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『除く者』

 その者(・・・)について語ることは、その街について語ること、あるいはその土地、その歴史について語ることに等しい。


 山岳城郭(ビヨネスク)の街の最も古い時代の呼び名は湖畔(イバオル)だった。その他にも安息地(ミジア)銀の土地(ファンディカ)薄ぼんやり(クロープト)、多くの美しい名で呼ばれ、称えられた。ただイバオルだけが後の世に唯一残る美称でもあった。


 爽やかな山風と清らかな湖、そして罪無き仔馬、それらを愛する人々の到来がその地の起こりだという。彼らがどこから来たのかは様々に言い伝えられている。西の我々の土地(テロクス)から川をたどってやって来ただとか、東の東方(トーキ)大陸から潮に流されてやって来ただとか、あるいは天より駆け降りてきた馬の子孫だとか。だがそのどれにも彼らは興味がなく、馥郁たる山風を浴びて、清浄なる湖を飲み、伴侶の如き愛馬と山や丘の間を駆けて、それらに感謝する日々を送っていた。


 その者(・・・)がいつからその土地にいたのかは定かではない。それは彼自身にも知りえぬことだった。彼には長い時間が用意されていたが、記憶力の方は常人と変わらなかったために、彼の記憶は石に彫り込まれた歴史よりも長持ちしなかった。ただ最初の『願い』だけは忘れたくても忘れられない。


「この地と湖が永久に清らかであれば良いのに」と誰かが言ったので、彼はその地と湖を清め始めた。


 人々が山風に身を曝している時も、清らかな湖で喉を潤している時も、彼は一本の箒を手に持って村を清めていた。それが彼の喜びであり、何よりも甲斐のある営みだったのだ。


 初めの頃は、それがいつの頃かは誰にも知れないが、山風のもたらす実りや湖で獲れた鯰の骨を掃き捨ててしまう彼は煙たがれていた。人々にとってそれは父祖より伝わる護符を作るための大事な材料だったからだ。しかし彼の清め仕事を止められる者はおらず、ただ山の実りや鯰の骨をそこら辺に置かなければいいだけだったので彼が罪に問われることはなかった。


 いつの頃からか彼は清める者(シャナリス)と呼ばれていた。




 長い年月を経て、イバオルの村はビヨネスクの街へと変貌していた。イバオル鯰の良質な皮も身も骨も油も名高いものとなり、遠くの街にまで取引されるようになると、漁師や農民ばかりではなく、商人や戦士も働くようになり、祭事と政を担う者が現れた。


 シャナリスは常と変わらず箒を携えていた。


 豊かな湖を見下ろす山岳には見張りの砦が築かれ、いつしか為政者の居城となった。街は柵で囲まれ、次いで壁で囲まれた。壁の外には日の下を歩けぬ賊が欲を種火に目を輝かせ、三つのなだらかな丘の向こうからやって来た騎兵が壁の高さを測っていた。勇猛果敢なビヨネスクの(つわもの)どもは壁の中に押し入ろうとする者たちを無慈悲に誅した。丘の向こうの国々が手に手に剣と槍を携えるとビヨネスクの(つわもの)どもは打って出て、丘よりこちらに踏み入れさせぬようにした。


 シャナリスは相も変わらず街をも清め、ついでに砦も清めていた。


 幾人もの英雄が名乗りを上げ、かの罪なき仔馬たちの子孫に跨り、ビヨネスクの名と鯰を象った兜を異邦にまで知らしめた。幾多の敵を葬り去り、死してなおその勇名は侵略者を退け、彼らの夢にまで乗り込んで冥府の戸口を垣間見せた。


 勇ましき湖の子(エウデス)轟風(グメラ)は蛮族にさえ野蛮な戦士と恐れられ、シャナリスは彼らの武具をも磨いた。

 支配者の家(デノーロア)とその息子名声(ユオン)の槍と矢の刺し貫いた痕はとても深く、しかし敵の穿った城壁の傷はシャナリスが元通りに修復した。

 慈悲なき鷹の翼(ゲーズ)の恐ろしさを故郷に伝えられた者はいなかったが、シャナリスのもたらした清浄さは諸国に知れ渡った。


 怪物が跋扈し、神々と英雄とその血を引く者たちが戦場を駆けた黄金の時代にもシャナリスはビヨネスクを掃いていた。


「シャナリスに掃除されるよ」とは子供を嚇す母親たちの常套句だった。




 実はずっと昔からイバオルの湖はある女神が司っているということになった。ビヨネスクの人々は恵みに対する感謝を全て女神に捧げることにした。

 世を照らさんばかりの美貌と惜しむことなく豊饒をもたらす真玉手(またまで)を賛美する。そのための華やかな楼閣が敬虔なるビヨネスクの街を覆った。


 竿と網を乗せた漁船ばかりだった湖の様相も変化する。女神を奉る神殿を兼ねる巨船が波間に浮かび、湖底の聖なるものを寿いだ。陥落を知らない砦は更に堅固となり、壁は二重三重と広がり、とうとう湖を囲んだ。それもまた何より尊い女神を守るためだった。


 シャナリスを知らぬ者はいなかったが、シャナリスを語る者もいなかった。


 そしてシャナリスの他に清めることを知る者はいなくなった。人々は塵芥を通りに捨てて、糞尿を湖に垂れ流した。それでもシャナリスはビヨネスクの地を掃き続け、ビヨネスクの地は清浄であり続けた。汚すより早く清められた。

 時折シャナリスと言葉を交わしていた小さき者どもは愛想をつかし、黄昏の向こうからやってくることはなくなった。




 さらに時を経て、湖の女神への信仰が次第に衰えても、その地はより一層発展し、ますます富んだ。英雄の遠い子孫である貴族や、その狡猾さで成り上がった豪商が山を掘り抜いて豊かな銀の鉱脈を発見したためだ。


 最も名の知れた王の御代の、王の右腕たる預言者はシャナリスをよく調べた。

 時代を経て積み重なる記録は無視できないものとなり、省みられ、シャナリスの功績が明るみにまかり出た。彼が税を納めていないことを問題視する者は多かったが、その働きの価値の方が僅かに上回ると考える者が僅かに上回った。


 この地の支配に手を尽くした王は、ある日忠良なる兵士たちを差し向けて、いつもの通り(はた)きを振っていたシャナリスを乱暴に召し捕った。その風体が尋常のものではなく、湖の泥をその身に塗りたくっているかのようだったので、彼を擁護する者は市井におらず、王の耳に届いたのは詮無き噂と悪態だけだった。


 そして王はシャナリスを尋問した。「シャナリスよ。古より街を掃き清める者よ。黄金の時代の昔よりこの地に隠れ潜んでいた者よ。お前は何故この地に棲み着き、この街を清めるのか」

 シャナリスは答えて曰く、「願いを果たすために」

 預言者は重ねて尋ねる。「いつ終えるのか」

 シャナリスは答えて曰く、「願いを果たせしとき」


 常に玉座に侍る預言者は王に耳打ちする。「彼奴は人々がまだ精霊と同じ言葉を話していた頃の名残りに過ぎませぬ。過ぎたる日々を忘れられず、夢を見ておるのです」

「シャナリスよ」と王は言った。「街や湖を清めるだけでは願いが果たされる日は永遠に来たらぬぞ。何より薄汚いのは人の心よ」


 とうとう彼は正式に公式にビヨネスクの国に所属することとなった。そしてその日より玉座に侍る者はいなくなった。


 シャナリスの仕事は何一つ変わらない。(はた)きで埃を落とし、(どぶ)を浚い、煙突の煤を払い、雑巾で染みを拭き、(ごみ)を拾い、箒で(ちり)を掃き、王の命じるままに汚い者を清めた。唯一彼を変えたのは特別の軍服を身に纏うことだ。それはシャナリスの恐ろしい見た目を覆い隠すためのものだ。


 ビヨネスクの街が歪に膨れ、ほつれた糸玉の如く複雑になっても、全ての掃除はシャナリスの手に余った。というのも生涯をかけて学び修めた魔法使いでも辿り着けない叡智が彼の手の内に携えられていたからだ。どのような塵も悪しき心もシャナリスによって取り除かれ、一晩を越えた汚れは存在しない。粗忽者が道に捨てた鯰の骨も、兵士が戯れに殺した野良犬の遺骸も、廃石で湖を埋めた謀反人たちも、女神に縋る裏切り者たちも、人の目に触れることなく掃除された。


 シャナリスの仕事を邪魔できる者はいなかった。度重なる戦火に屋根が落ちたのは次の日が昇るまでのことで、疫病患者の(おぞ)ましい血反吐に誰かが顔を顰めることはなく、洪水のもたらした土砂は街を通り過ぎて行き、押し流された王の消息を知る者はいなかった。そして王を知る者もいなくなった。




 更に年()り、ビヨネスクの街は清浄郷とまで称されるに至り、しかし称賛は霧の向こうへと消えていく。街は霧の奥深くに隠された庵のように幽かになった。古の英雄の振り撒いた恐怖も、最盛期の王の権勢が強いた法も、その地に人を近づけなかった。


 想像の翼を広げることに長ける詩人たちはこぞって、ビヨネスクに思いを馳せ、深く碧い湖の畔に伸びる葦が夏の山風にかそやかに揺れる様や、秋の夕暮れに城壁の向こうへと去り行く黄昏を名残惜しんで煌めくさざ波を幾編もの詩にうたった。

 目に見えぬものに誰よりも怯える宗教家たちはビヨネスクの湖の女神の慈愛と美貌と懐深さを称え、また同時にその狡猾さと蠱惑と嫉妬深さを説いた。




 いつしかその地の古き名を知る者は減り、いなくなり、伝説の中にのみ語られるようになった頃、霧に消えたイバオル、あるいは丘無きクロープトと呼ばれる原に一人の旅人が訪れた。

 長い川をたどり、平原にあってとても深い泉までやってくるとよく働いた両足を慰めるべく泉の畔に腰を下ろした。


 そしてただ一人、泉のそばで箒を持って土埃を掃くシャナリスを見つけ、その恐ろしい姿形に怯むことなく問いただす。「湖があると聞いたんだが知らないか?」と。

 シャナリスは答えて曰く、「その泉の他は埋め立てられたよ」

 旅人は重ねて尋ねる。「山があると聞いたんだが知らないか?」

「銀のとれぬ山など要らぬとさ」

「街があると聞いてやって来たんだが知らないか?」

「人の住まぬ街など(ごみ)と同じさ」


 旅人は肺の奥に重く溜まったため息をつき、鈍るかぶりを振る。


「なんだって荒野なんかを掃除しているんだ?」

「この地と泉の清らかさを願う誰かのためだ」

「いつまでやるつもりだ?」

「願いを果たす日までさ」

 旅人は悲し気に首を振る。「いくら待ってもそんな日は来ないよ」

「何でだ?」

「美醜を決めるのは人の他にいないからさ」


 シャナリスは沈思黙考した後、箒を放り捨て、立ち去った。シャナリスがその地に戻ってくることは二度となかった。

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