シンクロしてみる7
乙女を呼び寄せるための陣が敷かれているのは、王宮の執務塔横の神殿になる。
政治と信仰の分離の行われていないこの国では、神官が表に出ることは稀なことだ。国王の戴冠等の儀式などが無い限り、神官たちは日々を祈りを捧げることで過ごしていた。
そういった背景から、神殿の警備は希薄で召喚の間のみが厳重な結界で守られている管理体制の杜撰な有様となっている。
奥へと進んでいくことは、王宮の廊下を抜けることよりも容易なことだった。
召還の間に張られた結界は厳重ではあるが、国一番の魔導師ラージュがこちらについていては紙切れ一枚を裂くのと同じこと。
カーマインたちはジェスロを先頭に王宮を突き抜け神殿内の召還の間へと向かった。
ドラゴンのカーマイン、魔導師のラージュに引けを取らずジェスロも剣を競わせれば国でも屈指の腕を持つ猛者だ。正確な情報統制の取れていない状態の王宮にあっては、兵を蹴散らすことなど造作もないことだった。
王太子が、殿下が、とがなり声が現状を知らせていく。混乱の中で迷いなく進んでいくカーマインたちに誰何の声がかかるが、立ち止まることはしなかった。
いち早く彼らが罪を犯したことに気付いた兵が振り下ろした刃は、ジェスロの剣によって払われた。
「扉側は任せるよ。ひとりではきついだろうけど、帰還が完了するまで誰も踏み入れさせないでくれ」
一振りで結界を解いたラージュがジェスロに笑う。
「ひとりは寂しいと泣く子供の時代はとうに過ぎた。後ろは任せろ。たとえ腕を失ったとしても剣を口に咥えて戦ってやるさ」
ジェスロもまた笑みを浮かべる。この場にいる誰も悲壮の色を見せることはなかった。
「じゃあな、アーヤ。あんたの騎士であったことは俺の誉れだ」
カーマインの腕の中で眠るアーヤの額をなでつけると、ジェスロはおもむろに扉を閉めた。
扉が閉まる間際、背後に迫り来る兵たちを見据えて口角を上げるジェスロの顔が見えた。
闘志を湛えた戦士がそこにはいた。
「さあ、来い! 俺は聖なる乙女に付き従う者。神聖なる帰還の儀式の邪魔は誰にもさせんっ」
圧倒されたたらを踏む兵たちに向かい、火トカゲの戦士は牙を剥いた。
ジェスロの扱う剣は長剣と短剣。
両刃の長剣は厚みが太く、肉を裂いて刃が鈍くなろうと砕くことで相手を撃退することがきる。そんな長剣を片腕で扱い、その上短剣を駆使して敵をなぎ払うことができるのは彼がそれだけの力量を持った戦士だということだ。
「お前らは踏みにじってはならんものを踏みにじった。骨の一本や二本で事が終わると思うなよ」
ジェスロは足を踏み出す。
その動きは重量のある長剣を手にしているというのに、どこまでも軽やかだった――。
ラージュは閉じられた扉に再び結界を張った。
これでしばらくは誰もここへ入ってくることが叶わなくなる。だが、それも帰還の陣の発動までだ。いったん陣が発動してしまえば、そちらに魔力を取られて結界どころではなくなるだろう。
「どうにか持ちこたえてくれ、ジェスロ……」
陣の発動側にいようが、扉の守りにいようが、そこが死地であることには変わりはない。
それを知っていてなお、友の無事を思う祈りのような呟きを漏らして、ラージュはアーヤへと視線を移した。
「よく眠っている。……ごめんね、ちゃんと守ってあげられなくて――」
ジェスロがそうしたように、アーヤの額を撫で付けて「清浄」と唱える。
淡い燐光がラージュの手から発せられ、アーヤの全身を巡っていった。青白くなっていた頬に朱が灯る。
ふっと目を空けたアーヤはラージュを捉え、続いてカーマインの姿を捉えた。
「どうしたの、二人とも。そんな顔をして。ふふっ、おかしい。私、ちょっと眠っていただけよ」
未だ意識の混濁があるのだろう。まるで本当の寝起きのようにアーヤが微笑みを浮かべる。
どこか幼さを見せる言葉遣いに、ラージュは痛ましいものを見たように苦く笑った。
「ねぇ、ジェスロはどこ? 彼がいないとみんな揃った気にならないわ」
ずいぶんと長い間みんなと離れていた気がする、とアーヤは言った。離れ離れになって、ひとりぼっちでずっと帰りを待つ夢を見ていたのだと――。
カーマインは自然とアーヤを抱く腕に力を入れる。ラージュは「夢……、そうだね、悪い夢だよ」と力なく呟いた。
「ジェスロならちょっと用事ができて出かけてくるって。彼なら大丈夫。すぐにアーヤに元気な顔を見せに戻ってくるよ」
滲みかけた目元をこすり、ラージュはもう一度「大丈夫だから」と笑ってみせた。
帰還の陣を発動させるよ。そう言ってアーヤに背を向けて呪文を唱え始める。魔導師以外には理解できない言葉の羅列は、唄のようにその場にいる者に軽やかな旋律を届けた。
ラージュの唄が進むに連れて陣が発光を始める。複雑な式のひとつひとつから光が溢れていく。
やがて陣は光を伸ばしてカーマインの足元にたどり着いた。
足元から這い上がっていく光の筋が束となってカーマインから魔力を奪っていく。
力が急激に抜けていくのが感じられた。カーマインはアーヤを傷つけないよう、そっと陣の中央へ降ろした。
「カーマイン、これから何をするの?」
ラージュの手から生み出される細やかな魔力の光の奔流にうっとりとした表情でアーヤが問いかける。 カーマインは一度深く息を吸い込んだ後、低く響く声で彼女の問いに答えた。
「元の世界へと戻るための陣を発動させる」
甘えるように彼に頬を摺り寄せていたアーヤは、そこではたと動きを止めた。
じわじわと「元の世界に戻る」という言葉が効いてきたのか、虚ろだった視線が焦点を結び始める。
「駄目よ、そんなことをしたら貴方が」
「何も案ずることはない。ラージュも付いている。吾が死ぬことはない」
「でも……」
たとえラージュが加わったとしても、二人がただで済むとは思えない。そんなことは駄目だと首を振るアーヤをあやすように、カーマインはその柔らかい頬に手を添えた。
「元の世界に戻れ。置いてきたものがあるのだろう?」
零れんばかりに見開かれた瞳に涙が幕を張る。あと瞬きひとつで落ちてしまうだろうというところで、アーヤはカーマインの姿を目に焼き付けるように、頬を包むぬくもりに手を重ねた。
「私が帰ったとして、……貴方はどうするの。私、今度は貴方を置いていかなければならないの?」
頬を伝う涙が手に掛かるところで、カーマインは唇を寄せてそれを吸い取った。吸い取った雫は塩気があるはずなのにひどく甘く感じられた。
カーマインはここにきて、生まれてからこれまでの時間の中で最もと呼べるほどの至上の喜びを感じていた。
己の腕の中で、己の唯一と決めた女が己を想って涙する。――もう、これで良いのではないか。
たとえ離れ離れになったとしても、この瞬間さえあれば何も未練に思わない。
アーヤを想えば不思議と笑みが浮かんでくる。心が躍る。他に何もいらないと、そう思えることが幸いで、そうなることが己の唯一を得るということなのだと改めて実感した。
「アーヤ、愛している。心から、他の何者にも変えることのできぬ吾の唯一……」
魂の奥底からの真実を乗せてくちづける。吐息が交じり合う感覚に酩酊し、不覚にも涙しそうになった。
元来、ドラゴンというものは嘘を吐かない生き物である。何よりも強く気高い生き物であるがゆえ、嘘を吐く必要性がないのだ。
特にドラゴンとしての気質の強いカーマインもその特性が顕著だったが、この瞬間においてはためらいなく嘘を吐くことにした。己の唯一と示したアーヤが安堵するためなら、慣れない嘘を吐くことは厭うことでもなんでもなかった。
「あちらで待っていてくれ。必ず会いに行くから」
「会いに……くる? 貴方が?」
「ああ、行く。アーヤが待っていてくれるなら。必ず……」
それは叶えられることのない約束だった。
異界を繋ぐ門はこちら向きに開く弁のようなもので、あちらのものを呼び寄せるのは簡単だが、逆となるととても困難なことになる。だからこそ、還るための魔力は召還時よりも莫大な量を必要とするのだ。
アーヤひとりでさえそうなのだ。あちらにとっての異物となるカーマインが門をくぐることは奇跡でも起こらない限り不可能なことだ。
「待っていて……いいの?」
「ああ」
「来てくれなければ泣いてしまうわよ」
幼子が約束を取り付けるように、アーヤがカーマインの袖口を握ってくる。
溢れる愛しさに引き止めたくなる心を抑え、カーマインはそれは困るなとアーヤの耳をなでた。
「必ずよ、カーマイン。必ず私に会いに来て」
カーマインはあえて事実を告げないでおいた。アーヤの心に乗るものは希望だけで十分だ。哀しみしかもたらさない現実など不要、とばかりにカーマインはアーヤの問いかけに頷いた。
かつて彼女に教えられたように小指の先を絡ませる。彼女の世界の約束の仕方だ。幼い子のする児戯のようなものだと聞いたが、不思議とカーマインの心を温める仕草だと感じた記憶がある。
小指の先を上げるのさえ、今はもう辛い作業だった。それでもカーマインは彼女の小指と己の小指が解けないようしっかりと絡ませた。
霞んでいく視界の中で、彼女が微笑む。
アーヤの目元に残る涙を吸い取り、額にくちづけた。
再開の約束に、アーヤは嬉しいと頬を染めた。カーマインの好きな表情のひとつだった。
「さぁ、異界の門が開くよ」
床に描かれた陣が光を強める。
カーマインはアーヤを置いて陣から退いた。
愛している、と声にならない音で喉を鳴らす。光に紛れてその表情が上手く掴めない。だが、彼女は微笑んでいるのだろうと思った。そうであればいいと思った。
陣の光が輝きを増す。
ずんと重たいものがカーマインの全身を浸した。限度を超えた膨大な魔力が陣に吸い取られているのだ。 自重を支えられなくなった身体が床に落ちる。立ち上がる気力はなかった。魔力枯渇の症状だった。
全身の倦怠感は症状が進めば命を狩り取る。弱まっていく心臓が最後の足掻きとばかりに拍動を打つ。
――……イン、約束よ。必ず……に会い……きて。
やがて陣は光を収束させていく。
途切れる思考、かすかな風さえ感じられないほどの弱い呼吸、心臓の拍動がいよいよ無くなっていく。
光が失われていく陣の中央に残るものは何もない。彼の愛した黒髪は永久に失われてしまったのだ。
「……ヤ。…………愛している。……吾……の、……ゆい、いつ」
光が完全に消え失せると同時に、カーマインは意識を消失させた――。




