第1章 湖上のプリンシパル
「ひ!」
どの最恐バンジージャンプより、逆バンジージャンプより、スカイダイビングよりも現在体験している落下は怖いだろう。
どれも命綱、パラシュートがあるが今の落下はそんなもの体に付いている訳がない。
命綱と呼べたはずのキティも消えてしまった為、今助けてくれるものはない。
風圧で直ぐに目が乾燥、体のコントロールも出来ない。何すれば助かるんだろうか、これ!
「…!」
何か、何かが入ってくる。
砂嵐のような雑音混じりで何か、入ってくる。
記憶の貯蔵庫を無理やり開いて、どれだけ侵入不可の警告を出しても、無礼に突き進んでくる。
脳が直接、圧迫されているようにどうしようもない痛みが全身を駆け巡り、細胞の機能を停止させていく。
目が映すのはズィーベンを取り囲む森ではない。
見た事ある、何度も。この部屋で、この席で。覚えてる。
人の体温を溶かすような夕暮れの光が全身を優しく包み込む。
記憶は覚えていた。この時間帯に帰れば、母の腕を奮った手料理が家で待ってる。深夜に録画したアニメが待っている。手にしている充電をして欲しがっているスマホが明るくなったような気がした。
帰宅を急かすように後ろを振り向く。
「物騒ですなー」
天井に吊るされた薄く汚れたロープが目に映る。
先は大きな輪っかが造られており、下には階段の役割を受け持った椅子と机が置かれていた。
邪魔者を防ぐように机でまわりが囲まれている。
ドラマ等でした見た事がない、処刑用の器具が手招きしていた。
催眠に掛けられたように脚が進んでいく。
椅子が少し軋む悲鳴を、机が意思のように揺らぐ。
「死んじゃだめ!」
「待って!死なないで!」
顔面が子供の落書きのように雑に黒塗りされた友人らしき声を持つ何者かが叫ぶ。
全ての言葉を跳ね除け、進む。
「落ち着きなさい!ここっ、今度何か連れて行ったり食べたいもの食べさせてあげるからそれだけはっ…!」
「そこから降りるんだ!」
「馬鹿なことをするなよ」
顔面が子供の落書きのように雑に黒塗りされた家族らしき声を持つ何者かが叫ぶ。
全ての言葉を殺して、進む。
「キャンッ!」
白くてふわふわした毛玉の塊が机脚の隙間から鳴き声を上げて、出てくる。この鳴き声は見なくても分かる。愛犬の鳴き声だ。愛犬は靴下に噛み付くと唸りながら、体制を低くし引っ張る。
死ぬな死ぬなと合唱のように声が混じり合い、異常空間が造られていく。優しく包まこんでいたはずの夕暮れまでもがおぞましい紅い空に変化していた。
「ごめんな。でも、ありがとう。柵を乗り越えてまで、助けに来てくれて」
愛犬の抵抗を振り払い、両手で縄を掴む。
見た目ほどヤワではなく、人ひとりが掴んでも支障がないような強度がある。
耳が痛いほどに膨れ上がった不協和音と共に机を勢いよく蹴って___________
影は草木の揺れを置いていくように地面を這う。
目を開いたまま硬直する代理はただの人形化しており、落下しバラバラに砕け散ることを望んだように待っている。
落下地点を予測し、止まると自身の影を花のように拡げる。
「___________」
影は仰向けに落下した代理の衝撃を受け止めた為か四方に散らばり、完全に影が消滅した瞬間に代理の瞳に光が宿った。
しななかに曲がった草先が頬を優しく撫でるが、頭が疼痛に犯されていく。
脳裏で蠢く、無いはずの記憶が渦巻き、針を刺したように細かな痛みに襲われる。
前世では有り得なかった痛みが余韻のように居座った。
波打つように次から次へと押し寄せてくる。
「み、ず……」
痛みを柔和するように土の地面に冷水が這う。
冷水は意志を持ったかのように代理の体を攫い、身を案じながらも森中を進んでいく。
木影から太陽に守られていた代理の体が光に晒されたのは一瞬だった。
清雅のような振舞いで呻く代理を不思議そうに見据えている人物が再び、隠す。
代理を運んだ冷水は役割を終えたように湖の1部として溶け込む。
「あたち、病は直せないデスヨ」
豪華にあしらわれたベル・チュチュを纏う少女は呻きをあげる代理の前髪を指を救い、露わになった額に人差し指と中指を揃え、触れる。
少女はすぐさま、額から手を離した。
指先から伝わったのは通常の人間では持てるはずのない莫大な記憶量だった。
通常の人間は自身の記憶しか持てない、持つことが出来ない生き物であり他者の記憶を持つことなど出来ない。共有となれば文字通り、記憶の貯蔵は増え、保つ事が出来るが。
莫大な記憶量を長時間保てば、脳が処理出来ず、自我を失う。最悪の場合、死を招くとも聞いた事もある。
「管理人さんが転生者が来たと言っていたデスネ。神様も神様なら神様らしく丁寧に転生させろデスヨ。雑に引き抜くからさ迷い続ける怨霊たちが依代だと勘違いして入ってくるんデス。馬鹿といっておくデス。んで、黒雪はなんでいるデスカ?」
「なっ…貴女は変な所で鋭いですね。私がここにいる理由を論じるとするならばキティが彼女を落としたのを見たかで」
「心配になったデスカ?」
「ち、違いますっ!何を馬鹿な事を!落下して怪我してたら夢見が悪いではないですか!」
分かりやすく図星な態度をとる黒雪に首を傾げる。
いつもの高圧的な虚勢が消え、不器用だが優しい心を持った黒雪の本来の性格が見えた。そんな彼女に溜息を吐く。
「黒雪は素直じゃないデス。難儀な性格デス」
「五月蝿いっ…それで彼女の容態は?」
「精霊が見つけなかったらやばかったデスヨ。転生者によくある悪夢症候群デス。この都市に導かれた転生者にもこの症候群にかかったことあるデス。対処もあたちの湖に放り込めば治るデスヨ。症候群と言ってるけど原因は分かっているデス」
「輪廻転生から外れた死人共が自分の存在を知らしめる為だけに依代に取り付く…なんとも迷惑な話です。厳罰を下った死人共が今更、生者に縋ろうとは無様で笑えます」
「黒雪、運ぶデス」
「何故私が?貴方の精霊に運ばされば良いじゃないですか」
「ならなんでそんなモジモジしてるデスカ?」
「は、はいっ!?違います!断じて違います!は、運べばいいんですね?」
顔を真っ赤にした黒雪はローブを代理に掛けて、抱きしめるように地面から離す。度々、唸る代理に肩を震わせ自分に非がないか焦る顔は普段からは想像出来ない。
愛らしい顔が十分に発揮されている姿にまた少女は溜息を吐いた。
「本当に難儀な性格デス。女王のプライドが邪魔を…いや、女王ならこんな事しないデス。優しいところは白雪そっくりデス」
少女は軽い足取りで底が白石で敷き詰められているのがハッキリと目視出来る美しい湖に向かう。
湖は劇場のように華美な飾り付けが施されていた。
謎の原理で浮いている天蓋は覆えるほどの大きさであり、付けられた白ベールは透けてみえ、蔓が張っているが手入れされての仕様であり、花々が自慢げに咲き誇っている。
天蓋の中は六角形に沿ってベルが備え付けられ、2羽の白鳥が羽ばたく様子が美しく描かれていた。
そんな中を少女は湖上までも地面と同じように歩いていた。
中心部で止まるとベールで包まれた湖は夜に染められたように暗くなり、仮想の月が白鳥たちの頭上に浮かび、月明かりが一直線に少女だけを照らす。
主役に明かりが照らされ、ベルは震え始める。
するとベルからは沢山の弦楽器や打楽器、金管楽器が調和しながら音を吐き出していた。
月明かりの少女は爪先で立つと1羽の白鳥のように手を羽のように伸ばす。
清らかな乙女が繊細に、時に大胆に踊る。
夜は煽るように沢山の黄金色の光を灯し、幻想的な空間を作り上げていく。
誰もがこの劇場を見て、悪く言う者はいないだろう。
もし、その思惑があったとしても目の前の美しさに気が削がれてしまうのが目に見える。
黒雪も何度か見ているがやはり体、思考、心全てを掴まれたように惹き込まれていく。
「ぃ……」
「(はっ、見惚れていました。流石、湖上のプリンシパルです。その実力は普段の振舞いとは全然違います。見直しましょう、この場だけは)」
呻きに囚われていた意識を引き戻された。
ベールをくぐり抜け、少女が浮かぶ湖へ代理を岸を頭にして沈めていく。浅瀬の方なので浸かるのは体の半分だけであり、溺れる心配もない。
黒雪が離れる頃には短い演劇は終わりを迎えていた。
星空を移していた湖に黄金色の光が導かれ、色を写しながら消えていく。
ベルから鳴り響く喝采には黒雪の拍手も混じっていた。
少女がお辞儀をするとベール内は外空間と太陽光を共有し、何事も無かったように演劇が始まる前と同じ状態になっていた。
「疲れたデス…」
踊り終えた少女は湖上を歩いて進み、表情が柔らかくなり年相応の愛らしい寝顔を晒した代理の顔を覗き見る。
疲労の顔をしていた少女も代理の顔を見るなり、疲労が吹っ飛んだように微笑んでいた。