隙間語り2
王宮内の一角、血に塗れた壁を前に立ち尽くす。
血の海に沈んでいた男の亡骸はすでにない。頭部をぐちゃぐちゃに潰されていたらしい。
最後の言葉は何だったのだろうか。――どうせ誰かを恨む言葉だったんだろうが……。
彼は劣等感の塊だった。
王の息子でありながら突出した才のない己を悔やみ、少しでも自分より秀でた者を恨んだかつての友。手を抜けばそれを見抜いて怒り出し、手の付けようのない癇癪を起こした。
ジンライは物心付いた頃から優秀さを見出されていたから、彼の劣等感は特にジンライに向けて発されたものだ。それもあって王宮を出たのだが。
――俺はお前が次の王で構わなかったんだけどな……。
生まれた頃より共に成長してきたのだ。この感覚は友というより兄弟に近い。彼もまた、ジンライと同じく苦しみを抱えながらも捨てきれない絆を感じてくれていたはずだ。
宰相となって彼を支えていければ。それが理想だと二人して語ったことはもう遠い過去のことだ。
「――……っ」
王国の歴史に名前を刻まれない男の名前を口にする。ふと零れた雫が床を濡らした。
捕らえた王の首は、彼を支え続けた忠臣たちの目の前で斬り落とした。
王は最後まで己の過ちを認めようとしなかった。ジンライが剣を掲げたときも、出てきた言葉は「何故」というこちらの意図を問う言葉だった。
ひとりひとり名を呼び、首を落としていく。ひとりの顔も忘れないように。ひとりの名も忘れることのないように――。
「お前たちは罪を犯しすぎた。もはやその命を以ってしても覆しきれないほどの罪を。命を賭して贖えとは言わない。これ以上の罪を、悲しみを生まないために死んでくれ」
ほぼすべての首を刈り取り、最後の男の前に立つ。
「親父殿、覚悟はいいか?」
悲壮な顔つきをしていた忠臣たちに比べて、こちらを見つめる顔は決意の篭った目をしていた。
――もう少し前にこの目を見たかったな。
すぐに剣を振り上げることはせず、しばし見詰め合ってしまうのは血縁の成せる業だろうか。
「何故引き返せなかったんだろうな――」
彼らの犯した罪は深い。
ドラゴンの怒りは、今回の掃討戦で数を減らしたはずの魔獣を呼び込んだ。これまで被害を受けてこなかった王都にまで進行を許してしまった。呪いの言葉を吐き続けるドラゴンとの関連性など考えるまでもないことだった。
カーマインの咆哮が鳴り始めてから翌日には、王都の貧民街が壊滅した。二日後には平民街が、三日後には貴族街がほぼ壊滅状態に陥った。
賢い商人たちは軽装のまま王都を出奔した。
国は荒れていく一方だ。
作物は萎れ、農地は急激な雨に押し流された。
土地だけでなく人心も荒れていくばかりだ。強盗。殺人。恐喝。強姦。突発的な事件があの日を境に跳ね上がる。誰もが隣人を疑い、罪のない罰を私心で下した。
カーマインの怨嗟が国を巻き込んで広がっていた。彼の意思に同調するように人々の心が荒んでいく。
ジンライがかき集めた仲間たちは数少ない心を残した者たちだった。
王が、彼らが乙女を利用しようとしなければ――。ドラゴンを最悪の形で裏切らなければ――。そもそも凡庸であることを、今ある平和を享受していれば――。
言っても仕方のないことだ。彼らはすべての踏みとどまるべき地点を飛び越えて今を迎えてしまった。
「進むしかなかったのだ。私は王の腹心であり陰であり、忠実なる臣下であった」
「あんたは止めるべきだった。それができる者をこそ忠臣と呼ぶんじゃないのか? 俺は親父殿、あんたからそれを学んだはずだ」
「…………そうだな。だが、斜陽に落ちていく王を私は見捨てることができなかったのだ――」
ジンライが幼かった頃、確かにこの国には誰もが安堵して暮らすことのできる平穏な時間があったのだ。優しい時間が存在していたのだ――。
それを忘れられず切り捨てられなかったのが彼の弱さだ。彼の抱く幻想の中の理想の王国に、獅子の男はなくてはならない存在だったのだろう。
「さようなら、親父殿。俺はあんたの罪も悲しみもすべて飲み込んで前へ進む」
宰相の位を持つ男はうやうやしく首を垂れた。
罪を受け入れる決意を持ち、無防備な後頭部をさらす。
「立派な王におなりください」
床に手をつき、深々と礼を取る。もはや過去となりつつある王朝がジンライを新たな王朝の王と認めた瞬間だった――。
「その願い、引き受けた」
誰の首を落としたときよりも速く鋭く。振り落とした剣は命を刈るのと同時に過去となる王朝の幕を落とした。
※ ※ ※
ドラゴンの怨嗟は止まらない。
兵たちは必死に残された王都を守るべく立ち向かっていた。
数え切れないほどの骸が詰みあがる。必要のなかったはずの犠牲。必要のなかったはずの死が山積していく――。
「――状況は逼迫している。力を貸してくれ」
地下牢に繋がれた男を前に助力を求める。
暗い牢獄は外が晴れていたとしても湿気て息苦しい場所だ。それが雨という湿度を増して更に重苦しい空気を宿している。
少年の見掛けをしていてジンライとそう年齢が違わないらしい、国随一の技量を持つ男。ネコマタの魔導師ラージュ。
彼の隣では傷付いた戦士が浅い呼吸を繰り返していた。
報告を受けたときにはほぼ瀕死ということだったらしいが、ラージュの術によってどうにか生きながらえているようだ。――よく生きていたと言うべきか、生かされていたと言うべきか。
ジンライの見立てでは、ラージュは治癒に優れた魔導師というわけではないようだ。あくまでジンライの基準においては、だが。
ラージュに引き継いでジンライが魔力を込める。温かな柔らかい光がジェスロを包めば、土気色の肌は生気を取り戻して深い呼吸が戻ってきた。
「お前がやるよりはマシくらいのものだが」
だが後遺症は残らざるを得ない。ジェスロは背中を酷く損傷している。今後、噂に鳴らした両手剣を思いのまま扱うことはできなくなるだろうと、治癒に手を貸したからこそ感じ取る。
「新たな王は何を望まれるか」
情報から隔絶されていただろうに、ラージュは正確に状況を掴み問いかけてくる。
「助力を。カーマインを止めたい」
ジンライの言葉を聞き、ラージュははんっと皮肉な笑いを漏らした。
「彼は止まらないよ。この国はドラゴンの怒りを買ってしまった。乙女を害し、精神を侵したこの国が得たものは何だ? 救うべき何がこの国に残っている? 今陥っている状況はこの国が得るべくして得たものだ」
ラージュの瞳の強さに、カーマイン同様彼もまた深く傷付いたことを知る。下手なごまかしが通用しないのであれば、言うべきことは本心からの言葉しかない。
「醜くとも汚くとも、俺はこの国が世界が好きなんだよ。すべての者たちの罪も悲しみも背負うと決めてここに来た。すべてを受け入れて未来を造っていくと。泥水を啜って生きて行く覚悟はとうについている」
断罪するのではない。共に泥水を啜ってくれ。そう懇願する。
カーマインはもう止められないほどに暴走してしまっている。彼の存在自体がこの国を滅ぼす呪いの中心となってしまっているのだ。
これ以上、カーマインを放置してはおけない。
こうなる未来が予測できていれば、あの出会いの際に一息にカーマインの息の根を止めていたものを。
ここまで王家とそれを取り巻く環境が悪循環を続けていたとはジンライも思っていなかったのだ。精々、ドラゴンの怒りを買って中枢にいる何人かが犠牲になるくらいは仕方ないかと楽観していたのだ。そうなるのがたとえ王でもジンライの父であっても、受け入れようと思っていたのだ。そうなるよう動いた責を追うのが当事者であることは当たり前のことだ。
けれど、事ここにおいては当事者たちの首だけでは収束しないのだ。
「……とめよう」
横たわっていたジェスロが脂汗を滲ませながら起き上がってくる。
「ジェスロ……」
裾を引かれたラージュが戸惑いの表情を浮かべる。
「止めよう。カーマインをこれ以上苦しめないために」
国のためでもない、世界のためでもない。ただ友のために止めよう。そう訴えかけるジェスロにラージュもぐっと唇を噛み反論を押し込める。
「目的へ至る動機は違うが共闘は可能、ということでいいか」
どのように言ったところで彼らの国への不信は短時間で拭いきれるものではないことは、とっくに気付いていることだ。
ジンライは国のために。ジェスロとラージュは友のために。
共闘という立場を取って、彼らは目的をひとつにした。
※ ※ ※
ドラゴンが吼えている。
王を呪い、国を呪い、世界を呪う怨嗟の声。
だが、ジンライの耳にはそれがまるで泣いているかのように聞こえた――。
カーマインの前に立ち、王の首を放り投げる。
すべてを剥ぎ取られた王の首は驚愕に歪み、雨水の染みた泥に塗れてカーマインと視線を合わせた。
「この首ひとつで収めてくれないか」
ためしに提案してみたがやはりと言うべきか、彼の怨嗟はもはやこの首ひとつでは収まらない域に達していた。
「お前がこの国のしでかしたことを許すことはないのだろうな。お前の怨みは分かるよ――」
ドラゴンにとって唯一を汚されることがどれほどの怒りを得ることであるか。狂ったこの国は判断を誤ってしまった。
過去に幾度となく起こったドラゴンの伝説は、あまりに昔のことすぎて忘れ去られてしまったというのだろうか。これは自然の災害よりも最悪の、災厄と名付けるのが相応しい事象だ。――まったく、親父殿は何というものを引き起こしてくれたものか……。
「俺は――、俺もまたこの国を許すつもりはないよ。それだけのことをこの国はしでかしてしまったんだ。だが、同時に俺はこの国を守らなければならない。責務としてではなく、この国に根ざす民のひとりとして」
ずっと放浪しているのも悪くはなかった。終の仲間と言うわけではないが、縁の続く仲間と出会い旅をして、世界を見て歩くことはとても刺激のある毎日だった。だが、それも遠い地でこの国が確かに存在しているのだと思えていればこそだ。
ジンライは国を出た傭兵にはなれても、根なしの傭兵にはなれなかった。
カーマインはジンライの言葉に耳を傾けることなく怨嗟の言葉を吐き続ける。
「もはや冷静な判断はできないか……」
勇壮な姿で空を飛んでいた白銀のドラゴンの姿はもうない。
四肢を切断され翼を捥がれ、大蛇のように地を這い、血に塗れ、泥に塗れ、毒の魔獣よりも悪い負の毒を撒き散らす災厄のドラゴンがそこにはいた。
もはや彼をこの地に生かす理由は無い。
「ジェスロ、剣を」
後ろに控えていたジェスロに求める。
ジェスロが差し出したのは、ドラゴンの硬いうろこでも通り抜けられる強い剣。火トカゲの家系に代々伝わってきたものだ。ドラゴンに近い系譜を持つために、最悪の場合の歯止めとして秘して伝わってきたものをジェスロは差し出した。
ジンライが剣を構えると同時にラージュが印を結び始める。
二人の姿に気付いたカーマインが、裏切り者と誹り始める。
「違う。彼らはお前のために動いているんだよ」
言っても届かない言葉を紡ぐ。
剣を渡してくるジェスロの腕は震えていたし、ラージュは熱い涙をその瞳にたたえていた。だがカーマインはそれに気が付かない。怨んでやる、呪ってやる、憎んでやると吼え続けている。
共に交わした言葉は少なかったが、そんなジンライでも今のカーマインの姿を見ているのは辛いものがあった。
時が違えば友にもなれたかもしれない。あの短い会合で思ったのは何もジンライだけではなかったはずだ。
――俺もお前も、皮肉な時代に生まれたものだ。
もっと後世の時代であれば――。王が優秀さを問われず、平穏な国を守る穏やかな力を求められる時代であれば――。もっと違った未来もあったかもしれないのに。
「カーマイン、もう分かった。お前の気持ちは痛いほどに分かったから……、終わりにしよう」
剣を高く高く振り上げる。
「お前たちの罪も悲しみも、すべて俺が背負ってやる」
冷たい雨を受けて冷えていた頬に熱を持った涙が流れる。失ってしまった温かい記憶のある場所、消えてしまった大切な者たち。多くのものがすり抜けてしまった。
誰もが疲弊していた。
負に飲まれ心を蝕まれ、終わりのときはまだかと項垂れながらその瞬間を待ち望んでいた。
新たな王はすべての罪と悲しみを背負う決意を言葉に、最悪の時代に終焉の剣を下ろした――。




