03癒されてみる
「空気の入れ替えをしておきましょうね」
そう言って謁見室の窓を開けていくヴェイグに、「よろしくぅ」と気の抜けた返事をする私はまだ上等な革張りの椅子にふんぞり返っていた。
部屋の外では、ウサ耳おじさんを取り囲む重鎮たちの「今日の守備はいかがでしたかな」という声がさざめいている。
そんなことは自分の部屋に帰ってからやってよ、と思うが情報をいち早く手に入れたい彼らはいつもこんな感じだ。
本当なら彼らも私と目通りしておきたいらしいのだが、あえてそこはウサ耳おじさんだけにしてもらっている。でなければ私が発狂する。
ウサ耳おじさん一人でも忍耐がいるのに、ふわふわもこもこ集団に大挙して押し寄せられるなんて何て拷問だ。
アレルギーが何たるものであるか理解できない彼らには、彼らを拒否し続ける私の行動自体理解しがたいことだそうだ。
これまで呼ばれてきた乙女たちは、ケモ耳たちを見るなり大いに感激して天の恵みを与えてきたのだという。
そりゃあそうだろうね。真のケモナーならね。ケモナーでなくても動物の可愛らしい耳が並ぶファンタジーな景色はウキウキワクワクものなんだと思うよ。普通なら。
この世界において、私の置かれている現状を――正しくとまでは言えなくても――よく理解しているのはヴェイグだけだ。
ケモ耳に触れることも危険なら同じ空間にいることも危険であることを理解していて、後にどういう処置をすればいいのかも承知してくれているのは彼だけだ。
あぁ、できるならもう少し理解してくれる人が増えてくれればいいのに。そう思うのは贅沢な悩みなのかな……。
「まだ腫れているようですね」
用意してもらった蒸しタオルを目元に当てて安静にしていたのだが、それをはがされて様子を確認される。
「もうちょっと……」
まだ当てている方がいい、とタオルの返却をお願いするもかわされる。
「ヴェイグ」
「……」
「お願い」
「……。はい、鼻ちーんしましょうね」
小娘の目力は針ほどの武器にもならなかったようだ。
しばしの沈黙の後に目線を逸らしつつあてがわれたのは、薄い布地のハンカチだった。
子供にするように鼻に当てられたハンカチに遠慮なしにブビーっと鼻をかむ。
何この羞恥プレイ。
自分で出来ると言っているのに、ヴェイグは何かと世話を焼きたがって手を出してくる。おかげで私のすることと言えば、来客相手に冷たい視線を送ることしかなくなっている。
このままでは女王様進化ではなく幼児退行してしまいそうだ。乙女信仰怖い。
残念ながらこの世界にティッシュというものは存在しなかった。代わりにヴェイグは大量のハンカチを持参してくる。
それを洗うのはもちろんヴェイグだ。
ケモ耳さんの洗濯係に任せると干したときにうっかり毛が付着しては困るから、というのがヴェイグの意見だ。
その意見には賛同するんだけどね……。
数馬くん、聞いておくれよ。
しばらく前までは毎回柄の違うハンカチが用意されていたんだよ。
けどもったいない精神から洗ったハンカチはどうしているのか、清潔にしてくれているのなら使いまわしで構わないということを伝えてからは同じ柄も登場するようになったんだよ――。
なんだろう……、心理的に怖くて真相をつつけない。
私が使用した後のハンカチの行方がどうなっているのかということは考えてはいけないことだと私の何かが告げている。
同じ柄のハンカチが登場すれば安堵感を覚える私の思考は汚れているのだろうか……。
世の中、知ってはいけないことはあるものなのだ。深淵は覗きたくない。
最悪誰かの――ヴェ、なんとかさんのものとは言わないけれど――コレクションとなるのはいい。でも、そうなるのなら洗ったものでお願いします。清潔は大事だよ。
「はい、綺麗になりましたよ」
鼻の周りを丁寧に拭い終えたハンカチが脇に置かれる。
今度洗って乾かしてアイロンがけするところまで一緒に見させてもらってもいいだろうか。見届けることができたなら安心できる気がするのだけど。
「身の内を清めておきましょうね」
言ってヴェイグが私の耳に手を沿わせる。武に携わる人のわりにしなやかな指先が耳の形をなぞっていく。
「ひぅっ……」
触れるか触れないかの微妙な力加減に変な声が出てしまうが、指は遠慮なく上部から下部の耳たぶまでをなぞって、また上がっていった。うひぃっ。
「コトハ様の耳は随分と柔らかですね。毛のない分無防備で心配になる」
ご心配にはいたらないよ! 耳が無防備って何っ!?
毛の防御力なんて微々たるものでしょ。柔らかさならウサ耳なんかの方が上なんじゃないかな。うん、きっとそうだよ。だから私の耳の感触を確かめるのは……、ぁ、ちょっとその触り方、やめて!
「本当に小さくて可愛らしい耳だ」
これ以上変な声を出したくなくて口を両手で覆う。
かゆい! 耳もかゆいが台詞もかゆいよ!
全身をかきむしりたい衝動を抑えるように口元を覆う自分の手の指に噛み付く。痛みを感じるほどに噛み付くと、かゆさが軽減されるようで喉の奥でほっと息を吐いた。
「我々の耳は付け根の辺りから毛が生えているものですが、コトハ様のものは肌の色のままなのですね」
間近で囁かれる美低音に腰がくだける。
白くて滑らかだと褒めたって、出てくるのは私の胃酸だけだから! ぐはっ。
耳の裏側まで這わされた指でケモ耳たちの耳のあり方を教えられても頭に入ってこない。
記憶に残るのはその妙にエロい触り方だけだから。マジで勘弁してくださいっ!
私は、その気持ちが悪いようなくすぐったいような感覚に声をださないようにするのに精一杯だった。
頬が熱い。
恋愛経験の乏しい初心者には、これが浄化のための行為なのだと分かっていても耐えられるものではなかった。
薄い産毛をこするような動きに体が逃げの体勢を取る。それでも追ってくる指は、それはもうねちっこくてしつこい。
時折、弾力を確かめるようにつままれると――、気持ちがよ、じゃない気持ちが悪い。悪いんだってば!!
「ぅ、ヴェイグ、もぅ」
限界です、と白旗を振ろうとしたときにようやくお許しが出る。
「清浄」
短く唱えられた呪文と同時に耳の穴に息が吹きかけられた。生暖かい風に鳥肌が立つのを感じて指を噛む歯に力を入れる。
間髪いれずにもうひとつの穴も風を送られれば、かゆみを覚えていた目もくしゅくしゅとする鼻もすっと軽さを取り戻した。
この浄化の術は、体内に入り込んだ異物を取り除く術を彼なりにアレンジしたものなのだそうだ。
絶対違うよね! 原理とか分かんないけど違うと断言できるよ!
確かに浄化はされているけど、アレルギー症状無くなって楽になるけど、やり方だけは間違っていると断言するよ!!
つっこみを入れたところで「コトハ様は魔術をよく知りませんから」と、しれっとぬかすんだよ、こいつは。人が反論できないことを良いことに。ぐぬぬぅ。
身の回りに術の使える知り合いがヴェイグの他にいないのが辛い。
この世界に馴染むことに抵抗はあれ、間近に潜む身の危険に私は心底味方の増援を望んだ。
「楽になりましたか」
私の耳をもう一撫でして指が離れていく。――耳元で笑うな。息をかけるな。もう限界です。お腹いっぱいです。
こくこくと頷くうちに手を取られる。さっきまで私が自分で噛んでいた方の手だった。
「乙女の身体に傷を残してはいけませんよ」
いかにも正論のように言っているけどね、正論じゃないよね。
アレルギーとは別の症状で茹でダコになって酸欠状態だ。力の抜けた私の体を支えるのは豪勢な椅子だけ。
耳へのいじりでくたくたになった状態で、次に行われる動作をとっさに思い浮かべられる私はすでに清らかなる乙女ではない。
――爬虫類の瞳だ……。
私を見下ろすヴェイグの目が変質する。細く成り代わった瞳孔、緑がかった金の目が怪しく光る。
それは近年大流行した弟の数馬も大好きなファンタジー映画で登場してくる獰猛なドラゴンと同じ瞳をしていた。あの映画に出てくるドラゴンは、獲物を捕食するために暴れていた。
――私もいつかヴェイグに食べられちゃうのかな……?
思い返すのは、先日彼が呟いた「このまま食べてしまいたい」という言葉だ。
次に続く「こんな気持ちにさせるのは貴女だけだ」という言い回しが人をからかうものではなく、真剣なものだったことに心が冷えたことを覚えている。
食べたいって、捕食したいってことだよね。
ぶるりと身が震える。
恐怖のためにそうなっているのに、ヴェイグときたらそれはもう嬉しそうに微笑んで私の指をベロンと舐める。
人の指を舐めながらうっとりされても怖いとしか思えない。うぎゃぁ、捕食されるぅ!
視覚的にアウトなその情景を直視できなくて、私は残る手の平で目元を覆った。
ヴェイグの過剰な乙女信仰だけでなく、カニバリズム的――人が人をむしゃむしゃ食べちゃう系――な意味で私は彼に恐怖する。
「血が滲んでいましたから」
それで美味しく味見しました、ってことですか! 怖ぇ! ドラゴン怖ぇぇ!!
数馬きゅん、怖いよう。ねぇちゃんこの先無事に生きていくことができるのかなぁ。
エロい指先と捕食対象と認識されていることへの二重の腰砕け事案に、私は椅子の上でぐったりとうなだれるのだった。
なんで私が天空の乙女……。誰か代わってよ。重い、重いよ乙女信仰。
彼の熱の篭った献身的な世話は強烈で、私にそんなことまで思わせる。
出会った当日からこの状態で、自分の思考が大いに湾曲しまくっていることを私は理解できないでいた。
ヴェイグはその容姿だけを見ればとても綺麗だ。
そんじょそこらでは見かけることもできないほどの美丈夫が、わき目も振らずに私だけを見ている。
ありえない世界のありえない状況で、のぼせ上がるほど私はバカじゃないつもりだった。
彼の想いが、ひたすらに天空の乙女を希うものから来るものだと信じて疑っていなかったことこそバカの極みだった。
乙女の座に誰かが成り代わったところで、彼のヘビィな愛情が逸れるわけもなかったのだと気付くのは、もっとずっと後のことになる――。
……癒される、わけがなかった。