05湯治に行ってみる1
この世界の現在の気候は初夏を迎えた頃らしい。
日々献身的なヴェイグのお世話を受けるていると、事後にじんわり汗をかいてしまうくらいの気温だ。と言われても誰も分かってくれないと思うけど。
謁見以外に特にすることもないのっで、普段は夕方頃に入浴タイムを設けてもらっている。
一時間以上は余裕で入っていられるのは、お湯の温度がそれほど高くないということもあるけれど、その間だけはあのねちっこいお世話から逃れられるということも理由に含まれている。
本当なら身分の高い人の入浴の際は使用人の介助が入るらしい。けれど、私にとってふわふわもこもこは鬼門。――それに人に見られるのって恥ずかしいし。
そのため入浴するときはいつも独りだ。
香りの良い石鹸や入浴剤が各種用意されているので、バスタイムは至福の時間なのだけれど、難を言うならばお湯の温度が低いことがあげられる。
ケモ耳たちはその性質が獣であるためか、基本的にはぬるま湯での行水が当たり前で、しっかり湯に入るという習慣がないらしい。
彼らの入浴スタイルといえば、庶民なら洗面器ほどの湯量で体を拭くのが普通で、貴族なら腰をつける程度の深さがあれば十分なのだとヴェイグが言っていた。
神殿の風呂場が深めに作られているのは、天空の乙女のための特別な構造なのだそうだ。
広い浴槽は魅力的だけど、ぬるま湯だと入った気にならない。
私はセレブな半身浴よりは、がっつり熱いお湯で「はぁ、極楽ぅ」とゆでだこになりたい派なのだ。
神殿の厨房を預かる人がいるように、風呂場には風呂場で担当が決まっているのだという。あまり熱い湯を体にかけることはよくないそうで、どれだけお願いしてもうんとは言ってもらえないのだ。そこまではヴェイグも口をだせないのだそうで。
あぁ、温泉につかりたい……。
そんな私に朗報です!
普段からちょいちょい「あっついお湯につかりたいわぁ」やら「温泉に行って心の洗濯したいぃ」と呟いていたら、ウサ耳おじさんが温泉を見つけてくれましたよ。
やればできる子。頭をよしよし撫でてしんぜよう。
あぁ、うっかり耳に手が当たってしまったよ。でも今は嬉しいから気にしないでおくよ。後で手を洗っておこう。
「嬉しいなぁ。温泉楽しみだなぁ。タオルはもちろんとして、石鹸はどうしようかなぁ。どの香りにしようか。悩むなぁ」
さっそく温泉の魅力に持っていくものを妄想し出す私。
普段の入浴も楽しいは楽しいんだけど、温泉となるとその楽しみは格別なものとなる。さながら遠足前の小学生だ。
うきうきわくわくで警戒心も薄れてしまっていたらしい。温泉発見の報告をしてくれたおじさんの頭を再度撫で付け「ありがとう」と微笑めば、体を後ろに引かれてヴェイグに羽交い絞めされてしまった。おふっ。
「それ以上はいけませんよ、コトハ様」
人目もはばからず腰に腕を回されるって、恋愛マンガとかならドキドキの展開なんだろうけどね。今私が感じているのは身にせまる恐怖だけなんですけど。うぐぅ。締め付けがきつくて吐きそう。
「乙女の手には催淫作用があるのです。余計な情けはかけてはいけません」
耳元で囁かれる低音美ボイス。いつもなら腰砕けになりそうな低い声に、不穏なものを感じて言葉を反芻してみる。
――乙女の手に催・淫・作・用が!?
マジかっ。と思ってウサ耳おじさんを見ると、腰を抜かしたようにヘロヘロと体勢を崩して床に溶けていた。
「そういう大事なことは先に言っておいてよ! もう、うっかり触っちゃったじゃん」
「すみません。失念していました」
まずいことをしてしまった。だが時はすでに遅し。
「も、もっと……」
おじさんの頬が薄くピンクに色づいていた。心なしか吐く息も桃色を帯びている気がする。きらきらと何かを求める眼差しが純粋すぎる。その年齢に合わなさすぎる表情に「きもっ」と呟いた私は悪くないはずだ。
私の帰れの一言でヴェイグにつまみ出されたウサ耳おじさんは、念のために明日は来ない方が良いと思われる。
ヴェイグにそう伝えると、「当然です」と冷気の篭った声で返答された。
怒ってるなぁ。
思って彼をなだめるために手を出そうとして動きを止める。――ためらってしまうのだ。
――これ、今までみたいに触って大丈夫なの? だって、催淫作用だよ? ヴェイグの乙女信仰に拍車をかけているのって、もしかしたら私の手が触れていたからかもしれないんだよ。
乙女にそういう力が備わっているのは、この世界の住人たちに好意的に受け入れられるための装置なのだろう。
いかに安心してここで暮らしてもらうか。乙女は害されてはならないのだ。その心に反映されて世界は揺れるのだ。乙女の味方は多いほど良いはずだ。
それは分かるけど、――なんかイヤだ……。そういうことなら、もうヴェイグには触れたくない。
「安心してください。俺はこの手に惑わされているわけではないですから」
逡巡する手をヴェイグが取る。
いつもとは逆に私の手が彼の頬に触れる。耳とは違う柔らかな感触。優しく細められる目に欲が混じる気配はなく、安堵が私を包み込む。
自分の意思で私は彼の硬い耳へと手を移動させた。指先で耳たぶの辺りをつまむと、はぁと息を吐いてヴェイグが目を閉じた。
「気持ちいい?」
「気持ちいいですよ」
「おじさんみたいに変な気持ちになる?」
「……ならないとは言いませんが、それが乙女の手のためということはないですね」
変な気持ちにはなるんだ……。
コトハ様が触るからそういう気持ちになるのだとヴェイグは言うが、正直その違いは私には分からなかった。
「分からなくてもいいんですよ。コトハ様が誤解させるのは俺だけでいいと言ったでしょう?」
本当にヴェイグの放つ台詞はかゆみを伴う。
でもそのかゆさを今は少しだけかみ締めてみてもいいかもしれない、と私はぽりぽりと首筋を掻いて照れを誤魔化した。
「コトハ様っ」
笑みを浮かべていたヴェイグが私のその様子を見て目を見張る。
首筋を掻いていた手を握られるも、そこに甘やかさはない。
「蕁麻疹がっ」
両腕に現れたものは赤いぽつぽつとした点。ヴェイグの視線を動きを見るに、首筋にも浮かんでいるのだろう。
あぁ、しまった。うっかりウサ耳おじさんの頭を触ってしまったから、毛が付着してしまったのだろう。
たくさんの細かい毛が自分の手を介して肌に接しているイメージが沸いた途端に、全身の毛穴がぶわっと開いた気がした。
「ど、どうしよう……」
私は顔を蒼褪めさせ呟いて意識を飛ばしていた。
※ ※ ※
ゆらゆら。ゆらゆら。
心地よい温度が足元から昇っていく。吸い込む空気まで熱を持って肺を満たす。どこかで嗅いだことのあるような、懐かしい匂いだ。――温泉たまご食べたい……。
上半身を包むのは、足元を覆う熱とはまた違う熱。しっかりと支えてくれる熱に身を任せて、私はゆられるままにうとうととした眠りから目を覚ました。
「気がつかれましたか」
耳に心地よい美低音に、朝が来たのかと思って「まだ、もう少しぃ」と布団を掴む。
そうするとくすくすという笑い声が鳴って髪を撫で付けられる。眠りを邪魔する手つきに私は身をよじって布団に頭を擦りつけた。もうちょっと寝かせろや。
……ん? なんか、布団がごりごりする。って、これ布団じゃない!?
布団とはまったく違う肌触りにはっと顔をあげる。
そこには目をつぶる少し前の焦った様子ではなく、心底ご満悦といった表情を浮かべるヴェイグの顔があった。附属するドラゴン特有のうろこ耳も嬉しそうにピコピコ揺れている。
そよぐ風は緑の自然の音を運んでくる。建物内では感じることができないはずの日光が、燦々と降り注いでいる。
どこだ、ここは? そう思って身を起こそうとすると、「落ちますから」とヴェイグに抱え直された。
動いた足元にはねる水の音。
下を見れば裸足の足が二組、湯気を上げる水の中でゆれていた。
底は丁度立ったときに私の膝上を塗らすくらいだろうか。幅は……、うん、まぁ人が浸かるには全然足りないね。
「足湯……」
「ジルベルト様がおっしゃっていた場所に来たのですが、これだけしか見つかりませんでした。もう少し探せば源泉が見つかるとは思うのですが」
いや、もう何も言うまい。
あのがっかりウサ耳おじさんのすることだ。足湯を見つけただけでも褒めてあげなければならないのだろう。ちっ。期待して損した。
ついでにヴェイグの所業にもつっこまないでおく。
人が眠っている隙に靴を脱がせて一緒に足湯に浸かっているとか、服を脱がされて温泉に浸からされているよりは全然マシなんだから。
――うーん、それを思うとウサ耳おじさんがみつけたのが足湯しかできない温泉だったということは、グッジョブと言っておくべきなのか……?
うん、ヴェイグならやりかねない。気が付いたら「ほら、コトハ様ご所望の温泉ですよ」と笑って混浴させられていそうだ。こいつならやりかねない。
ヴェイグの乙女好きは、催淫作用のある魔法の手を抜きにしても異常なのだと私の勘が告げている。
手の平をにぎにぎと握っているとヴェイグの指がそこに絡んできた。なんかね、ナチュラルにこうしてくるよね、きみ。
「試しにこの可愛らしい手を縛ってみますか?」
何をさらっと怖いこと言ってんの。
実際にそうされたらたまったものではないので、彼の手がこれ以上怪しい動きを始めないよう拘束させていただく。
ぎゅっと掴めば、私と比べても随分と大きな手はとりあえずのところ動きを収めてくれた。
「この手がなくても、俺は貴女に欲情しますよ」
ねっとりとした吐息が耳にかかった瞬間、私はがばっと体を起こして足が汚れるのも気にせず木立の後ろに身を寄せた。
あ、あの人「欲情」って言ったよ。「浴場」じゃないよ、「欲情」だよ!
やばい、やばい、やばい。ガンガン警報が鳴ってるよ。であえぇ、であえぇ。誰かあやつを捕らえるのじゃぁ。あー、誰もいないぃ。
いつでも逃げ出せる体勢を取りつつ、薄く微笑むヴェイグを威嚇する。もう、涙目だよ。怖いよう。私じゃ対処しきれない変態がいるよぅ。
「コトハ様、嘘ではないですが謝りますので出てきてください」
「余計なひと言をつけるなぁぁっ!!」
シャアァッというネコがするような威嚇音を出しつつ、木立の合間から私が顔を出すまでは、それから三十分の時間を要したのだった。
そして三十分後――。
付いた汚れを取るために、再び足を湯に浸ける。
ヴェイグは外で待機だ。かなり遠い位置に立たせたのは、いかがわしいことをしてくるのを防止するためだ。
足湯とはいえ、希望していた熱い温度に身をゆだねると快さに心までほんわかと温まっていくような気持ちになる。
心なしか天候も良い気がする。空を見れば雲は薄く這うくらいで、日が照り差している。気温は初夏にふさわしい程度で、温まった体には少し熱く感じられた。
湯に浸かって十数分。たっぷり堪能させてもらったので、足を湯から上げる。
泥を落として綺麗になった足をタオルで拭いていると視線を感じて顔を向ける。すると、私が以前彼の耳に触れたとき同様のぎらついた目でヴェイグが私の足を視姦していた。
如実に物語る「ヴェイグの嗜好に乙女の手は関係ない」という事実。……をい。
豊満な女性のように肉付きが良いわけでもなく、かといってモデル体型の綺麗な細足というわけでもない、ごく一般的な女子の足を見て何が楽しいのか。――乙女の足だから楽しいのか……。
足しか露出していないというのに、この危機感はなんたることか。
ヴェイグは「乙女の手」だけじゃなく、その他でもしっかり催淫されている事実に思い至り、私はなんとも言えない感情に「はあぁぁぁっ」と重たい溜め息をついたのだった。
――なんか、もう手がどうとかどうでもいいや……。
手招きしてヴェイグを呼び寄せる。そのうきうきわくわくと揺れる耳を止めなさいよ。
「はい、これ」
招きよせた顔に厚みの薄いタオルを巻く。即席、目隠しだ。
「私が靴を履くまで見ないで」
命令口調で言えばヴェイグは仕方なしに従うしかない。項垂れる耳元が哀れみを誘うけれど、これで気を許せばまた身の危険に繋がるのだ。
「そのまま大人しく待ってて」
肩を押してそのままの状態でいるようキープさせる。まるで犬の躾みたいだ。
だがしかし、彼は目隠しごときではへこたれる男ではなかった。そこは完全に私の読み間違いだった。
「せめて靴は俺に履かせてください」
「いや、目隠しした状態じゃできないでしょ」
ヴェイグの用意する編み上げブーツは紐を一から結ぶタイプで、脱ぎ着がしにくい。
向こうにいた頃は足を突っ込むだけで履けるサンダルを愛用していた者としては面倒なことこの上ないのだが、ヴェイグの「その方が服に合うから」の一言で我慢して履いている。
そんな面倒な靴を脱がせたり履かせたりするのがヴェイグの仕事になっているのは、もうね……。
今回は目隠しをしたのだから、そんな細かい作業なんてできないだろう。
編み上げブーツを履くくらい穴のひとつひとつに紐を通していくだけなんだから、私にだってできる作業だ。
できます、いやできないって、の押し問答で押し切られたのはやっぱり私だった。
こういうときの押しの強さはヴェイグの方が圧倒的に強い。いっそ執念と言ってもいいだろう。その点、私は諦めが早い性質なのだ。後先を考えないとも言えるけど、ついつい面倒くさがって放り出してしまう。
そしてヴェイグは目隠しをしたまま編み上げブーツの紐を通していくという作業を始める。そして私はそれをさせたことを後悔するのだった――。