01とりあえずフルスイングパンチしてみる
おーぷにんぐ☆
夫婦喧嘩は犬も食わないと言われているけれど、兄弟喧嘩もわりと食べてもらえない部類なんじゃないだろうか――。
その日、私は弟の数馬と壮大な喧嘩をしていた。
ひとつ年下の数馬は中学三年を迎えるに至って、非常に、とってもひじょーに小生意気なクソ餓鬼に成長していた。
「ちょっと数馬! 冷蔵庫に入れといた私のプリン食べたのあんたでしょ!!」
「腹が減ってたんだよ。仕方ないだろ。名前を書いておかないのが悪いんだよ」
「はあぁっ!? 名前なんか書いてなくても一言聞いておけばいい話でしょ。弁償しなさいよ。三倍返しで!」
「三倍返しはホワイトデーの話だろ。しかも百円ちょっとの話でスケールが小っさいんだよ、ねぇちゃんはっ」
余所のお宅でなされていれば、「しょうもなっ」と言われることだろう。思春期のお腹を空かせた青少年たちにとっては、おやつの有る無しは食糧危機にも等しいのだ。
また買いなおせばいいだろう。そう言う弟は本当に生意気だ。少し前まで私がちょっと怒れば恐怖してコンビニまで走っていたというのに……。ふんっ、可愛げのない。
「あんたっ。私の財布の中身をなめてんじゃないわよっ!!」
日々やりくりして余った数百円を使って買ったプリンだったのに。小遣い日を前にして断腸の思いでテストを頑張った自分へのご褒美として買ったものだったのに。
「普段から頭使って買い物しないからだろ」
正論すぎて腹が立つ。
そうだよ。今月は欲しい服がバーゲンで半額だったんだよ。それに合わせた靴やアクセサリーがないかなって雑誌も買ったさ。だから何だ。
「俺はねぇちゃんの二の腕に無駄に付いた贅肉を落とす手助けをしてやったんだよ」
そしてとうとう、ぐぬぬと口を閉ざす私に向かって数馬はあろうことは言ってはならない言葉を放ってしまったのだった。
「あんまりだらだらした生活してると太るんだからな!」
「ふざけんたこと言ってんじゃないよ数馬!」
私の二の腕の太さは許容範囲だっつーの。
勢いのまま拳を振り上げる。
私たちの兄弟喧嘩は肉体言語がものを言う。最近は数馬が空手を習い始めて力の均衡が崩れかけてはいたけれど、まだ私の方が六対四で優勢勝ちが多かった。
重たい拳を振り下ろすために腰をひねる。
少し前まで小さかった数馬はこの半年でぐんと身長が伸び始めている。見下ろしていた顔はいつの間にか同じくらいになっていて、拳は振り下ろすというかほぼ水平に動かすようなものだった。
がんっ
頬に拳がめり込んで数馬が後ろへ吹き飛ぶ。そんなイメージで繰り出したフルスイングは、何故か違った感触を私に伝えてきた。
数馬の頬は柔らかい。一般的にも成長が遅めの弟は、固い男の子の肌というよりは女の子のそれに近いものがあったはずだ。それなのに私の拳に伝わってくるものはそんな柔らかな感触ではなく、硬質な堅い何かだった。言うなれば堅い壁。人の肌でもない。
兄弟喧嘩はよくするけれど、私は格闘家なんかじゃない。堅い物を殴り慣れているわけでもない私の拳は、次の瞬間には痛みを伝えてきた。
「痛ぁっ」
熱のような痛みを伝える拳にふうふうと息を吹きかける。
ありえない。私、数馬と間違えて壁を殴った? 数馬ってば空手を習い始めてからやけに動きがいいんだから。もうっ。
「かずまのバカぁ。なに人のパンチ避けてんのよ」
痛すぎて口がふにゃふにゃする。
でも、さっきの二の腕うんぬんの発言は許すことができなくて、悪あがきとばかりに私は数馬の頬をつねることにした。
ふにっ
あれ? 何か感触違う。……ってか、背が違う。数馬はこんなに背が高くない。
改めて私が掴んだ頬の持ち主を見る。そこにあるのは黒い髪に緑がかった金の目。私の手が触れる頬の先に見えるのは尖った耳――、うろこのようなものがこびりついたごつごつとした見た目の耳だった。
「……っ!? 誰っ!?」
というか何者!? 今は春でハロウィンの時期はまだまだ先なんだけど。
驚いて声を出したけど、何でかすごく私の声が反響した。天井には築十七年の我が家の狭いリビングの電球ではなく、小振りのシャンデリアがいくつもぶら下がっている。どこかのホテルか?
すんっと鼻をすすると、焚かれた香の中にほのかに香る獣臭を感じた。えっ、うそ、ここ動物がいるの!?
現れるふわふわもこもこした動物の予感に、目の前にいた謎の人物にすり寄る。
突然私がそうしたことに相手も驚いたのか身を堅くする。
私はそんな相手の様子も構わず、差し迫る恐怖に、離してたまるかとその人の服をぎゅっと握った。
いくら目が金色でも、彼の耳に毛は付いていない。ふわふわもこもこよりもずっとマシ!
「乙女よ」
背後から厳かな声がかかる。
びくりとして握っていた手に力を入れて身を寄せる。普段なら初対面の人間に対してこんなに密着するようなことはしないのだが、今は状況が違う。混乱する頭では気遣うように肩に置かれた手も気にすることはできなかった。
ただ思ったのは、この人ティッシュ持っているかなという他人にとってはどうでもいい、私にとっては死活問題の事案だった。――ティッシュがないならハンカチでもいいよ。
恐る恐る後ろを振り返る。
「ひぃっ」
そこにいたのは、床にひれふす何人もの人間たちだった。いや、人間ではないのかもしれない。だって、彼らはみんな耳が人間とは違っていたのだから。
ウサ耳、イヌ耳、ネコ耳、その他にも盛りだくさんのふっかふかの、もっこもこ。そう形容するのがふさわしい立派なお耳たち。
私を見る彼らの目は希望に満ちてキラキラと輝き、立派なお耳は嬉しそうに揺れ動いていた。ついでにファサファサと触れる尻尾も見えた。
その光景を見て、私は発狂寸前になった。
後に知ることになるのだが、私は愛玩動物好きにはたまらないケモ耳世界に呼ばれてやって来てしまったのだった。
垂涎ものでしょ、って? ないよ。ないない。私にとっては本気であり得ない。
この立場、譲れるものなら譲ってあげるよ。真のケモノ好きのケモナーさんに!
だって私は――、絶対的にケモノ系がダメなんだよ。心理面はともかく肉体的に!
「ふっ……」
涙目になる私に「乙女っ!?」と焦った声がかかる。
頭上からの声は私が服を掴んでいる人のものだった。低い声は腰に来るって、アニメ好きの友達が言っていたなと混乱の中でも思い出い返せるくらいの良い声だった。
でも乙女って誰のことよ。純なる乙女であることは事実だけど、実際に呼ばれるとなると恥ずかしさで身悶えするよ。良い声で言われる分、恥ずかしさ倍増なんだけど。
「気を落ち着けて」
びっくりしすぎてわりと気持ちは落ち着いているよ。どうでもいいことを思い返せるくらいには冷静だよ。
「乙女に害なす者はここにはおりません」
いえいえ、もう存在自体が害ですから。気にしないで、じゃない気にしてください。
「お、乙女よ、我々は――」
先頭に陣取っていた恰幅の良いウサ耳のおじさんが立ち上がって近寄ってくる。
小さめの背丈のおじさんの耳が鼻先に近づきそうになったところで、私の限界リミットは訪れた。
「ふぇっくしょいっ」
――えっくしょい……、しょい……、しょい……、しょいぃ……。
静まり返った空間に私の盛大なくしゃみが響き渡る。
「へっ……?」
おじさんの気の抜けた声が耳に届く。周囲の人々も呆気に取られたように口を開いている。ぽかーんという顔が並ぶ中、私ひとりだけは頬に赤味が差していくのを感じていた。
やっちまった……。ねぇちゃんはやっちまったよ、数馬くん。衆人環視の下で親父くしゃみを――。
死ねる。恥ずかしさのあまり悶え死ねる。思春期ってこれくらいのことで死を考えてしまえるんだよ。
だから、だから――。
「って……、出て行って。みんな出てっ!」
あっ、私が服を掴んでいる貴方はハンカチを貸してください。涙と鼻水が止まらないんで。っくしゅ。
「と、とにかくふわふわもこもこはみんな出て行って!」
ぶしゅーっと鼻をかみながら――この際、もう恥の上塗りであることは気付いていなかった――口調荒く捲くし立てる。
「アレルゲンはみんな出て行けっ」
動物アレルギー――それもふわふわもこもこ全般に対して――の私にとって、この獣人世界はとてもじゃないが許容できない世界だった。
反ケモナーな私は、こうしてフルスイングパンチと共にこの不思議なケモ耳世界にやって来てしまったのだった。