月夜に語る、物語、物語、物語。
「あれ?」
深月は首を傾げた。
小さな窓からは、月が太陽の光を蒼白く反射して、ガラスをすり抜けることで風景をぼんやりと浮かび上がらせている。祖父母宅の屋根裏だ。冬休みに遊びに来ていて、今日は泊まりだ。
夕食も終わり、祖父母との団らんの後、お風呂を頂いてから寝室として用意してくれている屋根裏へ上がった。
パジャマ姿になった深月は、脱いだ服をバッグに入れる時になって、持っているものが他にもあることに気付いたのだ。
どうしてこんなものを持っているのだろう? と深月は首をひねる。
手に持っていたのは、一冊の本。黒い装丁で、あまり分厚くはない。題名らしきものもなかった。
祖父母の家へ泊まりにくれば、いつも祖父の書斎から本を一つ抜き取る。代わりに読み終わった本を返す。それが習慣なのだから、本を持っていること自体はおかしくない。
しかし今持っている本を自分が選んだという、確かにしたはずの流れがどうにも、思い出せないというか、深月の中ではっきりとした形になってくれない。
何の本なのか、開いてみる。
「これって、目録よね」
ぱらぱらとめくっていった。
とても古いもののようで、紙が全体に黄ばみ端の方は茶色くなっているところもあった。達筆な字で様々な本の題名が書いてある。昔の人特有の続け字なため、判別しにくい。
「わ、落書きがある」
目録の最期に、拙いひらがなが加えられていた。子供の字だ。誰が書いたのだろう。
本に落書きをするなんて、とは思うが、これは目録。ある意味正しい気もした。
それにしても、おそらく祖父の書斎から持ち出したのだろうが、なぜ自分が目録なんてものを持っているのか。
困った。自分の行動の意味が迷子だ。
「まあ、いいや。おじいちゃんの書斎に返しておこう」
深く考えるのをやめることにする。
ぱたんと目録を閉じて、くるりと踵を返した。そうして祖父の書斎へ足を動かす。
ぱたぱたと階段を下りて廊下を数歩、アンティークの取っ手を握って開く。扉が開くにつれ、いつも通りの書斎の光景が目に飛び込んできて……。
扉を開いた格好のまま、深月は目を丸くして固まった。
人一人が通れるくらいに並ぶ書架。その間に、一人の青年がいたのだ。
「いらっしゃい。深月ちゃん」
柔らかいテノールが深月を迎える。夜色の瞳が、弧を描いていた。
そうだった。
一瞬、なぜ、誰、と混乱してしまったけれど、祖父の知り合いの息子だという冬樹が、大学が近いからと、祖父母宅に居候しているのだった。
彼は無類の本好きで、祖父の書斎にいることが多い。そのことが頭から飛んでいた。
うっかりしていた。パジャマ姿なんかで来るんじゃなかった。
後悔しても、覆水盆に返らず。
せめて少しでも見た目を取り繕ろおうと、慌てて髪を撫でつけ、整える。
パジャマ姿という気の抜けた格好も気恥ずかしいけれど、風呂上がりの自分というのはなんだかいつもより無防備で、心もとないような気分になる。
「どうしたの?」
「あっ、えっと。本を返しに来たんです」
恥ずかしくて下に向けていた深月の視界に、冬樹の足先が入った。
裸足にスリッパを引っ掛けた深月の足先と、靴下の上からスリッパを履く冬樹の足先の距離が妙に近い。紙一枚分しかないのではないだろうか。
慌てて顔を上げると、少し上の至近距離に冬樹の顔があった。
「僕が返しておくよ」
息がかかるほど近くにきた冬樹が、深月の持つ目録に手を伸ばす。白くて長い、骨ばった指が深月の指に触れた。
かあっと頬が熱くなる。駆け巡る血潮の勢いで、耳がごおっと鳴った。
脳みそから色という色が消えて、ピンク色だけになってしまった。
「あっ、おっ、お願いしますっ」
ただ指が触れただけでどうしようもなくうろたえて、深月はしどろもどろになりながら、冬樹の目を覗いた。覗いた途端に、ピンク色が今度は濃い、黒との差異がどこなのか迷うような、吸い込まれるような藍色が広がる。
ああ、夜の色だ、と深月は思った。
少し癖のある長めの髪の下に存在する、黒い瞳に光が揺らめいている。
月の光ではなく、書斎に備え付けられた、蛍光灯の明かりが。
夜、室内を照らすのは蛍光灯の明かり。当たり前のことだ。なのにどうしてだろう。小さな段差みたいな違和感がある。
だって、冬樹はいつもシャツの上から着物と袴だった。背景に月を背負っていて、黒い瞳の中で揺れるのは、蒼い月光で……こんな、蛍光灯の明かりなどではなかったはず……。
深月の中にある、無数の記憶の欠片。
それらを引っ張り出し閲覧していく。思考と視線がさ迷う。
テーマパークへ出かけた家族の思い出。入学式のドキドキ。運動会でバトンを渡し損ねたこと。たまたま取れた百点満点のテスト。
もっと大事なものがあった気がする。もっと印象に残ることが。
深月はもう一度冬樹を見つめた。
****
自分自身の物語を語り、崩壊する書斎で。
どんどん存在が薄まって透明になって、触ることもできなくなった冬樹を抱きしめるようにした。
深月は大きく口を開け……。
叫んだ。
「これは、終わりから始まる物語!」
深月の腕の中で、目を凝らさないと見えないくらいになった冬樹が、ぽかんと口を大きく開いた。
書架に収まっていた本は一つ残らず棚から飛び出して、冬樹の背後、いつの間にか開いていた窓の外へと消えていっている。
書斎にあった書架はもぬけの殻になり、窓がばたんと閉じた。残ったのはがらんどうの書架と祖父の机、月夜を覗かせる窓だった。
「付喪神、氷室冬樹の物語は終わって、ここから始まるのっ」
自分の物語を語ることで終わってしまうのなら、始めてしまえばいい。そんな無茶苦茶なこじつけだ。
これでなんとかなるかなんて分からない。でも、このまま冬樹が消えるのはどうしても嫌だった。
深月は必死に、懸命に、願いを込めて無理矢理の理論を、さも、もっともらしく語る。
「始まるのは、人間の冬樹の物語よ!」
「……人間の?」
輪郭だけが辛うじて見えていた、肌に色が戻っていく。夜の闇に溶けていた髪が、一本一本鮮明になっていった。
「付喪神でも、氷室冬樹って人の亡霊でもない……ええと、そう、氷月、氷月 冬樹よ」
氷月と冬樹、語呂が似ていて、くっつけるとなんとも酷い出来だ。が、きっとそういうことは関係ない。勘でしかないが、人間としての名前なら多分、なんでもいい。
そしてそれは、当たっていた。
深月の指先に布地の手触りが宿る。頬には自分よりも少し高い体温が点った。鼻先に甘くて、花のようで、若干の草いきれの匂いが生じる。体全体で、自分よりも大きくて硬い男の体格を感じる。
深月は人間の男を本当に抱きしめていた。
手から腕から、頬から、鼻から、自分の胸から、体から伝わる確かな存在に、ほっと息を吐く。安堵して気が緩む。緩んだ意識の隙間を突くように、するりと力の抜けた腕から冬樹の体が離れた。
「やだ、うそっ」
慌ててもう一度捉まえようと手を伸ばすが、また触れない。
カチャッ、という音が後ろからした。深月の背後の扉が開いたらしい。
それを確認する間もなく、深月は後ろの扉に吸い込まれて……。
小窓から月の光が差し込む屋根裏に立っていた深月は。
「あれ?」
屋根裏で目録を片手に立ち、首を傾げたのだ。
****
もう一度、冬樹を見つめた。夜色の瞳は、蛍光灯の明かりを緩やかに弾いている。
冬樹の服装は、黒に近い紺のタートルネックセーターにジーパン。現代人の男性がする、至って普通の恰好だ。
二人のいる書斎は、祖父の書斎、そのものである。書架を埋める本の数々も、誰かの物語ではなく祖父が購入したものばかり。書架の終わりもきちんと見える。それなりに広いけれど、きちんと決まった面積の書斎。
この、当たり前の光景が、はまらない。
深月の中に無数にある記憶のピース。似たり寄ったりで区別のつかないそれを、形だけを頼りに引っ張りだして、組み立てる。
絵柄はどんどん出来上がっていくのに、最後のピースがガラスや金属を引っ掻くような、耳障りな不協和音を深月に向けてくる。違う、違うと訴えてくる。
戸惑う深月の前で冬樹が小さく首を傾け、穏やかに弧を描く唇が、柔らかいテノールを響かせた。
「君の物語を聞かせて」
欠けていた隙間に言葉がぴたりとはまる。外れていた音の調子が合わさった。
記憶が思い出という形を浮かび上がらせ、心地よい音を奏でた。
人ならざる本の付喪神に、話して聞かせた物語は喰われてしまう。
物語を喰われると、話した物語の記憶や物語に抱いていた感情が薄れる。
なくなりはしない。記憶の中にはある。
けれど、その人にとって特別だった物語も、その人が沢山持っている物語の一つに過ぎなくなってしまう。
そういう、ものだった。
深月の手から滑り落ちた目録が、床に落ちた衝撃でぱらぱらとめくれる。自由になった手を伸ばし、体ごと青年に飛びついた。
深月の唇がかすかに震えながら、紡ぐ。
「私の、恋物語はね……」
蛍光灯が照らす、冬の書斎で。
月夜に物語が、語られる。
最後までお付き合い、ありがとうございました。
夜語り企画、素敵な作品ばかりです。
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