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『殺す者』

 地上に眩い輝きと力強い生命力をもたらした夏は終わりに近づき、一年の終わりに備えて寝床を整え始める。高く青く透き通った空に聳えていた入道雲も、朝な夕なと働きに暮れる人々に玉の汗を強いたうだるような暑さも、秋の気配を運ぶ赤く色づいた風に追われるように去る時季、今年の実りは刈り取られ、翌年のための種が播かれるのを待つ麦畑の畦道を、迫る夕暮れの気配に囃し立てられるように娘は足早に己の伸びる影を追う。


 夕立ちでも通り過ぎたのか、濡れた土が黄昏に輝き、この夏を彩っていた黄金色の麦畑の如き幻想を見せる。二十の夏と秋を迎えてもなお娘はその光景に飽きず、晴れ間の輝きが心の内を照らし、日々の営みの労苦を忘れさせてくれた。


 名を苦難の末の幸福(シエナチーテ)。大叔母からとられた名だ。医師の家の乳母となり、医療の手ほどきを受けて医師となり、銀行家に嫁ぎ、議員にまで選出され、二人の息子と三人の娘を産み、親類の中でも最も成功したとされる御年九十七の女傑の名だ。大叔母の名にあやかった親戚は娘が知るだけでも他に七人いた。その独自性のない名前が彼女の人生において唯一ともいえる不満だった。


 夏の名残りを妬む秋風がシエナチーテのかぶる大きな麦藁帽子を奪い取ろうと吹き付けるが、娘は慣れた手つきで抑えつけ、気にも留めずに泥濘(ぬかる)む家路を急ぐ。

 麻の衣は汗まみれで、羊毛の上着は砂埃に汚れている。使い古した革の草履(サンダル)は少し手直ししなくてはならない。


 畑に残る幾人かはまだ落ち穂を拾っていて、幾人かは影法師との別れを惜しむかのように濡れた土も気にかけず腰を下ろして休んでいる。いつもなら厳めしい顔で鋭い目を向ける監督役人の姿はない。


 シエナチーテは途上の人群れに近づく。刈り入れの道具を検めて、既に帰る準備をしているようだ。子供たちが羽虫を見つけた小鳥のような声をあげて泥に塗れて遊んでいる。誰もが馴染んだ顔でシエナチーテの知らぬ者はいない。


「お帰り! シエちゃん!」といの一番に声をかけてくれたのは従姉の苦難の末の幸福(シエナチーテ)だった。上から数えれば五番目のシエナチーテだ。

「ただいま。姉さん。お疲れ様」


 夏の昼のように明るい従姉の出迎えてくれた笑顔を見て、六番目のシエナチーテは一日の終わりを受け入れるように安らいだ。


「帽子は売れた? みたいね」従姉がシエナチーテの背中を覗く。朝はそこに重ねた麦藁帽子を背負っていたのだ。「全部売れたの? すごいじゃない」

「うん。お陰様で。母さんはもう帰った?」


 まだ落穂が残っているので娘は不思議に思っていたのだった。


「そうそう。えーっと、何て言ってたっけな?」従姉のシエナチーテが遠い昔を探すように群青に色づく空を眺める。「ああ、そうだ。街の魔法使いさんが来て、薬草を売ってくれってさ。で、交渉次第ではまとめて高く売れそうだからって早めに引き上げたよ。今夜はご馳走かもよ?」

「薬草が高く売れたくらいでは贅沢できないよ」とシエナチーテは控えめに苦笑する。


 その時、頭に衝撃を受けてシエナチーテはよろける。何事が起ったのかと身構えると子供の笑い声が聞こえてくる。次いで麦藁帽子のつばから泥が垂れてきた。


「こらあ! あんたシエちゃんに何てことすんの!?」と従姉が怒鳴る。


 泥が飛んできた先にいたのはシエナチーテの従弟だった。どうやら子供同士で泥を投げ合っていたのが飛んできたらしい。投げた本人は怒鳴られていることも気にせず、子供っぽい揶揄い文句を言いながら逃げていく。


「わざとだよ、あいつ。シエちゃんに構って欲しいんだ。がきなんだから。ごめんね?」

「ううん。大丈夫。街に売りに行く前で良かったよ」と言ってシエナチーテは帽子の泥を払う。

「また、シエちゃんは。たまには怒りなよ。うちの弟なんてぼこぼこにして良いからさ」

「怒ったり憎んだりは幸せが逃げていくんだよ」

「またそれ。歓喜(ルクエ)姉さんの口癖までうつっちゃって。母娘そろってお人好しなんだから。うちに寄ってく? 泥を拭いたいでしょ?」

「ううん。大丈夫。母さんも待ってることだし」


 その時、再び泥が飛んで来てシエナチーテの顔を汚した。二人ともだ。ただしそれでも怒ったのは泥を投げた少年の姉の方だけで、その後姉弟はお互いに泥をぶつけ合い、揃って両親に叱られるのだった。

 シエナチーテは頬の泥を拭うと再び夕暮れ迫る帰路に就いた。左の目に泥が入ったらしい。涙が止まらない。




 往古は魔法使いの家系だったシエナチーテの一族も、時代を経て多くの魔法を喪失し、今ではいくつかの野良仕事のおまじないと薬草の知識を母ルクエが受け継いでいるだけだった。その生業も徐々に森が拓かれていくことで先が無いことは分かっていた。一つ上の世代までは森番の仕事をも請け負っていたが、獣がほとんど去ってしまったことでこの生業は一足早く失われていた。


 古くは森の中にあったというシエナチーテの家も今では麦畑の真ん中に取り残されて、僅かな森は更に縮み、南の地へと去ろうとしている。

 藁葺きの家の前でシエナチーテは訝しむ。人の気配がない。炊事の煙も明かりも見えない。


 日は既に没し、夏の星々が競うように瞬き始めている。油を惜しむにはまだ早い頃合いだ。にもかかわらず、夜更けのように生家は静まり返っている。まるで南の森の奥にあるもはや忘れ去られた祭壇のような雰囲気だ。


 まさか母がこのような時間に森に薬草を採りに行ったとも思えないが、シエナチーテは従姉の言葉を思い出す。商談に際し、薬草に不足が生じたのだろうか、と想像する。街の魔法使いの求めだという話だった。そういうこともあるのかもしれない。


 シエナチーテは他所の家にあがる時のように躊躇いがちに扉を開く。何かがおかしい。ただの留守とは別の何かだ。すぐに違和感の正体は臭いだと気づき、それは血の臭いだと察する。そして倒れた母の姿を見つけるのは間もなくだった。




 最悪の夜は時が怠けているかのように長く長く引き伸ばされた。温かく少し粘り気のある血の感触。息はなく冷たくなりつつある母。シエナチーテは泣き叫び、助けを求めてまだ眠りに就かない夏の夜を走った。


 誰もがシエナチーテの伸ばした手を取ってくれた。泣くシエナチーテも叫ぶシエナチーテも、今まで誰も見たことがなかった。

 誰かが医者を呼びに行き、下手人を警戒して報は村中に伝えられ、手の余った男たちはルクエを殺した犯人を探して方々を巡り、女たちはシエナチーテの世話をした。しかし誰も彼女の涙を止めることはできず、下手人は見つからず、医者にできることは何もなかった。


 母が葬られる前夜、母娘は最後の夜を二人きりで過ごすことにした。シエナチーテは何とか落ち着きを取り戻し、間違いはないだろうと村の女たちは判断したのだった。


 最期の夕べに母ルクエの元へ薬草の取引を求めてやって来た件の魔法使いの正体は結局分からなかった。市議会に陳情は届き、街にいる全ての魔法使いが取り調べられたが、決定的な証拠は何も見つからなかった。最終的には家が荒らされていたこともあって、物盗りによる犯行ということになった。


 星明りも射し込まない部屋。暖炉はまだ早い。シエナチーテはずっと暗闇にいて、目は梟の如く夜闇に慣れていた。眠ったように横たわる棺の中の母を見つめる。夜目にもはっきりと見える。


 そんなことがあるだろうか、とシエナチーテは心の中に浮かぶ疑念を一人呟く。母の姿を最後に見たはずの魔法使いの正体も分からないまま、押し込み強盗の仕業だという決めつけにシエナチーテは納得していなかった。

 心の底から湧いてくる燃え立つような感情をシエナチーテは抑えつける。それは母の望まない感情だ。


「すまないね」と母が言った。

「ルクエの可愛い娘よ」と母が言った。

「その愛を一身に浴びた無二の愛子(まなご)、シエナチーテ」と母が言った。

「ルクエの死は私にも一因があるんだ」と母が言った。


 一瞬耳を疑い、何度も耳を疑い、しかし疑うべくもなく目の前で瞼を開いた母の姿を見て、シエナチーテは悲鳴を上げる。深い夜に甲高い声が響き渡る。思う存分悲鳴を上げ、部屋の隅まで後ずさるがシエナチーテはそれ以上何もできなかった。それが何であれ母に危害を加えることなどできない。悲鳴を聞いて助けに来てくれる者もいない。そもそも悲鳴が聞こえる距離に住んでいる者がいない。


 シエナチーテが思う存分悲鳴を上げている間、母は棺に寄りかかり、微笑みを浮かべて待っていた。娘が床にへたり込み、落ち着きを見せると母は再び口を開く。


「まず初めにぬか喜びさせないように教えておくと、私は君の母ではなく、君の母は間違いなく死んでいる。ルクエの魂はもう地上のどこにもいない。私は、この魂の抜けた空の牢獄に憑りついた悪霊みたいなものだと思ってくれ」


 一字一句聞こえたが、シエナチーテはその言葉の意味を上手く呑み込むことができず、ゆっくりと立ち上がる母の遺体を仰ぐ。


「うむ。そのように呆けるのも致し方あるまい」母の遺体は俳優のように大袈裟な身振り手振りを交え、小さな舞台の中で生き生きと硬直しているはずの表情を変えて語る。「人は生き返りはしない。私ほどそれを知る者もいない。憐れな人間の火花の爆ぜるような短い命を、私ほど刈り取った者はいないからね」


「いったい……」シエナチーテはようやく口を開く。「何なの? 悪霊? それなら母の体から出て行って。出て行ってよ! それ以上、母を辱めないで!」

「もちろんそうしよう。他ならぬルクエの娘の頼みだ。だが、全てにはやり口がある。手口がある。ここは君の家で、私は……まあ、客だ。招かれてはいないがね。とば口から勝手口まで、勝手知ったる家だが、勝手をしようとは思わない。君の母の遺体の代わりに、何か代わりのいらないものはないか? それなりに体積のあるものが良いのだが」


「それを……どうするというの?」

「分からないか? 大体分かるだろう。察しの悪いふりは処世術か? まあいい。憑りつくのだよ。この体の代わりに別の何かに。ああ、死体でなくてもいい。液体や気体は困るが。それがなければ、そう、文字通り手も足も出ないのさ。ここを歩いて出て行くこともできないというわけだ」


 シエナチーテは少し迷い、「じゃあ、この麦藁帽子に」と言ってかぶっていた帽子を母の遺体の足元へと放る。

「こんな小さなものに貼るのは初めてだね。まあ、物は試しだ」そう言って母の遺体は腰の辺りに手をまわし、小さな札を取り出すと麦藁帽子に貼り付けた。


 途端にシエナチーテの母の体から力が抜け、棺の縁に(くずお)れ、代わりに麦藁帽子が麦藁人形になって立ち上がった。貼り付けた札は人形の腰の位置にあった。花を象ったような形の札には短剣を持った蚊の戯画が描かれている。


「酷い!」シエナチーテは飛び上がって母の遺体を元の通りに寝かせ、再び目を瞑らせる。

「すまないね」と麦藁人形は言う。「何せこのような小さな体では花の一本でも持つのが精いっぱいだ」


 まだ聞こえる。幻聴ではない。麦藁帽子だった人形が喋っている。シエナチーテは一つ一つの事実を確かめる。母は元通りに眠っている。小さな麦藁人形は己の体を矯めつ眇めつ点検している。


「さて」と言って麦藁人形は棺の縁に腰かける。


 シエナチーテは飛び退きたい気持ちと母のもとを離れたくない気持ちで仰け反る。


「出て行くんじゃなかったの!?」

「君が望むならそうするが、私にもやりたいことがある。君への真なる謝罪とあの日の真実を話したい。一人の友人としてそうすべきだろうと思う」

「友人?」


 いったい誰の?


 シエナチーテはその悪霊が言っていたことを思い出す。母の死はこの悪霊にも一因があるのだ、と。

それを尋ねようとしたシエナチーテに先んじて、人形は再びその身に比して大きな身振りで語り始める。


「まずは名乗ろう。誰より知恵ある者とて知らぬ我が名は殺す者(カラクル)。諸人の命を奪う者。諸王国を治めし慈悲深き水源(エブ)王を(しい)せし者。北極星を戴く処(ミアティラ)の七つの軍団を率いし勇士、不遜王不敵な笑み(ドノス)ないしは妖しの君(デーノロス)を害せし者。樹林の民(ナタノク)の盲目の魔術師木蓮(ミズキラ)(あや)めし者――」

「殺してばかりじゃない」とシエナチーテは吐き捨てるように言った。

「まあ待ってくれ。口を挟んでくれるな。名と、そして成したことは何よりも大事なことだ。そうだろう?」


 夜が無為に過ぎていく。シエナチーテにすべきことなど母の死を悼むこと以外にはないが、このような馬鹿げた時間よりはずっと価値がある。


 その後、カラクルは二十人程の名前を並べた後、「そして名も伝わらぬ幾千の只人を亡き者にした者なり」と締めくくった。

「自慢話が終わったなら出て行って頂戴」とシエナチーテは招かれざる客を拒むようにきっぱりと言う。

「そう急かないで。まだ名乗っただけだよ。憐れな娘シエナチーテ。君は名乗らないのか?」

「名乗らない。良いから話を進めて終わらせて。母の死の一因というのは何?」


 どうやってかはシエナチーテにも誰にも分からないが。麦藁人形カラクルは深いため息をついた。


「わが友ルクエは殺された。殺した者は私を手に入れようと押し入ったのだ。私という、何者をも逃がさず確かに殺す、恐ろしい存在を。しかしルクエは最期まで私を隠し通した、というわけだ」


 シエナチーテは棺の蓋を閉じて立ち上がると、思案するようにカラクルを見つめ、部屋の端の方へ移る。


「そう。なるほどね」シエナチーテは一日の仕事を終えて疲れ切った時のように椅子に深く腰かける。「まさか薬草如きで母を殺したとは思えなかったから、真実を知れてよかったよ」

「真実を知れてよかった? それだけか? いったいどうしたというのだ? 母を殺された娘よ。その小さな胸に怒りの炎を燃やさないのか? どす黒い憎しみの泥に満たされないのか?」


 シエナチーテは麦藁人形カラクルを見つめる。母を失った娘の瞳には怒りの炎どころか、憐れみを滲ませていた。


「別に。母は最期まであなたを手放さなかったんでしょ。母は優しいから、人殺しが得意な悪霊を世に解き放とうなんて思わなかったんだ。たとえ自分が死ぬことになっても」

「そうか。そうだね。げにも賢く、真に慈しみ深い女だった」一呼吸おいてカラクルが続ける。「そして次に君の母を殺した者だが――」

「それは良い」とシエナチーテは無感情に言った。


「それは良い? そう言ったのか? どうしてだ? 仇の名を、その正体を知りたくはないのか? 彼奴の汚れた手を切り落としてやりたいと思わないのか?」カラクルはいっそう大きな身振りで訴えかける。「それとも、疑っているのか? 私が嘘をつくのではないか、と。私は誓って、私の歴代の主たちに誓って、わが友ルクエに誓って、決して嘘などつかないぞ。私はあの時も君の母の視覚を共有していたから――」

「見ていただけ? 確たる証拠は何もなし?」

 カラクルは少し怯む。「まあ、そうだ。その通りだ」


「今になって、誰が殺人を目撃したと伝えるの? あなた? 私? 何故早く言わなかったのか、と問われて何て答えるの? むしろ名誉を毀損されたと逆に訴えられる」

「それは……だが……。ならばどうするんだ? すぐ近くの街に君の愛する母を殺した忌まわしき者が何の罰を受けることもなく生きていくんだ。君は耐えられるのか?」

 シエナチーテは薄暗い部屋に佇む麦藁人形に微笑みを見せる。「怒ったり憎んだりは幸せが逃げていくんだよ」




 カラクルにはそう言ったが、怒りも憎しみも抑え込めているとは言えなかった。ただすぐそばにいるそれらを無視する他なかった。まるで沢山のけたたましく鳴く烏を家の中で飼っているかのようで、知らないふりをするのは苦労した。苦労したが、しかしシエナチーテは母の教えに従った。

 母を共同墓地に埋葬した時も、土をかぶせる度に怒りが募った。母から徐々に継いでいた仕事に、教わっていない事があると気づく度に憎しみが渦巻いた。明かりのない家に帰り、喋る麦藁帽子、あるいは麦藁人形に出迎えられると心底うんざりした。歩いて出て行くのではなかったのか、と。


「なぜ母はあなたを持っていたの?」

「おお、ようやく君も私に興味を抱いたのだね? 他に類を見ない恐怖の権現たる私の存在に」


 夕餉の度、見たことも聞いたこともない時代の古い王様や、妬まれただけの踊り子を暗殺した話を聞かされるのにシエナチーテは辟易していたのだ。まだ母に関わる話を聞いた方がましだ。


「ただ、どうせなら母の話を聞きたいだけ」

「そうか。まあ良い。知っての通り、私はその類稀なる力で私の所有者の望むまま人を殺してきた。なぜだか分かるね?」


 何度も聞いたがシエナチーテは言葉を返さない。聞いたが、理解はできなかったからだ。


「私は殺す力を持っている」カラクルは麦藁人形の姿で机の上を舞台のように歩き回っている。「だが特にこれといった欲求はない。おそらく不滅であろう私は仮に何かを欲したとしても、今すぐ得ようとする必要はないのだ。明日でも、来年でも、百年後でも構わん。ならばそれは要らないのと同じだ。いつの頃だったか、そう気づくと何もかもが色褪せてしまった。ひどく、ひどく絶望したものだ」


 シエナチーテには想像するべくもないが、とても退屈なのだろうと思った。退屈をまぎらわすために殺される人はたまったものではないが。


「だが君たち人間には欲望がある。輝くような欲望。どす黒い欲望。定命のひ弱な種族であるからこそ、君たちの欲望は強力なのだろう。私を産みだした何者かが何を考えているのか知らないが。私に力を与えたのだ。使う他ないだろう。などと考えるまでもなく、私の力の秘密にたどり着いた者は私を利用したがね。私を介して欲求を満たす彼らを介して私は満たされた」


 先ほどまで(スープ)の入っていた皿を見つめてシエナチーテは呟く。「母の話はしてくれないんだね。お休み」

「まあ、待て待て。まだ序幕だ。ここからだよ、君」カラクルが縋るようにシエナチーテのもとに駆けてくる。「君はこう思っただろう? 母さんも、誰かを殺せとこの偉大なる悪霊に命じてきたってこと? とね」

「そんな訳がないでしょう? 自分が死ぬような目にあってもあなたを利用しなかったのに」


「ああ、そうか。そういえばそうだ」カラクルは気を取り直すように咳払いをする。「まさにその通り! ルクエというのは変わった女だったよ。誰にも疑われることなく誰であっても殺してやるというのに、彼女が主になってから死ぬその時まで、結局私は誰一人殺さなかった。そんな主は今まで一人だっていなかったよ。彼女の欲するものは殺しの先になかったのだね」


 シエナチーテはこっそり安心する。そうは言ってももしかして、と考えなかったわけではなかった。


「いったい誰があなたなんてものを母に渡したの? まさか代々受け継がれてきたなんて言わないよね?」

「シエナチーテさ」とカラクルは言った。

「はあ?」と言い、「どの?」とシエナチーテは言った。


 シエナチーテはシエナチーテが知る限りシエナチーテも含めて九人いる。


「ルクエの叔母。君の大叔母だよ」


 大本のシエナチーテだ。医者にして銀行家の夫人、そして議員をも務めた成功者だ。


「もしかして大叔母様の成功の陰にはあなたがいたってこと?」とシエナチーテは少し悲しい気持ちになって、食卓の上で皿の間を歩き回る麦藁人形に尋ねる。

「そうとも言えるが、もちろん彼女自身の能力は高かった。競争相手を殺したって医者にはなれやしないだろう?」


 だが銀行家の夫人や議員の地位を欲するならばあるいは役立つかもしれない。シエナチーテには想像する他ないが。

 途端にシエナチーテは自分の名前が嫌になってしまった。元々好いてはいなかったが、少なくともあやかった相手は立派な人間なのだと思っていた。会ったこともないが。


「まあそう落ち込まないでくれ。多かれ少なかれ、誰にでも後ろ暗い思いがあるものさ。誰にでも思いがあり、誰にでも力があるわけではない。そういうものだ。君も気後れすることなどない。それに利己的な欲望に比べれば復讐など、社会正義というものだ」


 シエナチーテはようやく腑に落ちた。カラクルにとっては主の名の下に己の業を行使することが存在する意味なのだ。少なくともカラクル自身はそう考えている。だからこそ、ここ数日、殺す者(カラクル)という物騒な存在はシエナチーテの怒りと憎しみを煽り続けた。

 ルクエはどのように殺された。最後には娘を案じていた。騙し打ちだった。この家の包丁を使って何度も刺した。目当てのものが殺した相手の腰の辺りに隠されていることも知らず、家探しをしていた。それらの話を小出しにして、シエナチーテの心の内に燃える炎が消え去らないように維持していたのだ。


 匙を握りしめていた拳に気づき、力を抜く。


「何を言われても復讐なんてしないし、あなたに殺しを頼んだりしない」とシエナチーテは宣言する。

「だがそうしている内に手遅れになるんだ。母を想うシエナチーテよ。私は多くの人間を殺してきた。復讐代行だって何度もしてきた。だから誰よりその作法をよく分かっている。やるなら急いだ方が良い。思い立ったならすぐにでも始末をつけた方が良い。復讐は足が早いんだ」

 シエナチーテは訝しむ。「足が早い? 復讐できなくなるってこと?」

「そうさ。例えば私が迎えに行くより先に冥府に赴いてしまうこともある。他にも――」

「それならそれで良いじゃない。せいせいするよ」


 シエナチーテはおくびにも出さないが、心の中ではっと怯む。復讐を果たすことと、憎む相手の不幸な死を喜ぶこととどこに違いがあるのだろう。シエナチーテは顔にまとわりつく羽虫を振り払うように、心の中に押し寄せる憎悪から逃れようとする。そこに幸福はない。母の望んだ未来はない。


「ルクエは君を案じていた」カラクルは繰り返す。「彼女は一度として私に命令をしたことがなかったが、死の間際に一言遺したのだ」


 カラクルはまだ手札を残しているらしい。この執拗な扇動が欲求でなくてなんだというのだ。耳を塞ぎ、寝台に逃げることもできたはずだが、シエナチーテはそうしなかった。


「もしも()が戻ってきて、シエナチーテに危害を加えるようなことがあれば娘を守ってくれ、と」席を立とうとしたシエナチーテの背中にカラクルは言葉を向ける。「()を殺してでも、とね」




 シエナチーテの中の暗い炎は消えることがなかった。母を殺された娘はその炎を何とか抑え込もうとし、内から身を焦がされていた。

 しかし日々の営みは変わらず続く。遠い南の森に薬草を採りに行き、各種の薬を調合する。傷薬や酔い止め、気付け薬、不運や悲しみに効く薬。その種類は代を経て様々な要因で数を減らし、母ルクエの死により更に失われ、生活は徐々に蝕まれる。

 母の遺した品を売り、生活の足しにする。薬だけではどうにもならない以上、何か手を考えなくてはならないが、頭が上手く働かない。


 悪夢を見る。復讐する夢だ。

 良い夢も見る。母の夢だ。

 だが悪夢の後には安心し、良い夢の後にはひどく苛まされた。


「私を使った者たちの中に貧者はいなかったよ」とカラクルが言った気がした。


 遠い森に薬草を採りに行こうとした時のことだった。シエナチーテは麦藁帽子を睨みつけ、逃れるように家を出た。


 麦藁帽子は母のように上手く作れない。客も初めは同情で買ってくれるかもしれないが、いずれ見向きもされなくなるだろう。それ以前にシエナチーテは母が死んでから、一度として麦稈には触れてもいない。シエナチーテの中で麦藁帽子と母は強く結びついていたからだ。


「君ならば私をうまく使いこなせると思うんだけどね。なにせシエナチーテだもの」とカラクルが言った気がした。

 薬の調合をしていた時のことだった。抽斗の沢山ある仕事机に向かい、乾燥した薬草を山と重ね、乳棒と乳鉢を駆使する。力を込める度に青臭さが辺りに漂い、意識が揺らがされる。


「私と大叔母は違う」とシエナチーテは一心に乳鉢から目を離さずに言った。

「だが名をあやかったんだろう? 名をあやかるということがどういうことか分かるだろう? そこには願いがあるんだ。シエナチーテのようになってくれ、と。それはとても古く、しかし誰もがよく知る呪術だ。それを基にした魔術もある。名の力は強いぞ。その体を、魂を、人生を戒める」

「呪術だか魔術だか知らないけど、それは成功者になって欲しいという願いであって、人殺しになってくれなんて思いなわけがないでしょ。それに大叔母の裏の顔なんて誰も知らなかったんだし、私以外のシエナチーテにも人殺しなんていない」


「ああ、言ってなかったかな? ルクエは叔母のシエナチーテの裏の顔を知っていたぞ? シエナチーテが私をルクエに授けたのは、君が生まれる前のことだ」

「嘘!」そう怒鳴ってシエナチーテは立ち上がり、カラクルの姿を探す。


 今は麦藁帽子の姿になっていて、床に転がっていた。


「本当だとも。疑うなら私に命じればいい。真実を言え、と。前にも言った通り、私は主のどんな命令にも逆らえないのだ。そういう性質をもって存在しているのだからね」


 だとすれば、母は娘にどんな願いを託していたというのだろう。人を殺してでも成功せよ、と願っていたというのか。


 シエナチーテは悪い考えを振り払うように頭を抱える。

 そんな風には育てられていない。母は怒りや憎しみとは無縁だった。自分自身もまた。


 しかし、とシエナチーテは何かに気づいたように、微風の吹きこむ窓の外の秋めく景色に目をやる。種の播かれた畑。雲の高い空。疎らな家屋と遠くで黄金に色づく森。この忌まわしい家と地続きとは思えない隔てられた世界の景色。

 大叔母のように誰かを蹴落とすのに怒りや憎しみはいらない。彼女やカラクルを利用した者たちにとって殺しは手段でしかないのだ。短い人生をより良くするための。


「どうだ? シエナチーテ」カラクルの声がまるで耳元で囁いているかのように聞こえる。「難しく考えることはないし、実際に難しいことじゃない。君は命じるだけだ。手を汚すこともない」


 シエナチーテは再び麦藁帽子を見下ろす。


「命じるよ。カラクル」麦藁帽子に貼られた札に描かれたお道化た蚊の目と目が合う。「嘘を言ったのなら白状して」

「君が生まれる前に私を授かったというのは嘘だ」そう言ってカラクルは麦藁人形に変身し、大きく笑う。「ううむ。大胆過ぎたか。君の勝ち、私の負けだよ、シエナチーテ。やはり君はルクエの娘という訳だ。慈しみと憂いに満ちた人生を生きるがいい。苦難の末の幸福、それが君に相応しい。どうした? なぜ泣く? 騙したことを怒っているなら謝るが」


 シエナチーテは床を見つめていた。カラクルの隣の床を。そこには一本の麦稈が落ちていた。


 カラクルもそれに気づき、それを拾い上げて言う。「これがどうかしたのか?」

「あなたから抜け落ちたの?」とシエナチーテは震える声で言う。

「いいや。ルクエの帽子は頑丈だよ。そう簡単に壊れはしない。いつここに落ちたのかといえば、それは……」


 シエナチーテは膝をつき、カラクルから麦稈を受け取る。涙は止まらない。

 この麦稈がここに落ちた時、母はまだ生きていたのだ。母が最後に作った麦藁帽子の一つが、今まさにすぐそばで不思議そうにシエナチーテを見つめる麦藁帽子だ。


「そうか。まあ、いいさ。思う存分に泣くと良い」カラクルは静かに言う。「悲しい出来事はこの先にも何度もある。多くの別れがあり、多くの喪失がある。誰にも逃れられぬ宿命だ」


 シエナチーテは一つ洟を啜ると途端に泣き止んだ。涙は止まり、その表情から窺い知れるものはない。

 しかしその表情を見たカラクルは何かに気づいたように慌てて言う。


「待てよ、おい。嘘だろ。たった一本の麦稈で何が変わったというのだ。シエナチーテ。さっきの今だぞ。私は君の考え方を受け入れたんだ」

「たった一本というなら、これが最後の一本だったんだ」シエナチーテは冷たい声で呟く。「私は、やっぱり許せない。母さんなら、きっと許したんだ。だからこそ、そんな人を殺した奴が、私は許せない」

 カラクルは深いため息をつく。「分かったよ。良いさ。復讐なんて珍しいものじゃない。だが私の力を使う舞台としては、大義があるだけ上等な方さ。さあ、命じてくれ。どんな殺し方でもお気に召すままだ」


「母さんを殺したのは誰? 教えて」とシエナチーテは静かに単調に尋ねる。

「街に住む魔法使い高貴な男(ザクサン)だ。……それは知らない方が良かったんじゃないか? 君の負担になるだけだぞ」


 シエナチーテは勝手口に行き、壁にかけられた山刀を取り、そのまま出て行く。


「待て! シエナチーテ!」カラクルが追ってきて呼び立てる。「それは止めておけ。君には向いていないし、君には簡単じゃない。成し遂げられないか、成し遂げられてもそのまま捕まって処刑だ。ルクエに顔向けできん。やるなら私に任せろ」


 表の方へと家を回り込み、街へ向かおうとしたシエナチーテは足を止める。

 そこに一人の若い男がいた。いつからそこにいたのか分からないが、何かを躊躇う様子で俯いている。そこにシエナチーテが現れると驚いた顔をし、跪いた。それはザクサンだった。


「謝って済むことではないと分かっている」ザクサンは必死な様子で言い募る。「だが罪悪感でいても立ってもいられなくなったんだ」

「いまさら何を」とシエナチーテは叫び出すのを堪えるように呟く。

「妻が身籠ったんだ!」ザクサンは涙ながらに訴える。「虫のいい話だということは重々承知だ。恨みを晴らしてくれて構わない。何だって協力する。だからせめて子が一人立ちするまで、いや、生まれるまでで良い。猶予をくれないか。顔だけでも見させてくれ! 頼む!」


 シエナチーテは何も言わず、男のそばまで歩み寄り、山刀を振り上げる。しかし振り下ろすことはできず、支えを失ったようによろめき、とうとう地面にへたりこんだ。そうして泣き叫ぶ。涙を流し、嗚咽し、絞り出すように呻く。


「だから言ったんだ。復讐は足が早い、と」カラクルは誰にも聞こえない声で呟く。「死なれる前に殺すんだ。更生される前に殺すんだ。許す前に殺すんだ」

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