったのだ。それでも同じことを繰り返しているようなので、朝霞が消え去っていくように段々と明瞭になっていく。
姿なき声は賊の罪を数え上げていた。賊にとってはささやかな罪から、その重さをよく知る大罪まで、もはや覚えていない幼少の頃の罪から、つい先日、似たような輩と集まって犯した罪まで。ひとの足をわざと踏んづけただとか、家屋に押し入り、盗みを働いた末に火をつけただとか。
そればかりか賊の知らない賊の罪の顛末まで、声は語るのだった。あの時、蹴とばした子供は肋骨の骨を折り、未だに苦しんでいる。あの時、盗んだ金は業病に苦しむ娘を救う高価な薬を買うためのものだった。中には悪人に対して行われた罪もあったが、声の主はいかに賊の行為によって人々が苦しんでいるかを語るのだった。
「うるせえんだよ! 誰なんだてめえ!?」と賊が山に向かって叫ぶと、声の主は答えて、曰く、神だ。
賊にとってはますます苛立たされた。神など何の役にも立たないことを賊はよく知っていた。酷い人生だが、中には善意から説教を垂れる者もいた。神へ祈れだとか、善行を為せだとか。賊は気まぐれに、説教の通りのことを為したこともあった。が、それだけだった。
声など聞かなければいいのだと賊は開き直る。元々、他者の声に耳を傾けることなどなかったのだから、容易いことだ。
だが声は繰り返し繰り返し、賊の罪を数え、他者の苦しみを賊の苦しみかのように語り掛け続けた。聞かないことは容易ではなく、賊に罪悪感が芽生えるのも程なくしてのことだった。
己の罪に憔悴しきり、まともに悪行も為せなくなった賊はついに観念し、声に赦しを乞うた。
すると声は別のことを語り始めた。これまでの語りが、賊の為してきた悪行ならば、それからの語りは賊の為すべき善行だった。
だからといってすぐに素直に声に従えるわけではなかった。
悪行には得るものがあり、善行にはそれがない。そのような甲斐のない行為に賊は恐怖さえ感じた。賊とて知っている。悪行でも善行でもないが、見返りのある労働というものがこの世にあることを。声にそのことを訴えてみたりもする。だが声の語る内容は変わらない。どころか見返りなどあるべきではない、とまで声は話す。
このまま苛まされ、憔悴の果てに殺されるのでは、と賊は考えたが、他に出来ることなどなかった。声の言うままに善行をなす。反吐が出るような徳を積む。苦しんでいる人を助ける。苦しんでなくとも助ける。こちらの方がずっと苦しいのに、と賊は心の中で叫びながら助ける。まるで岩の裏の湿った土に蠢く虫を探すように善行が為されるべき営みを探し求める。
助けた者たちが何かを言っていても聞こえなかった。姿のない声が五月蠅く、そうでなくとも聞き覚えのない言葉だったから意味がよく分からなかった。苦しみから救った人が笑っているのを見ると苛立ちさえ覚えた。何故笑われなければいけないのか分からなかった。
だが、食べ物を差し出された時に全てが変わった。死にかけていたことに初めて気づいた。差し出された食べ物は善行の見返りではなく、感謝の念の現れだと気づいた。助けた者たちの言葉もまた同じだと気づいた。男は涙を流した。哀れな自分のために初めて涙を流した。
それでも声が止むことはなく、男はそれを受け入れ、為すべきことを為し続けた。気が付けば声の求めないことも為していた。誠実に生き、敬虔ささえ身に着けた。多くの人々に愛されるようになり、神殿で身を清めもした。徳の高い神官の手伝いをするうちに感化し、自身もまた神官となるべく学び、行を修め始めた。
いつの頃からか声は聞こえなくなった。しかしそれに気づくべきではなかったのかもしれない。
男は再び苛まれ始める。今度は不安にだ。本当に自身の為している行為は善行なのかどうか、徐々に分からなくなり始めた。声の言うままにやって来た行いならば繰り返せばいいが、新たな出来事は次々に目の前に現れる。声とは別に自身を導いてくれる高位の神官に相談することも憚れた。まだ世に遍く神聖なるものを学び始めたばかりの男が、神の声を聞いていたなどと尊大なことを口にはできなかった。不安は徐々に男の心を圧し潰し始め、耐え切れなくなる前に男は神殿を飛び出し、山へと向かった。神の声を求めて、幽境なる奥深い山へと分け入っていく。元は塒にしていた山の神秘に、今では垣間見ることができた。しかし声は聞こえなかった。男は訴える。
「助けてください。あなたのお導きがなければ私は正しきを為せません!」
しかし誰も答えない。
「あなたのお導きがなければ私は再び悪を為してしまうかもしれません!」
男は涙ながらに訴えるが、答える者はいない。
「せめて初めの頃のように私の罪をお数えください! 私の償うべき罪の数々を! 多くを殺し、騙し、奪いました! それを償える善行を為して見せます!」
姿なき声は沈黙していたが、男に答える者がいた。黙って神殿を抜け出し、山の奥深くへ分け入る男の後をついてきた神官たちだ。
賊は捕らえられ、そして後は処刑を待つばかりとなった。狭い牢獄で償いの時を待つ賊のもとに、師であった高位の神官がやって来た。
「一体お前は何と話していたのだ?」と高位の神官は尋ねた。
もはや神官への道を断たれた咎人は答える。「神の声です」と。そしてこれまでのことを洗いざらいすべて告白した。
もはや師ではない神官は、もはや弟子ではない咎人の尊大な考えを嘲る。
「それはミラスキウレだろう。お前は揶揄われたのだ」
「何ですか? それは」
「聖職に身を置く者が知っていても詮無い噂だ。だが、まあ、一度は師として導いた弟子の、これが最期なのだ。聞かせてやろう。これは出入りの薬師に聞いた話だが……」神官は魔性の物語について語り始める。
ある男がいた。生気のない男だ。何をするにもやる気がなく、生きているのが不思議なくらいに何も頓着のない男だ。親の仕事を引き継ぎ、何とか生き延びているというありさまだった。
とはいえ、何も理由なく気力がないわけではない。大して幸福に満ちた人生ではなかったが、健康に育ち、妻に恵まれ、概ね人生は上向いていた。ありふれた田舎に生きる、平凡な男だったが、妻が妊娠し、稼ぎも足りていて、ありふれた幸福に満ちていた。もうすぐ父になろうという日々に気を引き締め、ほんの少しでも妻を楽にしてやるべく、身を粉にして働いていた。が、しかし腹の子と共に妻は死んだ。足を滑らせ、流れの速い渓流へと落ち、溺死したのだった。呆気ないものだった。
何もかもに絶望し、生きる意味を失った男がそれでも生に何とかしがみつけていた理由は男だけが知る秘密だった。
いつものように山魚を街で売って帰る夜も遅い道すがら、いつも通り抜ける森を前に男は呟く。
「さあ、今日も声を聞かせておくれ」
そうして男は歩き慣れた森の中へ、奥へ奥へと分け入っていく。
「嗚呼、迷ってしまったなあ。また迷ってしまった」
闇の奥に潜む者に語り掛けるように、男は独り言ちた。子の行儀の良さに目を光らせる母に言い訳でもするような調子で呟いた。先ほどまで背後についていた街の灯は遠く離れ、空の縁に微かにかかるばかり、頭上で忠告するように瞬いていた星明かりも木の葉の合間に朧気で、そんな深い森の奥に男はいた。歩いていた。春のように若くもないが秋のように老いてもいない。人生の半ばも迎えていない男だ。生来の怠け者ではないが、今を生きるために最低限の仕事しかしていなかった。かつては山を庭に駆け回り、渓流を物ともせずに泳ぐような子供時代を生き抜いた逞しい男だったが、今は枯れ木のように痩せ細っている。
男の霞んだ声に応える者はいない。さりとて夜闇の向こうには確かにこの森に棲んでいる者たちの気配がある。風を弓に掻き鳴らす葉擦れの音に、柔らかな土をそっと踏みつけて駆け抜ける音、急かすように連なる獣の吐息の歌。森に潜む者どもはぶつぶつと呟く男の声を遠巻きにしつつ、しかし離れすぎることなく塑像でも眺めるように男の様子を窺っている。
「困ったなあ。これは困った。どうしたものか。どうしたものかなあ」
森に迷っているという言葉とは裏腹に、男の足取りは確かで、勝利を信じる軍勢のように闇も正体不明の気配にも動じることなく突き進んでいる。それでもやはり男は道に迷っている様子で、同じ場所を長い時間かけてぐるぐると回っていた。
「おや、そうかい?」と男は独り少しばかり声を上擦らせる。喜びを抑えても零れ出るという様子だ。「こっちに行けばいいのかな?」
そう言って、行く方向を変えるが、それでも男は同じ場所をぐるぐるぐるぐると大きく回り続ける。ふと、朧気な明かりが木々の奥に現れた。営みの灯が輝き、炊事の煙が揺蕩っている。男もその明かりを視界の端に捉えているが意にも介さず、それでもやはり男は森を迷い続けた。
「こっちかね? そっちかね? 悪い悪い。方向音痴というやつかな。いつからだって? どうだったかな。呆れたかい? 拗ねないでおくれ」
男はただひたすらに歩き、闇に話しかけ、確固たる足取りで迷い続ける。人肉か腐葉土か知れない感触を踏みつけても、濡れた手か温い風か知れない感触に首を触れられても、構わず気にせず歩き続ける。まるで夢の中を歩いているかのように男は呆けたような表情を浮かべ、声を弾ませ、どこにもたどり着かない歩を進める。
が、唐突に男は立ち止まり、首を傾げ、耳を澄ませた。男とは別の声が聞こえたのだ。獣や鳥や虫でもない。風や葉擦れや魔性でもない。確かな人の声に、むしろ男は身を震わせ、恐る恐る近づいていく。
木々の奥へ慎重に歩み寄り、藪の向こうを覗き込む。と同時に悲鳴を聞く。しゃがれた悲鳴の主は男よりも一回りか二回り年老いた男で、杖を突いている。余りの多い衣を着て、鼻孔をさするような刺すような香りを放っている。
「おや、あんたは街の薬師さんじゃないかね?」
男が問いかけると、老人はほっと息をつく。
「そういうあんた様は誰かね? あたしを知っているということは丘向こうの郷里の者かね」
「そうだよ。漁師をやってる者だ。今は山魚を売った帰りだが。どうやらお疲れのようだ」
「然様。その上、道に迷い、夜も更け、足をくじいてしまった。あんた様の郷里へ行くところだ。肩を貸してくれるかね?」
「お安い御用だ。さあ、思う存分使っておくれ。もはや背負うもののない軽い肩だ」
男は薬師の老人に肩を貸し、森を行く。その足取りはやはり確かで、迷いはない。
「こう暗くては敵わんな。いつの間に道を外れたのか」と老人はぼやく。「お前さんはこの暗闇で道が分かるのかね?」
「もちろん。がきの頃から走り回った野山だよ。目を瞑ってたって好きなところへ行けるものさ」
「それなら良いが。目は開けておいてくれよ?」
男の先導で二人は闇に塗り潰された森を進み、東西に横たわる丘を回り込み、ぽつりぽつりと今灯されたかのように郷里の明かりが見えてきた。丁度森も抜け、燃え立つような月と星に二人は照らされる。
「どんなもんだい。木々も起伏も頭の中にしっかり入ってるからね。最も疲れない距離を行くのも簡単なもんだよ」
老人はまじまじと男を見つめた後に頭を下げる。
「すまないね。疑っていたわけじゃないが、だがあんた、あたしに会うまで道に迷ってやいなかったかい? あんたの声が聞こえたが、誰かと話しているように聞こえたな」
男は老人の皴を数えるかのように見つめ、溜息をつく。
「嬶と、僕の妻と話していたんだよ」
老人はちらと振り返り、真っ暗な穴が空いているかのような森を盗み見る。
「あんたは独りだったんだろう?」
「いいや」と言いつつ男は観念したようにはにかむ。「……ああ、そうだ。だけどね。声が聞こえるんだよ。嬶の声が。僕が迷っていると、特に道に迷ったりしていると。こっちだよ、あっちだよって声が聞こえるんだ。どんなに遠く離れていても聞こえる。その声に従えば間違いないって寸法さ」
「間違いないなら迷わなかろう?」と老人は問うが男は照れ臭そうに笑うばかり。老人は唸るような声を漏らし、何かを思い返すように考える。「あんたはミラスキウレに巡り合ったのかもしれないね」
「何だい? それは」
「魔性だよ。人に話しかけて、その内容は多岐に渡るが、得てして聞いた者は惑わされる。同じ場所をぐるぐると迷わさせる」
「おかしな魔性がいたもんだ。一体何が目的でそんなことを?」
「それについては、あたしが昔、ある漁村の夫婦に聞いた話があるんだが……」そう言って薬師の老人は語り始めた。
ある海のそばの漁村に一人の女が住んでいた。特別なところのないありふれた海の女だ。村の男に嫁ぎ、愛と情と従順さで夫を支えて生きていた。海に生きる者として泳ぎは上手いが、漁をするのは村の男たちで海の女の仕事というと船を掃除したり、網を繕ったり、獲れた魚を加工したりだ。女は夫と喜びも悲しみも分け合って、不満や愚痴をぶつけ合って、仲睦まじく暮らしていた。
しかしある日、夫は漁に出た切り帰らぬ人となってしまった。それもまた、海辺に生きる者たちにとっては珍しくもない話だがその女の悲しみはいかばかりか。夫を失った当人の悲しみは海も野原も関係なく深く暗いものだった。
寡婦となった女は生きる傍ら海辺で祈りを捧げる日々を送った。海の神の怒りを買ってしまったのなら鎮まるように、お調子者だった男の冥福を願うべく、寄せては返す波のように海風に掻き消える祈りを絶やすことなく続けた。
夫が海に消えてどれくらい経った頃だろうか。女は砂浜に跪き、目を瞑り、日々の変わらぬ祈りを唱えていた。が、唱え終える前に目を開き、水平線を眺め渡した。
「あんた? あんたなのかい?」
昼も過ぎて、潮風の吹き荒ぶ海には船一つなく、当然人っ子一人いない。だが女には確かに夫の声が聞こえた。随分と耳にしていなかったが、忘れるはずもない調子は良いが掠れた声だ。
「ねえ、もっかい声を聞かせておくれ。……嗚呼、あんた。その潮風に嗄れた声、忘れやしないよ。いったいどうして声だけで帰って来たんだい?」
女が辛抱強く待っていると、やはり女の耳に返事が届く。声を聞く限りは元気そうだ。とても死人の声には聞こえない。とはいえ、他の誰もと同様に女は死人の声など聞いたことはないが。
「そうだよ。あたしは生きてるよ、もちろん。海辺で祈りを捧げていたらあんたの声が聞こえたんだ。一体全体どういうことなのさ」
塩辛い風と共に届く声と女は会話する。
「冥府、から? いつから海神様はそんなに気前が良くなったの? ともかくあたしは嬉しいよ。声が聞こえるだけでも祈りを捧げ続けた甲斐があるってものだよ」
それからの日々を寡婦の女は新妻のように生きた。短い死別が終わり、新たな日々を生きることに喜びさえ感じた。働く合間に海辺を訪れ、姿のない夫と言葉を交わした。一人で生きる辛さが吹き消されたわけでもないが、夫の声に支えられて生きた。迷えば相談し、迷っていなくとも相談した。欲を言えれば声以外も全て返して欲しかったが、欲張って海神様を怒らせるようなことになって、冥府から漁村に通じる声の秘密の通り道を塞がれては困るので決して口にはしなかった。
当然、村の者たちは夫を亡くした女の頭はおかしくなってしまったのだと考えた。だからといって日々の働きに文句の付け所はなく、幻聴でも夫の声に支えられているのなら、同情はすれども二人のお喋りに水を差そうとは誰も思わなかった。
だがある日、砂浜で泣き崩れている女を、最も親しい友人が見つけた。涙と洟で顔をぐちゃぐちゃにし、声を枯らして泣く女を友は家へと連れ帰り、落ち着くのを待った。
「一体どうしたの? 幼馴染の私にも話せないってことはないんでしょう?」
友が尋ねると、女は訥々と事情を語り始めた。夫が死に、その声が聞こえたところから始まり、件の話へ。
「それであの人が言ったの。まだ若い身空なんだから再婚しろって」
幻の夫の声に言われなくとも、女が落ち着いたらその話をしようと漁村の皆は考えていた。幸い若い独り身の男はまだ何人かいて、同情がきっかけかもしれないが女に思いを寄せている者がいた。
女の友は、しかしその話をするのはまだ先だと口を閉ざし、辛抱強く女の話を聞く。
「そんなつもりはないって言い返したの。言い返しちゃったの。考えてみれば、あの人に言い返すなんて初めてだったかもしれない。でも、あたしは、あたしにも譲れない事はあって……」
そんなものは時間の解決する問題だろうと女の友は心の内で思う。一方、昔から強情なところがあったな、と思い返しもする。
「言い合うことはあっても、あの人の勧めは、あの人の決めたことで、でもあたしはこうして話をできるあんたを知らないふりなんて出来やしないって言ったんだ。そしたら、そしたら……」
次の日から返事をくれなくなったのだという。女は夫が当てつけにやっているのだと涙声で訴えるが、友人には何も言えなかった。そもそも女の夫はもう死んだのだから。夫が話さなくなったのではなく、女が聞かなくなったのに違いない。それはこれから真っ当に生きるならば僥倖だ、と女の友は考えた。
女の日々の営みは夫と死別した直後へと戻った。つまり生活の合間に砂浜へ通って、祈りを捧げる日々だ。少し違うのは夫の返事がなくとも、海に話しかけ続けたことだ。
時間による解決は見られなかった。女がそれほどに深く夫を愛しているとは誰も思っていなかった。女自身でさえもだ。あるいは最後の言い合いのために意固地になってしまっているのかもしれない。それは女にも分からなかった。
「あれはミラスキウレっていうらしいわ」
季節が移り変わった頃、ある日の昼過ぎ、女たちで舟歌を歌いながら網を編んでいた時、女の友人が囁いた。
「あれって?」と女もひそやかに尋ねる。「ミラスキウレ? 何の話?」
「海辺であんたに語り掛けていた魔性よ。前に村にやってきた神官様に聞いたの」
「魔性が何だってあたしのことを揶揄うのさ」
「知らないわ。だけどその神官様はミラスキウレについてよくご存じだったのよ」
そういうと女の友は又聞きした話を語り始める。
ある山を根城とする賊がいた。神聖さから遠く離れた男と高貴さに縁のない女の間に生まれた男だ。賊は苦痛と悲嘆、そして罪悪に塗れた人生を送っていた。腐ったものでなければ盗んだものを食べ、泥水を啜るか奪った酒を舐め、愛も喜びも知らず、欲望と恐怖だけが荒れ狂う人生の指針だった。
しかし賊にとってはそれらが日常であり、初めから終わりまで決まりきったことだった。賊がまだ物心つくかつかない頃に盗むことや傷つけることを教えたのは世間様で、教えられた通りの生き方をしているまでなのだ。
ある日、賊が仕事もそこそこに山の奥に身を隠し、枝葉の天蓋の下、微睡みに耽っていた時、声を聞いた。誰だか知らないが、人の塒に押し入ってこようとは図々しい奴だ、と賊は憤り、いつ手に入れたのかも忘れた錆びついた曲剣を取ると錆びついていない鋭い眼差しで声の主を探してまわった。が、誰も見つからなかった。それでも声は聞こえ続け、疲れ果てた賊はようやく声に耳を傾ける気になった。
「一体何を言ってやがんだ?」
知っている言葉を話しているのだが、生来他者の言葉に耳を傾けて来なかった賊は意味を聞き取るのが難しかったのだ。それでも同じことを繰り返しているようなので、朝霞が消え去っていくように段々と明瞭になっていく。
姿なき声は賊の罪を数え上げていた。賊にとってはささやかな罪から、その重さをよく知る大罪まで、もはや覚えていない幼少の頃の罪から、つい先日、似たような輩と集まって犯した罪まで。ひとの足をわざと踏んづけただとか、家屋に押し入り、盗みを働いた末に火をつけただとか。
そればかりか賊の知らない賊の罪の顛末まで、声は語るのだった。あの時、蹴とばした子供は肋骨の骨を折り、未だに苦しんでいる。あの時、盗んだ金は業病に苦しむ娘を救う高価な薬を買うためのものだった。中には悪人に対して行われた罪もあったが、声の主はいかに賊の行為によって人々が苦しんでいるかを語るのだった。
「うるせえんだよ! 誰なんだてめえ!?」と賊が山に向かって叫ぶと、声の主は答えて、曰く、神だ。
賊にとってはますます苛立たされた。神など何の役にも立たないことを賊はよく知っていた。酷い人生だが、中には善意から説教を垂れる者もいた。神へ祈れだとか、善行を為せだとか。賊は気まぐれに、説教の通りのことを為したこともあった。が、それだけだった。
声など聞かなければいいのだと賊は開き直る。元々、他者の声に耳を傾けることなどなかったのだから、容易いことだ。
だが声は繰り返し繰り返し、賊の罪を数え、他者の苦しみを賊の苦しみかのように語り掛け続けた。聞かないことは容易ではなく、賊に罪悪感が芽生えるのも程なくしてのことだった。
己の罪に憔悴しきり、まともに悪行も為せなくなった賊はついに観念し、声に赦しを乞うた。
すると声は別のことを語り始めた。これまでの語りが、賊の為してきた悪行ならば、それからの語りは賊の為すべき善行だった。
だからといってすぐに素直に声に従えるわけではなかった。
悪行には得るものがあり、善行にはそれがない。そのような甲斐のない行為に賊は恐怖さえ感じた。賊とて知っている。悪行でも善行でもないが、見返りのある労働というものがこの世にあることを。声にそのことを訴えてみたりもする。だが声の語る内容は変わらない。どころか見返りなどあるべきではない、とまで声は話す。
このまま苛まされ、憔悴の果てに殺されるのでは、と賊は考えたが、他に出来ることなどなかった。声の言うままに善行をなす。反吐が出るような徳を積む。苦しんでいる人を助ける。苦しんでなくとも助ける。こちらの方がずっと苦しいのに、と賊は心の中で叫びながら助ける。まるで岩の裏の湿った土に蠢く虫を探すように善行が為されるべき営みを探し求める。
助けた者たちが何かを言っていても聞こえなかった。姿のない声が五月蠅く、そうでなくとも聞き覚えのない言葉だったから意味がよく分からなかった。苦しみから救った人が笑っているのを見ると苛立ちさえ覚えた。何故笑われなければいけないのか分からなかった。
だが、食べ物を差し出された時に全てが変わった。死にかけていたことに初めて気づいた。差し出された食べ物は善行の見返りではなく、感謝の念の現れだと気づいた。助けた者たちの言葉もまた同じだと気づいた。男は涙を流した。哀れな自分のために初めて涙を流した。
それでも声が止むことはなく、男はそれを受け入れ、為すべきことを為し続けた。気が付けば声の求めないことも為していた。誠実に生き、敬虔ささえ身に着けた。多くの人々に愛されるようになり、神殿で身を清めもした。徳の高い神官の手伝いをするうちに感化し、自身もまた神官となるべく学び、行を修め始めた。
いつの頃からか声は聞こえなくなった。しかしそれに気づくべきではなかったのかもしれない。
男は再び苛まれ始める。今度は不安にだ。本当に自身の為している行為は善行なのかどうか、徐々に分からなくなり始めた。声の言うままにやって来た行いならば繰り返せばいいが、新たな出来事は次々に目の前に現れる。声とは別に自身を導いてくれる高位の神官に相談することも憚れた。まだ世に遍く神聖なるものを学び始めたばかりの男が、神の声を聞いていたなどと尊大なことを口にはできなかった。不安は徐々に男の心を圧し潰し始め、耐え切れなくなる前に男は神殿を飛び出し、山へと向かった。神の声を求めて、幽境なる奥深い山へと分け入っていく。元は塒にしていた山の神秘に、今では垣間見ることができた。しかし声は聞こえなかった。男は訴える。
「助けてください。あなたのお導きがなければ私は正しきを為せません!」
しかし誰も答えない。
「あなたのお導きがなければ私は再び悪を為してしまうかもしれません!」
男は涙ながらに訴えるが、答える者はいない。
「せめて初めの頃のように私の罪をお数えください! 私の償うべき罪の数々を! 多くを殺し、騙し、奪いました! それを償える善行を為して見せます!」
姿なき声は沈黙していたが、男に答える者がいた。黙って神殿を抜け出し、山の奥深くへ分け入る男の後をついてきた神官たちだ。
賊は捕らえられ、そして後は処刑を待つばかりとなった。狭い牢獄で償いの時を待つ賊のもとに、師であった高位の神官がやって来た。
「一体お前は何と話していたのだ?」と高位の神官は尋ねた。
もはや神官への道を断たれた咎人は答える。「神の声です」と。そしてこれまでのことを洗いざらいすべて告白した。
もはや師ではない神官は、もはや弟子ではない咎人の尊大な考えを嘲る。
「それはミラスキウレだろう。お前は揶揄われたのだ」
「何ですか? それは」
「聖職に身を置く者が知っていても詮無い噂だ。だが、まあ、一度は師として導いた弟子の、これが最期なのだ。聞かせてやろう。これは出入りの薬師に聞いた話だが……」神官は魔性の物語について語り始める。
ある男がいた。生気のない男だ。何をするにもやる気がなく、生きているのが不思議なくらいに何も頓着のない男だ。親の仕事を引き継ぎ、何とか生き延びているというありさまだった。
とはいえ、何も理由なく気力がないわけではない。大して幸福に満ちた人生ではなかったが、健康に育ち、妻に恵まれ、概ね人生は上向いていた。ありふれた田舎に生きる、平凡な男だったが、妻が妊娠し、稼ぎも足りていて、ありふれた幸福に満ちていた。もうすぐ父になろうという日々に気を引き締め、ほんの少しでも妻を楽にしてやるべく、身を粉にして働いていた。が、しかし腹の子と共に妻は死んだ。足を滑らせ、流れの速い渓流へと落ち、溺死したのだった。呆気ないものだった。
何もかもに絶望し、生きる意味を失った男がそれでも生に何とかしがみつけていた理由は男だけが知る秘密だった。
いつものように山魚を街で売って帰る夜も遅い道すがら、いつも通り抜ける森を前に男は呟く。
「さあ、今日も声を聞かせておくれ」
そうして男は歩き慣れた森の中へ、奥へ奥へと分け入っていく。
「嗚呼、迷ってしまったなあ。また迷ってしまった」
闇の奥に潜む者に語り掛けるように、男は独り言ちた。子の行儀の良さに目を光らせる母に言い訳でもするような調子で呟いた。先ほどまで背後についていた街の灯は遠く離れ、空の縁に微かにかかるばかり、頭上で忠告するように瞬いていた星明かりも木の葉の合間に朧気で、そんな深い森の奥に男はいた。歩いていた。春のように若くもないが秋のように老いてもいない。人生の半ばも迎えていない男だ。生来の怠け者ではないが、今を生きるために最低限の仕事しかしていなかった。かつては山を庭に駆け回り、渓流を物ともせずに泳ぐような子供時代を生き抜いた逞しい男だったが、今は枯れ木のように痩せ細っている。
男の霞んだ声に応える者はいない。さりとて夜闇の向こうには確かにこの森に棲んでいる者たちの気配がある。風を弓に掻き鳴らす葉擦れの音に、柔らかな土をそっと踏みつけて駆け抜ける音、急かすように連なる獣の吐息の歌。森に潜む者どもはぶつぶつと呟く男の声を遠巻きにしつつ、しかし離れすぎることなく塑像でも眺めるように男の様子を窺っている。
「困ったなあ。これは困った。どうしたものか。どうしたものかなあ」
森に迷っているという言葉とは裏腹に、男の足取りは確かで、勝利を信じる軍勢のように闇も正体不明の気配にも動じることなく突き進んでいる。それでもやはり男は道に迷っている様子で、同じ場所を長い時間かけてぐるぐると回っていた。
「おや、そうかい?」と男は独り少しばかり声を上擦らせる。喜びを抑えても零れ出るという様子だ。「こっちに行けばいいのかな?」
そう言って、行く方向を変えるが、それでも男は同じ場所をぐるぐるぐるぐると大きく回り続ける。ふと、朧気な明かりが木々の奥に現れた。営みの灯が輝き、炊事の煙が揺蕩っている。男もその明かりを視界の端に捉えているが意にも介さず、それでもやはり男は森を迷い続けた。
「こっちかね? そっちかね? 悪い悪い。方向音痴というやつかな。いつからだって? どうだったかな。呆れたかい? 拗ねないでおくれ」
男はただひたすらに歩き、闇に話しかけ、確固たる足取りで迷い続ける。人肉か腐葉土か知れない感触を踏みつけても、濡れた手か温い風か知れない感触に首を触れられても、構わず気にせず歩き続ける。まるで夢の中を歩いているかのように男は呆けたような表情を浮かべ、声を弾ませ、どこにもたどり着かない歩を進める。
が、唐突に男は立ち止まり、首を傾げ、耳を澄ませた。男とは別の声が聞こえたのだ。獣や鳥や虫でもない。風や葉擦れや魔性でもない。確かな人の声に、むしろ男は身を震わせ、恐る恐る近づいていく。
木々の奥へ慎重に歩み寄り、藪の向こうを覗き込む。と同時に悲鳴を聞く。しゃがれた悲鳴の主は男よりも一回りか二回り年老いた男で、杖を突いている。余りの多い衣を着て、鼻孔をさするような刺すような香りを放っている。
「おや、あんたは街の薬師さんじゃないかね?」
男が問いかけると、老人はほっと息をつく。
「そういうあんた様は誰かね? あたしを知っているということは丘向こうの郷里の者かね」
「そうだよ。漁師をやってる者だ。今は山魚を売った帰りだが。どうやらお疲れのようだ」
「然様。その上、道に迷い、夜も更け、足をくじいてしまった。あんた様の郷里へ行くところだ。肩を貸してくれるかね?」
「お安い御用だ。さあ、思う存分使っておくれ。もはや背負うもののない軽い肩だ」
男は薬師の老人に肩を貸し、森を行く。その足取りはやはり確かで、迷いはない。
「こう暗くては敵わんな。いつの間に道を外れたのか」と老人はぼやく。「お前さんはこの暗闇で道が分かるのかね?」
「もちろん。がきの頃から走り回った野山だよ。目を瞑ってたって好きなところへ行けるものさ」
「それなら良いが。目は開けておいてくれよ?」
男の先導で二人は闇に塗り潰された森を進み、東西に横たわる丘を回り込み、ぽつりぽつりと今灯されたかのように郷里の明かりが見えてきた。丁度森も抜け、燃え立つような月と星に二人は照らされる。
「どんなもんだい。木々も起伏も頭の中にしっかり入ってるからね。最も疲れない距離を行くのも簡単なもんだよ」
老人はまじまじと男を見つめた後に頭を下げる。
「すまないね。疑っていたわけじゃないが、だがあんた、あたしに会うまで道に迷ってやいなかったかい? あんたの声が聞こえたが、誰かと話しているように聞こえたな」
男は老人の皴を数えるかのように見つめ、溜息をつく。
「嬶と、僕の妻と話していたんだよ」
老人はちらと振り返り、真っ暗な穴が空いているかのような森を盗み見る。
「あんたは独りだったんだろう?」
「いいや」と言いつつ男は観念したようにはにかむ。「……ああ、そうだ。だけどね。声が聞こえるんだよ。嬶の声が。僕が迷っていると、特に道に迷ったりしていると。こっちだよ、あっちだよって声が聞こえるんだ。どんなに遠く離れていても聞こえる。その声に従えば間違いないって寸法さ」
「間違いないなら迷わなかろう?」と老人は問うが男は照れ臭そうに笑うばかり。老人は唸るような声を漏らし、何かを思い返すように考える。「あんたはミラスキウレに巡り合ったのかもしれないね」
「何だい? それは」
「魔性だよ。人に話しかけて、その内容は多岐に渡るが、得てして聞いた者は惑わされる。同じ場所をぐるぐると迷わさせる」
「おかしな魔性がいたもんだ。一体何が目的でそんなことを?」
「それについては、あたしが昔、ある漁村の夫婦に聞いた話があるんだが……」そう言って薬師の老人は語り始めた。
ある海のそばの漁村に一人の女が住んでいた。特別なところのないありふれた海の女だ。村の男に嫁ぎ、愛と情と従順さで夫を支えて生きていた。海に生きる者として泳ぎは上手いが、漁をするのは村の男たちで海の女の仕事というと船を掃除したり、網を繕ったり、獲れた魚を加工したりだ。女は夫と喜びも悲しみも分け合って、不満や愚痴をぶつけ合って、仲睦まじく暮らしていた。
しかしある日、夫は漁に出た切り帰らぬ人となってしまった。それもまた、海辺に生きる者たちにとっては珍しくもない話だがその女の悲しみはいかばかりか。夫を失った当人の悲しみは海も野原も関係なく深く暗いものだった。
寡婦となった女は生きる傍ら海辺で祈りを捧げる日々を送った。海の神の怒りを買ってしまったのなら鎮まるように、お調子者だった男の冥福を願うべく、寄せては返す波のように海風に掻き消える祈りを絶やすことなく続けた。
夫が海に消えてどれくらい経った頃だろうか。女は砂浜に跪き、目を瞑り、日々の変わらぬ祈りを唱えていた。が、唱え終える前に目を開き、水平線を眺め渡した。
「あんた? あんたなのかい?」
昼も過ぎて、潮風の吹き荒ぶ海には船一つなく、当然人っ子一人いない。だが女には確かに夫の声が聞こえた。随分と耳にしていなかったが、忘れるはずもない調子は良いが掠れた声だ。
「ねえ、もっかい声を聞かせておくれ。……嗚呼、あんた。その潮風に嗄れた声、忘れやしないよ。いったいどうして声だけで帰って来たんだい?」
女が辛抱強く待っていると、やはり女の耳に返事が届く。声を聞く限りは元気そうだ。とても死人の声には聞こえない。とはいえ、他の誰もと同様に女は死人の声など聞いたことはないが。
「そうだよ。あたしは生きてるよ、もちろん。海辺で祈りを捧げていたらあんたの声が聞こえたんだ。一体全体どういうことなのさ」
塩辛い風と共に届く声と女は会話する。
「冥府、から? いつから海神様はそんなに気前が良くなったの? ともかくあたしは嬉しいよ。声が聞こえるだけでも祈りを捧げ続けた甲斐があるってものだよ」
それからの日々を寡婦の女は新妻のように生きた。短い死別が終わり、新たな日々を生きることに喜びさえ感じた。働く合間に海辺を訪れ、姿のない夫と言葉を交わした。一人で生きる辛さが吹き消されたわけでもないが、夫の声に支えられて生きた。迷えば相談し、迷っていなくとも相談した。欲を言えれば声以外も全て返して欲しかったが、欲張って海神様を怒らせるようなことになって、冥府から漁村に通じる声の秘密の通り道を塞がれては困るので決して口にはしなかった。
当然、村の者たちは夫を亡くした女の頭はおかしくなってしまったのだと考えた。だからといって日々の働きに文句の付け所はなく、幻聴でも夫の声に支えられているのなら、同情はすれども二人のお喋りに水を差そうとは誰も思わなかった。
だがある日、砂浜で泣き崩れている女を、最も親しい友人が見つけた。涙と洟で顔をぐちゃぐちゃにし、声を枯らして泣く女を友は家へと連れ帰り、落ち着くのを待った。
「一体どうしたの? 幼馴染の私にも話せないってことはないんでしょう?」
友が尋ねると、女は訥々と事情を語り始めた。夫が死に、その声が聞こえたところから始まり、件の話へ。
「それであの人が言ったの。まだ若い身空なんだから再婚しろって」
幻の夫の声に言われなくとも、女が落ち着いたらその話をしようと漁村の皆は考えていた。幸い若い独り身の男はまだ何人かいて、同情がきっかけかもしれないが女に思いを寄せている者がいた。
女の友は、しかしその話をするのはまだ先だと口を閉ざし、辛抱強く女の話を聞く。
「そんなつもりはないって言い返したの。言い返しちゃったの。考えてみれば、あの人に言い返すなんて初めてだったかもしれない。でも、あたしは、あたしにも譲れない事はあって……」
そんなものは時間の解決する問題だろうと女の友は心の内で思う。一方、昔から強情なところがあったな、と思い返しもする。
「言い合うことはあっても、あの人の勧めは、あの人の決めたことで、でもあたしはこうして話をできるあんたを知らないふりなんて出来やしないって言ったんだ。そしたら、そしたら……」
次の日から返事をくれなくなったのだという。女は夫が当てつけにやっているのだと涙声で訴えるが、友人には何も言えなかった。そもそも女の夫はもう死んだのだから。夫が話さなくなったのではなく、女が聞かなくなったのに違いない。それはこれから真っ当に生きるならば僥倖だ、と女の友は考えた。
女の日々の営みは夫と死別した直後へと戻った。つまり生活の合間に砂浜へ通って、祈りを捧げる日々だ。少し違うのは夫の返事がなくとも、海に話しかけ続けたことだ。
時間による解決は見られなかった。女がそれほどに深く夫を愛しているとは誰も思っていなかった。女自身でさえもだ。あるいは最後の言い合いのために意固地になってしまっているのかもしれない。それは女にも分からなかった。
「あれはミラスキウレっていうらしいわ」
季節が移り変わった頃、ある日の昼過ぎ、女たちで舟歌を歌いながら網を編んでいた時、女の友人が囁いた。
「あれって?」と女もひそやかに尋ねる。「ミラスキウレ? 何の話?」
「海辺であんたに語り掛けていた魔性よ。前に村にやってきた神官様に聞いたの」
「魔性が何だってあたしのことを揶揄うのさ」
「知らないわ。だけどその神官様はミラスキウレについてよくご存じだったのよ」
そういうと女の友は又聞きした話を語り始める。
ある山を根城とする賊がいた。神聖さから遠く離れた男と高貴さに縁のない女の間に生まれた男だ。賊は苦痛と悲嘆、そして罪悪に塗れた人生を送っていた。腐ったものでなければ盗んだものを食べ、泥水を啜るか奪った酒を舐め、愛も喜びも知らず、欲望と恐怖だけが荒れ狂う人生の指針だった。
しかし賊にとってはそれらが日常であり、初めから終わりまで決まりきったことだった。賊がまだ物心つくかつかない頃に盗むことや傷つけることを教えたのは世間様で、教えられた通りの生き方をしているまでなのだ。
ある日、賊が仕事もそこそこに山の奥に身を隠し、枝葉の天蓋の下、微睡みに耽っていた時、声を聞いた。誰だか知らないが、人の塒に押し入ってこようとは図々しい奴だ、と賊は憤り、いつ手に入れたのかも忘れた錆びついた曲剣を取ると錆びついていない鋭い眼差しで声の主を探してまわった。が、誰も見つからなかった。それでも声は聞こえ続け、疲れ果てた賊はようやく声に耳を傾ける気になった。
「一体何を言ってやがんだ?」
知っている言葉を話しているのだが、生来他者の言葉に耳を傾けて来なかった賊は意味を聞き取るのが難しかったのだ。それでも同じことを繰り返しているようなので、朝霞が消え去っていくように段々と明瞭になっていく。
姿なき声は賊の罪を数え上げていた。賊にとってはささやかな罪から、その重さをよく知る大罪まで、もはや覚えていない幼少の頃の罪から、つい先日、似たような輩と集まって犯した罪まで。ひとの足をわざと踏んづけただとか、家屋に押し入り、盗みを働いた末に火をつけただとか。
そればかりか賊の知らない賊の罪の顛末まで、声は語るのだった。あの時、蹴とばした子供は肋骨の骨を折り、未だに苦しんでいる。あの時、盗んだ金は業病に苦しむ娘を救う高価な薬を買うためのものだった。中には悪人に対して行われた罪もあったが、声の主はいかに賊の行為によって人々が苦しんでいるかを語るのだった。
「うるせえんだよ! 誰なんだてめえ!?」と賊が山に向かって叫ぶと、声の主は答えて、曰く、神だ。
賊にとってはますます苛立たされた。神など何の役にも立たないことを賊はよく知っていた。酷い人生だが、中には善意から説教を垂れる者もいた。神へ祈れだとか、善行を為せだとか。賊は気まぐれに、説教の通りのことを為したこともあった。が、それだけだった。
声など聞かなければいいのだと賊は開き直る。元々、他者の声に耳を傾けることなどなかったのだから、容易いことだ。
だが声は繰り返し繰り返し、賊の罪を数え、他者の苦しみを賊の苦しみかのように語り掛け続けた。聞かないことは容易ではなく、賊に罪悪感が芽生えるのも程なくしてのことだった。
己の罪に憔悴しきり、まともに悪行も為せなくなった賊はついに観念し、声に赦しを乞うた。
すると声は別のことを語り始めた。これまでの語りが、賊の為してきた悪行ならば、それからの語りは賊の為すべき善行だった。
だからといってすぐに素直に声に従えるわけではなかった。
悪行には得るものがあり、善行にはそれがない。そのような甲斐のない行為に賊は恐怖さえ感じた。賊とて知っている。悪行でも善行でもないが、見返りのある労働というものがこの世にあることを。声にそのことを訴えてみたりもする。だが声の語る内容は変わらない。どころか見返りなどあるべきではない、とまで声は話す。
このまま苛まされ、憔悴の果てに殺されるのでは、と賊は考えたが、他に出来ることなどなかった。声の言うままに善行をなす。反吐が出るような徳を積む。苦しんでいる人を助ける。苦しんでなくとも助ける。こちらの方がずっと苦しいのに、と賊は心の中で叫びながら助ける。まるで岩の裏の湿った土に蠢く虫を探すように善行が為されるべき営みを探し求める。
助けた者たちが何かを言っていても聞こえなかった。姿のない声が五月蠅く、そうでなくとも聞き覚えのない言葉だったから意味がよく分からなかった。苦しみから救った人が笑っているのを見ると苛立ちさえ覚えた。何故笑われなければいけないのか分からなかった。
だが、食べ物を差し出された時に全てが変わった。死にかけていたことに初めて気づいた。差し出された食べ物は善行の見返りではなく、感謝の念の現れだと気づいた。助けた者たちの言葉もまた同じだと気づいた。男は涙を流した。哀れな自分のために初めて涙を流した。
それでも声が止むことはなく、男はそれを受け入れ、為すべきことを為し続けた。気が付けば声の求めないことも為していた。誠実に生き、敬虔ささえ身に着けた。多くの人々に愛されるようになり、神殿で身を清めもした。徳の高い神官の手伝いをするうちに感化し、自身もまた神官となるべく学び、行を修め始めた。
いつの頃からか声は聞こえなくなった。しかしそれに気づくべきではなかったのかもしれない。
男は再び苛まれ始める。今度は不安にだ。本当に自身の為している行為は善行なのかどうか、徐々に分からなくなり始めた。声の言うままにやって来た行いならば繰り返せばいいが、新たな出来事は次々に目の前に現れる。声とは別に自身を導いてくれる高位の神官に相談することも憚れた。まだ世に遍く神聖なるものを学び始めたばかりの男が、神の声を聞いていたなどと尊大なことを口にはできなかった。不安は徐々に男の心を圧し潰し始め、耐え切れなくなる前に男は神殿を飛び出し、山へと向かった。神の声を求めて、幽境なる奥深い山へと分け入っていく。元は塒にしていた山の神秘に、今では垣間見ることができた。しかし声は聞こえなかった。男は訴える。
「助けてください。あなたのお導きがなければ私は正しきを為せません!」
しかし誰も答えない。
「あなたのお導きがなければ私は再び悪を為してしまうかもしれません!」
男は涙ながらに訴えるが、答える者はいない。
「せめて初めの頃のように私の罪をお数えください! 私の償うべき罪の数々を! 多くを殺し、騙し、奪いました! それを償える善行を為して見せます!」
姿なき声は沈黙していたが、男に答える者がいた。黙って神殿を抜け出し、山の奥深くへ分け入る男の後をついてきた神官たちだ。
賊は捕らえられ、そして後は処刑を待つばかりとなった。狭い牢獄で償いの時を待つ賊のもとに、師であった高位の神官がやって来た。
「一体お前は何と話していたのだ?」と高位の神官は尋ねた。
もはや神官への道を断たれた咎人は答える。「神の声です」と。そしてこれまでのことを洗いざらいすべて告白した。
もはや師ではない神官は、もはや弟子ではない咎人の尊大な考えを嘲る。
「それはミラスキウレだろう。お前は揶揄われたのだ」
「何ですか? それは」
「聖職に身を置く者が知っていても詮無い噂だ。だが、まあ、一度は師として導いた弟子の、これが最期なのだ。聞かせてやろう。これは出入りの薬師に聞いた話だが……」神官は魔性の物語について語り始める。
ある男がいた。生気のない男だ。何をするにもやる気がなく、生きているのが不思議なくらいに何も頓着のない男だ。親の仕事を引き継ぎ、何とか生き延びているというありさまだった。
とはいえ、何も理由なく気力がないわけではない。大して幸福に満ちた人生ではなかったが、健康に育ち、妻に恵まれ、概ね人生は上向いていた。ありふれた田舎に生きる、平凡な男だったが、妻が妊娠し、稼ぎも足りていて、ありふれた幸福に満ちていた。もうすぐ父になろうという日々に気を引き締め、ほんの少しでも妻を楽にしてやるべく、身を粉にして働いていた。が、しかし腹の子と共に妻は死んだ。足を滑らせ、流れの速い渓流へと落ち、溺死したのだった。呆気ないものだった。
何もかもに絶望し、生きる意味を失った男がそれでも生に何とかしがみつけていた理由は男だけが知る秘密だった。
いつものように山魚を街で売って帰る夜も遅い道すがら、いつも通り抜ける森を前に男は呟く。
「さあ、今日も声を聞かせておくれ」
そうして男は歩き慣れた森の中へ、奥へ奥へと分け入っていく。
「嗚呼、迷ってしまったなあ。また迷ってしまった」
闇の奥に潜む者に語り掛けるように、男は独り言ちた。子の行儀の良さに目を光らせる母に言い訳でもするような調子で呟いた。先ほどまで背後についていた街の灯は遠く離れ、空の縁に微かにかかるばかり、頭上で忠告するように瞬いていた星明かりも木の葉の合間に朧気で、そんな深い森の奥に男はいた。歩いていた。春のように若くもないが秋のように老いてもいない。人生の半ばも迎えていない男だ。生来の怠け者ではないが、今を生きるために最低限の仕事しかしていなかった。かつては山を庭に駆け回り、渓流を物ともせずに泳ぐような子供時代を生き抜いた逞しい男だったが、今は枯れ木のように痩せ細っている。
男の霞んだ声に応える者はいない。さりとて夜闇の向こうには確かにこの森に棲んでいる者たちの気配がある。風を弓に掻き鳴らす葉擦れの音に、柔らかな土をそっと踏みつけて駆け抜ける音、急かすように連なる獣の吐息の歌。森に潜む者どもはぶつぶつと呟く男の声を遠巻きにしつつ、しかし離れすぎることなく塑像でも眺めるように男の様子を窺っている。
「困ったなあ。これは困った。どうしたものか。どうしたものかなあ」
森に迷っているという言葉とは裏腹に、男の足取りは確かで、勝利を信じる軍勢のように闇も正体不明の気配にも動じることなく突き進んでいる。それでもやはり男は道に迷っている様子で、同じ場所を長い時間かけてぐるぐると回っていた。
「おや、そうかい?」と男は独り少しばかり声を上擦らせる。喜びを抑えても零れ出るという様子だ。「こっちに行けばいいのかな?」
そう言って、行く方向を変えるが、それでも男は同じ場所をぐるぐるぐるぐると大きく回り続ける。ふと、朧気な明かりが木々の奥に現れた。営みの灯が輝き、炊事の煙が揺蕩っている。男もその明かりを視界の端に捉えているが意にも介さず、それでもやはり男は森を迷い続けた。
「こっちかね? そっちかね? 悪い悪い。方向音痴というやつかな。いつからだって? どうだったかな。呆れたかい? 拗ねないでおくれ」
男はただひたすらに歩き、闇に話しかけ、確固たる足取りで迷い続ける。人肉か腐葉土か知れない感触を踏みつけても、濡れた手か温い風か知れない感触に首を触れられても、構わず気にせず歩き続ける。まるで夢の中を歩いているかのように男は呆けたような表情を浮かべ、声を弾ませ、どこにもたどり着かない歩を進める。
が、唐突に男は立ち止まり、首を傾げ、耳を澄ませた。男とは別の声が聞こえたのだ。獣や鳥や虫でもない。風や葉擦れや魔性でもない。確かな人の声に、むしろ男は身を震わせ、恐る恐る近づいていく。
木々の奥へ慎重に歩み寄り、藪の向こうを覗き込む。と同時に悲鳴を聞く。しゃがれた悲鳴の主は男よりも一回りか二回り年老いた男で、杖を突いている。余りの多い衣を着て、鼻孔をさするような刺すような香りを放っている。
「おや、あんたは街の薬師さんじゃないかね?」
男が問いかけると、老人はほっと息をつく。
「そういうあんた様は誰かね? あたしを知っているということは丘向こうの郷里の者かね」
「そうだよ。漁師をやってる者だ。今は山魚を売った帰りだが。どうやらお疲れのようだ」
「然様。その上、道に迷い、夜も更け、足をくじいてしまった。あんた様の郷里へ行くところだ。肩を貸してくれるかね?」
「お安い御用だ。さあ、思う存分使っておくれ。もはや背負うもののない軽い肩だ」
男は薬師の老人に肩を貸し、森を行く。その足取りはやはり確かで、迷いはない。
「こう暗くては敵わんな。いつの間に道を外れたのか」と老人はぼやく。「お前さんはこの暗闇で道が分かるのかね?」
「もちろん。がきの頃から走り回った野山だよ。目を瞑ってたって好きなところへ行けるものさ」
「それなら良いが。目は開けておいてくれよ?」
男の先導で二人は闇に塗り潰された森を進み、東西に横たわる丘を回り込み、ぽつりぽつりと今灯されたかのように郷里の明かりが見えてきた。丁度森も抜け、燃え立つような月と星に二人は照らされる。
「どんなもんだい。木々も起伏も頭の中にしっかり入ってるからね。最も疲れない距離を行くのも簡単なもんだよ」
老人はまじまじと男を見つめた後に頭を下げる。
「すまないね。疑っていたわけじゃないが、だがあんた、あたしに会うまで道に迷ってやいなかったかい? あんたの声が聞こえたが、誰かと話しているように聞こえたな」
男は老人の皴を数えるかのように見つめ、溜息をつく。
「嬶と、僕の妻と話していたんだよ」
老人はちらと振り返り、真っ暗な穴が空いているかのような森を盗み見る。
「あんたは独りだったんだろう?」
「いいや」と言いつつ男は観念したようにはにかむ。「……ああ、そうだ。だけどね。声が聞こえるんだよ。嬶の声が。僕が迷っていると、特に道に迷ったりしていると。こっちだよ、あっちだよって声が聞こえるんだ。どんなに遠く離れていても聞こえる。その声に従えば間違いないって寸法さ」
「間違いないなら迷わなかろう?」と老人は問うが男は照れ臭そうに笑うばかり。老人は唸るような声を漏らし、何かを思い返すように考える。「あんたはミラスキウレに巡り合ったのかもしれないね」
「何だい? それは」
「魔性だよ。人に話しかけて、その内容は多岐に渡るが、得てして聞いた者は惑わされる。同じ場所をぐるぐると迷わさせる」
「おかしな魔性がいたもんだ。一体何が目的でそんなことを?」
「それについては、あたしが昔、ある漁村の夫婦に聞いた話があるんだが……」そう言って薬師の老人は語り始めた。
ある海のそばの漁村に一人の女が住んでいた。特別なところのないありふれた海の女だ。村の男に嫁ぎ、愛と情と従順さで夫を支えて生きていた。海に生きる者として泳ぎは上手いが、漁をするのは村の男たちで海の女の仕事というと船を掃除したり、網を繕ったり、獲れた魚を加工したりだ。女は夫と喜びも悲しみも分け合って、不満や愚痴をぶつけ合って、仲睦まじく暮らしていた。
しかしある日、夫は漁に出た切り帰らぬ人となってしまった。それもまた、海辺に生きる者たちにとっては珍しくもない話だがその女の悲しみはいかばかりか。夫を失った当人の悲しみは海も野原も関係なく深く暗いものだった。
寡婦となった女は生きる傍ら海辺で祈りを捧げる日々を送った。海の神の怒りを買ってしまったのなら鎮まるように、お調子者だった男の冥福を願うべく、寄せては返す波のように海風に掻き消える祈りを絶やすことなく続けた。
夫が海に消えてどれくらい経った頃だろうか。女は砂浜に跪き、目を瞑り、日々の変わらぬ祈りを唱えていた。が、唱え終える前に目を開き、水平線を眺め渡した。
「あんた? あんたなのかい?」
昼も過ぎて、潮風の吹き荒ぶ海には船一つなく、当然人っ子一人いない。だが女には確かに夫の声が聞こえた。随分と耳にしていなかったが、忘れるはずもない調子は良いが掠れた声だ。
「ねえ、もっかい声を聞かせておくれ。……嗚呼、あんた。その潮風に嗄れた声、忘れやしないよ。いったいどうして声だけで帰って来たんだい?」
女が辛抱強く待っていると、やはり女の耳に返事が届く。声を聞く限りは元気そうだ。とても死人の声には聞こえない。とはいえ、他の誰もと同様に女は死人の声など聞いたことはないが。
「そうだよ。あたしは生きてるよ、もちろん。海辺で祈りを捧げていたらあんたの声が聞こえたんだ。一体全体どういうことなのさ」
塩辛い風と共に届く声と女は会話する。
「冥府、から? いつから海神様はそんなに気前が良くなったの? ともかくあたしは嬉しいよ。声が聞こえるだけでも祈りを捧げ続けた甲斐があるってものだよ」
それからの日々を寡婦の女は新妻のように生きた。短い死別が終わり、新たな日々を生きることに喜びさえ感じた。働く合間に海辺を訪れ、姿のない夫と言葉を交わした。一人で生きる辛さが吹き消されたわけでもないが、夫の声に支えられて生きた。迷えば相談し、迷っていなくとも相談した。欲を言えれば声以外も全て返して欲しかったが、欲張って海神様を怒らせるようなことになって、冥府から漁村に通じる声の秘密の通り道を塞がれては困るので決して口にはしなかった。
当然、村の者たちは夫を亡くした女の頭はおかしくなってしまったのだと考えた。だからといって日々の働きに文句の付け所はなく、幻聴でも夫の声に支えられているのなら、同情はすれども二人のお喋りに水を差そうとは誰も思わなかった。
だがある日、砂浜で泣き崩れている女を、最も親しい友人が見つけた。涙と洟で顔をぐちゃぐちゃにし、声を枯らして泣く女を友は家へと連れ帰り、落ち着くのを待った。
「一体どうしたの? 幼馴染の私にも話せないってことはないんでしょう?」
友が尋ねると、女は訥々と事情を語り始めた。夫が死に、その声が聞こえたところから始まり、件の話へ。
「それであの人が言ったの。まだ若い身空なんだから再婚しろって」
幻の夫の声に言われなくとも、女が落ち着いたらその話をしようと漁村の皆は考えていた。幸い若い独り身の男はまだ何人かいて、同情がきっかけかもしれないが女に思いを寄せている者がいた。
女の友は、しかしその話をするのはまだ先だと口を閉ざし、辛抱強く女の話を聞く。
「そんなつもりはないって言い返したの。言い返しちゃったの。考えてみれば、あの人に言い返すなんて初めてだったかもしれない。でも、あたしは、あたしにも譲れない事はあって……」
そんなものは時間の解決する問題だろうと女の友は心の内で思う。一方、昔から強情なところがあったな、と思い返しもする。
「言い合うことはあっても、あの人の勧めは、あの人の決めたことで、でもあたしはこうして話をできるあんたを知らないふりなんて出来やしないって言ったんだ。そしたら、そしたら……」
次の日から返事をくれなくなったのだという。女は夫が当てつけにやっているのだと涙声で訴えるが、友人には何も言えなかった。そもそも女の夫はもう死んだのだから。夫が話さなくなったのではなく、女が聞かなくなったのに違いない。それはこれから真っ当に生きるならば僥倖だ、と女の友は考えた。
女の日々の営みは夫と死別した直後へと戻った。つまり生活の合間に砂浜へ通って、祈りを捧げる日々だ。少し違うのは夫の返事がなくとも、海に話しかけ続けたことだ。
時間による解決は見られなかった。女がそれほどに深く夫を愛しているとは誰も思っていなかった。女自身でさえもだ。あるいは最後の言い合いのために意固地になってしまっているのかもしれない。それは女にも分からなかった。
「あれはミラスキウレっていうらしいわ」
季節が移り変わった頃、ある日の昼過ぎ、女たちで舟歌を歌いながら網を編んでいた時、女の友人が囁いた。
「あれって?」と女もひそやかに尋ねる。「ミラスキウレ? 何の話?」
「海辺であんたに語り掛けていた魔性よ。前に村にやってきた神官様に聞いたの」
「魔性が何だってあたしのことを揶揄うのさ」
「知らないわ。だけどその神官様はミラスキウレについてよくご存じだったのよ」
そういうと女の友は又聞きした話を語り始める。
ある山を根城とする賊がいた。神聖さから遠く離れた男と高貴さに縁のない女の間に生まれた男だ。賊は苦痛と悲嘆、そして罪悪に塗れた人生を送っていた。腐ったものでなければ盗んだものを食べ、泥水を啜るか奪った酒を舐め、愛も喜びも知らず、欲望と恐怖だけが荒れ狂う人生の指針だった。
しかし賊にとってはそれらが日常であり、初めから終わりまで決まりきったことだった。賊がまだ物心つくかつかない頃に盗むことや傷つけることを教えたのは世間様で、教えられた通りの生き方をしているまでなのだ。
ある日、賊が仕事もそこそこに山の奥に身を隠し、枝葉の天蓋の下、微睡みに耽っていた時、声を聞いた。誰だか知らないが、人の塒に押し入ってこようとは図々しい奴だ、と賊は憤り、いつ手に入れたのかも忘れた錆びついた曲剣を取ると錆びついていない鋭い眼差しで声の主を探してまわった。が、誰も見つからなかった。それでも声は聞こえ続け、疲れ果てた賊はようやく声に耳を傾ける気になった。
「一体何を言ってやがんだ?」
知っている言葉を話しているのだが、生来他者の言葉に耳を傾けて来なかった賊は意味を聞き取るのが難しかったのだ。それでも同じことを繰り返しているようなので、朝霞が消え去っていくように段々と明瞭になっていく。
姿なき声は賊の罪を数え上げていた。賊にとってはささやかな罪から、その重さをよく知る大罪まで、もはや覚えていない幼少の頃の罪から、つい先日、似たような輩と集まって犯した罪まで。ひとの足をわざと踏んづけただとか、家屋に押し入り、盗みを働いた末に火をつけただとか。
そればかりか賊の知らない賊の罪の顛末まで、声は語るのだった。あの時、蹴とばした子供は肋骨の骨を折り、未だに苦しんでいる。あの時、盗んだ金は業病に苦しむ娘を救う高価な薬を買うためのものだった。中には悪人に対して行われた罪もあったが、声の主はいかに賊の行為によって人々が苦しんでいるかを語るのだった。
「うるせえんだよ! 誰なんだてめえ!?」と賊が山に向かって叫ぶと、声の主は答えて、曰く、神だ。
賊にとってはますます苛立たされた。神など何の役にも立たないことを賊はよく知っていた。酷い人生だが、中には善意から説教を垂れる者もいた。神へ祈れだとか、善行を為せだとか。賊は気まぐれに、説教の通りのことを為したこともあった。が、それだけだった。
声など聞かなければいいのだと賊は開き直る。元々、他者の声に耳を傾けることなどなかったのだから、容易いことだ。
だが声は繰り返し繰り返し、賊の罪を数え、他者の苦しみを賊の苦しみかのように語り掛け続けた。聞かないことは容易ではなく、賊に罪悪感が芽生えるのも程なくしてのことだった。
己の罪に憔悴しきり、まともに悪行も為せなくなった賊はついに観念し、声に赦しを乞うた。
すると声は別のことを語り始めた。これまでの語りが、賊の為してきた悪行ならば、それからの語りは賊の為すべき善行だった。
だからといってすぐに素直に声に従えるわけではなかった。
悪行には得るものがあり、善行にはそれがない。そのような甲斐のない行為に賊は恐怖さえ感じた。賊とて知っている。悪行でも善行でもないが、見返りのある労働というものがこの世にあることを。声にそのことを訴えてみたりもする。だが声の語る内容は変わらない。どころか見返りなどあるべきではない、とまで声は話す。
このまま苛まされ、憔悴の果てに殺されるのでは、と賊は考えたが、他に出来ることなどなかった。声の言うままに善行をなす。反吐が出るような徳を積む。苦しんでいる人を助ける。苦しんでなくとも助ける。こちらの方がずっと苦しいのに、と賊は心の中で叫びながら助ける。まるで岩の裏の湿った土に蠢く虫を探すように善行が為されるべき営みを探し求める。
助けた者たちが何かを言っていても聞こえなかった。姿のない声が五月蠅く、そうでなくとも聞き覚えのない言葉だったから意味がよく分からなかった。苦しみから救った人が笑っているのを見ると苛立ちさえ覚えた。何故笑われなければいけないのか分からなかった。
だが、食べ物を差し出された時に全てが変わった。死にかけていたことに初めて気づいた。差し出された食べ物は善行の見返りではなく、感謝の念の現れだと気づいた。助けた者たちの言葉もまた同じだと気づいた。男は涙を流した。哀れな自分のために初めて涙を流した。
それでも声が止むことはなく、男はそれを受け入れ、為すべきことを為し続けた。気が付けば声の求めないことも為していた。誠実に生き、敬虔ささえ身に着けた。多くの人々に愛されるようになり、神殿で身を清めもした。徳の高い神官の手伝いをするうちに感化し、自身もまた神官となるべく学び、行を修め始めた。
いつの頃からか声は聞こえなくなった。しかしそれに気づくべきではなかったのかもしれない。
男は再び苛まれ始める。今度は不安にだ。本当に自身の為している行為は善行なのかどうか、徐々に分からなくなり始めた。声の言うままにやって来た行いならば繰り返せばいいが、新たな出来事は次々に目の前に現れる。声とは別に自身を導いてくれる高位の神官に相談することも憚れた。まだ世に遍く神聖なるものを学び始めたばかりの男が、神の声を聞いていたなどと尊大なことを口にはできなかった。不安は徐々に男の心を圧し潰し始め、耐え切れなくなる前に男は神殿を飛び出し、山へと向かった。神の声を求めて、幽境なる奥深い山へと分け入っていく。元は塒にしていた山の神秘に、今では垣間見ることができた。しかし声は聞こえなかった。男は訴える。
「助けてください。あなたのお導きがなければ私は正しきを為せません!」
しかし誰も答えない。
「あなたのお導きがなければ私は再び悪を為してしまうかもしれません!」
男は涙ながらに訴えるが、答える者はいない。
「せめて初めの頃のように私の罪をお数えください! 私の償うべき罪の数々を! 多くを殺し、騙し、奪いました! それを償える善行を為して見せます!」
姿なき声は沈黙していたが、男に答える者がいた。黙って神殿を抜け出し、山の奥深くへ分け入る男の後をついてきた神官たちだ。
賊は捕らえられ、そして後は処刑を待つばかりとなった。狭い牢獄で償いの時を待つ賊のもとに、師であった高位の神官がやって来た。
「一体お前は何と話していたのだ?」と高位の神官は尋ねた。
もはや神官への道を断たれた咎人は答える。「神の声です」と。そしてこれまでのことを洗いざらいすべて告白した。
もはや師ではない神官は、もはや弟子ではない咎人の尊大な考えを嘲る。
「それはミラスキウレだろう。お前は揶揄われたのだ」
「何ですか? それは」
「聖職に身を置く者が知っていても詮無い噂だ。だが、まあ、一度は師として導いた弟子の、これが最期なのだ。聞かせてやろう。これは出入りの薬師に聞いた話だが……」神官は魔性の物語について語り始める。
ある男がいた。生気のない男だ。何をするにもやる気がなく、生きているのが不思議なくらいに何も頓着のない男だ。親の仕事を引き継ぎ、何とか生き延びているというありさまだった。
とはいえ、何も理由なく気力がないわけではない。大して幸福に満ちた人生ではなかったが、健康に育ち、妻に恵まれ、概ね人生は上向いていた。ありふれた田舎に生きる、平凡な男だったが、妻が妊娠し、稼ぎも足りていて、ありふれた幸福に満ちていた。もうすぐ父になろうという日々に気を引き締め、ほんの少しでも妻を楽にしてやるべく、身を粉にして働いていた。が、しかし腹の子と共に妻は死んだ。足を滑らせ、流れの速い渓流へと落ち、溺死したのだった。呆気ないものだった。
何もかもに絶望し、生きる意味を失った男がそれでも生に何とかしがみつけていた理由は男だけが知る秘密だった。
いつものように山魚を街で売って帰る夜も遅い道すがら、いつも通り抜ける森を前に男は呟く。
「さあ、今日も声を聞かせておくれ」
そうして男は歩き慣れた森の中へ、奥へ奥へと分け入っていく。
おやおや、語り尽くせぬ物語の尽きるところまで降りてきた奇特な方もございますね。きちんと聞いていたかどうかは、あえて問いますまい。その蓋のできぬ好奇心に免じて、お話のお終いについてお話いたしましょう。ご評価くださりますれば幸い、いいねと思っていただけたならば喜び、ご感想をいただけならば有難く頂戴し、額縁に入れて飾りましょう。
栞? あなたもお好きですね。
「……という訳だ」と薬師の老人は語り終え、一息つく。
男ははっと気づき、いつの間にか郷里の自分の家の前にまでやって来ていることに気づいた。誰もが寝静まり、灯火は消え去っている。ただ星明かりだけが、二人の頭上で瞬いていた。
真夜中だが、白昼夢でも見ていたような気分だ。随分長い話だったようにも思え、とても短い話だったようにも思えた。
「気を付けることだよ」と老人は忠告し、薬籠を漁ると取り出したものを男に握らせる。「これはほんのお礼だ。夢も見ないほどよく眠れる薬だよ。あんた酷い顔だからね。大方夜な夜な歩き回っていたんだろう? それじゃあね」
その夜はなかなか寝付けなかった。幼い頃から聞いてきて、とっくに聞き飽きた近くの川の、妻と子を殺した川の流れが妙に耳についた。男は薬師に貰った薬のことを思い出して呑み、再び寝台に入る。
ミラスキウレが嬶のふりをしているのか、それとも嬶の声を届けてくれているのか。それが分からないことには魔性の思惑も分からない。大体本当にミラスキウレかどうか分かったものじゃない。そんな不思議なものが訪れるなら、死んだ嬶が化けて出たっていいじゃないか。
「あなたは本当に馬鹿ですね」と男の妻が呆れ顔で言う。
「夢は見ないはずなんだが。ああ、いや、こっちの話だよ。じゃあやっぱり僕に会いに来てくれたんだね」
「いいえ、違います。いつまで経ってもどっちつかずなあなたに最後の忠告です」
「最後だなんてそんなこと言うなよ。それに別にどっちつかずじゃない。ずっとお前の声を聞いていたいんだ」
「ならば死になさい」と妻ははっきりと突きつける。「死ねば、わたしのそば、魂さえも朽ち果てるずっと先まで語り続けられましょう」
「それは……」と言いかけ、男は言葉を呑み込む。妻の悲し気な表情が目に映ったからだ。
「でもそうは思っていない。生きながらに死者の声を聞きたいなどと中途半端なことを考えるから魔性に付け込まれるのです」
淡々として静かな口調は妻そのものだった。ここのところ毎晩のように聞いていたはずなのに、久々に聞いたように思えた。
「すまない。僕はずっとお前に頼りきりで生きてきたから、どうしたらいいか分からなくなったんだ」
「そうでしょうとも」と男の妻は満足そうに頷く。「ならば精一杯あなたの人生に私がいた有難みを噛み締めなければいけません。そうすればこそ次に会った時には心の底から感謝できようというものです。それではまた、ご機嫌よう。お休みなさい」
その夜以来、男がわざと迷うことはなくなり、ミラスキウレが話しかけてくることもなくなった。男の生活は概ね思うようにいかず、だからこそ精一杯人生を全うした。
友人の語る話はどうにも要領を得なかった。又聞きであるためか、あちらこちらへと話が飛び、前後し、繰り返した。
結局のところ全ては終わった話だ。こちらからいくら呼びかけても返事はないのだから、ミラスキウレであろうと夫であろうと何も変わらない。そして、やはり、女も変わらず海へ呼びかけ続けるのだった。変わらぬ日々の変わらぬ祈り、そして変わらぬ呼びかけ。ただ、想いだけが募る。変わらぬまま、如何ほどの年月が経ったのだろう。
だがしかし、あるいは想いを募らせたからこそ、ある日のこと、とうとう夫の返事が来たのだった。ただし、海からではなく、女の背後からだ。
女は振り返り、夫が眼前に現れ、滂沱の涙を流し、かつてに比べ、甚だしく窶れた姿に震い付く。
夫が消え失せるのを恐れるように女は抱きしめ続け、そのままに夫は事の顛末を話し始めた。
夫が流れ着いたのは冥府などではなく、無人島だった。何とか生き延びようとするも飢えと渇きに苦しめられ、一度は死を選ぼうとも考えたが、その時に妻の祈りが聞こえたのだという。再び気力は蘇ったが、命脈はか細いままで、今に冥府に招かれてもおかしくない状況だった。それ故に、下手に妻に希望を持たせまいと冥府から話しかけていると嘘をついたのだった。
「それで、その……」と、男は極まりが悪そうに言い淀む。「結局再縁はあったのか?」
女は夫を引き剥がすように腕を突っ張る。
「あったらどうだっての?」
男は村の方を振り返り、遠巻きに再会を見物している村人たちをそっと見る。そして女に向き直り聞かれるのを恐れるように囁く。
「い、一緒に逃げてくれ!」
女は一瞬目を丸くするが、噴き出し、大口を開けて、心底可笑しそうに笑う。
「本当に勝手なんだから、あんたは。あんたと離縁した覚えなんてないよ」女は夫が安心したようにほっと息をついたのを見て零すように笑う。
気が付くと咎人は磔になっていた。いつの間に牢を出たのか、通りを歩いて刑場までやって来たのか、師の話はどこまで聞いたのか。全てがあやふやで、しかし死は現実に確実に迫っていた。
今更命は惜しくないが、ただ話を聞きたかった。神ではないというのなら、魔性でもいい。どちらにしろ、どうしようもない人間だった俺にかけがえのない機会をくださった存在だ。
神官によって咎人の罪状が述べられていく。男が山中で告白したそれは、賊の罪の一部に過ぎない。
咎人はただ一心に祈る。己の過ちによって傷つけた数えきれない者たちに心の内で詫びる。
足元に薪と藁が積み上げられ、処刑人が松明を掲げてそばに待機する。
咎人はただ一心に祈る。神と魔性と師と罪深い自分に情けをかけてくれた全ての人々に感謝する。
処刑人が松明をかざすと、初めに藁に火がついて、直に薪に燃え移る。
咎人はただ一心に祈る。自分が何者かの導きに従い、助けた人々の人生に幸福があらんことを願う。
這い上る火焔は容赦なく皮膚を炙り、肉を焦がす。煙は躊躇いなく鼻孔から忍び入り、肺を突き刺す。心臓が激しく暴れ狂い、血が沸騰する。
磔台まで燃え尽きると、炭と化した足から崩れ落ち、煮立った体液が溢れ出し、黒い塊が転げ落ちた。
咎人はただ一心に祈る。




