≪第5話≫少女、その先にあるもの
『こんばんは!』
やけに洗練された「こんばんは」がそこにあった。
俺がさっき書いた『今晩は』はすぐ消えたし、まず漢字だから違う。
それに俺はこんな書道経験者が書きそうな「こんばんは」を書けないし、エクスクラメーション・マークを付けたりしてない。
なんなんだこれは。
ついに手帳が文字を紡ぎ出したのか?
どうすべきかと、悩んでいると。
『Rというのはあなたのおなまえ? かしら?』
……かしら?
『ワタシはルミエールよ、です』
んん?
なんだろう。この文字を覚えたてみたいな文章は。
まあいいか。
生まれて日の浅い本の妖精かなんかだろう。
『おう、よろしく。ルミエール。俺はアールでいいぞ』
一応リメルティという名があるが、あまりピンとこないので、アールでもリメルティでも変わらない。
『そやなことばづかい。きっとしょみんね』
きっと庶民ね、だと?
この貴族め……ブルジョワめ……。
『漢字も書けないような奴に言われたくないな』
『なっ?1 すこしさきにうまれからってなによ! まだならっていないだけよ!』
漢字で通じるのか。
漢字があるのか、いや、漢字に似た概念に翻訳されているだけか。
というか、本の妖精なのに漢字も分からないのか。
会話を通して学習していくのか?
『ごめんごめん、ちょっとからかってみただけだ』
『もう……ほんとうにそうおもってる?』
『ああ、もちろんだとも』
『もういじわるしない?』
『もうしないよ』
『そう、ならゆるしてあげる』
ちょろいな。
まあ機嫌を損ねさせても意味はない。
『ところで、少しルミエールに聞きたいことがあるんだ』
『ぷらいべーとなことはなしよ?』
『違う。魔術のことだ』
『そう! わたしはゆうしゅうなかけいなのよ、なんでもききなさい?』
優秀な家系?
本の妖精も子孫を残すのか?
む、もしかして本だから寿命もあるのか。
まあなんでもいいか。聞きたいことが分かればいい。
『魔術は親から子へと受けつぐことができるときいたけど』
『そうよ』
『系統を受け継ぐと言っていたかな。系統ってそんなに重要なものなのか?』
『あたりまえじゃない。あらたなけいとうじゅをみつければ、れきしになをのこせる、のよ』
まるで誰かが言っていたのをそのまま言っているみたいだな……。
けいとうじゅ……系統樹か。
余計わからなってきたな。
よく分かっていない奴に聞いても意味はなさそうだ。
他のことを聞くとするか。
生活様式、学校、文化、就職、職業、結婚、生活水準、娯楽、食文化など。
こちらから一方的に聞いてしまった。
『あなたってなにもしらないのね。みょうなことばかりきいて』
『ちょっと事情があってな』
『ふぅん。まあいいわ。もうねるじかんだし、あしたにするわ。いい? きょうはあなたばっかりきいたんだから、あすはわたしのばんよ?』
『わかったよ』
本の妖精も寝るもんなのか。
『おやすみ、ルミエール』
「ええ、おやすみなさいアール」
羽ペンを置いて、手帳を閉じる。
もう寝るか。さすが少し疲れた。
☆
魔術は基礎系統という八つの系統がある、という。
その組み合わせによって、系統樹が分岐し、新たな系統が生まれる、らしい。
八つだから、そんなに組み合わせも多くないだろ、とか思っていたけどどうも違うらしい。
まず習熟度によって、派生する系統が違うらしい。なんだかよく分からん段階付けがあるらしいが、それは追々調べていくとしよう。
それでもすぐ網羅されてしまいそうなものだが、天地開闢以来、いまだ達成されていないらしい。
なぜかというと、習得できる系統というか、魔術の数に限界があるらしい。
魔力量とかならわかるが、習得できる魔術の数が制限される。
それは決して素養とか才能とか関係なしに、絶対量があるらしい。
だから、系統樹が制覇されていない、と。
翌朝、ガルディに聞いてみたところそう答えてくれた。
やはり分かりやすい。このおっさん、かなり有能ではなかろうか。
それとも、この金髪フォルムが高スペックなのか。
「代々続く魔術師の家系では子に初歩的な系統を学ばせない。独特に派生した自らの系統を相続させ、また同様の家系と婚姻関係を結ばせることによって、新たな系統樹を拡大させようとする。だから、中等部までの教育は――」
また、おっさんの長い話が始まってしまった。
ガルディのおっさん、貴族制やら魔法学校、”二十六師”に対して、やたらと批判的なんだよな。でなきゃ、こんな隠居生活おくってないか。
そんな失礼なことを考えつつも、これからのことを考える。
――俺は魔術師になるのか。
物語的存在に、自分がなる。
まるで現実感がない。マジックアイテム的なものを一応は使ったが、魔術は使っていないからか。
「そうだな、明日から隠密系統を教えていくか。相続が成功していれば、三年ほどで極められるはずだ」
「わかりました」
そして、沈黙。黙々とパンとシチューを食って、地下室へ引きこもる。
だいたい、このシチューとかパンやらはどこから持ってきているのか。
あのおっさんが外出するとは思えないし。
下に降りたらいつの間にか用意されているんだよな。
メイドの自動人形がいるのかもしれん。
いや、いるといいなぁ。
☆
いなかった。
結果から言うとメイドの正体は、隣の家のおばさんだった。
気晴らしに、というか、一度も外に出たことがなかったので、外に出てみると、予想通り。石畳と、レンガの家だ。
スモッグもなく、糞尿が落ちていることもない。
ばりばりの清潔感と、落ち着いた雰囲気。
まるで日本のティーンエイジャーが思い浮かべていそうなヨーロッパの風景が、丸ごと出てきたような。
中世といより、近世。
道の両脇にはガス灯みたいな、おそらくは夜になると光球を灯らせるのであろうお洒落なガラス細工が置かれていた。
「おや、もしかしてあんたがリメルティかい?」
背後からまるで肝っ玉かあさんのような声が掛かる。
振り向く。
ガルディと同年代くらいの女性がいた。
がっしりとした逞しい二の腕をさらけ出すように袖をまくり上げて、こっちを見ている。その手には長細いパンの入ったバスケット。
もう片方には、園児くらいの幼い男の子の手が握られている。
「ええ、そうです。はじめまして、マダム」
外見に似合う、気障な言い方で言ってみた。
そして、ここで、花輪クンのように髪をなびかせる。
完璧だ。
「おやおや、父親に似ず随分と色男だねえ」
「ちちをごぞんじで?」
「おや? 知らないのかい? ガルディとあたしは夫婦。そして、あたしはあんたの母親ってわけさ」
……なん、だと……?
「そんな驚かれるとは思ってなかったさね。嘘じゃないさ。ちゃんとお役所にある書類の上では、あたしとガルディは夫婦なのさ」
「……」
「お前さんにはちと難しい話だったねリメルティ。いろいろと大人には事情があるってわけなのさ。お前さんがどうやって生まれたかとか、あたしは知ろうとしないし、知るつもりもない。あたしは住む家と多少のお金がありゃいいのさ」
うーむ……。
大人の事情か。おそらくはホムンクルス的存在の俺を養子にするために、ガルディは一応の婚姻関係を結び、この女性は金銭的援助を受けている、とか。そんなところだろうか。
「あたしはララナ。こっちは息子のユート。ほら、挨拶しな」
ララナに背中を押され、同年代くらいの少年が前に出る。
「は、はじめまして!」
大人しそう男の子だ。
母親似の茶髪と、垂れた眉毛。
「はじめましてユート。これからよろしくな」
「う、うん。な、なんてよべばいいかな?」
「リメルティはちょっとながいか。リティでいいぞ」
「わ、わかったよリティ」
自信なさげな少年を観察していると、背後からがっしりと腕で引き寄せられる。ララナだ。
「お前さんたちは紙の上じゃ一応兄弟だからな。仲良くするさね。リメルティ、飯の時間になったら、うちに来てくれよ。いつもは玄関前に置いとくんだが、冷めちまうからね。かといって、家に入るとガルディの機嫌が悪くなっちまう。あの男は呼び鈴にも何やら仕掛けをしているようだし、危ないったらありゃしねえ」
「わかりました」
パンの入ったバスケットを受け取って、2人に別れを告げる。
これが幼馴染というやつか。
いや、兄弟でもあるのか。血は繋がっていないが……兄にあたるのか、弟にあたるのか……。
どうせなら女の子がよかったな、とか考えたりしていない。
前世では得られなかった幸せがここにある。
友達がいて、家族がいて、そして恋愛し結婚する。
職業が魔術師という風変わりなものになっただけだ。
そういうのもいいのかもしれない。
平凡でも幸福な暮らし。
俺は憧れとともに、実現できるだろうという希望を抱いていた。