08甘噛みされてみる
私がこちらの世界にやって来て十日が経とうとしている。
美味しい料理に何の義務も課せられない贅沢な暮らしが続いているが、私だってただ緩慢と飼いならされる生活を送っているわけではない。
今日は神殿にある図書室へとやって来ている。
もちろん還る方法を探すためだ。
ウサ耳おじさんは私が何をどんなにお願いしても、「還ることはできないのです」と繰り返すばかりで埒が明かないのだ。
神殿を暢気に歩いているところを罠にかけて木の下に逆さ吊りにしてみたり、一日頑張って大きな落とし穴を掘って落としてみたり、両耳を縄でぐるぐる巻きにしてろうそくの火でちりちりとあぶってみたりしてお願いしてみたんだけどなぁ……。ちっ。今度は池に落としてみようか、両手を縛って――。
「考え事ですか?」
「あー、うん。……ちょっと現実逃避を」
ヴェイグが後ろから話しかけてくる。息遣いが間近に聞こえてくるが気にしてはいけない。
ついついウサ耳おじさんの有終の美について思いをはせてしまうのは仕方のないことだ。
だって、だって……。
「コトハ様。他のことなんて考えずに俺の声をちゃんと聞いてください」
大の男の出すむっとした声なんて気持ちが悪いだけだと思っていたけど、それが美低音ボイスだと何となく可愛らしく聞こえるのは何なのだ。けしからんっ。
「コトハ様」
咎めるような懇願するような声質に、とうとうじっとしていられなくなる。
「だぁっ。聞いてるって」
私は目の前に掲げていた本をバンッと閉じた。
「集中できないのはヴェイグのせいでしょ。いちいちお腹に置いた手をさわさわ動かさないで。話しかけるのはいいけど耳元はやめて。そもそもこの座り方がイヤっ!」
後ろを見上げると、嬉しそうに微笑む顔の横でヴェイグのうろこ耳がピクピクと震えているのが見えた。
睨まれて喜ぶなよっ。やだ、もうこの人末期だ。
「座り方がイヤって、この座り方が一番読みやすいんですから変えませんよ」
さも当然のように駄目出しされたよ!
床に直座りでその上に幼児を座らせて絵本を読み聞かせる体勢。膝抱っこ。
図書室には椅子も机もたくさんあるというのに、ヴェイグはなんとそ・れ・を、床に直座りで膝の上に私を乗せて本を読むという苦行――膝抱っこ――を強いるのだ。
この世界の言葉は理解できても、文字は理解できなかった私。
ヴェイグに頼んで本を読んでもらうことにしたのはいいものの、幼子のように膝に乗せて読む方が教えやすいからと、拒否権なしの勧めでこういう状況になっている。
こうしなきゃ読みにくいからだって。でも隣同士椅子に座ったって、向かい合って座ったって代わらないでしょ。むしろそっちの方が自然でしょ。
最近、ヴェイグの私への距離感がどんどんおかしくなっていっている気がする。そして何だかんだと許している私の良識も絶対おかしくなっている。
数馬くん、ねぇちゃんこのまま流されていいのかな。良くないよね。
「ヴェイグ」
見上げる頬を掴んで引っ張る。
およそ私が何をしようと痛がるそぶりを見せない彼だが、こうすれば多少なりとも私が怒っていることは伝わるらしい。大抵の言うことは聞いてくれる。願わくばもう少し反省した顔をしてほしいのだけど。
「分かりました。では膝抱きから横抱きに代えましょうか」
困ったように息を吐いてヴェイグが提案する。
なっ……、横抱きって。
私の怒りは正しく伝わらなかった。抱っこの仕方について問題にしているんじゃないんだよ。椅子へ座るという案はないのか、この男は。
「向かい合って座るのでも構いませんよ」
椅子に座って向かい合う方がよっぽど読みやすいでしょ。
頭は悪くないはずなのに、乙女のお世話に関してはヴェイグはことごとく頭の沸いた斜め上の返答しかできなくなる。絶対に変なスイッチが付いているんだ。しかも取外しの不可能なやつが。
私に本を読み聞かせる体勢がそもそも抱っこしかない、というヴェイグの考えを改めるのは時間がかかりそうだ。このままでは日が暮れてしまう。
「バカ。もういい」
私はぐったりと項垂れて膝抱っこを受け入れた。
数馬くん、今日もねぇちゃんは押しに負けたよ……。
顔を本に向けなおす私に「コトハ様の言うバカって言葉、すごく好きです」と声がかかる。
甘い美低音は耳の毒だ。
はいはい、乙女からかけられる言葉なら何だって嬉しいんでしょ。その毒をシャットアウトするように、私は「次読んで」と閉じていた本のページを開いた。ヴェイグの言葉を逐一取り上げて追求していったって虚しいだけなのだ。
※ ※ ※
私がヴェイグに読んでもらった本は、歴代の天空の乙女たちの記録を集めたものだった。
新しいものから時代を遡って記録を漁っていく。私で第十代目だというから、読んでいく記録は九代からとなる。
「第九代、神官長と結婚。第八代、近衛騎士と結婚し四子を設ける……」
書かれている文字は「結婚・妊娠・出産」の羅列ばかりだ。いくら文字が読めないといっても、いい加減覚えてしまう。
「ことごとく結婚って……」
「乙女の心を安定させるために伴侶を取らせるというのは、理にかなったことですからね」
遠い世界でひとりぼっちになってしまった乙女が大切な存在を作るということ。それが彼女たちにとって必要なことだったということは分かる。
――分かるけど、なんかイヤだな。
安定を得るということは還ることを放棄してしまうということだ。
彼女たちなりに還れないことへの悩みもあっただろうけど、想像される生活の安定さが逆に私を不安にさせる。
私もいつか還れなくてもいいかと思ってしまうのではないかと……。
――私はまだもがいていたい……。
本のページはようやく七代を遡ったところだった。とにかく一人に対するページ数が多い。必要な部分を抜粋するのにも時間がかかる。
だんだんと流れ作業化していく本読みに思考がぶれる。
――私はまだ、還ることを諦めたくないんだ。……ん? まだ、って何だ?
一瞬先に思い浮かんだ言葉に待ったをかけたのは、続く「結婚」という文字に溜め息をついたときだった。
「どうしました」
気遣う言葉が耳に触れる。
「疲れたのなら、少し休憩にしましょうか?」
ためらいなく耳たぶに落ちるくちづけに、私は「わあーっ!」と頭をのけぞらせた。
がんっと後頭部を襲う痛みに涙が滲む。
軽装備なのに痛みを感じるのは、ヴェイグが身体をよく鍛えているからだ。どこもかしこもかちこちで可愛くない。
あえて柔らかいと言えるのは、ここ数日習慣のように体のあちこちに触れられるくちびるだけ――、って何考えた、私!?
「け……、汚れていく」
頭を抱えてうめくと、「汚れ? コトハ様はどこも綺麗ですよ」となぐさめられた。いいからヴェイグは黙って。かゆい台詞で全身に蕁麻疹が出るから。
「それもこれも、ヴェイグがいっつも変なことしてくるからでしょ。奥ゆかしいのが日本人の美徳なの! 場所を問わずにベタベタするのは欧米人のすることなのよ」
「……ニホン人? オウベイ?」
あぁ、そこからだったぁ。当たり前のことに対する相互理解の不能が憎いぃ。
「つまり……、コトハ様は俺に触れられると汚れを感じるということですか」
違ぁう! 凍てついた声を出しているけど、そこは違うから。
すっとヴェイグの手が持ち上がる。頬に触れそうな位置で止めてしまうのは、どれだけ怒っていようが彼が私に酷いことをできないからだ。
睨み合うこと数秒。
怒っているはずなのに、私を睨むヴェイグの瞳に辛そうな色を見つける。複雑な表情だ。同時に多種の感情を載せられるヴェイグはとても器用だ。
バカだなぁ。自分に触れられたくないのかなんて、斜め上の思考をすぐさま思いついてしまえるヴェイグのおつむの弱さを哀れんでみる。
負けてあげたわけじゃないけれど、私はえいっと顔を動かして数センチの距離を詰めた。
頬に当たる手がしっとりと吸い付いてくる。ヴェイグの手は本当にしなやかで綺麗だ。これに触られて汚れると思う女子はいないんじゃないだろうか。
「い……、イヤじゃないし。こうして触るだけなら別に。……でもヴェイグはいっつもいやらしい触り方してくるから、そこはイヤ。変なこと考えちゃうから」
汚れているのは私の思考だ。
イヤなのは、何もされていないのに変なことを思い浮かべてしまう私自身だ。
うわぁんっ。ここにきて美形を前に自分がどれだけ恥女であるか語るなんて辱めを受けるなんてぇ。もう泣いていいかな。
私の告白にヴェイグが目を見開く。
続けてぽかんと開いた口がにんまりと笑みに変わるのを、私は目で追った。
一触触発の空気はあっと言う間に塗り替えられて、ドロ甘な空気が漂ってくる。なんか慣れちゃったよ、このパターン……。諦めの境地でそう思う。
またしても私はヴェイグの変なスイッチを押してしまったようだ。
顔を覆ってしまいたかったけど、頬に当たるヴェイグの手が邪魔でできなかった。
無理やりどかせようと手に力を入れたが離せない。
ふぬぬっと顔を真っ赤にして踏ん張ったら、くすりと笑う声で止められた。
鼻先に秀逸な顔が近づいてくる。
ドラゴン化まではしていないが、ヴェイグの瞳が燃えている気がして身震いする。
吸い込まれそうな色合いに目を離せなくなったところで、私の鼻とヴェイグの鼻がくっついた。
「……っ」
ちょんと当たっただけなのに、すごく恥ずかしいことをしているような気がして喉の奥でうめく。
ヴェイグの緑がかった金色の瞳が細くなる。まるで水浴びや日光浴で気持ちを緩めた動物がするような仕草だ。
「考えて、もっと。俺のこと。それで頭がいっぱいになればいい」
「わた、私は……それがイヤなの」
手を取られて、腕をヴェイグの頭の後ろに回される。こうするとまるで私がヴェイグに擦り寄っているみたいだ。実際は違うのに。
あんぐりと開けた口の中から真っ赤な舌が出てくる。
肉食系の動物にありがちな厚い舌がまぶたを覆うように舐める。浮かんでいた涙と唾液を合わせてちゅっと吸い取られると、それだけで私の体はくたりと力を失った。
落ちそうになる体を、かろうじてヴェイグの後ろに回していた腕で支える。
手を彼の黒髪の中に差し込んでしがみつく。髪をひっぱることになってしまうが、どうせ痛みなんて感じてもいないだろう。彼は私の与える痛みを快楽と受け取っている節があるから。――うわぁ、変態だぁ。
「……ェイグ。わ、たし、イヤって言ったのに」
あえぐ息の下で喉を鳴らす。
だから昼日中からこういうことするのはどうかと思うのよ。だからって、夜中はオッケーなのかと言われれば駄目なんだけどさ。
「本当に嫌ならもっと本気で嫌がってください」
無理じゃん。腰砕けでふにゃふにゃにされたところで嫌がったって、本気で嫌がっているとは取ってくれないんでしょ。
私の後ろに回されたヴェイグの左手が背中を這う。
さすったり慰めたりするものではない、形を確認するような動きに体の奥がむずむずとする。
頬に添えられた手が耳を覆って一部の音が遮断される。
触れて離れる感触にざぁっという波に似た音が鼓膜を震わせぞくりとする背筋に、しがみ付く手に力を入れた。
「貴女が本気で嫌がらないから……、うっかり受け入れたりするから俺が調子に乗るんですよ」
えっ、何? その私が悪い理論……。ちゃんと嫌がってるし。受け入れてなんかいないし。ぶんぶんと首を振る動作すら、酸欠状態で息が苦しい。これ以上は無理だって。
「……ィ、ヤ」
すっかり上がってしまった呼吸で泣く。
するとそれを見たヴェイグが瞳を光らせてごくりと唾を飲み込んだ。
――思ってた反応と違ぁう。言ったじゃん。イヤだって。ちゃんと言葉に出したじゃん。こういうときは「分かりました」と下がるべきなんじゃないの!? 紳士なヴェイグさんはどこへ行った!? って、普段から割と紳士じゃなかったぁ。
走馬灯のようにこれまでのやり取りが脳裏に蘇る。
そして気付く。ヴェイグがこういったドロ甘い空気を醸し出すとき、私がどれだけ「イヤだ」と言っても聞いてもらったためしがないということを。……ひぃっ、一度もない。
思い至ってしまった真実に愕然とする。――嫌よ嫌よも好きのうち、って受け取るタイプだったぁ。
「駄目ですよ。そんなんじゃ――」
――媚びているのと一緒だ。
やっぱりね!
私のとは違う丁寧な仕草で髪が引かれる。
のけぞる喉を目掛けてヴェイグの顔が振ってくる。ドラゴン化した瞳が私を襲う。
「……ィグ、ぁ、ダメ」
黒髪を引く手に力が入らない。押し戻そうにもできない私にヴェイグが笑う。
「そんな力じゃ止められない」
ふっと笑う息が喉にかかる。こ、今度こそ食されるぅぅ!
かぷっ。
そういう表現が一番しっくりくるんじゃないだろうか。喉を強襲した甘い痛みに――、私は失神した。
♪ ある~日ぃ。森の中ぁ。ドラゴンに~ 食されたぁ
遠ざかっていく意識の中で、森のクマさんの替え歌がリフレインしていた。
白眼を剥く私の喉に噛み付いて、しばらくの間ヴェイグさんはかぷかぷ・あむあむ、たまにベロベロしながら乙女の味を堪能なされたのだった――。
歯を立てられなかったのはせめてもの優しさ……なのかい?




