月夜に語る、物語。
青年の声はとても耳心地のいいテノールだった。白いカッターシャツの上から着物と袴という、白黒写真時代の人の着ているような服装がとても似合っている。
会ったこともない人なのに、どうしてか懐かしさを感じる。
「こんばんは。あの、祖父のご友人ですか?」
そう聞いてしまってから、そんなはずがないと深月は赤面した。
青年はどう見ても二十代、祖父の知り合いにしては若すぎた。だけど、幻と呼んだ青年の声には祖父への親しみが込められていて、まるで古い友人みたいだと思ってしまったのだ。
「ああ。そうだよ。と云っても彼とはもう何年も会っていないけれど」
意外なことに、深月の言葉を青年が肯定した。驚いた深月がまじまじと見つめると、彼の口元がほころんだ。
「こう見えて、僕は外見よりもずっと年を取っているんだよ、深月ちゃん」
青年が教えてもいないのに深月の名を呼んだ。
いや、祖父と知り合いなら名前を知っていてもおかしくはない。それよりも。
あの不思議な扉は何なのだろう、とか。
祖父に何年も会わずに、祖父の書斎にいること自体がおかしい、とか。
こんなに若い祖父の友人だなんて、どういう友人なのだろう、とか。
色々と謎だらけの青年だ。
しかし深月は少しも変だと感じなかった。
「そうなんですか。あの、失礼ですがお名前を聞いてもいいですか?」
「僕は氷室 冬樹」
「冬樹さん」
青年の名前を深月は口のなかで転がした。
なぜだろう。このやり取りをしたことがあるような。
深月はそんな気がした。
「あるよ」
「えっ?」
考えていたことを肯定されて驚いた。思わず聞き返し、まじまじと青年の目を見つめる。
「ふふっ、君は小さかったから覚えてないだろうけどね」
そんな深月を、冬樹がいたずらっぽく眺めた。綺麗な黒い瞳がきらりと月光を反射して、深月はドキッとした。
優しそうな大人の男性がこういう表情をすると、心臓に悪いと思う。
鼓動が早まった胸にそっと両手を添える。頬が熱い。
「僕は人じゃないんだ。本の付喪神。だからずっとここにいる」
「付喪神って、古い道具とかのお化け?」
さっきからうるさい心臓を宥めるのに必死な深月は、少し失礼な質問をしてしまった。
「あー、まあ、そんなようなものだね」
けれど冬樹は怒りもしないで、穏やかに微笑んだままだった。
「僕の正体はこの目録。誰かの物語を聞いて、目録に加えるのが僕の役目」
青年の手の中にある本を覗くと、確かに本の題名らしきものがいくつか書かれていた。
青年に対する沢山の違和感。不思議。謎。
それらは青年の正体を聞けば、すとんと深月に落っこちてきた。
人じゃないんだから、どんなことが起こっても、きっと不思議でもなんでもないんだろうな、と。
「だからさ、聞かせてくれないかな。君の物語を」
言葉と同時に冬樹が首を傾ける。
ゆるく弧を描く両目が、月光を柔らかく反射していた。
ふんわりと癖のある髪が揺れて、独特の香りが立ち上る。
甘い匂い、花のような匂い、少しのかび臭さ、芝生に座った時のような匂い。それらが入り混じった、古本の匂いだ。
小さな頃から本が好きな深月にはなじみ深くて、とても落ち着く香りだった。
だからだろうか。冬樹のことを怖いとか、物語とやらを聞かせるのが嫌だとか、危険だとかは思わなかった。
深月はただ、疑問を口にした。
「私の物語って、どういうことを聞かせたらいいの?」と。
こうして深月の恋物語は、一章、二章と進んでいったのだ。
****
この日を境に、深月は度々祖父母の家に遊びに行くようになった。夏休み中は特に足しげく通った。
家が近いということもあり、祖父母は何の疑問もなく迎えてくれた。その間、祖母はもちろん、祖父からも『冬樹』の話題が上ることはなかった。
これらの矛盾も、人ではない冬樹が引き起こす、不思議であって不思議でないこと。その一つなのだと思う。
初めて見たはずの冬樹へ、懐かしさを感じたのも、その内の一つ。
深月は冬樹に会ったことがあったのだそうだ。
忘れていたのは、幼かったから、という理由だけじゃない。
彼は人ならざるモノ。彼に話して聞かせた物語は、喰われてしまう。
物語を喰われると、話した物語の記憶や物語に抱いていた感情が薄れる。
なくなりはしない。記憶の中にはある。
けれど、その人にとって特別だった物語も、その人が沢山持っている物語の一つに過ぎなくなってしまう。
最初の夜のように屋根へ行かなくとも、祖父の書斎へ通じる扉を開ければ冬樹のいる、祖父の書斎へと繋がった。
深月は冬樹のもとへ訪れる度にその日あったことを話した。すると、冬樹に話したことは彼に喰われ、無数の思い出の中へ埋没する。
「毎日食べなくても死にはしないのだから、なんでもかんでも話さなくてもいいんだよ」
何度も書斎を訪ね、体験したことや感じたことを聞かせる深月に、冬樹が眉尻を下げて黒い瞳を向けるようになった。
そういう時の冬樹の目は、夜空よりもなお黒い瞳に月の蒼い光が揺らめいている。
温度のない炎のようだと、深月は思う。
真っ黒な瞳の中で、揺れる蒼い光にじわじわとあぶられる。化学変化みたいに深月の心を作る小さな小さな要素が、冬樹の蒼い光と相互作用して、恋へと変わっていく。
「別に話したって死にはしないんだから、いいでしょ?」
冬樹がこういう目を向ける時、深月はことさら明るく返した。
人の物語を食べる付喪神のくせに、申し訳ないなんて思わないで欲しい。気になんてしないで、ありがたく食べてくれたらいいいのに。
記憶そのものが消えるわけでもないし、一向に構わない。
それよりも、話す物語がなくなって、冬樹に会えなくなるほうが怖かった。
冬樹が手の中の本を閉じて体をひねり、彼の背後にある窓を見上げた。窓の外には黒々とした空へ大きな月が浮かんでいる。
深月はポケットからスマホを取り出して、時間を確認した。画面には、休日の午後二時という日時が表示されている。
午前ではなく、午後。本当なら太陽の光が満ちている時刻だが。
昼に来ようが夕方に来ようが、この書斎の中はいつも夜なのだ。
窓の向こうを見上げて動かなくなった冬樹。そんな彼の様子に深月の胸はざわざわと騒ぐ。
「小さな頃の君は、とてもおしゃまさんでね。僕に沢山の物語を聞かせてくれたんだ……」
やがて降り始めた雨粒の一滴めみたいに、ぽつり、と冬樹の言葉が落ちた。そこから、ぽつ、ぽつ、ぽつぽつぽつと、彼の言葉が降っていく。
学校の友達のこと、リコーダーの練習の様子、運動会の結果、その日の給食、好きな音楽やテレビ番組。
今日の雲はすっと筆で撫でたみたいだった、夕陽に照らされた帰り道、カラスがこっちを見て鳴いたこと、ふかふかに干した布団へダイブした時の匂い、ホットミルクに張った膜が唇にくっつかないように飲む方法。
冬樹の唇から、幼い頃の深月の物語が紡がれていく。
それらはとても些細な日常の出来事や感じたことで。
なんだ、今と変わらないな、と深月は思った。
「だけどね」
冬樹の瞳が、窓の月から、深月へと戻った。
柔らかいテノールが、しんみりと響くバラードみたいに淋しそうな音を紡ぐ。
「幼い君は、僕と出会って、話をしたこと。それを物語として僕に話し、聞かせてしまったんだ」
物語を喰らう冬樹に話してしまえば、彼との逢瀬は色あせて日々の思い出に埋もれてしまう。
大切な宝物でも、うきうきと心を弾ませる楽しいことでもなくなってしまって。
そのまま幼かった頃の深月は、もっと他のドラマを求めて、冬樹のところへ遊びに行かなくなってしまったのだという。
そうか。
そうやって深月は、冬樹との出会いや思い出を失くしてしまっていたのか。
満タンのおもちゃ箱の底に落ちてしまった、縁日で買ってもらったお気に入りの指輪。ベッドの下に潜り込んでしまったパズルのピース。
そういうものみたいに、本当はどこにもいっていないけど、見つからなくなってしまう。
なら深月はこの恋物語を、決して冬樹に話さないでおこう。
来なくなってしまった幼い深月のことを語る、冬樹の淋しそうな表情を見て、そう決意したのに。
決意、したのに。
明日、夜に二話上げます。