月夜に開く、物語の扉。(挿絵あり)
蔵本 深月はアンティークの取っ手を握り、そっと扉を開いた。
扉の先には、天井まで届く書架がいくつも並んでいる。書架にはぎっしりと詰まった本。こういった場所によくあるような、若干のかび臭さはない。
扉は祖父である蔵本 幻の所有する書斎に繋がっていた。
書斎には、一人の青年がいる。上部が幅広の踏み台に腰かけ、本を広げている。
「いらっしゃい。深月ちゃん」
柔らかなテノール。
少し癖のある長めの髪。
本を持つ骨張った華奢な手。
落ち着いた眼差し。
彼は深月が物心ついたころから全く変わらない。祖父が若かった頃から変わっていないそうだ。
「今日はどんな物語を聞かせてくれる? 学校であったことかな。それとも今日の晩御飯? 友人とのことでも、君に想いを寄せているという、男の子のことでもいいよ」
いつものように穏やかな笑みを浮かべ、深月の話を聞きたがる。
「君の物語を聞かせて」
彼が小さく首を傾げ、深月の話を促すと、癖のある毛先が揺れた。そんな小さなことで、深月の心臓は跳ねてしまう。
それを誤魔化すように、深月の口は聞かれたことではなく、質問を返した。
「こんなに沢山の物語があるのに」
いつものように彼の前に置かれた椅子に座り、深月はスカートをぎゅっと握った。
そんな深月を囲む、書架をびっしりと埋め尽くす本の数々。
それらは実に様々だ。
ある男がのし上がり、経済界を牛耳る物語。
難病を持った女の子が、沢山の人たちの力を借りて奇跡を起こす物語。
あるスポーツが好きで好きで、ひたすら打ち込み続けて金メダルを取った物語。
献身的に人に尽くし、歴史に名を残した物語。
苦労話。感動の秘話。誰かの奇跡。悲恋の心中。冒険活劇。心の交流。
ここにはありとあらゆる蔵書が揃っている。
そして青年はいつもこの書斎にいる。
変わらない姿で変わらない場所で、様々な蔵書を紐解いている。
「どうしていつも私の物語なんて聞きたがるの?」
この時間をいつも心待ちにしていた。
学校が終わってからのひと時。休日の空き時間。宿題や用事を片付けて、ウキウキとこの扉を開けたものだ。
だけど今は扉を開ける時、ふわふわと舞い上がりそうな心をぎゅっと締め付けられるような。嬉しい気持ちと苦しい気持ちがないまぜになったような。そんな心地になるのだ。
「好きな子の物語を食べたいと思うのは、当たり前だろう?」
……嘘つき。
深月は思う。
本当に好きだったら、きっと食べたいなんて思わない。
「君の物語を食べたいんだ。他の誰でもなく」
なぜなら彼は人ならざるモノ。人の物語を喰らう存在。
ここにある本は全て、彼が喰らった物語。
「だから教えて。君の恋物語を」
ああ。残酷なヒト。彼が物語を喰らえば深月の恋は色あせる。
あせてしまう。
なくなるわけではないけれど、今みたいに、ともすればここにある本を燃やしてしまいそうな熱も、濡らしてしまうような切なさも、破ってしまいそうな衝動も消えてしまう。
このままでいたい。消したくない。あせてしまわないで欲しい。
そう叫んでしまいたいのに。
優しく微笑んで、彼は深月が口を開くのを待っている。
深月は泣き出しそうな心を押し殺して、語り始めた。
深月の物語を。青年への恋物語を。
****
幼い頃から深月は、祖父の書斎の扉を開ける瞬間が好きだった。
扉は深い焦げ茶色の木で出来ていて、祖母が丁寧に拭いているから艶々している。取っ手もよくあるドアノブじゃなくて、アンティークに燻したゴールド。ネジで止めるタイプなのだけど、そこも形がお洒落で、手をかけるだけでドキドキする。
そんな扉を開けば、さらにワクワクした。
分厚くて重たそうな本の数々。英語が何かの外国語の本は、読めないけれどなんだか格好いい。
よく分からない難しそうな本は、上の方にずらりとかしこまっている。
中段は辞典や図鑑。科学とかの専門書もある。字ばかりだとちんぷんかんぷんだが、図や写真を眺めているだけでも楽しかったものだ。
さらに下段には海外ファンタジーや映画化されたような書籍など、比較的親しみやすいものが揃えてある。本が好きな深月も読めるようにと、祖父が用意してくれたのだ。
祖父母の家に遊びに来る度に、深月が書庫から一冊、本を抜き取って代わりに読み終えた本を戻す。これを繰り返していたからだ。
祖父なりに子供でも読めるもの、と考えてくれているのだろうが、本当は少し難しいものが多い。
けれど深月は、ちょっぴり背伸びして難しい本に挑戦することが、小さな自慢になっていた。それに祖父が用意してくれた本の数々は、学校の図書室のラインナップとはまた違っていて、宝石を発掘するような気持ちにしてくれた。
そうしているうちに、学校で習う漢字が増え、小さな文字の本を読むことにもすっかり耐性がついた。
深月の背も伸びて、踏み台を使わなくても、背伸びをすれば上段の本を手に取れるようになった。
代わりに祖父の書斎を訪れる数は減った。
中学三年生、受験も卒業も終わった春休み。
学歴上はまだ中学生だけど、後ろを歩く在校生たちとの距離はなんだか遠い。前を行く高校生たちの背中は、ほんの少し先で揺れている。
同年代の他の子に比べると遅い、大人と子供の狭間のような変化しかけの体と同じ。宙ぶらりんの状態。
今まで馬鹿みたいに追っかけてきていた勉強の強迫観念も、駆け足に通りすぎた頃。
そんな十五歳の春休みに、深月は祖父母の家へ一人で泊まりに行った。
部活と受験の忙しさから、祖父母の家へ行くのはしばらく疎遠になっていた。だから本当に久しぶりだった。
祖父母は変わらずに深月を迎え入れ、包み込むような笑顔を見せてくれた。
夕飯も食べ終わり、用意された屋根裏へ上がる。何度か小さく床を鳴らして進んでから、ふと足を止めた。
「あれ?」
止まった深月の右手には、祖父の書斎の扉。
屋根裏の小さな窓から、月の蒼白い光が差し込んでいる。今夜は満月で、まだ屋根裏の照明のスイッチを入れていないのに、板張りの床の木目が見えるほど明かるかった。
その月明りに照らされて、こんなところにないはずの祖父の書斎の扉がある。
祖父母の家は昔ながらの家で、平屋だ。屋根にはかやぶきの上から瓦を敷いているし、玄関に土間が残っている。
こういった古民家には二階はないのだが、屋根裏はあったりした。現代の二階のように天井は高くない、眠るだけのものだ。何世帯も一緒に暮らしていた大所帯が主流だった頃の名残である。
祖父母宅の屋根裏は、二人だけになってしまったために役目を終えて、使わなくなった食器などを入れた段ボール、祖父の書斎に入りきらなかった本を収納する棚と、時折泊りに来る人間の寝間として存在していた。
屋根裏は一続きだ。仕切る壁もなく扉などない。なのに、一階にある祖父の書斎の扉にそっくりな扉がある。
深月は目をこすった。それからまた、扉があったところを見た。
やはりある。
壁もなく、床だけを支えにしてそこに存在している。そんな不安定な状態なのに、つんつんと突いてみたり、軽く押してみても不思議と倒れたりはしなかった。
裏側はどうなっているのだろう。
深月は扉の裏へ回り込んでみた。が、見慣れた屋根裏が広がっているだけである。何もない空間に、扉だけがそびえたっていた。
どう考えても普通じゃない。扉が繋がっているのは、恐ろしい地獄であったり開けたら最後、二度と戻れないのかもしれない。
しかし深月は扉に全く恐怖感を抱かなかった。それどころか未知の期待に、頬が温かくなった。ためらいもなく、だけどゆっくりと取っ手を握って開く。
開いた先に広がっていたのは、祖父の書架だ。
書架の棚にはぎっしりと本が並べられ、上の段は重厚、中段はそれなりにバラエティーのあるもの、下段は比較的とっつきやすそうなものとなっている。
書架は人一人が歩けるくらいの感覚で部屋の中に並んでいて、奥には祖父の机がある。
扉を開いた格好のまま、深月は目を丸くして固まった。
屋根裏に祖父の書斎の扉があるのも、開けると本当に祖父の書斎なのも、不思議だ。常識的じゃない。
それに。
この書斎は祖父のものにそっくりなのに、違う。
第一に、書架に収まる本の題名が見たことのないものばかりになっている。見た目は祖父の所有する書物と同じなのに題名だけが違うのだ。
第二に、祖父の書斎はこんなに広かっただろうか。
手前から奥へ伸びる書架の先がなぜか見えない。視線で追うと、いつまでもいつまでも終わりへ到達できなかった。
それなのに不思議なのが、部屋の奥にある大きな窓と祖父の机は、ちゃんと定位置にあるように見えること。
だったら書架の終わりだって見えるんじゃないかと思うのに、そちらに注目すると、また何処までもずっと続いている。
第三に……これが一番明確な違いで、深月が固まってしまった原因なのだが。
……書斎に知らない青年がいる。
線の細い、優し気な顔立ち。蒼白い月明りに照らされているせいか、どこか病的な白さに感じる肌。その肌にかかる、柔らかそうに少しうねる黒髪。
そんな青年が広げた本を手に、踏み台を椅子代わりにしていた。
「今晩は、可愛らしいお嬢さん。幻のお孫さんかな?」
にっこりと笑いかけられて、深月の頬へ、先ほどとは違う熱が上った。
これが、深月の恋物語のプロローグ……。