02親睦を深めてみる
フルスイングパンチからの異世界突入より五日が経とうとしている。
私は現在、神殿と呼ばれる場所で暮らしている。
今いる部屋は謁見室とでも言えばいいのだろうか。神殿の偉い人が賓客と会合するために使う部屋なのだと聞いた。最近ではもっぱら私が誰かと会うとき専用に使わせてもらっている。
この部屋を使えるのは、神殿でもトップスリーまでなんだってさ。彼らにとっての賓客っていうのは貴族とか王族なんだってさ。へぇ。どうでもいい知識だね。
私がこれ程の扱いを受けるのには理由がある。
――数馬くんよ、私ってば「天空の乙女」なんだよ。
弟がこれを聞いたら間違いなく「ぶはっ、ねぇちゃんが乙女とか。目ぇ腐ってんじゃねぇのそいつら」と噴き出すこと間違いなしだ。
神殿の人たちが言うには、「天空の乙女」というのは異世界から召喚された少女のことを指すらしい。
乙女の存在があるだけでこの世界の大気は安定し、彼らは平穏に暮らしていけるのだそうだ。異世界のことなんて、私にはどうでもいいことなのだけど。
乙女が心安らかであればあるほど、この世界の安定性は増すのだと言う。
神殿の人たちは「天空の乙女」である私の加護を得るために必死なのだそうだ。
だからこその特例措置。
出てくる料理は美味しいし、寝る場所も毎日手入れされていて心地良いし、至れり尽くせりだね。飼い殺しされている気分だ。笑えなぁい。
五日も使っていれば慣れてくるもので、私は上座に用意された床よりは一段高い場所にある高級椅子にふんぞり返って頭を垂れるウサ耳を見下ろした。
「天空の乙女よ」
最初に発言したのはウサ耳の方だ。
誰が発言を許した。勝手に喋り始めるなよ、とか王様なら言うのかな。
ちょっと言ってみたい気がするけど口を噤む。うっかり発言してしまえば、ただでさえ上げ膳据え膳のこの状況で、私の女王様スキルだけが跳ね上がりかねない。
「何、その呼び方」
目元をすがめ、私は肘掛に肘を置いて頬杖をつく。
今日に至るまで、私は常に不機嫌モードだ。
だって強制召喚しておいて、ここまでしてやっているのだから満足して気候を安定させろとか、バカにしているのかという話だ。絶対に満足してやんないんだから。
荒らぶる心を反映して、私の口調は日々ぞんざいなものになっていっている。このままでは女王様街道まっしぐらだ。
このままでいいのかとも思うけど、誰も突っ込んでくれないので流れに身を任せているしだいだ。
「乙女? 誰、それ。そんなものになった覚えはないんだけど」
私の冷たい視線にウサ耳のおじさんがアワアワと口を動かす。
この人、初日に声をかけてきたウサ耳のおじさんだ。実は神殿の一番偉い人らしい。私にはどうでもいいことなのだけど。
「本当にどうでもいいんだけど。知ったことじゃないし。プリン食べ損ねたし、数馬のバカにはまだお仕置きが足りないし、早く還りたいんだけど」
「乙女が元の世界へ還ることはできま……」
「はあ!?」
見える人がいたら、私とウサ耳おじさんの間にはブリザードが吹き荒れる様子が見えたことだろう。
吹雪の出所はもちろん私だ。
ウサ耳おじさんはウサギらしい気性そのままなのか、偉い人らしい威厳もなく私のブリザードに怯えきっている。後ろにちょこんと付いているふわふわの尻尾がプルプルと震えていた。付いている本人がチョビヒゲのおじさんのため、いまいち可愛らしさには足りないのだけども。
ブリザードに怯えるくせに、ウサ耳おじさんは毎日のように私のところにやって来る。
もちろんご機嫌伺いのためなのだけど。だが彼はまったく私が不機嫌な理由を理解しようとはしてくれない。
――バカなの? 神殿のトップのくせに。
バカなんだろうね。五日も経ってまだ私の名前も覚えていなさそうだし。「琴葉」と書いて「ことは」と言うのが私の名前なんだけど。どうでもいいんだろうね。彼にとっては。乙女がいればそれで。……あぁ、鼻がかゆい。
「乙女よ、どうかその怒りをお納めください。天が荒れますっ」
私の怒りに同調するように厚い雲で覆われていく空に、ウサ耳おじさんが慌てて近寄ってくる。ほら、やっぱり分かってないよこの人。
この世界にアレルギーという認識はないらしく、ウサ耳おじさんは毎度毎度近寄るなと言うのにうっかり近づいてくるのだ。
「うげっ」
乙女という呼称に反した愛らしさの欠片もない悲鳴を上げると、そばに仕えていた影がすぐさま行動を起こした。
日本で馴染みのある黒髪よりもいっそう濃い黒髪が目の前を通り過ぎたと思った瞬間には、私の膝にしがみ付こうとしたウサ耳おじさんの動きはすでに制止された後だった。
抜き身の剣を喉に当てられて、ウサ耳おじさんの顔は蒼白になっている。相変わらず動きが早い。
彼の立場的にどうなんだろうね。神殿の偉い人に剣を向けるのって、この国ではオッケーなんですか。
「問題ありません。貴女に危害を加える者は何者であれ排除するのが俺の役目ですから」
頭の中身を読んだかのように彼が言う。
彼の名はヴェイグ。
ここに来た初日に、私がフルスイングパンチを放ってしまった人だ。
耳の様子からして爬虫類だと思っていたのだが、その正体はドラゴンなのだという。うわぁい、王道ファンタジー来たぁ。数馬が好きそうな設定だ。
彼は騎士という立場にあって、ふわふわもこもこではないために私の護衛に付けられてしまったという可哀想な人だ。
特に国内紛争等もないらしいこの国。私の身辺にも特に争いも起きそうにないので、乙女の身辺警護職なんてただの閑職なんじゃないだろうかと推測してみる。
爬虫類系で乙女の傍仕えになれるほどの者はほとんどいないため彼が抜擢されたということらしいが、別に私が爬虫類好きだから彼を選んだわけではない。
彼しか適任がいなかったというのが大きな理由だ。
だって、ふわふわもこもこは私の天敵だから。涙と鼻水で死ぬから。
爬虫類なら私のアレルギーは発症しない。傍にいてくれても何の問題もない。
ということで、自然彼は私の身の回りの世話まで担当するはめになってしまっている。あぁ、可哀想に。ちょっとだけ同情するよ。
彼がすることと言ったら、食事を運んできたり着替えを用意したり、傍で立ち尽くすことしかないんだもの。
「コトハ様の傍に仕えられるという栄誉を賜ったことは、俺の人生において最も大きな幸いです」
……だって。
しかもこれ、初日に言われた言葉だよ。初対面の相手にここまで心酔できるっていったい……。どれだけ幸薄い人生を歩んできたんだ。もっと幸いなことって他にもあるでしょ、いっぱい。
彼は恍惚とした笑みでそう言い放つのだが、自分の正体がただの小娘でしかないと知っている私はその認識は大いに間違っていると思っているところだ。
まぁ、それだけこの世界で「天空の乙女」という存在が大切なものであるということは理解できたけども。
志が立派であることはすごいけれど、そんな思慕を向けられてもこちらは困る。色々と困る。
例えばとして上げられるエピソードは、私がやって来たあの日に由来することだ。
あの日、彼はマントの下に鎖帷子を着込んでいたそうで、殴った拳が壁を殴ったように感じたのはそのためらしい。
相当に痛がっていた私を見て、彼はあれ以来装備を軽微なものに変えている。再び私が失敗してもいいように、ですと。
それでいいのか? 腕がいいから大丈夫です、とか幸薄そうな顔で微笑まれてもいまいち信用できないんですけど。そんなことで装備軽くしていいの!? 小娘が痛がっただけでそれって、この先大丈夫なの!? 万一、乱闘になって大怪我とかされても責任は取らないよ!
私が、というか乙女が我がままを言えば、この人は簡単に身を削ってでも他者を廃絶してしまうのではないかと危惧している。というか実際にそうしそうな現場を何度も目にしているので事実なんだろう。……怖い。
――とまぁ、こんな感じで傍仕えとして一緒にいてもらっているのだが、彼は本当に与えられた職務に忠実だ。
「貴女の身に成り代わるものはこの世には存在しえませんから。これは正当な処置ですよ」
にこりと笑う顔が怖い。あの、貴方どちらかというとケモ耳側の人ですよね。私の警護は程好いところで納めるものじゃないんですか。
問題ないわけないって、とばかりに小刻みにウサ耳おじさんの首が左右に揺れる。
「いやいやいや。ダメですって。問題ありですから。大問題ですだから――だって?」
言葉に鳴らない口の動きから察するにそう言いたいようだ。
恐怖で声にもならない様子なので、代弁してあげると小刻みな動作で同意が得られた。なんとなく分かるわ、その気持ち。分かりたくはないけど。
ウサ耳から目を離してヴェイグの方を見る。
少し長めの黒髪の中で、私の耳とは違う、うろこに覆われた尖った耳が褒めてくれとばかりにピクピクと動いていた。ケモ耳たちよりは動きが大きくないが近くにいれば分かる。
えっ、ここは「よくやった」と褒めるとこなの?
戸惑って視線を揺らすとおじさんと目が合った。
『ど、どうにかしてください』
『えっ、私が? どうやって?』
『褒めて、伸ばして、持ち上げて!』
『叱らない育児かっ』
アイコンタクトでそこまでのやり取りを終えたところで、部屋の温度が一段階低くなったのを感じた。
ヴェイグの持つ剣の先がわずかに動いて、ウサ耳おじさんの首を削ぎにかかる。薄っすらと血が見えたところで、私は慌てて止めに入った。
「ヴェイグ。ダメ」
腕を掴むも、ヴェイグの剣先はぶれない。
聞こえてるでしょ。聞こえていないふりをするんじゃないよ。
さっきの私の視線よりも凍てついた視線に、こっちまで凍りそうな気持ちになる。
職務に忠実すぎるのも問題だってば。このままおじさんを傷つけてしまえば、閑職どころか処罰ものなんじゃないの?
「こら、ヴェイグ。こっち向け!」
弟に向けるような命令口調で言う。
ついでに頬をぐにっと掴めば、簡単にヴェイグの顔はこちらを向いて、おじさんの首からは剣先が逸らされた。
「はい、コトハ様」
このときばかりは幸薄そうな彼の顔は爽やかな好青年の笑みに変わる。何がそんなに嬉しいのだろうか。
実はこれ、初回ではない。もうすでに十数回とやり慣れたやり取りだ。
初日の「みんな出て行け」騒動時のウサ耳おじさんの纏わりつきを外すところから、それは数多くの場数が踏まれている。――被害者の多くはウサ耳おじさんだったりする。この人も大概、学習能力というものに欠ける人なのだが。
乙女を守る。
その任務ひとつのために、彼は鬼にも悪魔にもなるらしい。それを留められるのは乙女である――認めたくはないけども――私だけだ。
彼のこれは職務に忠実であればこそと思っておく。
頭の奥のほうでは、女の子にこういうこと――頬をつねられたり、怒られたり等――をされることを喜ぶ性癖でもあるのではないか、と警鐘が鳴っているのだが、今のところ頼るべき人物がこの人しかいないので打ち消しているところだ。
身辺警護、兼お世話係が変な性癖を持っているとか認めたくない。もしそうなら、怖い。怖すぎる。うへぇ。
「ジルベルト様。コトハ様が寛大な方で助かりましたね」
あ、そういう名前なんだ。ウサギのくせに大層な名前だね。もっと可愛らしい名前かと思ってた。
「いい加減、そのない頭でもご理解ください。コトハ様は毛のある者に対して、あれるぎぃをお持ちなのですよ」
神殿とは管轄が異なるらしい王宮からの派遣騎士とはいえ、立場的には上位にある者に対して遠慮なしだな。
彼がするこういうときの私と他者との態度の差には正直ドン引きだ。
キリスト教圏では聖マリア信仰とかあったりしたけど、ヴェイグもそうなのかもしれない。乙女のくくりにギリ引っかかっているだけという認識の私にとっては、信仰の対象となるのは勘弁してほしい思いがする。
ヴェイグの態度の違いに引きつつも、私はなおも突進してきそうな気配を見せるウサ耳おじさんから逃げるべく、彼の背後に回って首から上だけを出した。
「無理なものは無理なの。アレルギーの意味は分からなくていいから、とにかく近づかないで」
分かったかと聞けば、渋々ながらも頷いてくれたので今日のところはそれでよしとしておく。
ウサ耳おじさんを威嚇しつつ、ヴェイグの腰辺りの服の布地をぎゅっと握り締めると、拳の上に重なる手があった。もちろんヴェイグの手だ。
見上げた先には、さっきのピコピコよりもっと早い二倍速で動くうろこ耳が見えた。
ちょっ、……何で喜んでんの。
身も心も引きかけた私の拳を掴んで離さなかったのは、もちろんヴェイグの大きな手だった。
乙女信仰ハンパねぇ! という私の認識が覆るのはまだ先のこと――。