04耳を撫でてみる
天空の乙女というものは、大気の安定さえ行っていれば他にすることはないようだ。穏やかな心さえ保っていれば、この世界の気候が荒れることはまずないのだという。
肝心な私の機嫌の良い日が滅多にないので、それに合わせて快晴というものは少なく、ぐずぐずのお天気が多いわけなのだが。
神殿には「乙女が降臨したはずが、未だ微妙な天候であり続けるのはどういうことか」という嘆願書が各所から送られているようだ。
だが、そんなもの知ったことではない。
だって認めてないし。
誰が「はーい、私が天空の乙女だよ。きゃは☆」なんて言った? そんなこと一言も言った覚えはないんだけど。
「そんなぁ。呼ばれて現れたのだから、貴女こそが天空の乙女なのですよ」
今日も懲りずにご機嫌伺いにやってきたウサ耳おじさんが涙目で言う。
乙女であることの自覚を持つようにと、遠まわしの文句を言いにきたようだが、知らん。私はそんなものになった覚えはないと何度言ったら分かってもらえるのだろうか。
「間違っているものは間違っているんだから、諦めて他の人を呼んだら? 喜んで役目を代わってあげるから」
「そのようなことをおっしゃらずに、ぐふっ」
学習能力のないおじさんがまたもや突っ込んできたところで、今日は私がヴェイグよりも早くその顔面に踵を落とす。
とても見事にはまり込んで小気味が良い。窓の外もうす曇りが晴れて日が差し込んでいた。
ヴェイグの動きが遅れたのは、いつもの位置より後ろに下がらせていたためだ。
耳を主体とした彼の献身的な世話に辟易してキレた私がそうさせたのだ。おかげでジメジメとした気配がうっとうしい。
「コトハ様、あれるぎぃが発症しては困ります。お早く足をどかせてください」
背後で数段階低い温度が漂ってくる。
びくりと後ろを振り返れば、鬼の形相のヴェイグが目に入った。その視線はウサ耳おじさんの顔にめりこんだ私の足にそそがれている。
――ちょっ、目がやばいって。瞳孔開いてるよ。ドラゴン化はやめて! ひぃっ。
眉間のしわが恐怖心をあおる。
私が許可するまで近づいてはならない、という約束事を律儀に守っているヴェイグが耐えるように拳を握っている。
ぐりっと音がしそうなぐらい強く握り締めている彼の拳が青白くなったところで、私は自分の恐怖心に負けた。
我慢させすぎると後が怖い。実体験はまだないけど、そんな気がしてならない。彼を遠ざけてまだ二日だというのに……。
ちょちょいと手招きすれば、忠犬のように耳を震わせてヴェイグが跳んできた。一足飛びで。
「ジルベルト様、今日のところは私は忙しいのでこの礼はまた今度ということで」
小さく「残念ですが」と聞こえてきたのは幻聴であるとしておこう。彼の言うことなすことに細かくつっこんではいけない。心臓がもたない。
早く行きな、としっしと手を振ると、ウサ耳おじさんはまさに脱兎のごとく部屋から飛び出していった。
「ありがとうございますぅぅっ」
ドップラー音を残して消えていく残像に、一緒について行きたい気持ちになる。
彼と二人で残された私は、さながら生け贄の気分だ。
「ヴェイグ」
「はい、コトハ様」
その恍惚とした表情やめろ。
足元に跪くヴェイグの耳が嬉しそうに揺れる。
私自身は不機嫌なままなのに、嬉しさを前面に出してくる耳がむかつく。両手でぐりっとひっぱってみるも、硬い耳は向きを変えるだけだった。
ヴェイグの方は痛みも感じていないようだ。むしろくすぐったそうにしている。
頬を染めながら少し身をよじるので、彼の弱点はここなのかもしれない。思うとイタズラ心が沸いてきて――だって、普段は私の方が色々されているからね――、くすぐるように指先に緩急をつけて触れてみた。
どうだくすぐったいか。くすぐったいだろう。私の気持ちが分かるかコノヤロウ。
いつもされている側の意趣返しのつもりだった。
「俺の耳を触って楽しいですか」
何かを我慢するように目を細めるヴェイグにニヤニヤする。べつに耳を触って楽しいわけではない。困った顔をするきみを見るのが面白いのだよ。ふふふ。
「コトハ様はご存知ないと思いますが……、耳に触れるのは一種の求愛行動なのですよ」
なんですとぉっ!
聞いた瞬間にがばっと手を離せば、名残惜しげな視線が追ってくる。もうやらないよ。
うはっ、やばかったぁ。ここに誰もいなくてよかった。傍目から見たらヴェイグに求愛する私の図が出来上がっていたんじゃないか。もっと早く言ってよ。
ドクドクと鳴る心臓を押さえる。
知らなかったとはいえ、なんて恥ずかしいことをしていたんだ私。羞恥心で死ねる。
ずびっと鼻をすするのは、何もアレルギー症状のためだけではない気がした。
涙目で見下ろす私にヴェイグが笑う。
さっきまで主導権を握っていたはずが、あっという間に逆転してしまったようだ。忠犬ならぬ忠ドラゴンの手綱を握るには、私は力不足のように感じた。
「残念。気持ち良かったのに」
教えるのではなかったとヴェイグが言う。
いや、大切なことは言っておいてよ。この先、文化の差で誤解されるのはまずいでしょ。そう伝えたらすぐさま反論された。
「何を言っているのですか。コトハ様が誤解させるのは俺だけで十分ですよ」
台詞がかゆいぃ。
きみはもう口をつぐめ! ついでに瞳を怪しく光らせるのはやめようね!
「しないよ。……ヴェイグにもしない」
今のところは何もされていないけど、すでに息も絶え絶えの状態だ。
かゆい台詞に真顔で対峙できるようになる日はくるのだろうか。そうなったらそうなったで、私は大事なものをまたひとつ失くしてしまうような気がする。
「俺はいつでも歓迎ですけどね。でも、いいです。今のところはそう約束してくれるなら」
今のところは、って何よ。ダメダメ、つっこんではいけないよ、私。
乙女の傍仕えは現在においてもヴェイグただ一人だ。
天空の乙女への深い信仰を持っている彼にとっては、今の状況は誰にも譲れないものなのだろう。乙女の心が他に移るのが嫌なのだ。
重苦しい乙女への愛はもう十分過ぎるくらい分かったよ。
「本当に約束してくださいね。俺以外、他の誰の耳も触ってはいけませんよ」
まるで恋人に嫉妬されているみたいだ。
床に膝をついた状態で、ヴェイグが私を見上げる。
漆黒の黒髪から覗く瞳と目が合うと、視線に縫いとめられたように身動きができなくなった。
呼吸が浅くなる私の膝頭をヴェイグの手の平が這う。「あぅっ……」という変な声を出してしまう私に誰かつっこみを入れて! っていうか、誰か彼を止めて。
ヴェイグが用意してくる服はいつも可愛らしい。
今日着ているのは薄紫色の上着に淡い緑のスカートだ。ドレープしたスカートは前側が短く後ろに行くに連れて長くなっている形のもので、前側は立っていると膝を隠すくらいの長さなのだが、座ると膝が出てしまうデザインとなっている。
むき出しの膝の防御性の低さといったらない。
ふくらはぎまであるブーツを履かされているのだが、彼の視線の前にこの微妙な隙間がなんとも心もとなくなってくる。
さわさわと撫でられる動作に羞恥心からくる熱を感じる。顔から火を噴きそう、というやつだ。
「ゃ、ヴェイグ。やめて」
「……何を?」
何を、じゃねぇよ。そのエロエロしい触り方を止めろと言っているんだよ!
這い回る手を止めようと自分の手を添えるも、力が抜けて彼の動きを止めることができない。
「俺はお願いしているだけですよ。まだちゃんと約束してもらっていないですから」
――やく、そく……? 手の動きに翻弄されて忘れ去っていた会話を無理やり思い返す。約束って、なに? 手、邪魔ぁ。あぁ、さっきの。誰の耳にも触らないって。
「……ぁ、だって、しないって言ったよ」
私、確かに言ったよね? 耳に触るのは求愛と捉えかねないから、誤解されないように誰のものも触らないって――。
「俺以外の、が抜けています」
じゃないと止めないよ、とばかりに手が動き回る。
手の平が膝の丸みをすべってブーツの際をなぞる。かと思えば、また戻ってきて膝を覆う。
「ね、約束してください」
ピアノを叩くように長い指がトトンッと人差し指から順にももを打つ。痛みなんてちっともないのに、自分以外の誰かの指があるのだと思うだけで息が詰まる。
膝周りだけという少ない範囲を絶妙な力加減が肌を責めてくる。ヴェイグの指が太ももを隠すスカートのひだに触れたところで、私は根を上げた。ひやぁ、めくれるぅぅ。
「分かったってばっ。ヴェイ、ヴェイグ以外の耳は触らないから! もぅ、やめて」
ピタリと止まった手にほっと息を吐く。
「よくできました」
褒められても嬉しくない。
はあはあと顔を赤くして呼吸をするのが私だけなんてバカみたいじゃないか。ヴェイグの方は息ひとつ乱れてはいない。
返す手で私の指の隙間にヴェイグの指が侵入してくる。いわゆる恋人つなぎの形だ。
ぐにぐにと握られたが、これ以上の辱めを受けた後だったので、何の感慨もなく見つめる。
絡め取られた手が誘導されたのは、彼のうろこで覆われた耳だった。
触れる感触はごつごつして硬い。
でもただ硬いだけではなく、生物特有の柔らかさを秘めた耳。これまで爬虫類を愛でたことがなかったので知らなかったけれど、触れると意外と温かくて柔らかいのだ。――ふわふわもこもこのケモ耳たちには敵わないのだろうけど。
私が触れたことに満足そうにヴェイグが瞳を閉じる。私が触れることが心地良いのだと言わんばかりだ。
――ヴェイグは何でここまで乙女が好きなんだろう。
ここで彼が私のことを好きなのだと勘違いできないのは、私が自分の容姿をよく理解しているからだ。
不細工でもなく特別可愛いわけでもない。並みの容姿だとうぬぼれる気にもならないんだな、これが。
きっと私が乙女でなかったら、彼がこうして傍にいることもなかった――。
彼が私に惹かれる要素が、私が天空の乙女であるというただ一点のみだという事実が笑える。
だからって、ここまでされるいわれはないんだけど……。安心しきった顔がむかつく。
耳に触れたまま、椅子から降りて近づいていく。
剣呑な雰囲気を持って動いているというのに、ヴェイグに私を警戒する素振りは見られない。
油断してると痛い目をみるんだからね!
私はなんとしてでも彼に意趣返しをしたかった。信仰の対象である乙女がされるままで反抗しないなんてことないんだからね、と彼に知らしめたかったのかもしれない。
「ヴェイグの……ばぁか」
ぴくっと動く耳を手で押さえ、私はその尖った先を口に含んで――、がぶっと噛んだ。
――あっ、噛んだ後どうするか考えていなかった。
思いつくまま行動するところが私の悪いところだ。
とりあえず噛んだまま「まひったか(まいったか)」と口内で言うと、途端に肩を掴まれて床に反転させられる。自分がした行為への反省をする間もなかった。
「……コトハ様、自分が何をしているか理解されていますか。もう少し人の気持ちというものを考えてください」
抑えた声にびくっと肩を震わせる。
「怒ってる……よね」
ケモ耳たちにとって大事な耳を齧られて。
ヴェイグの後ろに見える天井の明かりが眩しい。影になったヴェイグの顔はそれでも秀逸だった。苦悶する表情は色気を称えていて目に毒だ。押し倒されているのが私だというところが絵になりきれない。あははっ。意趣返し失敗。
ヴェイグは乙女のお世話も大好きだけど、小言を言うのも大好きだ。一度始まるとなかなか止まらないところは同じだ。
この体勢でお説教タイム突入かぁ、と半ば諦めの境地の私はもがいて暴れることなく大人しくしておく。
――が、
「ひっ……」
やばかった。あれはしてはいけないことだった。
思っていた以上に私がしたことは彼の怒りを買っていたようだ。
そりゃあ、そうだよね。耳に触れることが愛情のあらわれというなら、耳を害することは敵意を示したことになるよね。よく考えずに行動してごめんなさい。
――ひぃやぁぁ。ヴェイグさん、瞳がドラゴン化シテマスヨ!
「貴女がしたことがどういうことか、身をもって知っておくべきですよね」
すがめられる目に恐怖を覚える。ひぃえぇっ。捕食されるぅ。
ひきつった愛想笑いは怯えだときちんと認識しているくせに、ヴェイグはにこりと笑って「大丈夫ですよ、痛いことはしませんから」と囁いた。全然、大丈夫じゃないよねぇぇ!
「こういうことです。ちゃんと身体で覚えてくださいね」
「あっ、待って……っ」
この後、私はヴェイグの気の済むまで耳を触られて息を吹きかけられて、ベロベロ舐められることになった。
詳しくは解説しない。
最後に衣類を乱してはあはあ呼吸する私がいたりするんだけどね、その記憶はさっさと抹消するに越したことはない。
私をいじり倒すヴェイグの表情が中盤、怒りから愉悦込みの笑みにスライドしていたなんて、まだまだ彼の乙女への真摯さを夢見ていたいので断固封印しておくよ!
「まったく、本当に他の者にはしないでくださいね」
で出しのジメジメした空気はどこへ行ったのやら。
すっきりした表情のヴェイグが、腰の抜けた私を抱えてやれやれといった表情で息を吐く。
「は……、はひ」
未だ収まらない荒れた呼吸の中で短い返事を搾り出す。
じんわりと汗を掻く額にくちづけられつつ、もう二度と彼の耳を齧ることなんてしないと私は誓った。