15飼い慣らされることを止めてみる
ヴェイグと別れてから泣いて泣いて、ずっと泣いて――、そして私は泣くことを止めた。
お世話をしてくれる人もいないので、自分で濡らしたタオルを用意して目元を覆う。柔らかなソファは体重を預けるとズブズブと体が沈んでいく。
「服……着替えなきゃな」
あとお風呂。化粧を落として髪を洗って乾かして……、面倒くさっ。
こんなことすら面倒くさいとか思ってしまう私は、本当にヴェイグに飼い慣らされていたも同然と言っていいだろう。
――やばい。ダメ女街道まっしぐらだった。
これはすぐさま軌道修正を図らないといけないところだろう。
王様直々に私が天空の乙女でないことは宣言されてしまった。
今迄通りの生活をしていくというわけにもいかなくなるだろう。
これまで同様ヴェイグの手を借りることもできなくなった。――だって、もう触れてくることさえ拒否されたんだから。
今の私に残された選択肢は、独りでこの世界で生きていくか、元の世界に戻ることの二択しかないわけだ。――考えるんだ。できることを。寂しいとか、そんなこと考えている暇もないくらい。
「うしっ。しっかりしろ、私!」
気合を入れて立ち上がると、「うわっ」と私以外の声が上がった。
「あー、ビックリした。急に立ち上がらないでよね」
ぷんぷんといった感じで頬を膨らませる少年。見る人が見れば天使がいると悶えそうだけど、天敵と認識している私にとっては血の気が引くものでしかない。
「なな、なんであんたがここにいるのよっ」
心は臨戦態勢、身体は正直者の逃げ腰でソファの後ろに飛び退いて言う。
「もう、そんな警戒しないでよぅ」
するし、警戒。
この間の殺気ビンビンの視線はまだ記憶に新しいんだよ。
ぴっと指を回して「空気結界を作ってあげたからこれで大丈夫だよ」と笑う無邪気な顔。同時に揺れるネコ耳は愛らしいを通り越して凶悪だ。尻尾を見せつけるな。反射でくしゃみが出る。
ふえっくしゅ、とくしゃみをすれば「浄化しようか?」と聞いてくるので、近づかれるほうが身にならないからと拒否をした。
「ヴェイグのことは残念だったね」
こら、ヴェイグが故人になったみたいな言い方はするんじゃない。ヴェイグはまだ生きている。元気かどうかは知らないけれど。――ぴんぴんしているよと言われても、それはそれでムカつくけどさ。
「ヴェイグに手枷を付けた張本人が何を言っているんだか」
ヴェイグに罪があるとは思えない。彼はただ少し間違えてしまっただけだ。いくらなんでも手枷を嵌めて、十日間とはいえ禁固処分なんて行き過ぎじゃないだろうか。
「誰かが責任を取らなければならなかったんだ。ヴェイグはたまたま大人しく言うことを聞いてくれただけ。王様か王様じゃない人か、責任を取らなければならないってなったら、当然王様は除外されるよね」
「でも……」
「ヴェイグのしたことは立派に彼の罪なんだよ。やってしまったことの責任は取らなければならない。子どもだって分かっていることだよ。それに忘れてない? 嫌がるきみを乙女に位置付け続けたのはなにも神殿だけじゃなかったってことを」
ぐっと唇を噛む。
考えるまでもない。私を乙女だと思い続けたヴェイグがどれだけ甲斐甲斐しかったかなんて、私が一番分かっていることだ。
乙女への盲目的な愛。
それを否定された彼はどれだけの絶望を味わっただろう――。
呼ばれたことの恨みはない。迷惑千万だったことはそうだけど、この際は置いておく。間違っていたことが残念だなんて思う気にもならない。だって私はずっと否定してきた。
私なんかを信望の対象としてきた彼の姿がただ哀れだと思った。
「王は伝えなかったみたいだけどね。実はね、陣を調べていて分かったことがもうひとつあるんだ」
もったいぶった言い方につい耳を傾ける。彼の口から聞くものはろくなものじゃないと分かっているはずなのに。
「きみが召喚されたのとは別に、もうひとつ何か、いや誰かが召喚されていたって標が残されていたんだ」
「えっ、それって……」
「そう、きみ以外に召喚された人がいるかもしれないってこと。調査段階ではあるけどね。これはほぼ確定事項だよ」
正しい天空の乙女が存在しているかもしれない。
ならば何故あの場に現れなかったのか、何故天候が不良のままなのか。
幾つかの謎は残っている。
でも、本物の――かもしれない――乙女が呼ばれた痕跡は確かに残されている。
ナージャの言によると、その本物の乙女に何らかの不測事態が起きているのではないかということらしい。気を害される環境にあるのか、身体を封じられているのか。可能性は様々で断定できるものではないけれど、とナージャは加えた、
「そっか……。本物が、いるかもしれないんだ」
――良かったね、ヴェイグ。
そう素直に思えない私がいる。
雨の音がやけに耳につく、と思った。
「ねぇ、もしヴェイグの命を使うのじゃなく元の世界に還る方法があるかもしれない、って言ったらどうする?」
しとしとと降る雨の音に混じって届いた音が思考を停止させる。
「かえ……る?」
わなわなと唇が震えるのが分かった。
あれほど「ない」と言われてきた方法が、ドラゴンの――ヴェイグの――命を使うしかないと言われてきた方法が簡単に目の前にぶら下がっている。
取らない、……わけにはいかなかった。
「あるの? ヴェイグの命を使わなくてもいい方法が」
「あるかもしれない、って話だけだけどね。それに還る方法を探しておかないと、ヴェイグは義理できみを還そうとするかもしれないよ。それくらいには彼はきみのことを気に入っているんだから」
還らなくちゃいけないと、思った。
ヴェイグの命を使うわけにはいかないなんて公明正大な真っ直ぐな考えからじゃない。
本物が現れるかもしれないのだ。
彼が求めていた本物の乙女が。
脳裏に本物の乙女に向かって微笑みかけるヴェイグの顔が浮かぶ。「……様」と慈しむ顔で、甘い声で――。
いらない私は還るしかないでしょ。
『涙は自分で拭けるでしょう?』
見せられた感情が嫌悪じゃなかっただけマシだ。気遣われるくらいの情があっただけ上等。
――拭くよ、涙くらい。自分で。
あの目が他の誰かを映すくらいなら、そうなる前に消えてやる。
覚悟を決めたら即行動だ。
「その方法、教えて!」
ソファから身を乗り出してネコ耳少年ナージャに詰め寄る。
「ちょっと、く、苦しいって……」
詰め寄ったつもりが胸倉をがっつりつかんでしまったのはご愛嬌だ。てへっ。
――こういった経緯で、私は王宮を去ることになる。
向かうのは王都を出て国境の端、耳無しと呼ばれる部族が住む土地。ナージャの伝手のそのまた伝手を辿って向かうらしい。そこは王都のように緑豊かではない枯れた土地だという。
そんなの構わない。必要とするものがそこにあるというのなら。
出立は深夜。
どこからかナージャが調達してきたという使用人の服に着替え、夜闇に紛れての出立だった。
巡回をかわして王宮の裏門へとナージャの先導で歩き、引き渡されたのはイヌ耳お兄さん騎士のムシャロさんだった。
予測していなかった人の登場に「お手をどうぞ」と言われても素直に出すことができない。それをアレルギーのためと好意的に認識してムシャロさんが手を引く。
「これから向かう場所はリューゴの郷でもあるんです。俺はリューゴとは親しくしていますからね、彼の郷にも何度か足を運んだことがあるんですよ」
そこで私の帰還の方法に行きついたということだろうか。
ナージャの伝手はまさかのムシャロさんだった。人脈ってどこで繋がっているか分からないからすごい。
「ナージャ様はここまでです。ここから先は俺がお連れしますね」
爽やかスマイルは、暗がりでも爽やかさ満載だった。フローラルな香りまでしてきそうだ。私がアレルギー持ちじゃなかったら、さりげなく深呼吸していたことだろう。鼻息荒くクンカクンカできる勇気は私にはない。
私を引き渡す間際にナージャが「あ、ちょっと待って」と引き留める。
要求されたのは、私の髪のひと房だった。
「これを形代にきみという存在が無事にここにいるという固定をする」
「えーっと、つまり私の偽物を作って置いておくってこと?」
ない頭で必死に考えてそう答えを出す。ナージャは時々遠回しな物言いをするので理解できないことがある。
「認識する者にとっては本物と大差ないはずだよ。ヴェイグは確実に四重にかけた魔法障壁を縫ってきみの気配に神経を張り巡らせているはずだから、きみの不在がバレるとやっかいなんだよ」
言葉が難しいんだけど……。
数秒のタイムラグを発生させつつ、ようやく理解したところで「えっ、何それ怖い」と感想が出てきた。
つまりヴェイグは常時私をストーキングしている、と。――ありえなぁい。でもヴェイグならやりかねないところが更にありえない。やだ、あの人マジで怖い。四重の魔法障壁? を潜り抜けてまでやることがそれか!?
「力の無駄遣い……」
ぼそっと呟くとムシャロさんに苦笑された。
とにかく無事に王宮の裏門を抜けて進んでいく。
門のすぐ先は王宮を囲む堀を跨いで細い橋げたが渡されていた。
ムシャロさんが手に持つ明かりを頼りに渡り終えると、道は森の中へと続いていた。
うっそうとする深い森に歩みが止まる。――このまま進んでいっていいの?
逡巡に一度振り返って王宮を見上げる。
当然そこにヴェイグが囚われている部屋など見えるわけもなく、目に残すべき光景も見当たらなかった。
ここは今日初めて訪れた場所だ。よそ者の私にとって懐かしむ要素も何もない場所なのに、ヴェイグがいると分かっているからか、ここから離れることに抵抗を感じている。
「さぁ、行きますよ」
ムシャロさんの声が私を引っ張る。
――うん、もう決めたことだから。
自分を奮い立たせるために拳を握って「よしっ」と気合を入れる。
私が行くべき場所は森の奥にある。
深い森は少し怖いけれど、騎士のムシャロさんがいれば問題はないはずだ。
そうは思っても、隣にいつもあった気配がない不安はいつまでも胸の奥底でぐるぐると渦を巻いたままだった。
ムシャロさんに連れられて森の奥へと進んでいった先に待っていたのは、先日彼と共に出会った火トカゲのリューゴ君だった。そしてもうひとりそこにいたのは、ただならぬ気配を発するリューゴ君に良く似た少年だった――。




