シンクロしてみる4
カーマインは五日と開けずアーヤの元へと戻った。
どれだけ折れた骨がきしもうと、どれだけ剥がれたうろこから血が滲もうと、彼は心を向ける相手を想って翼を動かした。
日を追うごとに空は青々と澄んでいくようだった。
六度目の帰還の際には空にはほとんど雲が見えないほどになっていた。
陽光が照らしつける地面に、アーヤを求めて舞い降りる。振り向いた彼女は穏やかな微笑みを浮かべていた。
「会いに来てくれて嬉しい」
くったくなく擦り寄ってくるアーヤ。彼女がカーマインに付いた傷を気にしなくなったのはいつからだろうか――。最初の頃に口に出していたラージュとジェスロの名も、今はもう出てくることはなかった。
アーヤは変わらず自分の服に血が付くことを嫌がらない。頬を摺り寄せ、カーマインが彼女に会いに来たことを喜ぶ。
慈愛。
彼らの姿を見た者はそんな言葉を感じたかもしれない。けれどそこには、ただ美しい情景であると手放しに称賛することのできない違和感が存在していた。
「私の名前を呼んで」
アーヤがカーマインに懇願する。ここ数回の帰還時に請われるようになったことだ。このときばかりは愛に満ち溢れたアーヤの瞳は剣呑な色を差す。
必死。
そう呼んでも良いかもしれない。
まるで呼んでもらえなければ名を忘れてしまうとでも言うかのように彼女は請う。
「アーヤ」
呼びかけられる名に、アーヤは何度ももう一度と懇願した。
互いに名を呼び合い、二人は時間が過ぎるままに寄り添い続けた。
王宮の暮らしはどうか。そう尋ねると、アーヤは決まって「ずっと空を見上げていたわ」と答えた。
カーマインはアーヤの様子をつぶさに観察した。
変わった様子はないか。困った様子はないか。哀しんでいる様子はないか。
アーヤの黒髪は艶やかで、白い肌に薄く頬は桃色に上気している。黒のようで濃い焦げ茶色をしている瞳は澄んだ色をしてカーマインの姿を映していた。
いつも憂いを乗せていた表情は、明るい笑みを浮かべていた。
おかしな様子は見られない。
なのに、どこかおかしい。そう感じてしまうのはいけないことだろうか。
哀しんでほしくないというのに哀しんでほしい。
それはカーマインの不在を寂しく思ってほしいからかもしれない。
アーヤが笑っているならそれで良い。憂いがないならそれに越したことはないのに――。
カーマインはアーヤの首筋に鼻を近づけた。彼女の匂いを思い出したかった。
戦場は血の匂いが充満している。そんな中にいると己まで獣と化してしまったように錯覚してしまう。続く戦いの中で、カーマインの理性はアーヤの存在ひとつで成り立っていた。
すんと鼻をすすったがアーヤの匂いを嗅ぐことはできなかった。血の匂いが鼻の奥まで染み渡ってしまっていたのだ。
記憶にある彼女の甘い香りを思い出しながら再び呼吸をする。なんとなく彼女の香りを感じられたような気がした。
「こんなところにおられましたか。乙女、いつまでもカーマイン殿を独り占めにしてはいけませんよ」
二人の時間に割って入ったのは、鬱金の髪をした男だった。
誰だっただろうかと思って浮かんだのは王の顔だった。
そういえば王の息子がこれくらいの歳だったな、とカーマインは思い出した。
繊細というよりはがっしりとした体つきをしている。足運びはさすがに王族とあって場慣れした様子はあるが、それでもジェスロには遠く及ばないなとカーマインは思った。
「カーマイン殿は大切な任に就かれておられるのです。皆が大変なときに平和な地に長く留めることは如何なものでしょうか……」
後半部分はカーマインに向けられたものだろう。さすが親子だ。真っ直ぐな皮肉がよく似合う。
もう戻るところだった。そう言ってカーマインは翼を広げた。
傷付き穴の開いた翼を見て、王の息子はにやにやと笑みを浮かべていた。
アーヤの隣に立ち、仲良くカーマインの出立を送るという形を取ろうとしているのか、その太い腕が彼女の繊細な肩に伸びる。
触れるか触れないかの位置に来たとき、カーマインは咆哮を上げた。
声を出しただけだというのにその威力は凄まじく、王の息子は声の圧に押されて地面に尻餅をついた。
「それに触れるな」
ぐるぐると男の周囲を回る。
わざとらしく足音を響かせ牙を見せれば、獅子の息子は甲高い声で悲鳴を上げた。
「それは吾のものだ。命が惜しくば守れ。何者にも害されないように。惜しくないと言うならばこの場で喰らってやる。己が行く末、今決めよ」
尻を地面に付いた男は必死の形相で首を振った。
それを同意と見てカーマインは翼をはためかせた。
空に浮かんだカーマインをアーヤが追いかける。
「カーマイン、私は貴方の帰りをずっと待っている。だから必ずまた戻ってきて」
侍女が危ないと肩を抱いて止める。だがアーヤは体を伸び上がらせてカーマインの方を見上げた。
「お願い。必ず、絶対に戻ってきて。私をひとりにしないでっ」
カーマインが戻ってくること。ひとりにしないこと。二つの願いを込めて彼女は叫ぶ。
その響きは同一のようで重きは片方に寄っているようだった。もしくは彼女の真の願いはそれのみだったのかもしれない。
このときカーマインは選択を誤ってしまった。終わりなく続く戦闘に感覚の衰えた彼は、アーヤにとってどちらがより重大な願いであるのかを選び間違えてしまったのだ。
戦うことがアーヤのためになる。魔獣を屠るたびに向けられる力への畏怖と平穏をもたらしたことへの賛辞。続くドラゴンを従え戦場へ送り出した乙女への賞賛。血の匂いと熱狂にカーマインからはいつしか冷静な判断は失われてしまっていた。最も失ってはいけないものを失ってしまったのだ。
カーマインはアーヤの言葉に応えるように数度その場で旋回して戦場に戻っていった。
必ず戻る。そう思いながら――。




