13現状と対峙してみる
ひらひらとゆれるレースの重なり。縫い付けられた細かい刺繍の花々。
手触りの良い手袋は肘の付け根まで。首元には主張しすぎないほどのキラリと輝くネックレス。
鏡の前で一回転して、私は頬に手を置いて「おぉ」と感嘆の声をあげた。
「これは……、いけるかもしれない」
散々ひらひらのドレスは嫌だとごねまくって拒否していたが、着てみると案外イケている。薄く化粧を施された顔は、どこかのお嬢さんのようだ。お父さんはしがないサラリー戦士だよ。
「お似合いですよ」
肩に手を置いてヴェイグが顔を寄せてくる。
鏡の中の自分にうっとりしていると頭頂部に唇を付けられるので、「邪魔、髪型が崩れるからやめて」としっしと追い払う。
可憐なドレスに綺麗なネックレス。少し高めのヒールの可愛らしい靴、そして化粧にいたるまで全部ヴェイグプロデュースだ。
すべての準備を完璧にこなし、ただの小娘だった私をちょっと良いところのお嬢さんにまで仕上げたヴェイグの腕には感心するばかりだ。――お姫様にまでなれないのは私の元々のスペックが弱いからだ。もっとふんわり美少女に生まれつきたかった。くそう。
「はぁ……、このまま誰にも見せずに連れ去ってもいいですかね」
「ダメなんじゃない?」
さらりと怖いことを言わないで欲しい。真剣に取り合ったって時間の無駄だからスルーしておくけども。
今日は王宮に呼ばれているのだ。
王様と面会しないといけないんだってさ。面倒くさい。このまま逃亡したいのは山々だけど、逃げたところでまたヴェイグの囲い込みが待っているかと思うとどっちもどっちな気がしてくる。
「本当に可愛らしいから、つい……」
恍惚とした目が色気を湛えていて背筋がぞくっとしてしまう。多少めかし込んだくらいで私相手にこういう目が出来るヴェイグの審美眼の節穴度合いは酷い。乙女フィルターの威力はすさまじい。
「ね、ねぇ。もうそろそろ出ないといけないんじゃないの」
「いえ、時間まではまだ余裕がありますよ――」
だからもう少し堪能させてください、と迫ってくるヴェイグはいつものペースだった。
顎に手をかけられ、耳たぶを唇だけで咥えられる。柔らかな肉の部分で押されているだけだというのに、その部分だけがやたらと熱く感じた。
啄ばむような音を立てて離れる隙間に風を感じて肌が粟立つ。
離れ間際に生ぬるい舌の感触がペロッとひと撫でしていけば、がくりと腰が抜けてヴェイグの腕の中に落ちていった。
「やっぱりこのまま二人でいましょうか」
抱きとめられた腕の中でこくりと頷きそうになって、「いやいやいや」となけなしの理性で首を振った。
最近、ちょっと自分の理性がおかしくなっている。流されてどうする、私!
「……バカ」
「バカですみません」
見上げるヴェイグの顔つきは優しい。大好きな乙女を見つめる目だ。もしかしたらこの優しい顔つきも見られなくなるかもしれない。
ヴェイグにとっての私の付加価値は天空の乙女であることだ。私への好意はそのまま乙女への好意なのだ。勘違いしてはいけない。
王宮に呼ばれたことは、多分そのことに関することだと思う。
早ければ今日、私の乙女としての真偽は決まってしまうかもしれない。そうでなければ召喚して何日も経つ今になって私が呼ばれる理由がない。
今のうちに堪能しておきたいのは私の方だ。
手を伸ばせばすんなりと落ちてくる頭を肩に寄せる。さらさらとした漆黒の髪が頬をくすぐってくる。この感触ももうこれで最後かもしれないと思うと、ちくりと胸が痛んだ。
「ヴェイグ……ごめんね」
多分、私は偽物だから。
――本物が手に入るといいね……。
心からの言葉にできないのが辛いところだけど。そう祈りを込め、彼の仕草を真似て前髪の生え際に唇を付けた。
「……バカは貴女だ。こんなことされたら止まらなくなる」
今だけは止まらなくてもいいかもしれない。
ヴェイグの手が頬に添えられる。包み込む手のぬくもりに涙が出そうだった。
鼻先まで近づいてくる顔に、私は視界を閉じた――。
「乙女っ、準備は整いましたかな」
お互いの息が掛かる。そんな位置まで到達していたと思う。
懐中時計を片手に勢いよく扉を開けてウサ耳おじさんが乱入してきた。つくづくタイミングを間違えない人だ。
がっくりと項垂れるのはヴェイグ。ほっと息を吐いたのは私だった。――あぁ、危なかった。場に流されてとんでもないことをするところだった。まだ心臓がばくばくしてる。
「ジルベルト様、一度天国へ旅立たれてはいかがですか」
ヴェイグが真っ黒な笑みでウサ耳おじさんをねめつければ、ウサ耳おじさんは「て、天国なら常に我々のそばにありますよ?」とびくつきながらもそう答えた。
バカだ、この人。今まさに天国が真隣に迫っているというのに。
「ではその扉を今すぐ開けてみましょうか」
不穏な発言をするヴェイグを「まあまあ落ち着いて」となだめつつ、私は「ウサ耳おじさんはもうこれ以上発言しないほうがいいよ」と忠告した。
※ ※ ※
ベルサイユ宮殿もかくやというものを想像していたのだが、訪れてみれば王宮は華美な装飾のない実用性重視といった造りの建物をしていた。
でもこれはこれで良い。
深い堀に囲まれた跳ね橋が下がってくるのを見たときはかなり興奮した。ゴゴゴッと下りて来る様は、ファンタジーの要塞って感じで恰好良かった。思わず「おおっ」と唸ってしまった。
先頭を歩くヴェイグは歩き慣れているのだろう。迷いのない足取りで進んでいく。
途中、何度か使用人姿のケモ耳たちとすれ違った。誰もが同じように壁際に身を寄せて逃げていく。彼らが意識しているのが天空の乙女ではなく、前を歩くドラゴンであることは伝わってくる空気からはっきりと読み取ることができた。
ムシャロさんたちが教えてくれたように、ヴェイグは忌避とまでは行かないけれど恐れられる対象なのだと分かる。尊さ過ぎて怖い、というやつなのだろう。嫌味な感じは受けなかったけれど、これは寂しいなぁという感想を抱いた。
ヴェイグはこれまでもずっとこんな中、肩を丸めるでもなく堂々と歩いてきたのだろう。人ひとり分のスペースを開けて歩いていくヴェイグの背中が寂しく見える。
私は歩くスピードを速めてヴェイグの隣に立った。
「コトハ様、どうされました?」
不安でも感じているのか、と問われて首を振る。
不安がないわけじゃない。
でも、覚悟ならできている。
――取り乱したりなんてしない。何を言われても堂々とすること。
王宮に呼ばれていると分かったときから決めていたことだ。
そうすることが、これまでヴェイグが与えてくれたものに対するせめてものお返しになるだろう。彼の見当違いの優しさは、確かに私を守ってくれていたのだから。
今感じていることは、私の不安や覚悟なんかとは関係のないことだ。
彼の「寂しい」を消し去りたい。私を乙女と思っている今だからできるのではないか。自信過剰になるつもりはないけど、この時点での私にできることをしたかった。――それがただ隣を歩くだけというのは微妙なところなんだけど。
「別に、何となく。となり……を、歩きたくなっただけ」
上手い言い訳が見つからなくて、そっぽを向いてそう言った。
くすくすと聞こえてくる笑い声は、私がこうした理由を分かっているためだろうか。
少し速く感じていた歩みがゆっくりなものに変わる。それに倣って、隣の位置はキープしたまま足を進める。
「あぁ、やっぱりこのまま連れ去りたいなぁ」
――ドキッとするようなことを言わないでほしい。
「ダメでしょ」
――私だって逃げ出したいよ。
「コトハ様がしてほしいと願えば躊躇なく出来る自信はあります」
「……そこは躊躇しておこうよ」
――ヴェイグなら躊躇なくするだろうね。でもさせられない。どうせ現実を知るのが少し先に伸びるくらいなんだから。
可能性がほとんどないなら、さくっととどめを刺してほしい。嫌なことは逃げたって後から追いついてくるんだから。それに、もう逃げられないところまで来ているんだ。もう……。
「そこは可愛らしくお願いしておきましょうよ」
「しないよ」
――できないよ。
「そうでしょうね」
――……そうだね。
ふと触れた指先を絡め取る。
遠慮なく全部の指を、なんてことはできないので、しなやかで長い指の二本――人さし指と中指――を包み込むように握った。
何度も触れてきた指だったけど、改めて男の人の指なんだと実感する。手の中に感じる指の節はごつごつとした男の人の骨格をしていた。
「今日は雷雨でも来そうですね」
「なんでよ」
甘い、というよりはほんわかと胸を満たしていく生ぬるさに緊張してくる。――あ、汗かいてないよね。拭ってから握ればよかった。後悔は先に立ってくれない。
「コトハ様が積極的だ」
嬉しそうな声音に「バカっ」と上ずった声をあげて手を振り払うと、追いかけてきた手で、今度は私の指が握りこまれた。
いったんこうなってしまえば、もう逃げられないよね。
言い訳のように心の内で思って大人しく捕まっておく。
こんなやり取りも今だけだ。思うと何度目かも分からなくなった涙が浮かびそうになって鼻をすんとすすった。
「王宮はコトハ様の苦手とする毛のある獣人が多いですからね。王に謁見する前に一度浄化しておきましょうか」
気遣ってくる言葉に首を振る。
この涙も鼻のつまりも全部ヴェイグのせいだから、浄化なんかしてもらったところで何の意味もないのだ。
「いい。大丈夫」
これまで私はヴェイグが与えようとしてくるものを受け流して、逸らしてきた。
でも、これからは少し変わっていくのだと思う。
受け取って飲み込んでいく。私が望もうと望むまいと関係なく、そうなっていく予感がしていた。
徐々に廊下に立つ見張りの騎士たちの姿が増えていく。厳重に守らなければならない場所なのだろう。騎士の数に比例して重要度が上がっていっているのだと分かる。
誰もが緊張の眼差しを向けてきていた。
王様が外部の人間と会うことの緊張と、抑えていても分かるドラゴンの魔力というものへの緊張。どちらの比率が大きいかは考えなくても分かるような気がした。
屈強な体格の騎士でさえヴェイグを見ると一歩後ろへ足が下がる。どう我慢しようとしてしまうのだろう。
恐れ・敬い・とまどい――。
そういった視線を気に留める素振りもなく進んでいくヴェイグの手を握る。握り返してくる力の強さは、けして私が痛いと思うものではない加減に調節されている。
「ヴェイグ、あのね――」
「着きましたよ」
触れ合った視線に言いかけた言葉は、到着した旨を告げる言葉で抑えられる。
とうとう王様のいるらしい部屋の扉まで辿り着いてしまった――。
――私は何を言いかけたのだろう……。
答えはないまま、重厚さを醸し出す扉が左右に開かれた。




