第11話「泡沫の夢」
「見ろよ! 歩ける! 俺はもう歩けるんだ! このとおり、普通にな!」
自慢げに保健室を歩き回るが、俺の言葉に応じる者はいなかった。
「つまんねえの。杉穂の野郎どこ行ったんだよ。最後にあいつ来たのいつだよ?」
生涯動かないと宣告された俺の両足は、今やすっかり完治していた。
それに伴い、特別支援学校での生活も終わりが近づいていた。
ちょうどキリがいいということで、四年生に上がる来月の四月。
俺は一般の公立小学校へと転校する。
しかし、俺と共に保健室登校を続け、毎日俺と遊んでいた杉穂は、気が付くとベッドから消えていた。
両親に訊いても、心底どうでも良さそうに「知らない」と突き返されるだけだった。
保健室の養護教諭に尋ねても、「杉穂ちゃんは今日はお休みみたいだねー。代わりに先生と遊ぼっか?」などとお茶を濁されるばかりだった。
結局、俺は保健室の中を、一人で熊のようにぐるぐると歩き回ることしかできなかった。
そして翌日も、そのまた翌日も杉穂は来なかった。
俺が杉穂と会うことは、二度と無かった。
「いや、本当にそうか……?」
無意識に口が動いていた。しかしその動きは、紛れも無く俺が喋っている言葉だと認識できた。
思考が口を動かすのとは真逆――口が発した言葉が俺の脳内を支配する。
違う? 俺は杉穂に――
ズキリ。
性質としてはそう表現するのが近いか?
だが、衝撃はゴゴゴゴゴゴゴゴと轟音を立てて然るべき重厚感があった。
脳味噌を掻き回すような感覚は、激しい痛みをもたらした。
痛み以上に、自分の身に起こりつつある得体の知れぬ恐怖の陰が俺を苛んだ。
脳内で砂鉄が寄り集まる感覚がする。
いや砂鉄じゃない。無数の短い針金片だ。
それらは寄り合わさり、次第に鳥の巣のような立体構造を形成していく。
破片同士が摩擦で軋み、その数千数万という接触部が同時に痛む。
「あああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!」
痛みは毛程も消えない。
しかし、無駄と理解していても絶叫せずにはいられない。
そうでもしないと正気を保てない。
正気? 俺はそもそも今正気なのか?
痛い痛い痛いいたいいたいイタイイタイイタイイタイイタイ!
考えるほどに、軋みが火花を上げる。
「やめろやめろやめろあああああああああああああ!!!!」
その刹那。
俺は、歳を重ねて高校生となった杉穂の姿を想起した。
俺の記憶より大きく成長していたが、はっきり彼女だと分かった。
――彼女の制服は鮮血に染まっていた。
◇
「やべえ」
股間に感じた違和感に、即座に布団を翻す。
ズボンの中を検め、その後顔を近付けて臭いを嗅ぐが、異臭は無い。
それが分かって幾分平静を取り戻すと、股間だけではなく全身がびっしょりと湿っていたことに気付いた。
詳細は分からない。だが、何か壮絶な記憶の断片を掘り起こしたような、そんな感覚だけが残っていた。
ズキリ。脳が痛む。
意識は既に覚醒している。
今しがた夢の中で錯覚したのに比べれば、痛みは微々たるものだ。
呼吸を落ち着け、賢者タイムの如き冷静さでシーツを見下ろす。
冬とは思えない汗染みがついてはいたが、まあときにはそんな日もあるだろう。念のため鼻を擦り付けて再度臭いを嗅いだ。
シーツを濡らした体液は、果たして汗に違いないようだった。
悪夢にうなされただけ。
おねしょでもなければ、夢精でもない。
寝起きに覚悟したもっと悲惨な結果に比べれば、何とすばらしいことか。
やったぜ。
俺は心持ちを上向かせ、前向きに朝を迎えた。
今日の授業は非常に快適だった。
何せ両隣に加え、今日は後ろの席の岩城君までもが休んでいた。
最前列席の俺に前はいないから、これで前後左右を欠席で囲まれたことになる。オセロなら昨日の時点で既にアウトだが、こうなっては囲碁でもアウトだ。にもかかわらず俺はこうして、平然と登校している。流石俺と言うべきだろう。
意識して改めて見渡せば、教室内はなるほど確かに閑散としていた。休み時間に聞こえてくる雑音も、音量が普段の半分程度に感じられる。
昨日は塾も無かったので、部活後はそのまま帰宅した。そして勉強の息抜きがてら、『世界の終わりの始まり』騒動の情報をネットで漁った。
記事によると、まずこの昏睡症状が感染症等である可能性は極めて低いという。症状も、単に昏睡状態に陥るというそれだけのものらしい。
もっともその昏睡状態こそが、非常に危険なものらしかった。
気絶や失神といった症状は、誰の身にも起こり得るちょっとしたトラブルだ。凄まじくグロテスクなものを見たり、柔道経験者の嫌な奴に落とされたり。
曰く、気絶は一過性意識障害というものに分類され、精々数分くらいで簡単に意識を取り戻すものらしい。
対して昏睡状態は、遷延性意識障害というものに含まれる。こちらは非常に危険な状態で、一旦この状態に陥ると二度と目を覚まさないこともザラだという。
よくよく思い出せば、脳溢血で倒れた当時そんなことを言われたような気がしなくもない――いや、やっぱり覚えてない。
まあ当時の俺は幼いガキだったし、しかも全身の麻痺への絶望でそれどころじゃなかったんだから無理も無い。
実際にこの昏睡状態に陥った俺ですらいまいち理解していなかったのだから、こんな謎の奇病が流行しなければ、きっと世の多くの人々もその重篤さを知らなかったことだろう。
だが、問題はそこじゃない。
そう、なぜ当事者のこいつらがこうも平然としているかだ。
いや、こいつらだと? 何を寝惚けたことを。
俺だってまさにそのこいつらに含まれてるじゃないか。
つまり俺達蒲森区の高校生は、原因不明の昏睡――そのまま死んでもおかしくない危険な状態に、いつ引き摺り込まれるやもしれぬという恐怖と背中合わせでの生活を強いられている。
いや、それだけじゃない。担任は頑なに明言しないが、教室のこの寂しさからしてクラスにも大量に被害者がいるはずだ。
得体の知れない死神に闇へと誘われた、その犠牲者達が。
仰木の言ったとおり、確かにネットでは俺達当事者間での『世界の終わりの始まり』への言及は御法度となっているらしかった。
教室でも、欠席している奴のことを話す生徒達は、妙にぎこちない会話をしていた。無論、無理矢理この話題を避けんがために。
異常としか思えなかった。
危険は目前に迫っているにもかかわらず、行動を起こそうとしない。
自分が明日意識を失うかもしれないのに、形振り構わず逃げようともしない。
そりゃあ俺からすれば、こいつらがどうにかなっても知ったことじゃない。
大袈裟に言えば、死んでも何とも思わないかもしれない。
だって、全員どうでもいい人間だし。
だが、そんな薄情極まりないドライな俺でも、仰木と栂野が絡めば話は別だ。
あいつらが生死を彷徨うようなことがあれば、俺とて平常心を維持できる自信が無い。
そして、クラスの連中は俺よりずっと脆弱だし、俺よりずっと気が多い。
ならこうしてごく普通に学校生活を送り続けられる訳が無いのだ。
おかしい。
何かが絶対におかしい。
何がおかしいかって?
そんなものこの世界全てに決まってるじゃないか。
あるいは――俺が狂っているとでも――?




