月夜に語る、物語、物語。
深月が語る、恋物語は進んでいった。
春に芽吹いた想いは夏に熱を上げ、秋に貯めこんで冬に温めた。
それを三度繰り返しての、冬休み。
今現在の、祖父の書斎そっくりな空間。
深月は踏み台へ腰かけた冬樹と、向かい合わせにした椅子に座っている。
青年に話して聞かせるため、自分の気持ちと心を整理しながら。
泣きたい気持ちで、深月は話している。
自分の恋物語を。冬樹への想いを。
『だから教えて。君の恋物語を』
冬樹の、この言葉の意味。それを思うと、胸の内へ冷たい涙が溜まる。
『君の恋には応えられない』
そう言われているのと同じだから。
冬樹に恋物語を喰われるというのは、そういうことだ。
喰われてしまえば、今抱いている大事な冬樹への想いも他の有象無象の思い出と変わらなくなる。恋は熱を失い、ぬるい温度に同化してしまうだろう。それを冬樹に望まれているのだ。
だから続きを話さなくてはならない。恋物語を終わらせなければならない。
深月は、細く、長く。震える息を吐いた。
ぎっ。
ふいに、冬樹の腰かけている踏み台が小さく軋んだ。
「え?」
もう一息で終わる恋物語を、せめてここにある蔵書の中でも、冬樹のお気に入りになってくれるようにと。
冬樹に抱く自分の想いを出来るだけ伝えようと、気持ちを整理していた深月は。
今起こっていることが理解出来なくて、まばたきを繰り返す。
唇にやんわりとした圧迫感と、自分と同じくらいの温度。
立ち上がった冬樹が目の前で、深月の唇に立てた人差し指を押し当てていた。
「いつも君の物語を聞いているだけじゃ、フェアじゃないから。僕の物語も聞いてくれる?」
何度もここを訪れ冬樹と会っていたが、彼が踏み台から立ち上がったのも、彼からこうして触れてきたのも初めてのことだった。
あっという間に、深月の体温は唇に当たっている冬樹の指よりも熱くなる。
脳みそが熱で溶け、こくこくと首を振るしか出来なかった。
冬樹が満足そうに頷いて、深月の唇から人差し指が外れる。
唇に触れていた指の温度は、深月よりも低かったはずなのに、ポケットのカイロでも取られてしまった気分になった。すうすうして、淋しい。
「前にも言ったけど、僕は付喪神。この目録が僕の本体だ」
たった今、深月の唇に触れていた指が、今度は本の背表紙をなぞる。
口元には穏やかな微笑みを。
目には真剣な光をたたえて青年が話し始めた。
「そして、氷室 冬樹というのは、この目録の持ち主の名前なんだよ」
本の付喪神の物語を。
****
氷室冬樹は、自他共に認める古書コレクターだった。
世界に数十冊しかない本。絶版本。図鑑や楽譜なんてものさえ買いあさった。
氷室家はいわゆる没落華族で、そこまで裕福でもないのに無駄にプライドと格式だけが高い。
氷室冬樹が家督を継いだ時には、すでに家計が火の車状態だったにも関わらず、欲しいものに対する我慢など、躾のされてない犬の目の前へ肉をぶら下げるようなもの。出来る筈がない。
結果。ギリギリの崖っぷちで保っていた氷室の家は、あっさりと崩落した。
「氷室冬樹は、それはそれは嬉しそうに僕へ書き込んでいったよ。一つ、物語を手に入れる度に。とても丁寧に。慎重に。大事に。人の事情、ましてや財産事情など僕のあずかり知らぬところだから、僕は書き込まれる度に喜んだものさ」
それこそ魂が宿るほどに大事に扱われ、目録を書き加えられる度に思いを込められた、日々。
懐かしそうに語る冬樹が、目を細めた。蒼い月光を揺らめかせる黒の瞳は、深月を映しているようで、その実、遠い過去を再生している。
その姿が前に、幼い頃の深月を語った時の冬樹と重なった。
冬樹を忘れてしまった、幼い深月のことを語ったあの時。彼はとても静かで寂しそうで。なんだか消えてしまいそうなほど、儚かった。
深月は無性に、彼に触れたくなった。今すぐ目の前の冬樹に手を伸ばして、触れて、抱き締めて、彼は存在しているのだと確かめたい。そんな衝動。それをしないと、後悔するような、そんな焦り。
その二つが、内側からコツ、コツと深月の胸を叩いている。
「氷室冬樹は、最初から砂山の上に立っていて、砂山は物凄い勢いで削られていた。だけど僕から見ればね、崩壊は唐突だったよ。足元を見ようとしなかった、氷室冬樹本人にとっても、だったろうね」
理由の分からない衝動と焦燥に駆られた深月の前で、冬樹が自分の物語を続ける。
借金の上から重ねられた借金。いい顔だけを見せていた金貸しは、頃合いがきた途端に態度を変えた。
あっという間に屋敷、土地。碌に残っていなかった家具という家具、調度品、美術品、骨とう品の類を持っていかれた。
これだけは、と氷室冬樹が最後までしがみついて離れなかった、古書コレクションも売り払われることとなった。
「財産を全て無くし、書庫にあった古書も運び出される当日。氷室冬樹は書庫で首を吊って死んだ」
売り払われた古書のおまけとして、値段もつけられずに置かれていた目録もまた。
共に書庫から運び出された。
「氷室冬樹の所有していた古書は、コレクターやら古書店やらへ次々と渡っていった。何の価値もないただの目録の僕も、一緒に」
それから巡り巡って、深月の祖父である蔵元 幻の手元に渡り、書斎に収まったのだ。
とはいえ祖父の書斎で、あまり閲覧されることなくずっと仕舞いこまれていた。
祖父母の家は、貧困では決してなかったが、裕福でもなかったから、氷室冬樹がかつて所有していた古書など手に入れるべくもなかった。
代わりに安価で売られていた、いや、ただ同然の値札をつけられて、何十年も古書店の棚に収まっていた目録を酔狂で買ったに過ぎなかった。
だから祖父の書斎でも、同じように他の本と共に大人しく並んでいた。
ごくごくたまに、幻が目録を開き、貴重な本の題名たちを見ては感嘆の息を漏らしてくれる。それだけであった。
しかしそれは不意に終わりを告げる。
目録を広げる小さな手があったからだ。
「年末の大掃除だったかな。幻が書架に収まる本を棚から出し、埃を払っていた。仮初めの置き場として、床に積まれていた本。その一番上にあった僕を、幼い深月ちゃんが手に取ったんだよ」
まだ五、六歳くらい。子供特有の無頓着さで、ひょいと持ち上げられた時ひやひやした、と冬樹は笑う。
「ねえ、おじいちゃん、こっちのご本はなあに?」
「ああ、それは目録って言ってね。自分の本棚にこれこれ、こんなご本がありますよって、書いてあるものだよ」
「ふうん」
幼い深月は、黒い装丁の目録……冬樹をぱらぱらとめくって。それから首を傾げた。
「でもおじいちゃん、ここに書いてあるご本、おじいちゃんのおうちにあるご本と違うよ」
「そりゃあ、うちじゃないところの本棚の目録だからね」
踏み台に乗った幻が、雑巾で棚を拭きながら答えた。幻の関心は孫よりも今は棚の方にあり、小さな手の中に握られたペンになど気付いていなかった。
「ええ。そうなの? かわいそう。今はここのおうちの『もくろく』なんだから、ここのご本の名前、書いてあげなくちゃ」
「はは。そうか、かわいそうか。深月は優しいね……んん? 書いてあげなくちゃ? 深月、書いちゃったのかい?」
焦った様子の幻の声が上から降ってきていたが、冬樹はそれどころではなかった。
書き込まれた。
目録である、冬樹に、本の題名が、書き込まれた。
「これほど嬉しいことはなかったよ。目録に、新しい物語が加えられた。それこそ、僕の存在理由、存在意義。そうだろう? 僕は目録なんだから!」
黒い装丁の目録を持った左手と空の右手を広げ、冬樹の声が不釣り合いに弾んだ。書架に跳ね、ぶつかって消える。
あの時幻が慌てて踏み台から下りて、孫の書き込みを消そうとしたが、ボールペンで書き込んだことを確認し、苦笑してから彼女の届かないであろう、一番上の棚へ戻した。その一連の流れもなにも、冬樹にはもう関係なかった。
「君が書き込んでくれた、その瞬間。目録の付喪神として、僕は顕現した。この姿を手に入れて、誰かの物語を喰らい、僕に書き込めるようになった。幻の書斎そっくりな、僕自身の書斎を手に入れた」
深月は立ち上がった。
冬樹が消えてしまいそうだと感じ、胸の内を叩いた焦燥は、気のせいではなかった。
冬樹の体が少し透けていた。
「待って。その先を話さないで」
深月は手を伸ばして、冬樹に触れようとした。
後から迫っていた嫌な予感は、はっきりとした形となって情け容赦なく深月を飲み込んでいる。深月はそれを、冬樹に触れることで駄々っ子のように、振り払おうとした。
手を伸ばすだけでは足りなくて、太ももへ力を入れ、交互に地面を蹴る。つまり走った。
本来なら、そんなことをしなくてもいい距離だ。
深月だって、走ろうなどと思っていなかった。手を伸ばせば触れられる。もしくは一歩踏み出して冬樹に飛びつけばいい。そう思っていた。
だというのに。目一杯に走っても、目と鼻の先にいるはずの冬樹に届かない。
「誰かの物語を喰らって書架に収め、目録を加えていくこと。それが僕の存在意義。だけどそれも、もう終わりだ」
冬樹が微笑んだ。透明な笑み、という表現がある。まさしくそんな笑みで、現実に透けている。背後にある窓と、窓から覗く月が、冬樹を通り越して浮かんでいた。
すぐそこにいるのに、目の前にいるのに、存在が薄れていく。
「僕は君に『僕の物語』を話してしまった。吐きだしてしまった。物語は全てページを暴かれ、終章を迎える」
冬樹が手に持っている本のページが独りでに、ものすごい勢いでめくられていった。書架に収まっていた本もまた、独りでに棚から出て宙に浮き、ぱらぱらと開いている。
「待って。どういうことなの。終章がきたらどうなるの!」
少しでも引き留めようと、薄々分かっていることを聞く。
冬樹が消えてしまう。
人の物語を喰う付喪神が、自分の物語を人に聞かせる。それはきっと、存在の根本を暴くことと同義なのだ。妖は、暴かれてしまえば、妖たりえない。
一体、どういう力が働いているのか。後一歩の距離。それが物理的にも精神的にも、酷く遠い。
「好きな子の物語を食べたい、その言葉に偽りはないよ。君が僕に書き込んでくれたあの時。僕は君に恋をしたんだ」
「だったら、最後まで聞いて!」
やっぱり残酷なヒトだ。冬樹の存在が消えても、最後まで語れなかった深月の中には残ってしまうのに。
「そうしようと思っていた。でも、君から僕が薄まって、僕の前から君が消えてしまうくらいなら、先に僕が終わる」
やっとのことで追いつき、伸ばした深月の手は、半透明の青年の体をすり抜けた。
「話してくれた君の恋物語は未完だけど、食べた分、薄くなってる筈だ。ここから出たら、僕への想いは他の思いと同じ、特別なものじゃなくなるから」
書斎の風景に溶けてゆく冬樹を、深月は触れることはできなくても、抱き締めるような恰好をした。
それから大きく口を開け……。
叫んだ。