16白蛇さんとこんにちはしてみる
森の奥で出会った少年プラネスは、これまで出会った中でも一番私の心をざわつかせる存在だった。
ここに至るまでにも腹黒そうなネコ耳少年ナージャ君や、腹に色々抱えていそうな九尾の王様のようなアクの強い人たちを見てきたけれど、今思えばみんな裏はあってもそれなりにやっていけそうなタイプばかりだった。
彼の場合はそうじゃない。リューゴ君の弟だと言うけれど、親しみを感じるどころかそもそも対峙したくないタイプだと思った。言い知れぬ恐怖が、ひと目見たときから私を支配していた。
彼の力によるものか、森の奥から私はすぐに岩場ばかりの土地へと移動させられた。瞬間移動というやつだ。
本当に一瞬のことだった。魔法すごい、と思うよりも不気味さが際立ったようで肌をさすった。
暗がりの中をリューゴ君に手を引かれて歩いていく。ムシャロさんとは、彼らに引き合わされてすぐにさよならをしていた。
彼らは夜目が利くようだけど、初見で暗闇の中足場の悪い岩場を歩いていくことは到底できることではなかった。
しばらく歩いていると、開けた明るい場所に出る。明かりの元はかがり火によるものだ。
人の住む場所だった。
暗がりの中にいたことで、そこかしこに掲げられたかがり火がやけに眩しく目に映る。
そこはこれまでの岩場が小石なんじゃないかと思えてくるような、ごつごつとした大岩からなる土地だった。
元からある硬い岩を掘り出した住居らしい建物が続いている。
平たい土地はもれなく畑として利用されていた。以前、リューゴ君が雑談の中で言っていた「貧しい土地」という言葉を思い出した。少しでも利用できる土地は日々の糧を得るために利用されているのだ。
リューゴ君の故郷は鍛冶師の村なのだと聞いている。岩場に突き刺さるように伸びている煙突からは、鍛冶のための火なのか薄い煙が立ち上っていた。
のっそりと岩の家から人々が出てくる。男の人ばかりだった。
村の男たちはみんな鍛冶に携わっているのだろうか。出てくる人たちは一様にがっしりとした体格をしていた。
女の人や子供が出てこないのは時間が時間だからだろうか。それでも家々からはこちらの様子を伺う視線を感じる。深夜だけど、寝ている人など誰もいないのだと思った。
「こちらです」
少年の高い声に押されるように足を進める。
村に入ってから、リューゴ君は私の後ろを歩いている。それがまるで私を逃がさないようにブロックしているように感じられて怖かった。
先日とはまるで表情が違うのだ。少し表情の硬い部分はあったけれど、それでも今よりはずっと目に生気があったように思う。リューゴ君の表情が暗く見えるのは、何も暗がりのせいだけではないような気がしてならないのだ。
連れられていったのは、岩山に開いた洞穴だった。そこは村の家とは違い、自然に出来たもののように感じられた。
「僕たちの神殿です」
「ここが……?」
神殿だと聞いて思い浮かべるような場所ではない。自然信仰の場所なのだろうか。
洞窟の入り口にはペンキのようなもので隙間無く文字が描かれていた。まるで文字によって封をしているかのように。
――荒ぶる神様。
そんな言葉が私の頭をよぎった。
日本の神様にもそういう存在がいる。有名なのは菅原道真公だろうか。荒ぶる神様を封印して奉る土着信仰。それに近いものを感じる。
ここに来てはいけなかったのではないか。そんな思いに足がすくんだ。
「どうしました。元の世界に還りたいのでしょう? 大丈夫ですよ。カーマイン様は必ず貴女の助けとなってくれますから」
微笑みかけられても愛想笑いのひとつも出てこない。プラネスの背後にある洞窟の闇が私を飲み込むように風をごうと鳴らす。
行ってはいけないのだと私の本能が訴えかけてくる。
「あの、やっぱり私――」
「それともやっぱりドラゴンの命を使って還ります? まあ、その方が確実な方法ではありますからね。僕としてはどちらでも構いませんが」
――そうだった。ここから去ってしまえば、私はヴェイグの命を使ってしまうことになるんだ。
何故かこのとき、私の中にはこの世界に残るという選択肢はまったく存在していなかった。
元の世界に還る。この一点は確実な決定事項として私の根底を形作っていたのだ。異様な雰囲気に呑まれていたのか、それとも切羽詰まった状況でまともな思考回路が働いていなかったのか――。はっきりとしたことは分からない。
「貴女は還らなければならない。そうでしょう?」
「そ、そうだよ」
「じゃあ、選ぶべきは何ですか?」
「分かってる。い、行くよ」
リューゴ君に軽く背中を押されるようにして、私は洞窟の入り口へと飲み込まれていった。
※ ※ ※
洞窟の中は特にこれといった飾りのない場所だった。
どこまでも続くと思われた洞窟は、入ってみればそんなに深くはなくて、二三分も歩けば奥の壁に到達してしまう。
そこにあるのは切り出された石の祭壇だった。
幾何学模様が掘り込まれた祭壇は、模様の複雑さはあるけれど小振りなもので、お供え物を置けばそれでいっぱいになってしまうくらいにしか広さがない。
少年はおもむろに懐を探って、その祭壇の上にひとつの像を置いた。
白い蛇の像だった。
滑らかな質感を思わせる白いうろこがとぐろを巻いている。何よりも目を引くのはその両目部分に位置する赤だ。何かの宝石だと思うけれど何かは分からない。でも血を思わせるような鮮やかな赤色をしていた。
そして私はようやく感じていた不気味の正体を知る。
像を手放した少年への忌避感は減り、変わりに姿を見せた蛇の像へと意識が攫われる。――すごく怖い。ただの像なのに……。
「カーマイン様の像です。これ自体にも力はあるのですが、やっぱり本体のそばへ来ていただかないといけませんでしたから。素直に来ていただけて良かったです」
「まるで私を攫ってきたみたいな言い方をするんだね」
せいぜい虚勢を張って声を出してみたけど、震えていてとてもまともなものではなかった。
少年は大人びた表情で肩をすくめた。
「まあ大した違いはないですけど。でも貴女は自分の意思でここに来た。それは重要なことですよ」
「還してくれるって言ったのは嘘?」
「嘘ではないですよ。貴女を連れてきたのはカーマイン様の優しさです。カーマイン様はその方法をご存知です」
「安全な方法なの?」
尋ねても、返ってくるものは曖昧な微笑みだった。
言質も取れない約束なんて無効だよ! ますます雲行きは怪しいようだ。しかも形勢は私にとって圧倒的に不利だ。
「貴女は困っていたでしょう? 突然見ず知らずの世界に連れてこられて、世界を救ってくれなんて言われて――。ずっと否定してきたのは貴女だ」
大変でしたね。そう柔らかに言われても、どうしても頷くことはできなかった。
ねえ、気付いてる? きみ、商品の押し売りをするお店の人と同じ顔してるよ。目を見ればまったくそんなこと思ってないって分かるんだからね。
「自分のことは自分で解決する。そんなこともできないこんな世界に『乙女』なんて必要ない。そう思いません? 僕はそう思います。村のみんなもそうですよ。ねぇ、乙女なんていなくたって世界は成り立つんだってこと、それを僕たちで証明しませんか」
だから貴女は元の世界に還る必要があるのだ。そう少年は言葉を続ける。
そこではたと気付いてしまう。
――この子、私が乙女であることを前提に話をしている……。
王様から私の存在の意義について説明されたことはつい数時間前のことだ。そうであるなら、彼が私の存在の意義について知らなくても仕方ないことなのかもしれない。
でも、こちらの状況をつぶさに知り尽くしている態度に、これだけ重要な情報を知らないということが私の中に疑念を生み出した。
――多分、知らないんだろうな……。なら、これは黙っておいた方がいいのかもしれない。
私が帰還しようがこの世界に変わりは訪れない。何も変わらないのなら、何も言う必要はないだろう。――きみの思惑がどうであれ、私を連れてきたことはただの徒労でしかないんだよ。ざまあみろ。
とは言っても、私の身の安全が保証されたことにはならない。プラネスの言う帰還の方法はたぶん、というか絶対安全なんかじゃなさそうだし。――よし、逃げよう。
「あのぅ、やっぱりこの話はなしってことで……」
――……『吾を求めよ』
頭の中で響く声に一歩後退させた足が止まる。背後で控えていたリューゴ君が私の肩を掴んだのだ。「痛いよっ」と叫んでも手は離れることはなく、ますます力を込められてしまった。
掴まれたことでぎりぎりと痛みを訴える腕。もがく私の頭の中に再度「吾を求めよ」と声が鳴った。
それは泥の中から聞こえてくるような、くぐもった悪意のある声だった。
――『願いを叶えてやろう』……
白い蛇の像からおぞましいほどの気配が立ち上っていく。
目にくっきりと見えるほどの濃い黒い霧が私の体を覆っていく。――ちょっと、まだ返事してないよっ。
黒い霧は太く長く、足元から私の周囲を這うように昇っていく。まるで実態を持たない大蛇だ。
ゆっくりと、でも着実に訪れる黒い霧――。
私の目の前に来た霧の中に明るい光を見る。それはまがまがしいほどの赤い両の瞳だった。
目が合った。
そう思った次の瞬間には、黒い霧が私の胸を突き破っていた。
体を直接に傷つけられたわけではない。ただ黒い霧が体を通り抜けただけなのに、内側の柔らかな部分を喰いちぎられたような感覚に陥って息が止まる。
「……けて、ヴェイグ――」
助けを求める声は音になりきらず消えていく。そして私は、私の体を失った――。
※ ※ ※
湿った岩盤に倒れこんでいた体が起き上がる。
少しふらつきがあったようだ。頭を横に振る。でも二、三度手を開いては閉じ、何かを確認した後はすんなりと身を起こしていた。
黒髪がかきあげられて耳にかけられる。髪の下にあるのは毛のない丸みのある耳だ。
「定着はまずまずといったところか……」
悪意を持って唇が歪められる。思わず「よっ、悪の大幹部」と声をかけてしまいたくなる表情だ。――私って、そんな悪い顔もできるんだ。
「そこにいるな。安心しろ。お前の体は大事に使ってやる」
上手くかみ合わない視線に、相手が私の存在をはっきりと捕らえられていないことを知る。自分の両手を見つめると、透き通っていて下の地面が皮膚の向こう側に見えた。
――げっ、私おばけ状態!? 何が安心しろよ。還してくれるって言っておきながら、体を奪うとか最悪!
聞こえているのかいないのか、私の体を奪った相手はスカートに付いた湿気を乱暴に払って悪い笑みで息を漏らした。
「魂であれば、体を持ったままよりは界を渡りやすくなるだろう。そのうち穴が開くことがあれば戻れば良い。魂が朽ちるまでに穴が開けばいいがな」
いずれも運次第だと、吐き捨てられた言葉に愕然とする。
――最悪っ。これって詐欺じゃん。いいから私の体を返して!
こいつに私の体を取られたままでは碌なことになりそうにない。悪いことに使われる気しかしないよ。
「五月蝿い小虫だな」
――きゃあっ。
喰ってかかる私に見えない圧が飛んでくる。吹き飛ばされそうになる体がかろうじて止まったのは、無表情のリューゴ君が私の手を掴んだからだった。虚ろな表情の中でも私を助けようとしてくれたことに泣きそうになる。
「火トカゲの特性か。まあ、良い。邪魔だからしばらくそうして捕まえていろ」
こくりと頷くリューゴ君が手の力を強める。でもその手つきはさっきみたいな強引さはなくて、寄る辺のない私は反対に強くその手を握り返した。
「賽は投げられたのだ。黙って世界の命運でも見つめていろ」
悪辣大幹部の顔で私の顔をした奴が言う。
なすすべもなく、私は唇を噛んでそいつのことを睨みつけたのだった――。




