06湯治に行ってみる2
「ねぇ、代わるよ」
「大丈夫ですよ」
私にブーツを履かせる作業を始めたときから、ヴェイグはフンフンと鼻唄が聞こえてきそうなほど楽しそうに手を動かしている。その手は目隠しをしていても淀みがない。
立ったまま足を上げ続けるのは辛いので、私は近くにあった岩場に座っている。
目の前に跪くヴェイグは何が楽しくてこんなに熱心に奉仕しているのだろうか。その心境は……、うん、知らない方が身のためだと思う。
――ねぇ、本当に見えてない? 何でそんな熟練した手つきなの。ある意味怖い。
「見えなくてもコトハ様の足の様子は頭に入っていますから。こうして触れるだけで感覚は掴めます」
「……こわっ」
小さく呟いたものの、私は内心でガクブルしていた。――何!? 乙女、つまり私のパーソナルデータはヴェイグの脳内でつぶさにデータ化されているってか。怖ぇぇっ。何が怖いって、絶対メジャーとかで測らなくてもすべての体のパーツサイズを把握してそうなところがだよ。
脳裏に浮かんだつっこみが真実でないことを祈る。
祈りついでに恐怖にブルっと震えると、それに気付いたヴェイグが顔をこちらに向けた。目隠しをしているのに、がっつり目が合っている気がするのは私だけだろうか……。
「コトハ様、締め付け具合はいかがですか」
ヴェイグの手の平がブーツの革をなめすように這う。
「だ、大丈夫だから……」
革を通しているはずなのに、直接肌を触られている感覚がする。熱く感じてしまうのは、足湯で血行が良くなったためなのだろうか。……八割くらいの割合で、ヴェイグの手つきがエロいためだと思われる。
エロい手つきは目隠しをしていてもエロかった――。誰だ、ヴェイグにこんなことさせているのは。……、私だ。うわぁぁん、許すんじゃなかったぁ。
のぼせ上がりそうな心臓を押さえているうちに、ようやく片方のブーツが履き終わる。――でもまだ片足が残っている……。
「も、もういいでしょ。後は自分で履くから」
ヴェイグの手が届く前にと残るブーツを取り上げると、おもむろに裸足のままだった片足を彼の手に取られた。
足湯に浸かってせっかく綺麗になったというのに、何だかしっとりと濡れている気がする。きっと汗を掻いたからだ。そうさせているのは目の前に跪く彼なのだが。
責任の追及はしまい。追求してしまえば、私だけに圧倒的不利な謝罪をされるだけだから。――って、足の指の一本一本から指を這わすな、バカ。
「知っていました? コトハ様の指は小指から順に綺麗に並んでいるんですよ」
「ゃ、やめて……」
「全部小さくて、親指の爪だって俺のものと比べるまでもなく小振りで可愛くて――」
足の親指にくちづけんばかりの距離にヴェイグの唇が寄ってくる。
「全部大好きです。だから、俺の楽しみを奪わないでください」
ふぅっとかけられた吐息の生暖かさにぞわっと鳥肌が立った。
「っ、バカ!」
思わず足を振り上げてべしっとヴェイグの額に打ち付ける。
生足でそんなに力も入れていないから痛くはないだろうけど、良識ある人から見れば「何やってるの」という状態だ。――だって、やばかったもん。今、絶対「あーん」の口してたよね。ねぇ!?
はむっと咥えられる親指を意識してしまうと、つい足が出てしまったのだ。
「あっ……」
本当に思わずやってしまったことだったが、ヴェイグはさほど気にしていない、というかむしろ嬉しそうににやついていた。びくぅっ。
自分よりもバカみたいに弱い人間に足蹴にされているというのに、ヴェイグの口元は笑みをたたえている。
そんな彼が真性の変態であるということは言うまでもないだろう。
天空の乙女に成されることはすべて快楽に直行なのだ。うわぁ、嫌だぁ。
「わた、私は楽しくないからっ」
もう見ていていいから私にさせて、とヴェイグに撒いていたタオルを剥ぎ取る。
目線が合うと、「目隠しもいいですけど、やっぱり直に見える方がいいですね」と不穏なことをのたまうので、もう一蹴りしておいた。
傍から見れば女王様とその下僕の構図。私にそんな性癖は微塵もないことを誰に誓えばいいのか……。
純粋培養で育ったつもりはないけれど、一気に大人経験値が上昇している気がする今日この頃。
――数馬くん、ねぇちゃんは順調に汚れていっているよ……。
心の中で今は会えない弟に向かって懺悔した。
「コトハ様、穴を飛ばさないように気をつけてくださいね」
「分かってるよ。だからもっとあっちに行って!」
ヴェイグの視線の中でブーツを履くだけだというのに、何故か着替えを覗かれているような気持ちにさいなまれつつ、私は頑張って紐を穴に通していく。
――何で私がこんな気持ちにならないといけないの……。
細かすぎる穴の数にイライラがつのっていく。つか、幾つあるのこれ。やだ、数えたくない。
そうこうしているうちに紐の交差の形がずれているだとか、均等に縛らないと革がよれて歪むだと注意が入る。……うるさい、小舅め。
「あー、もうっ。何でこんな面倒臭い靴を選ぶのっ」
最終的に匙を投げる私が「こんなのもう適当に足を通しておけばいいでしょ」と言えば、「代わりますよ」とヴェイグが手を差し伸べてくる。
差し出される手を抵抗なく受け止めてしまうのは、結局私が慣らされているためなのか。チョロすぎる、私……。
「今度からは面倒臭くない靴にしてよ」
「考えておきます」
「……絶対考えないでしょ」
「考えてますよ。俺がいれば靴を履くのに困らないという話ですよね」
「全然違う……」
キャッチボールには程遠いかみ合わない会話を投げ返されつつ、ヴェイグに手を引かれて立ち上がる。
ブーツの足の締め付け具合は丁度良く、ぴったりと足にフィットしていた。エロい触り方は別として、ヴェイグはすることはきちんとするタイプなのだと感心する。
散々ふくらはぎを微妙な手つきで触られまくった後だったので、素直に褒めることはしないでおいた。
「さて、帰りましょうか」
言って、何故かヴェイグは私を抱き上げた。
「えっ、何!?」
お尻を支えられる形での抱っこは不安定で、たまらずその首にしがみ付く。
「何って、帰るんですよ」
「どうやって」
辺りを見回すけれど、車や馬車の類はない。
木々は高く空まで伸びている。少々開けた場所だとしても、ここは完全に森の中だ。
どうするのだろう。このまま歩いて帰るとでも言うのだろうか。
方角的にどこに当たるのかは分からないけど、神殿からはかなり遠いんじゃないかな。だって、神殿の窓から見える景色の傍に森はなかったから。
不思議に首をかしげていると、ヴェイグの笑い声がした。
「飛んで帰ります」
「……飛ぶ?」
飛行機なんてものはこの世界にありそうにないので、もしかしたら魔法とかでばびゅーんと飛ぶということなのだろうか。――そ、それは経験してみたい! もしかしたら飛行生物とかに乗るのかな。それはそれで良し! 数馬、ねぇちゃんこれからちょいとファンタジー経験してくるわ。
「振り落としてはいけないので、怖がらないでくださいね」
私の顔がウキウキとした表情になったのが分かったのだろう、ヴェイグが苦笑して言う。
「怖がるわけないし」
さぁ、はよ来い。いつでもウェルカム、ばっちこーい!
「ヴェイグがいるなら怖くないよ」
だって、その乙女への執念でうっかり落っことすなんてことしないでしょ。ヴェイグが傍に付いていて何らかの不測事態が起こったとしても乙女に傷が付くことはないだろうし、させないでしょ。
ずっと傍に張り付かれていると嫌でも実感する事実だ。
そんな思いから発した言葉だったがヴェイグは嬉しいと感じたらしく、耳をピンと立てて「ありがとうございます」とお礼を言ってきた。
そのまま「ぐえっ」と喉が鳴りそうなほど抱きしめられる。いつもみたいなド甘い抱擁ではなく、しがみ付いているというような締め方だった。
お礼の言葉もどこか硬質で、いつもだったらすぐさま「苦しいから離して」と言うところだったけど、ちょっと我慢してぽんぽんと背中を叩くにとどめておいた。
「それではいきますよ」
「よし、来い!」
体がふわりと浮いて、私は文字通り空を飛んで神殿まで帰ったのだった――。ヴェイグの翼を使って――。
神殿にある自室に着いたものの、私は窓際に置かれたソファに座ってぼーっと空を見上げていた。
「コトハ様、大丈夫ですか」
甲斐甲斐しくお世話をしようとヴェイグがウロウロと周囲を徘徊する。お茶は、お菓子は、と言われたけれどそれどころではなくただ呆然とする私に、徐々にヴェイグの表情が曇っていく――。
「やはり、あれは性急でし――」
「とんでもない初体験をしてしまった……」
「……はい?」
一オクターブは高いヴェイグの声も耳に届かず、私は戻ってきた興奮を今度は表に出してソファから飛び起きた。――いやぁ、さっきから興奮しっぱなしだったんだけどね。脳内処理が追いつかなくてぼーっとしちゃってたわ。
「すごい、すごいよヴェイグ! さっきのあれ何!? いや、みなまで言うな。ドラゴンだもんね。翼とか付いていても不思議じゃないよね。うわぁ、人って翼で飛べるんだね。マジですごかった。何がすごいって、空を飛んでるのに風の影響ほとんどなかったし、むしろほどよい微風だったし。安全運転だったから振動ほぼゼロで、ゆっくり景色見れたんだよ。ホントに最高だった。樹がね、ミニチュアみたいで――」
ヴェイグの手を取り、ぴょんぴょんと跳ねて見たもの感じたものを思いつくまま話していく。
テンションが上がりすぎて振り切れていることは実感している。でも、興奮を止めることができなかった。話をできるのが一緒にいたヴェイグしかいないというのが寂しいけれど、でも静かに聴いてくれているのでどんどん盛り上がっていける。
このままだと日が暮れるまで話せるかもしれない。それくらい今の私は興奮と感動に打ち震えていた。
「ヴェイグの翼初めて見た。あんなの隠し持っていたんだったら、もっと早く見せてくれても良かったのに」
「えぇ、まぁその……」
「ありがとう。あんな経験、ヴェイグがドラゴンじゃなかったらできなかったよ」
初めて見せてもらったヴェイグの翼は、黒々としているのにとても艶やかで迫力があり、それでいてどこか優美で、これぞドラゴンというものだった。
鳥のような羽ではなく、皮膜と言っていいのだろうか、それが翼の基盤となる骨格に張られていた。薄い皮膜が太陽の光に透けて藍色の影を地面に落としているのが幻想的で、森を抜けた草原に落ちる影に、私は今ドラゴンと空を飛んでいるのだと実感したのだ。
「すごかった。格好良い……? 綺麗……? なんかしっくりくる言葉が見つかんないや。とにかくすごかった」
ヴェイグがいいなら、是非もう一度見たい。そう伝えようと思った。
そしてようやく彼の目を見る。
「……ヴェイグ? どうしたの」
――どうしてそんなに泣きそうな顔してるの。
尋ねようとした言葉はヴェイグの指で止められる。少し喋りすぎただろうか。はい、一呼吸して落ち着くよ。でも、まだ喋り足りないんだけどな。
「コトハ様、俺……今すごく幸せです」
どうしてそこに行き着く?
その思考回路はどうなっているのか。一度脳みそを取り出して洗浄したほうがいいんじゃないかな。きみ浄化は得意でしょ?
普段の比じゃなくヴェイグが嬉しがっているのはその耳を見るまでもなかった。紅潮した頬――意外なことにヴェイグは喜びの表情をあまり出さない。愉悦的なのは頻繁だけどね、喜びを出すのは主に耳だよ――は触ると熱そうなくらいの色を持っている。
「コトハ様、抱きしめていいですか」
「えっ、ダメ」
欧米的に友好の証としてのハグで終了となるなら、百歩譲って許すけど。ヴェイグはついでのその先に色々と待ち受けていそうだから嫌なんだよ。
いくら興奮した状態とはいえ、冷静に嫌だと反応した私にヴェイグの肩が下がる。
「じゃあ、素敵な初体験をさせてあげた駄賃を下さい」
運賃は下車後にお願いしますってか。
駄賃を払うのはいいけれど、その若干冷気の篭った低い声は脅しじゃないんですか。誰も判別してくれそうにないから自分で判別するよ。これは脅しだ!
粘ったところでヴェイグの優勢勝ちになることは間違いないので、とんでもない要求をされる前にとっとと駄賃を払うことにする。
「乗せていただきありがとうございました(棒読み)」
乙女の魔法の手によるなでなでだ。存分に堪能するがよい。
しばらくなでなでし、これでいいかと手を離す。離した手を捕まえられたのは、私の反射能力が低いせいなのだろうか……。
「こんなのじゃ、……全然足りない」
押し倒されて肌をなぞられる。
襟首の広めの服のちょうど際に当たる位置――鎖骨――を狙ってヴェイグはなめくじの速度で肩からのラインを指でなぞっていった。
たっぷり十数秒かけてなぞられていく皮膚がかゆい。
私を見下ろすことで落ちた黒髪をかき上げる仕草がなんとも色っぽい。あぁ、その色気の何十分の一かでも備わっていたら、私にだって彼氏がいたかもしれないのに……。人生は不平等だ。
「たまには――」
耳元で囁かれる言葉に、私は目を丸くさせる。
――こ、この男、「たまには味見くらいさせてください」って言った……!? ひ、久々の捕食行動きたぁぁ!
がちがちに固まってしまった私の目の先でヴェイグが舌舐めずりをする。
降りてくる顔は私の顔を逸れて首に向かう。頬にあたる黒髪がくすぐったいと思うと生暖かい感触が首筋を襲った。
「痛いっ」
耳たぶのすぐ下の辺りにちくりとした痛みが走って叫ぶ。噛んだにしては歯が当たった感じはしなかった。でも痛みは感じたのでそれに相当することはされたのだろう。
顔を上げたヴェイグが再度舌で唇を舐める。
すごく卑猥なものを見てしまったようで、見ているこっちが恥ずかしかった。
でも――、
「少し汗を掻いていますね。もう一度湯に入り直しますか?」
こいつ……、しっかりがっつり味見しやがったぁ!!
女子が男子に「お前、汗かいてねぇ?」と言われることのなんたる恥ずかしさや。
思春期女子への最低限の節度というものを教えるときが来たようだ。
私はぶるぶると震えつつ――怒りで――拳を握り、渾身の力を込めてヴェイグの頬にめり込ませた。
油断していたところへのグーパンチで床に尻餅をつくヴェイグを置いて、私は着替えを手に神殿の風呂場に直行したのだった。
長風呂から戻ってきたとき、しっかりくっきり拳の跡が残るヴェイグを見ても溜飲は下がることはなかった。
だって、風呂から上がるときに鏡で見たんだけど、さっきの場所うっ血してたんだよ。乙女の柔肌に跡を付けるとか、マジありえん。マーキングするとか、何やってんの。
早々に夕食を平らげて翌日までガン無視を行った結果得たものは、じとじととうっとうしいヴェイグの視線だけだった。
後日、「また空の散歩にでも行きますか」とのお誘いがあったり、それに食いつき気味で「うん、するする」と頷いたところ「コトハ様が好きなのは俺の翼だけですか」と恨めしげに言われたり、はたまたそれに対して「そうだけど?」と答えて後悔するのはまた別の話になる。