第15話「孵化」
胃液が逆流する。
立っていられなくなり、たたらを踏むように前方へよろめき、膝をついた。
そして、胃に溜まった汚物をこれでもかとぶちまける。
一面真っ白だった世界を、茶と赤が入り混じった俺の吐瀉物が醜く汚す。
その行為に、俺は興奮を隠せなかった。
無垢な純白を、俺の穢れで汚すことに背徳性を感じているのか?
違うそうじゃない。この醜悪さこそが正しいからだ。
俺は、この歪んだ美しい世界を正しい在り方に修正することに喜びを感じていたのだ。
吐瀉物は、足元に粘着質な水溜まりを作るだけでなく、一部が空間に浮いたままになっていた。
いや違う、浮いてるんじゃない。これは壁に付着しているだけだ。浮いていると見えた吐瀉物を指でなぞろうとすると、汚物が指に絡みつくと同時、果たしてそこに壁があることが分かった。
純白が無限に拡がるかに見えた美しい世界は、その実かくも陳腐なハリボテ細工でしかなかった。
面積にして僅か半径三メートルの円といったところか?
空間の内壁全てを真っ白に塗り込めることで、世界全てがそうであると錯覚させていただけ。
種が割れればなんと杜撰なことか。
とはいえそれは、俺が最初の一歩すら歩み出さなかったならば、気付き得なかったこと。
幻想を否定し、不都合を肯定し、結果苦しみ悶えた。
そして自身の醜さを引き金に世界の醜さを思い出し、この世界が閉ざされた紛い物であることを思い出した。
そう、俺は思い出した。思い出してしまった。
杉穂は俺の目の前で殺された。
俺は杉穂を救えなかった。
眠っていた罪が俺の臓腑で目を覚まし、暴れ回る。
口から溢れ出るべき汚物を既に出し終えても、まるでまだ体内に残っているとばかりに消化器系が痙攣する。
それは当然だろう。
なぜなら俺の罪は俺自身と一体化しており、いくら吐けども雪げるものではないのだから。
膝立ちで静止することも儘ならず、自らの吐瀉物の上で寝転がった。
意味の無いこととは分かっていても、そうすることがまるで懺悔になるような気がした。
酷く後ろ向きな理由だ。
自分が汚物を担うことで再び世界の白さを取り戻す、そんな前向きで勇敢な思考では断じてなかった。
そうして一しきり吐瀉物に塗れると、幾分呼吸が安定してきた。
「うわ、汚ったねえ」
立ち上がり、自らの体を見て思わず呟いた。
そんな軽口が叩ける程度には、落ち着きを取り戻していた。
改めて前方を見据える。
ここは、閉ざされた俺だけの世界。
すぐそこには壁がある。
ならば、その向こうには一体何があるのか?
思い出さない方が幸せだったのも知れない。
だが、俺は既に知ってしまった。
まだ記憶が鮮明じゃない部分も多い。
だが、ろくでもないものであることだけは確かだ。
前方へ二歩進む。
右手を前に翳すと、果たして冷たく硬い感触が掌を包んだ。
コンコンとノックをすると、僅かながら振動が壁を駆け巡る感触が感じられた。それは思った以上に薄いようだった。
その薄い壁の胸の高さに、袖に付いた吐瀉物を塗り付け、限界まで後退する。
反対側の壁に背中を預けると、どうやら壁は湾曲しているらしいことが分かる。
前方の壁までは、その距離大股で約五歩分。
その場でステップを踏み、下半身を慣らす。
そして壁へ向かって全速力で駆け出すと同時、両腕を胸の前でクロスさせ、顎を引く。
「最後のガラスぅーをぶち破れぇーってなぁ!」
五歩目を最も強く蹴りつけ、そのまま壁と激突する。
バリバリバリバリ。
そんな、ガラスというよりは卵の殻か何かが割れるようなけたたましい音を聞きながら、俺はついに殻の外の世界へと復帰した。
「ああ、そうだったよな。俺達は――ここで殺し合ってたんだった」
そこは、広大な更地だった。
あるいは、周囲を高い城壁で囲われているので、戦場とでも呼ぶべきか?
観客席すらも無い、参加者に殺し合いを強いるためだけに用意された闘技場。
会場に召集されたるは、蒲森区の中高生のうち、なまじ適性を持ってしまっていた者達。
選ばれざる者は、大人達同様に生存を賭けた戦いに挑むことすらできない。
この世界で何が進行しているかを知る機会も与えられず、ゆっくりと、真綿で絞め殺すように、この世から消されていく。
俺の背後では、ちょうど二人の男達が殺し合っていた。
いや、俺が気付いて振り返ったときには、既に大勢が決していた。
小柄で色白ないかにも文化系部という様子の気弱そうな少年が、大柄で筋肉質ないかにも運動部という姿の少年をまさに殺さんとするところだった。
よくよく見れば、大柄な方には見覚えがあった。
確か奴は俺と同じクラスの谷口翔平だ。あいつは以前万引きで捕まって全校で話題になったから印象に残っている。三か月の停学が明けた後も、やはり奴を白眼視する奴は多いらしく、なかなか険しい高校生活を送っていた。
谷口の得物だったと思しき斧は、十メートル程後方に持ち手を赤く染めて転がり、小柄な男の右手には、サーベルのような細身の剣が握られていた。
谷口は小柄な男から逃げるように、四つん這いでずるずると這っていた。
その両足からは、夥しい量の血が流れ、悍ましい軌跡を描いている。
小柄な男は谷口にゆっくりと歩み寄ると、ゆっくりとサーベルを振りかぶった。そして、頭部目がけてそれを真っすぐに叩き下ろした。
ピュー。
そんな間抜けな音が似合いそうな出血だった。
噴水のように、谷口の後頭部から真上の方向に鮮血が噴き出す。
谷口は、先程までとは打って変わり、後頭部を抑えながら一心不乱にのたうち回った。
戦うことはおろか、最早逃げることすらも考えられなくなったらしい。
致死レベルの激痛に悶絶するだけだった。
その谷口の頭にサーベルが突き刺される。
一度ではなく、二度。二度ではなく、三度。
何度も何度もその切先は谷口の頭部を抉った。
やがて、谷口だったモノは動かなくなった。
俺は、それをただ黙って見ていた。
怖気付いて何もできなかった訳じゃない。何もしようともしなかった。
なぜなら――奴が仮にそうしなくとも――――代わりに奴等のどちらかを俺が殺していただけだから。
◇
「ふーん。その顔は、ようやく思い出したって感じだねえ。私達が一体どういう状況に置かれているかを」
口角を吊り上げる仰木の顔は、俺の回答を聞くまでもなく確信に満ちていた。
今日の欠席者は、ついに全校で八十人。
昨日まで教室にいた谷口も、今日は欠席していた。
「ああ、生憎とな。だが、正直まだあやふやな部分も多い。特に、記憶を失った当日のこととかな」
「そうか……思い出しちゃったか……」
仰木とは対照的に、栂野は沈痛な面持ちだった。
「思い出さない方が良かったか?」
「いや……正直僕自身もよく分からない」
「その様子だと訊くまでも無さそうだけど、一応形式的にやっとこうか? で、兼嘉の家にあった名簿、あれは一体何?」
「あれは俺達が背負う十字架。つまり――俺達が今日までに殺した奴等の名前だ」
「ご名答。ま、正確には限り無く殺したも同然の行為ってだけで、実際現実世界での生命活動は維持されてるんだけどね。それに私が単独で殺った奴も含まれてるし」
「そうだね。でも、あっちの世界で死ぬということは、精神が死ぬということ。彼等の意識が戻ることはあり得ない。そうだ……小金井も……僕自らが殺したんだ……。つい数時間前まで普通に友達として馬鹿やってたのに……!」
仰木が右手を振りかぶりかけたが、栂野はそれをそっと制止した。
「ああ分かってる。これは偽善者のクズが独り善がりな陶酔に浸ってるだけさ。ちゃんと罪を覚悟ならできてる」
「本当に分かってるのやら。ともかく、安晴がこうして本当の意味で帰って来た以上」
「ああ、それなら仕方無い。方針はこれまでと同じ。僕等は絶対死なない。そして僕等は互いを死なせない。三人で生き残り、勝者となる。これは絶対のルールだ……!」




