百年後に咲く花
思ったより文字数が増えてしまいました。
第一部 百年後に咲く花を植えた
市場の外れで、誰にも買われない苗が一本、朝からずっと風に揺れていた。
葉は五枚しかなく、細い茎は頼りなく、植木鉢と呼ぶには少し粗末すぎる焼き物の中で、乾いた土に根を縮こまらせているように見えた。
その苗の前に立ったロアンは、しばらく何も言わなかった。
「買わないなら、そこ退いてくれ」
店主が言った。
豆と麦と乾燥した香草を並べた露店の一角に、どういうわけかその苗だけが置かれている。そもそも植木を扱う店でもないから、通りかかった者が首を傾げるのは当然だった。
ロアンも首を傾げている。
「なんだ、これ」
「だから、買わないなら退けって」
「名前を聞いてるんだ」
「百年花」
店主は面倒そうに答え、量り売りの豆を木匙ですくった。
隣では女が干し肉の値段を聞いている。向かいの店からは魚をさばく包丁の音がしていて、その奥ではパン屋の小僧が焦げた丸パンを抱えて走っている。いつも通りの市場だったが、去年より値札に書かれた数字が少しずつ大きくなっていて、そういう変化だけは、誰もわざわざ口にしなくても分かった。
ロアンは苗へ目を戻した。
「百年に一回咲くのか」
「違う」
「じゃあ百年咲き続けるのか」
「それなら俺がこんな値段で売るか」
「知らんよ。お前、たまに値付けがおかしいからな」
「うるさいな」
店主はようやくロアンを見た。
「植えてから百年だ」
「何が」
「花が咲くまで」
ロアンは黙った。
店主も黙った。
市場の真ん中を荷車が通り、その車輪が石畳のくぼみに落ちて、荷台の瓶ががちゃがちゃと鳴った。
「……百年?」
「百年」
「毎年、世話は?」
「いる」
「水は?」
「いる」
「剪定は?」
「いるらしい」
「肥料は」
「たぶんいる」
「たぶんってなんだ」
「俺が育てるわけじゃないから知らん」
ロアンはもう一度苗を見た。
どう見ても、百年という言葉とは釣り合わなかった。
もっとこう、伝説の植物らしく、葉が金色に光っているとか、根元に神聖な紋様が浮かんでいるとか、触れれば鐘の音がするとか、その程度の愛想があってもよさそうなものだが、目の前にあるのは道端から抜いてきた雑草と言われても信じてしまいそうな、ひょろりとした緑の苗一本だった。
「誰が買うんだ」
「だから売れ残ってる」
「お前は何で仕入れた」
「商人に押しつけられたんだよ。珍しいぞって」
「珍しいだろうな」
「珍しいだけだった」
店主は鼻を鳴らした。
「明日まで売れなかったら捨てる」
「捨てるのか」
「鉢が邪魔なんだよ」
ロアンはしゃがんだ。
指で土に触れる。
乾いていた。
「水くらいやれよ」
「売り物にそこまで手間かけられるか」
「生き物だろ」
「だから面倒なんだよ」
ロアンは立ち上がった。
「いくら」
店主が手を止めた。
「……買うのか?」
「いくらだ」
「いや、お前」
「なんだ」
「歳いくつだ」
「五十六」
「馬鹿か」
店主は即答した。
「お前が百年待ったら百五十六だぞ」
「知ってる」
「いや、たぶん知らない顔してた」
「百くらい足せる」
「なら買うなよ」
結局、ロアンはその苗を買った。
値切った。
百年待たなければ咲かないうえ、店主が明日捨てるつもりだった植物に定価を払う気はないと言ったら、店主は「そういうところだけ妙に現実的なんだよな、お前」と呆れながら半額にした。
ロアンは苗を小脇に抱えて家へ帰った。
途中、知り合いに三人会い、その三人とも似たような顔をした。
「何だ、それ」
「百年花」
「ほう」
「百年後に咲く」
「……何年後?」
「百年」
二人目は笑った。
三人目は心配そうにロアンの額へ手を当てたので、叩き落とした。
家へ着いたころには昼を少し回っていて、妻のエレナは台所で玉葱を切っていた。
小さな家だった。
石造りの一階建てで、南側に庭があり、庭師の家だけあって広さの割に植物が多い。香草、低木、果樹、名前の分からない花、客から預かった苗木、枝を取るために育てている薔薇。その間に洗濯物まで干してあるから、庭というより植物と生活が押し合っている場所だった。
「ただいま」
「おかえり」
「買い物してきた」
「頼んでないわよ」
「俺の買い物だ」
「嫌な予感しかしないわね」
エレナが包丁を置いて振り返り、ロアンの腕に抱かれた苗を見た。
「……草?」
「花」
「草よ」
「百年花」
「何それ」
「百年後に咲く」
エレナは黙った。
ロアンも黙った。
玉葱の匂いだけが台所に残っていた。
「あなた」
「ん?」
「百五十六歳まで生きるつもり?」
「努力はする」
「そういう問題じゃないでしょう」
エレナは笑い、ロアンも少し笑った。
二人に子供はいなかった。
若いころは欲しかった時期もあったし、医者に診てもらったこともある。薬草も試した。祈祷師に勧められて、妙に苦い茶を半年ほど飲んだこともある。
それでもできなかった。
いつの間にか、二人ともそのことを話さなくなった。
だからといって不幸だったわけでもなく、幸福だったと言い切れば何かをごまかしているような気もしたが、少なくとも三十二年一緒に暮らし、その大部分で夕食を同じ卓に並べ、風邪を引けば互いに文句を言いながら粥を作り、喧嘩をしても翌朝にはどちらかが先に湯を沸かした。
夫婦とは、そのくらいのものなのかもしれないと、ロアンは思っている。
「どこに植えるの?」
「南側」
「私の香草畑を潰さないでよ」
「潰さない」
「去年もそう言って薔薇植えたでしょう」
「あれは客のだ」
「今もう客の家にあるでしょう」
「穴だけ残った」
「穴も埋めなさいよ」
言い合いながら、二人で庭へ出た。
春先の土はまだ少し冷たかった。
冬の間に硬く締まった表面へ鍬を入れると、湿った黒土の匂いが立ち上がり、その匂いを嗅いだ瞬間だけ、ロアンは毎年、今年も春が来たと思う。
戦争になる。
そんな噂が出始めていた。
北の街道では兵隊を乗せた馬車を見た者がいる。隣国との国境で小競り合いがあったとも聞くし、王都から地方へ送られる役人の数が増えたともいう。
麦は去年より高い。
塩も上がった。
若い男のいる家では、徴兵についての話が増えている。
けれど土を掘れば、土はいつもと同じ匂いがした。
「そこ?」
エレナが言った。
「ああ」
「日当たり強すぎない?」
「大丈夫だろ」
「説明書は?」
「ない」
「百年育てる花なのに?」
「ない」
「あなた、ずいぶん怪しいもの買ってきたわね」
ロアンは穴を掘った。
苗の根を傷つけないよう鉢から抜くと、思ったより根が張っていた。
白い細根が土を抱え込んでいる。
それを見て、少し安心した。
生きようとはしているらしい。
隣家の塀越しに、顔が出た。
「ロアン!」
「なんだ」
「何植えてんだ!」
「百年花」
「何だそれ!」
「百年後に咲く!」
一拍遅れて、笑い声が返ってきた。
「お前が見るころには骨まで土になってるぞ!」
「肥料になるな!」
ロアンが言い返すと、エレナが肩を震わせた。
「それ、嫌だわ」
「何が」
「あなたの骨で育った花」
「よく育ちそうだろ」
「頑固な花になるわよ」
苗を穴へ置き、周囲へ土を戻した。
手で押さえる。
あまり固くしすぎない。
根が呼吸できる程度に。
水差しを持ってきて、ゆっくり水を注ぐと、乾いていた土が色を変え、細い茎がほんの少しだけ揺れた。
そのころには近所の男が二人、塀の向こうから覗き込んでいた。
「本当に百年なのか?」
「らしい」
「百年後なんて、この国があるかも分からんぞ」
「そうだな」
「だったら何で植える?」
ロアンは苗の根元にもう少し土を寄せた。
特に考えなかった。
「買っちまったからな」
「馬鹿だなあ」
「半額だった」
「なおさら馬鹿だ」
また笑い声が上がった。
エレナも笑っていた。
その日の夕食は玉葱と豆の煮込み、それに固めのパンだった。
食後、エレナが明日の市場で麦をもう一袋買っておいた方がいいと言った。
「また値上がりするかもしれないって」
「誰が言ってた」
「肉屋の奥さん」
「あの人の話は半分で聞け」
「じゃあ半袋買う?」
「そういう意味じゃない」
「北でまた兵隊が増えたそうよ」
ロアンはパンをちぎった。
「らしいな」
「戦争になると思う?」
「分からん」
「あなた、そういうこと全部分からないって言うわね」
「分からんものは分からん」
エレナはため息をついた。
窓の外では、植えたばかりの百年花が夕闇へ沈みかけていた。
世界が百年後まで続くのか。
国があるのか。
町があるのか。
家があるのか。
そんなことを考えて買ったわけではなかった。
捨てられると聞いた。
だから買った。
土が乾いていた。
だから水をやった。
それだけだった。
夜半、雨が降り始めた。
最初は屋根瓦を軽く叩く程度だったが、やがて風まで混じり、窓枠が低く鳴った。
ロアンは目を覚ました。
隣ではエレナが眠っている。
しばらく雨音を聞いていた。
それから身体を起こした。
「……何してるの」
「起きたのか」
「起こしたのよ」
「悪い」
上着を着た。
「どこ行くの?」
「庭」
「は?」
「苗が倒れる」
エレナが目をこすった。
「百年花?」
「ああ」
「明日でいいでしょう」
「風が強い」
「雨も降ってるわよ」
「知ってる」
ロアンは外へ出た。
雨は思っていたより冷たく、寝巻きの裾がすぐに濡れた。
庭の土は泥になっていた。
百年花は激しい風に煽られ、細い茎を右へ左へ折れそうなほど曲げている。
「ロアン!」
窓が開き、エレナの声が飛んだ。
「明日でいいでしょう!」
ロアンは倉庫から木切れを一本持ってきた。
苗の横へ差す。
紐を結ぶ。
雨が顔を伝い、目に入った。
「明日枯れてたら遅いだろ!」
窓辺のエレナが、何か言おうとしてやめた。
そして、呆れたような顔で笑った。
ロアンはそれに気づかなかった。
濡れた土へしゃがみ込み、百年後まで生きるという、どう考えても自分より長生きする苗の根元へ、雨で流されないよう土を寄せていた。
百年後のことなど、まだ何ひとつ考えてはいなかった。
ただ、この小さな苗が明日の朝まで生きていればいいと、それだけを思っていた。
第二部 こんな時に花か
戦争は、始まった日よりも、始まるまでの方が長かった。
王都から布告が届いた朝、町の広場には人が集まり、役人が台の上で大きな紙を読み上げたけれど、内容を最後まで聞いていた者は案外少なかった。
隣国が国境を越えた。
王国軍が応戦した。
各地で兵を募る。
穀物の供出を求める。
必要に応じて徴兵を行う。
文章にすれば、それだけだった。
けれど、その日の午後から町の空気は変わった。
パン屋では一人三個までと札が出た。
麦屋の前には列ができた。
鍛冶屋には農具ではなく、剣や槍の修理を頼む兵士が並んだ。
街道を走る馬車の音が増え、夜中にも蹄の音が聞こえるようになった。
それでも最初のうちは、まだ戦争は遠かった。
遠いところで誰かが戦い、遠いところで誰かが死ぬ。
町にいる者にとって、それはまだそんなものだった。
ロアンもいつも通り朝起きた。
井戸へ行き、水を汲んだ。
庭の鉢植えへ順番に水をやり、最後に百年花の根元へ水差しを傾けた。
苗は少しだけ大きくなっていた。
葉が二枚増えた。
茎も、春先より太くなった。
「育ってる?」
背後から声がした。
振り返ると、塀の隙間から小さな顔が覗いていた。
ミナだった。
近所の革職人の娘で、九歳になったばかりだとエレナから聞いている。
髪を自分で結んだのか、左右の高さが違っていた。
「見れば分かるだろ」
「分かんない」
「葉が増えた」
「何枚?」
「二枚」
「それだけ?」
「お前、一か月で腕が二本増えたら大騒ぎだろ」
ミナは少し考えた。
「それは怖い」
「植物には植物の増え方がある」
ミナは塀の横にある木戸を勝手に開けて入ってきた。
「いつ咲くの?」
「あと九十八年くらい」
ミナは真顔になった。
「馬鹿なの?」
ロアンは水差しを止めた。
「最近の子供は遠慮がないな」
「だって死んでるじゃん」
「誰が」
「おじさん」
「まだ生きてる」
「九十八年後」
「努力はする」
家の中からエレナの笑い声が聞こえた。
「その返し、気に入ってるでしょう」
「便利なんだ」
ミナは百年花の前へしゃがみ込んだ。
細い指で葉へ触れようとしたので、ロアンは軽く手を払った。
「触るな」
「なんで」
「まだ柔らかい」
「水、私もやっていい?」
「だめ」
「なんで」
「量がある」
「ケチ」
「植物を枯らすよりいい」
翌朝、ミナは自分の家から小さな器を持ってきた。
木をくり抜いただけの玩具みたいな水差しで、中には半分ほど水が入っていた。
「これなら?」
「多い」
半分捨てさせた。
「これくらい」
「少なっ」
「苗には十分だ」
「おじさん細かい」
「庭師だからな」
それから、ミナは時々水やりに来るようになった。
毎日ではなかった。
三日続けて来たかと思えば、五日来なかった。
友達と遊ぶ約束を忘れて走っていくこともあれば、水を入れた器ごと地面に置いて蝶を追いかけることもあった。
そのくらいでよかった。
ロアンも何かを教えようとはしなかった。
花の育て方だの、命を大事にしろだの、そんなことを語る気はなかった。
「葉っぱ、増えた」
「増えたな」
「あと何年?」
「九十八年」
「前も九十八だった」
「一年も経ってないからな」
「長い」
「そういう花だ」
それだけだった。
夏が来た。
戦争は少し近づいた。
町から若者が消え始めた。
徴兵された者。
自分から志願した者。
兵站の仕事へ行った者。
馬の扱いができるという理由で連れていかれた者。
昨日まで酒場で騒いでいた男が、翌週には軍服を着て家族と別れている。
そういう光景が、だんだん珍しくなくなった。
市場の魚屋の息子も行った。
鍛冶屋の甥も行った。
ミナの家の隣に住んでいた青年も行った。
エレナは帰ってくるたびに、今日は誰が行った、あの家では母親が泣いていた、あの男は笑っていたけれど手が震えていた、とロアンへ話した。
ロアンは聞いた。
聞くだけだった。
「あなたは呼ばれないのね」
「五十六の庭師なんか前線で使ってどうする」
「穴掘るの得意じゃない」
「縁起でもないこと言うな」
エレナは口元を押さえた。
「ごめん」
「本当にな」
しばらくして、最初の負傷兵が町へ戻ってきた。
荷車に五人乗っていた。
一人は頭に包帯を巻き、一人は腕を吊り、一人は右脚がなかった。
それを見た日から、広場で戦争について大声で話す人間が減った。
勝っているらしい。
負けているらしい。
次は大きな戦になるらしい。
王都軍が押している。
いや、国境の砦が落ちた。
噂はいくらでも飛び交った。
けれど、脚を失った男が木の杖をつきながら市場を歩く姿を見れば、誰も簡単には勇ましいことを言わなくなった。
秋になるころには、税が上がった。
麦もさらに高くなった。
エレナはパンを少し薄く切るようになった。
豆の煮込みは水分が増えた。
ロアンは仕事先で余った野菜の根や、捨てる予定だった苗をもらってきて庭の隅へ植えた。
百年花の周りだけは、そのままにした。
「贅沢ね」
エレナが言った。
「何が」
「食べられない植物が庭の真ん中にいる」
「薔薇だって食べないだろ」
「花は咲くでしょう」
「こいつも咲く」
「百年後にね」
ロアンは返事をしなかった。
百年花は、もう膝より少し低いくらいまで育っていた。
茎は木のように硬くなり始め、葉の数も増えた。
見た目だけなら、少し変わった低木だった。
春に市場で見つけたころの頼りなさは消えている。
「おじさん!」
ミナが駆け込んできた。
「水!」
「今日はやった」
「えー」
「朝来なかっただろ」
「寝てた」
「じゃあ明日だな」
ミナは不満そうに百年花を見た。
「戦争終わったら咲く?」
「終わっても咲かん」
「役に立たないね」
「まあな」
「でも切っちゃだめ?」
「だめ」
「なんで?」
ロアンは少し考えた。
「育ってるから」
ミナは分かったような、分からないような顔をした。
それから冬になった。
雪は少なかったが、風が冷たかった。
戦争は終わらなかった。
むしろ、春になってから状況は悪くなった。
国境近くの町が二つ落ちたという話が入った。
街道を通る兵の数が増えた。
避難民も来た。
荷車に家財を積み、幼い子供を抱えた女や、老人を背負った男たちが町へ流れ込んだ。
空き家は埋まり、教会にも人が寝泊まりするようになった。
町の人間は最初こそ食べ物を分けたが、自分たちの蓄えも減っていくにつれ、少しずつ顔が険しくなった。
ロアンの庭にも、食べられるものはほとんど残らなかった。
それでも百年花だけは伸びていた。
春の終わり。
鐘が鳴った。
昼だった。
一度。
二度。
三度。
間を置かずに連続して鳴り始めた。
ロアンは庭にいた。
手にしていた剪定鋏を落としかけた。
町で決められている避難の鐘だった。
「ロアン!」
家の中からエレナが飛び出してきた。
「東門に兵が来たって!」
「味方か」
「違うって!」
道の向こうから人が走ってきた。
荷物を抱えた者。
子供の手を引く者。
何も持たずに走る者。
馬が一頭、手綱を引きずったまま駆けていった。
遠くで、何か重い音がした。
雷ではなかった。
ロアンは百年花を見た。
エレナが腕を掴んだ。
「行くわよ」
「ああ」
「ロアン」
「分かってる」
家の中へ戻った。
持っていけるものは多くなかった。
水。
乾パン。
毛布。
少しの金。
エレナが家族の古い写真代わりに持っていた肖像画の小板。
ロアンは庭仕事用の丈夫な上着を着た。
最後にもう一度庭を見た。
百年花は風に揺れていた。
「行くわよ」
「ああ」
木戸を閉めた。
その日から、三週間、二人は町へ戻れなかった。
西へ向かう避難民の列に加わった。
最初の二日は道端で寝た。
雨が降った。
三日目にはエレナの靴底が剥がれ、ロアンが紐で縛った。
途中の村では納屋を借りた。
次の村では断られた。
人は皆、自分たちのことで精一杯だった。
それを責める気にはなれなかった。
遠くに煙が上がる日もあった。
夜、兵士が行き来する音を聞きながら眠った。
誰かが泣いていた。
誰かが故郷の話をしていた。
誰かが、もう帰れないだろうと言った。
エレナは一度だけ聞いた。
「花、どうなったかしら」
ロアンは横になったまま答えた。
「知らん」
「枯れたかな」
「知らん」
「焼けたかも」
「そうかもな」
「気になる?」
「そりゃな」
少しして、エレナが笑った。
「百年も待つ花なのに、三週間で駄目になるかもしれないのね」
「そういうもんだろ」
「何が?」
「生き物なんて」
エレナは返事をしなかった。
三週間後、王国軍が町を奪い返したという知らせが届いた。
戻れると聞いても、誰もすぐには立ち上がらなかった。
本当に戻っていいのか。
また攻めてこないのか。
家は残っているのか。
家族は。
店は。
隣人は。
分からないことばかりだった。
それでも、帰る場所がある者は帰った。
ロアンとエレナも歩いた。
町へ近づくほど、道端に焼けた荷車や折れた槍が増えた。
城壁の東側は黒く焦げていた。
門は半分壊れていた。
中へ入ると、知っている町なのに、知らない場所のようだった。
薬屋が焼けていた。
酒場の屋根が落ちていた。
市場の露店はほとんどなく、石畳には黒い煤が残っていた。
人はいた。
けれど、いない人もいた。
「あそこ……」
エレナが立ち止まった。
革職人の家だった。
ミナの家。
壁の一部が崩れている。
ロアンの心臓が強く鳴った。
「ミナ!」
返事はなかった。
もう一度呼ぼうとしたとき、裏手から少女が出てきた。
泥だらけだった。
「おじさん」
ロアンは息を吐いた。
「生きてたか」
「うん」
「親父と母親は」
「いる」
「そうか」
それだけ言って、ロアンは歩いた。
自分の家がある通りへ。
角を曲がった。
屋根は残っていた。
窓が一枚割れている。
木戸は倒れていた。
壁には焼け跡がある。
けれど家そのものは立っていた。
「残ってる」
エレナが小さく言った。
「ああ」
二人で庭へ入った。
踏み荒らされていた。
薔薇の枝は折れ、香草畑には泥と灰が入り込み、果樹の一本は幹の途中で裂けていた。
ロアンは黙って奥へ進んだ。
そこにあった。
百年花。
斜めに倒れていた。
太くなり始めていた茎は半ばで裂け、葉のほとんどが落ちている。
根元の土はえぐれていた。
黒く焦げた跡もあった。
「ロアン」
エレナが後ろから声をかけた。
ロアンは返事をせず、しゃがんだ。
指で茎を触った。
折れている。
完全には切れていない。
根元へ手を入れた。
土をどける。
根が見えた。
まだ白い部分がある。
生きていた。
ロアンは立ち上がった。
倉庫へ行った。
扉は外れていたが、中に木材が少し残っていた。
支柱にできそうな棒を一本持ち出した。
「あなた」
「水あるか」
「少しだけ」
「持ってきてくれ」
「飲み水よ」
ロアンは止まった。
エレナの言う通りだった。
避難から戻ったばかりだ。
井戸が使えるかも分からない。
水は貴重だった。
ロアンは百年花を見た。
「じゃあ、井戸見てくる」
「私も行く」
町の共同井戸には人が並んでいた。
幸い、水は出た。
けれど汲み上げるたびに濁りが混じった。
順番を待って、飲み水と生活用の水を分けてもらった。
戻る途中、広場の脇に布をかけられた遺体が並んでいるのが見えた。
ロアンは見ないふりをしなかった。
一つ一つ確認した。
知っている顔が二つあった。
魚屋の主人。
向かいの通りに住んでいた老女。
その日の午後、ロアンは墓穴を掘った。
若い者は怪我人の運搬や瓦礫の撤去へ回っていたから、穴を掘れる者は皆掘った。
何人分掘ったか、途中から数えなくなった。
手の皮が剥けた。
腰も痛んだ。
それでも掘った。
夕方には家の壊れた窓へ板を打ちつけた。
倒れた木戸を起こした。
屋根の割れた部分へ布を張った。
エレナは家の中の灰を掃き、食べられるものを探し、近所の女と一緒に怪我人へ湯を沸かした。
暗くなりかけたころ、ロアンはようやく庭へ戻った。
百年花の横へ支柱を立てた。
裂けた茎を布で巻き、紐で固定した。
根元へ土を戻した。
水差しを傾けた。
「ロアン」
隣家の男がいた。
顔に包帯を巻いている。
「ん?」
男は庭を見た。
壊れた塀。
焦げた木。
荒れた畑。
そして、百年花。
「こんな時に花かよ」
責めている声ではなかった。
呆れているようでもあり、疲れているようでもあった。
ロアンは泥だらけの手で土を押さえた。
「こんな時だからだろ」
男が黙った。
ロアン自身も、それ以上何も言わなかった。
なぜなのか、うまく説明できたわけではなかった。
家も直さなければならない。
食べ物も探さなければならない。
明日も墓を掘るかもしれない。
花より先にやることはいくらでもある。
だからロアンは、その全部をやった。
その最後に、水をやった。
日が落ちた。
町のあちこちから、壊れた家を直す金槌の音がまだ聞こえていた。
泣き声も聞こえた。
誰かが名前を呼んでいた。
煮炊きの煙が、焦げた木の匂いと混じっていた。
百年花は、支柱にもたれたまま、ひどくみすぼらしい姿で立っていた。
咲くまで、あと九十七年。
その数字に、今は何の意味もなかった。
明日の朝まで生きているかどうかさえ分からない。
ロアンは空になった水差しを持ち上げた。
「じゃあな」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
家へ戻ろうとすると、木戸のところにミナが立っていた。
手に、小さな木の器を持っている。
「水やった?」
「ああ」
「じゃあ明日は私ね」
ロアンは少女を見た。
「忘れなかったらな」
「忘れないし」
「前も寝坊した」
「あれは一回だけ」
「三回だ」
「細かい」
「庭師だからな」
ミナは少し笑った。
ロアンも笑った。
焼け残った町の上に、夜が降りてきた。
明日になれば何があるのか、誰にも分からなかった。
それでも井戸には水があり、倒れた家には人が戻り、炊事場では鍋が火にかかり、折れかけた一本の植物の根元には、まだ湿った土が残っていた。
第三部 来年の話をしよう
戦争は、終わった。
そう聞かされた日の町には、歓声より先にため息が広がった。
広場で役人が終戦を告げたとき、泣いた者もいたし、抱き合った者もいた。膝から崩れ落ちた老婆もいたし、酒場の主人は残っていた樽を一本開けて、今夜くらい金はいらんと叫んだ。
けれど翌朝になれば、壊れた屋根はそのままだった。
焼けた家も戻らない。
死んだ者も戻らない。
麦袋が急に増えるわけでもなかった。
戦争が終われば何かが元へ戻ると、皆どこかで思っていたのだろう。
だが、終わるというのは始まりを止めるだけで、壊れたものを直してくれる言葉ではなかった。
町にはまだ兵がいた。
負傷者もいた。
帰ってこない若者を待っている家もあった。
市場は再開したものの、並ぶ品物は少なく、値札だけは戦争前より立派になっていた。
「麦がまた上がった」
エレナが袋を卓へ置いた。
「どのくらい」
「聞かない方がいいわ」
「買った俺が払うんだから聞かせろ」
「じゃあ怒らない?」
「怒る」
「なら言わない」
ロアンは椅子に座ったまま眉を寄せた。
「何で怒る前提なんだ」
「あなた、値段には細かいでしょう」
「値段には、じゃない。全部に細かい」
「知ってる」
エレナは袋の口をほどいた。
中に入っている麦は少なかった。
それでも、今は買えただけましだった。
町の外に広がっていた畑は戦で荒れ、馬に踏まれた土地も多く、種を撒けなかった農家もあった。収穫量が落ちることは春の時点で分かっていたが、実際に冬を前にして倉が空き始めると、話は急に現実味を帯びた。
今年の冬は厳しくなる。
町の誰もが同じことを言った。
ロアンの庭にも、食べられるものはほとんど残っていなかった。
香草畑は戦火で駄目になり、果樹は一本を残して裂け、薔薇はとうに抜いて薪へ回した。
百年花だけは生きていた。
折れたところには節ができ、以前より不格好になったものの、根元から新しい枝が伸び始めている。
ミナはそれを見て、得意そうに言った。
「私が水やったから」
「俺もやった」
「でも私もやった」
「半分くらいこぼしてただろ」
「細かい」
「庭師だからな」
いつものやり取りだった。
ただ、以前のように笑って終われる日ばかりでもなかった。
ある午後、町の寄り合いがあった。
冬を越すため、使える土地はできるだけ畑へ回す。
庭がある家は豆や芋を植える。
観賞用の木や花は可能なら抜く。
町外れの空き地も共同菜園にする。
誰かがそう提案した。
反対する者はいなかった。
花を眺めて腹は膨れない。
正論だった。
それから数日後、ロアンの家にも男が二人来た。
町の食料管理を手伝っている者たちだった。
「庭、少し見せてもらうぞ」
「ああ」
男たちは荒れた庭を見回した。
「ここ、使えるな」
一人が言った。
「南向きだし、日も当たる。芋ならいける」
「だろうな」
ロアンは答えた。
もう一人が百年花を見た。
「これ何だっけ」
「百年花」
「ああ、あれか」
戦争前から住んでいた者なら、だいたい知っている。
町ではすでに少しした名物になっていた。
変な庭師が百年後に咲く花を育てている。
その程度の話だった。
「これ、抜いたらもう一畝取れるな」
男は悪意なく言った。
ロアンは返事をしなかった。
「根、深いか?」
「まだそこまでじゃない」
「なら抜くなら今だな」
その言葉に、ロアンは百年花を見た。
戦で折れた幹。
新しく伸びた枝。
乾いた葉。
根元の黒い土。
あと九十六年。
ひどく馬鹿げた数字だった。
九十六年後の花より、この冬の芋の方が大事だ。
誰が考えてもそうだった。
ロアン自身、そう思った。
「……そうだな」
エレナが家の戸口からこちらを見ていた。
何も言わない。
男たちは庭へ紐を張り、どこまで畝にできるか測っていった。
その夜、ロアンはあまり喋らなかった。
エレナも無理に話しかけなかった。
二人で薄い豆のスープを食べた。
パンは一人一切れ。
食べ終わってから、ロアンは外へ出た。
冷えた風が吹いていた。
月は細く、庭の形もよく見えなかった。
百年花の前へ立つ。
抜こうと思えば抜ける。
庭師だからこそ分かる。
根をできるだけ傷つけずに掘り起こし、鉢へ移すこともできる。
だが鉢で百年は無理だろう。
そもそも、冬に水すら十分確保できるか分からない。
「何してるの」
エレナが後ろから出てきた。
「見てる」
「暗いでしょう」
「暗いな」
エレナは隣へ立った。
「抜くの?」
「分からん」
「珍しい」
「何が」
「あなたが分からないって言うとき、本当に分からないのね」
ロアンは鼻を鳴らした。
「普段も本当に分からん」
「はいはい」
二人はしばらく黙っていた。
遠くで犬が吠えた。
どこかの家から薪を割る音が聞こえた。
冬へ備えている。
皆、生きる準備をしている。
「芋の方が役に立つ」
ロアンが言った。
「そうね」
「一株でも増えれば、それだけ誰かが食える」
「そうね」
「花は食えない」
「たぶんね」
「たぶんってなんだ」
「百年花の実、食べられるかもしれないでしょう」
「知らん」
「説明書なかったものね」
ロアンは少し笑った。
けれど、すぐに黙った。
「エレナ」
「なに」
「俺がこれ残したら、馬鹿だと思うか」
エレナはすぐには答えなかった。
「思うかも」
「そうか」
「でも」
彼女は庭を見た。
「全部残すのは、もっと馬鹿だと思う」
ロアンは顔を上げた。
「庭の大半を畑にしましょうよ」
「百年花のところだけ?」
「一本分くらいなら、芋何個よ」
「数えるな」
「あなたが言い出したんでしょう」
エレナは肩をすくめた。
「生きるために芋も植える。あなたが育てたいなら花も残す。それでいいじゃない」
ロアンは黙った。
「そんな都合よくいくか?」
「都合よくするのが生活よ」
その言葉に、ロアンは少しだけ笑った。
翌日から、二人は庭を掘った。
薔薇があった場所。
香草畑だった場所。
客から預かった苗木を置いていた場所。
全部、畝にした。
土を起こし、灰を混ぜ、堆肥を入れる。
近所から種芋を分けてもらった。
百年花の周囲だけ、丸く残した。
ミナがそれを見て言った。
「花だけ島みたい」
「そうだな」
「芋に囲まれてる」
「強く育つ」
「関係ある?」
「ない」
春に植えた芋は、思ったよりよく育った。
ロアンはさすがに庭師だった。
土の癖も日当たりも分かっている。
夏には葉が広がり、秋には土の下から丸い芋が次々と出てきた。
「こんなにある」
エレナが驚いた。
「俺を誰だと思ってる」
「変な花を育ててる人」
「庭師だ」
「忘れてた」
収穫した芋の一部は家に残した。
残りは近所へ回した。
ミナの家にも。
負傷して片脚を失った兵士の家にも。
夫を亡くした女のところにも。
戦争で親を失った兄弟を引き取った家にも。
「百年花を抜いてたら、もう少し採れたな」
隣の男が冗談で言った。
ロアンは芋袋を渡しながら答えた。
「一本分だ」
「一本でも芋は芋だ」
「じゃあ来年、お前んちの庭全部芋にしろ」
「うちは狭い」
「口だけだな」
男は笑った。
その笑い声を聞いて、ロアンも笑った。
その冬は、誰も十分には食べられなかった。
だが、前年よりはましだった。
夜、二人で芋を煮た。
塩は少ない。
肉はない。
それでも湯気は温かかった。
エレナが芋を潰しながら言った。
「あなた」
「ん」
「あの花、好きなのね」
「別に」
「じゃあ何で残したの」
「成り行きだ」
「百年も?」
「まだ数年だ」
「でも毎日見てるでしょう」
「庭にあるからな」
「水もやる」
「生きてるから」
「戦争でも持ち直させた」
「枯らすの嫌だから」
エレナは笑った。
「全部言い訳ね」
「何が言いたい」
「好きなんでしょう」
ロアンは芋を口に入れた。
熱かった。
「……別に好きじゃない」
「じゃあ何」
ロアンは返事をしなかった。
窓の外は暗かった。
庭の百年花は見えない。
けれど、そこにあることは分かる。
春になればまた葉が出る。
来年は少し枝が増えるかもしれない。
再来年には、幹が太くなるかもしれない。
十年後にはどうなる。
二十年後には。
ミナはそのころ大人だ。
結婚しているかもしれない。
子供がいるかもしれない。
この町も、今とは違うだろう。
パン屋は建て直されているかもしれない。
市場も賑わっているかもしれない。
また戦争になるかもしれない。
ならないかもしれない。
何ひとつ分からない。
それなのに、花のことを考えると、その先まで考えてしまう。
「来年の話ができるからかな」
ロアンが言った。
エレナの手が止まった。
「来年?」
「ああ」
「百年後の花なのに?」
「だからだろうな」
ロアンは窓を見た。
「戦争してる間、みんな今日のことしか考えられなかった」
「そうね」
「飯があるか。兵が来るか。家が焼けるか。明日逃げるか」
「うん」
「それが普通だった」
エレナは何も言わない。
「でもあれ見てると、来年は枝が増えるかなとか、五年後はどれくらいになるかなとか、そんなこと考える」
「百年後じゃなくて?」
「百年後なんて分からん」
ロアンは笑った。
「明日だって分からん」
「でしょうね」
「でも、来年の話くらいならしてもいい気になる」
エレナはしばらく黙っていた。
「変な花ね」
「ああ」
「変な人が育ててるから」
「うるさい」
それから町では、ときどき百年花の話が出るようになった。
真剣な話ではない。
冗談だ。
「ロアン、花あと何年だ!」
市場で声をかけられる。
「九十六年!」
「全然減らねえな!」
「一年に一年しか減らん!」
「もっと頑張れよ!」
「何をだ!」
笑い声が上がる。
別の日には酒場で聞かれた。
「俺、見られると思うか?」
「何歳だ」
「四十二」
「無理だな」
「即答すんな」
「百四十まで生きる気か」
「努力はする」
その言葉にロアンは吹き出した。
「それ、俺のだぞ」
「町の言葉になった」
「勝手に取るな」
戦争の話しかなかった町で、いつの間にか来年の話が増えた。
来年は市場の屋根を直そう。
来年は畑を広げよう。
来年、息子が帰ってきたら店を再開する。
来年、娘が十二になる。
来年はもっと麦が採れるといい。
百年花が直接何かをしたわけではない。
腹を満たしたわけでもない。
怪我を治したわけでもない。
ただ、そこにあった。
まだ咲かないまま。
まだ何十年も咲かないまま。
それでも人は、ときどきその花を見て、今日の次に明日があり、明日の次に来年があることを思い出した。
冬の終わり。
朝の光が庭へ差した。
百年花の枝先に、小さな芽がついていた。
ミナが見つけた。
「おじさん!」
「朝からうるさい」
「出てる!」
「何が」
「芽!」
ロアンは外へ出た。
確かに出ていた。
ほんの小さな緑。
爪の先ほどしかない。
「咲く?」
「咲かん」
「いつ?」
「あと九十五年くらい」
ミナは嫌そうな顔をした。
「長い」
「そういう花だ」
「私も見られない?」
「たぶんな」
「やだな」
「俺もだ」
ミナはしばらく芽を見た。
「じゃあ誰が見るの」
ロアンも見た。
答えは分からなかった。
百年後に誰がいるのか。
町があるのか。
国があるのか。
この花が残っているのか。
何も分からない。
「さあな」
ロアンは言った。
それから水差しをミナへ渡した。
「今日はお前やれ」
「量は?」
「いつもの半分」
「少ない」
「十分だ」
ミナは慎重に水を注いだ。
少しこぼした。
「こぼれてる」
「うるさい」
「根元だ」
「分かってる!」
ロアンは笑った。
朝の光の中で、土がゆっくり濡れていった。
春はまだ少し先だった。
それでも町のどこかでは、屋根を直す音がしていた。
パン屋からは、久しぶりに焼いた麦の匂いがした。
市場では誰かが、今年は豆を増やすと言っていた。
ミナは水をやり終えると、満足そうに器を置いた。
「来年、もっと大きくなる?」
「なるだろ」
「じゃあ見よう」
「ああ」
百年後ではなかった。
来年だった。
それで今は、十分だった。
第四部 先に行く人
それから、季節はいくつも過ぎた。
町の屋根から焦げ跡が消え、壊れていた東門も新しい石で組み直され、市場にはまた色のある布や果物が並ぶようになった。
戦争を知らない子供も増えた。
終戦のころ、まだ母親に抱かれていた赤ん坊が、数年後には石畳を走り回り、もう少し経つと市場の手伝いをし始めた。
パン屋の煙突からは毎朝煙が上がった。
鍛冶屋の音も戻った。
酒場ではまた、どうでもいいことで男たちが喧嘩をするようになった。
町は、元に戻ったわけではなかった。
死んだ者は戻らなかったし、片脚を失った男の脚も戻らなかった。
焼けた家を建て直しても、以前とまったく同じ家にはならなかった。
それでも人は住んだ。
飯を作った。
子供を育てた。
店を開けた。
そうしているうちに、戦争は少しずつ昔の出来事になった。
百年花も大きくなった。
もう苗とは呼べなかった。
幹はロアンの腕ほどの太さになり、枝は庭の一角へゆっくり広がっていた。
春には葉が増えた。
夏には濃い影を落とした。
秋には少し色を変えた。
冬には枝をさらした。
花だけは咲かなかった。
「あと何年?」
ある日、ミナが聞いた。
もう少女ではなかった。
髪をきちんと結い、腰には革職人の道具袋を提げている。
父親の仕事を手伝っていた。
「八十四年」
「まだそんなにあるの」
「お前が子供のころから言ってるだろ」
「子供のころは、八十四年ってもっと短いと思ってた」
「どんな感覚だ」
「だって一年が長かったから」
「今は?」
「短い」
ミナは百年花の幹を見上げた。
「嫌ね」
「何が」
「一年が短くなるの」
「そのうち一月も短くなるぞ」
「やめてよ」
「俺なんか一週間くらいで季節変わる」
「それは言いすぎ」
ロアンは笑った。
笑ったあと、腰を押さえた。
「痛いの?」
「少しな」
「座ったら?」
「まだ仕事中だ」
「爺さんになったね」
「お前もそのうちな」
「ならない」
「みんな言う」
そのころロアンは七十を越えていた。
髪はほとんど白くなった。
手の節は太くなり、冬になると指が曲げにくくなった。
庭仕事はまだできたが、一日働くと翌朝に腰が重くなった。
脚立へ上る回数も減った。
昔なら片手で持っていた土袋を、今は両手で抱えた。
エレナも同じように老いていた。
ただ、彼女はそれをロアンほど素直には認めなかった。
「塩取って」
夕食の卓でエレナが言った。
「そこだろ」
「届かない」
「前は届いてた」
「腕が短くなったのよ」
「そんな老い方あるか」
「じゃあ卓が広がった」
「家具が育つわけないだろ」
「百年花は育つじゃない」
「木だぞ」
「この卓も木よ」
ロアンは塩を渡した。
「屁理屈ばかり上手くなるな」
「あなたと長く暮らしたから」
二人はそんな話をしていた。
若いころより喧嘩は減った。
仲が良くなったというより、喧嘩をする場所がだいたい決まってきたからだった。
洗濯物の干し方。
塩の量。
ロアンが泥のついた靴で家へ入ること。
エレナが勝手に庭の枝を切ること。
夜中にロアンが布団を奪うこと。
そのくらいだった。
ある冬、エレナが咳をした。
最初は、ただの風邪だった。
いつものように湯を飲み、毛布を重ねれば治ると思っていた。
だが治らなかった。
春になっても咳が残った。
夏になるころには、台所へ立つ時間が短くなった。
「医者呼ぶぞ」
「もう呼んだでしょう」
「もう一回」
「同じこと言われるわよ」
「薬を変えてもらう」
「あなた、医者より偉くなったの?」
「庭師だ」
「関係ないでしょう」
それでも医者は呼んだ。
何度も。
薬草も煎じた。
食べやすいものも作った。
ミナが持ってきた蜂蜜も使った。
けれどエレナは少しずつ痩せた。
秋には、寝台から起きる時間の方が短くなった。
ロアンは仕事を減らした。
客の庭は若い庭師へ任せ、自分は家の周りだけを見るようになった。
「過保護ね」
「倒れられるよりましだ」
「もう倒れてるようなものよ」
「縁起でもないこと言うな」
「昔、あなたも言われてたでしょう」
「何を」
「百年花の前で。骨まで土になってるぞって」
「言った奴まだ生きてるぞ」
「なら今度言い返してきなさいよ」
「お前が元気になったら一緒に行く」
エレナは笑った。
ロアンも笑った。
笑ったあと、エレナが咳き込んだ。
ロアンは背中をさすった。
「水」
「いる」
「ぬるいやつ」
「分かってる」
「冷たいの嫌い」
「知ってる」
そういうことは、全部知っていた。
何十年も一緒に暮らしていれば、嫌でも覚える。
湯は熱すぎると飲まない。
薬は蜂蜜を少し入れた方が飲みやすい。
枕は高すぎると首が痛くなる。
寒いと言いながら足だけは布団から出す。
夜中に一度は水を欲しがる。
そのすべてをロアンは知っていた。
だから、知らないことの方が怖かった。
いつまで続くのか。
良くなるのか。
悪くなるのか。
春を越せるのか。
それは分からなかった。
ある午後、エレナが言った。
「窓、開けて」
「寒い」
「私は暑いの」
「病人に合わせたら俺が風邪ひく」
「健康な人が我慢しなさいよ」
「俺も老人なんだぞ」
「元気でしょう」
「腰痛い」
「それは昔から」
ロアンは文句を言いながら窓を開けた。
冷たい風が部屋へ入った。
エレナは気持ちよさそうに目を細めた。
窓の向こうには百年花が見えた。
葉はほとんど落ちていた。
黒い枝が冬空へ伸びている。
「大きくなったわね」
「ああ」
「最初、草みたいだったのに」
「お前も草って言ってたな」
「草だったもの」
「花だ」
「まだ咲いてないじゃない」
「そのうち咲く」
「あと何年?」
ロアンは少し考えた。
「七十九年くらい」
「長いわね」
「今さらだろ」
エレナはしばらく黙って庭を見ていた。
「私、見られないわね」
ロアンは答えなかった。
「ねえ」
「ああ」
「見られないわね」
「……俺もだよ」
エレナが顔を向けた。
「残念?」
「残念だ」
ロアンはすぐに答えた。
それは本心だった。
別に誰かのためだけに育ててきたわけではない。
自分だって見たかった。
どんな花なのか。
本当に咲くのか。
何色なのか。
香りはあるのか。
百年も待たせる価値があるほど美しいのか。
それを自分の目で確かめたかった。
エレナは小さく笑った。
「良かった」
「何が」
「あなた、たまに聖人みたいな顔するから」
「したことない」
「してるわよ」
「いつ」
「人の家の庭直して金いらんって言ったとき」
「あれは戦争直後だ」
「百年花の水を分けてたとき」
「余ってた」
「墓掘ったとき」
「みんな掘ってた」
「ほら、言い訳する」
エレナは笑い、それから窓の外を見た。
「私も見たいわ」
「ああ」
「どんな花なんでしょうね」
「知らん」
「赤?」
「分からん」
「青?」
「あるかもしれん」
「白かな」
「説明書なかったからな」
「本当にひどい買い物ね」
「半額だった」
「そこだけ覚えてるのね」
エレナは息を吐いた。
「でも」
「ん?」
「誰かは見られるのね」
ロアンは黙った。
保証はなかった。
七十九年もあれば、何でも起きる。
また戦争になるかもしれない。
病気が流行るかもしれない。
町そのものがなくなるかもしれない。
百年花が雷に打たれるかもしれない。
誰も水をやらなくなるかもしれない。
そもそも本当に百年で咲くという話自体、嘘かもしれなかった。
「分からん」
ロアンは言った。
「でしょうね」
エレナは少し笑った。
「じゃあ、そういうことにしておきましょうよ」
「何を」
「誰かが見るって」
「適当だな」
「いいのよ」
エレナは目を閉じた。
「未来なんて、だいたい適当なんだから」
その日はそれで終わった。
数日後、エレナは朝からほとんど目を開けなかった。
ロアンは椅子に座っていた。
ミナも来た。
医者も来た。
夕方には、外で雨が降り始めた。
エレナは一度だけ目を開けた。
「ロアン」
「いる」
「窓」
「寒いぞ」
「少しだけ」
ロアンは窓を少し開けた。
雨の匂いが入ってきた。
濡れた土の匂い。
春先に百年花を植えた日のような匂いだった。
「花、見える?」
「暗い」
「そう」
「明日なら見える」
「そうね」
エレナはそれ以上何も言わなかった。
夜が深くなるころ、呼吸が静かになった。
ロアンはしばらく気づかなかった。
気づいてからも、しばらく何もしなかった。
手を握った。
冷たくなるまで握っていた。
翌朝。
ロアンはいつもの時間に目を覚ました。
寝台の片側が空いていた。
それを見た。
何も考えないように台所へ行った。
湯を沸かした。
茶葉を二つの杯へ入れた。
湯を注いだ。
一つを自分の前へ。
もう一つを向かい側へ置いた。
そこまでしてから、手が止まった。
椅子には誰も座っていなかった。
「……ああ」
それだけ声が出た。
ロアンは茶を片づけなかった。
二つとも、そのままにした。
朝の光が少しずつ卓へ差した。
湯気が薄くなった。
一つの杯は誰にも触れられず、もう一つもロアンは飲まなかった。
やがて、両方とも冷めた。
どれくらい座っていたのか分からなかった。
外から鳥の声がした。
誰かが道を歩いた。
遠くでパン屋の扉が開く音がした。
町はいつも通り朝になっていた。
ロアンは立ち上がった。
棚から水差しを取った。
井戸へ行った。
水を汲んだ。
庭へ出た。
百年花の根元は少し乾いていた。
いつもの量をやった。
多くもなく。
少なくもなく。
それから家へ戻った。
机の引き出しから、古い日記帳を出した。
最初のころは庭仕事の記録だった。
天気。
植えた植物。
害虫。
肥料。
客の注文。
途中から戦争のことが混ざった。
芋。
ミナ。
町の復興。
エレナが塩を入れすぎた日。
ロアンが皿を割った日。
どうでもいいことばかりだった。
ロアンは新しい頁を開いた。
しばらく何も書けなかった。
やがて、ゆっくり文字を書いた。
エレナが死んだ。
そこで手が止まった。
もう一度書いた。
今日も花は咲かなかった。
少し考えた。
最後に一行。
明日も水をやる。
ロアンは筆を置いた。
窓の外では、百年花の枝先に雨粒が残っていた。
当然、花は咲いていなかった。
百年には、まだ遠かった。
第五部 水をやる人が増えた
エレナがいなくなってから、家は広くなった。
もちろん、壁が動いたわけではない。
台所から寝室までの歩数も、玄関から窓までの距離も変わらない。卓の大きさも、椅子の数も、戸棚の位置もそのままだったのに、一人で暮らし始めると、どういうわけか今まで使っていた場所まで遠くなったように感じられた。
特に夜が広かった。
夕食を食べる。
皿を洗う。
湯を沸かす。
それで、やることがなくなる。
以前ならエレナが何か喋った。
市場で誰と会ったとか、パン屋の息子がまた皿を割ったとか、ミナのところに縁談が来ているらしいとか、隣の夫婦が喧嘩をしていたとか、本当にどうでもいいことばかりだった。
ロアンは半分しか聞いていなかった。
今になって思えば、半分くらいはちゃんと聞いておけばよかった。
けれど、もう遅い。
だから夜になると日記を書くようになった。
昔より少し長く。
晴れ。
百年花、異常なし。
西側の枝を一本剪定。
パン屋から黒パンを買った。
塩が高い。
ミナが来た。
余計な世話を焼く。
そんなことを書いた。
エレナのことは、あまり書かなかった。
書こうとすると、何を書けばいいのか分からなかった。
悲しい、と書くのも違う気がした。
寂しい、と書けば近かったが、それだけでもなかった。
五十年以上一緒に暮らした人間がいなくなったというのは、胸に穴が空くような劇的なものではなく、家の中に小さな間違いが毎日ひとつずつ見つかるようなものだった。
茶を二杯淹れそうになる。
市場でエレナの好きだった果物を見て、買おうとしてから気づく。
洗濯物を取り込んだとき、女物が一枚もない。
夜中に目を覚まし、隣へ手を伸ばして、布団が冷たい。
そのたびに、
ああ、そうだった。
と思う。
それが何度も来た。
春が来た。
百年花には新しい葉が出た。
「爺さん」
ミナが庭へ入ってきた。
「誰が爺さんだ」
「あなた以外に誰がいるの」
「まだ七十代だ」
「十分よ」
ミナは結婚していた。
相手は町の大工だった。
戦後、壊れた家を直すために隣町から来て、そのまま住み着いた男で、声が大きく、笑うともっと大きくなる。
ロアンは最初、あまり気に入らなかった。
何が気に入らないのかとエレナに聞かれたとき、
「声がでかい」
と答えた。
エレナは、
「あなた、父親でもないでしょう」
と笑った。
結婚式には二人で出た。
あれから何年も経っている。
今ではミナの夫とも普通に酒を飲む。
「飯食べた?」
「食った」
「何を」
「パン」
「それだけ?」
「チーズも」
「野菜は?」
「昨日食った」
「昨日食べたら今日は食べなくていいものじゃないでしょう」
「お前、エレナみたいになってきたな」
ロアンが言うと、ミナは一瞬だけ黙った。
「……そう?」
「ああ。うるさいところが」
「褒められてないわね」
「褒めてない」
ミナは笑った。
ロアンも笑った。
その年の秋、ミナに子供が生まれた。
女の子だった。
ロアンは祝いに、小さな木の匙を作った。
庭師が作るものではないので、少し歪んだ。
「下手ね」
ミナが言った。
「返せ」
「やだ」
「なら文句言うな」
赤ん坊はロアンの顔を見て泣いた。
「泣いてるぞ」
「顔が怖いのよ」
「初対面だぞ」
「だからでしょう」
「失礼な赤ん坊だ」
その赤ん坊が三歳になるころには、ロアンの庭を走り回るようになった。
五歳になるころには、百年花の周囲で虫を探していた。
七歳になると、母親が昔使っていた小さな木の器を持ってきた。
「お水やる」
「多い」
「まだやってない」
「その器いっぱいは多い」
「お母さんはこれでやってたって」
「あいつも半分捨てさせてた」
「けち」
「親子だな」
少女は頬を膨らませた。
ロアンは器の水を半分捨てた。
「これくらい」
「少ない」
「十分だ」
少女が百年花へ水をやる。
少しこぼす。
ロアンは言った。
「根元へやれ」
「やってる」
「外れてる」
「うるさい」
その言い方まで母親に似ていた。
ロアンは思わず笑った。
「なに?」
「いや」
笑ってから、少しだけ胸が痛んだ。
エレナにも見せたかった。
そう思うことが増えた。
新しいパン屋ができた。
見せたかった。
市場に南の国から珍しい果物が入った。
食わせたかった。
広場に新しい噴水ができた。
一緒に文句を言いたかった。
ミナの娘が百年花へ水をやっている。
見せたかった。
エレナが死んだあとに町へ増えたものは、ロアンにとって嬉しいものであるほど、少しだけ寂しかった。
それでも、増えていくこと自体は嬉しかった。
町には新しい家が建った。
学校ができた。
戦争で片脚を失った男は、広場の近くで靴修理の店を始めた。
昔、避難民として町へ来た家族がパン屋を開いた。
戦争を知らない子供たちが、戦争で崩れた城壁の石へ腰掛けて昼飯を食べていた。
ロアンは、ときどきそれを眺めた。
エレナが見られなかったものばかりだった。
だから余計に、よく見た。
そしてロアン自身は、ゆっくり老いた。
最初に困ったのは腰だった。
朝、起き上がるのに時間がかかるようになった。
次に膝。
雨の前になると痛んだ。
それから指。
剪定鋏を長く握っていると痺れた。
庭師としてできない仕事が増えていった。
高い枝は若い者へ任せた。
大きな木の移植も断った。
石を運ぶ仕事もやめた。
それでも自分の庭だけは触った。
百年花も。
朝。
いつものように水差しを持って外へ出た。
腰を伸ばす。
「……痛っ」
誰もいないので、小さく言った。
百年花まで歩いた。
ところが。
「ん?」
土が濡れていた。
ロアンはしゃがんだ。
指で触る。
湿っている。
昨夜、雨は降っていない。
「何だ」
翌朝も濡れていた。
三日目。
ロアンは少し早く起きた。
窓の隙間から庭を見た。
ミナがいた。
水差しを持っている。
百年花へ水をやっていた。
ロアンは窓を開けた。
「おい!」
「うわっ!」
ミナが肩を跳ねさせた。
「何よ!」
「余計なことするな!」
「何がよ!」
「俺の仕事だ!」
「腰曲がってるじゃない!」
「曲がってない!」
「曲がってる!」
「量が違う!」
「毎朝それくらいやってるでしょう!」
「昨日は多かった!」
「細かい爺さんね!」
「庭師だからな!」
「もう半分引退してるでしょう!」
「半分は庭師だ!」
「じゃあ半分私がやる!」
窓越しにしばらく言い合った。
結局、その日からミナが時々水をやるようになった。
ロアンは許可していない。
ミナも許可を求めなかった。
そのうちミナの娘もやった。
近所の子供もやった。
ロアンが寝坊した朝には、誰かが勝手に庭へ入り、水をやって帰っていった。
「勝手に入るな」
ロアンは何度も言った。
誰も聞かなかった。
百年花は、いつの間にかロアン一人が世話をする植物ではなくなっていた。
けれどロアン自身は、そのことをあまり深く考えなかった。
そんなある年の夏、雨が降り続いた。
一日。
二日。
三日。
四日目になっても止まなかった。
川の水位が上がった。
町の低い場所では道が水に浸かった。
男たちが土嚢を積んだ。
家財を高い場所へ運んだ。
家畜を移した。
ロアンの家は川から少し離れていたが、庭の奥は低かった。
夜になって、水が入った。
最初は足首ほど。
それが少しずつ上がった。
「爺さん!」
ミナが来た。
「何してる!」
「何って、あんたを避難させに来たのよ!」
「まだ大丈夫だ!」
「大丈夫じゃない!」
ロアンは家から引っ張り出された。
百年花の根元まで水が来ていた。
「おい」
「いいから!」
「根が浸かる!」
「人間が先!」
「分かってる!」
高台の学校へ避難した。
夜中。
雨音を聞きながら、ロアンは眠れなかった。
戦争のときと同じだった。
自分には何もできない。
ただ待つ。
朝。
雨が少し弱くなった。
川の堤が一部崩れたという話が入った。
町の男たちは土嚢を積みに出ていった。
ロアンも行こうとした。
「座ってなさい」
ミナに止められた。
「まだ動ける」
「邪魔」
「何だと」
「転んだ爺さんを運ぶ人手が増えるでしょう」
正論だった。
腹が立った。
昼近く。
ロアンはとうとう我慢できず、杖をついて家へ戻った。
庭は水浸しだった。
泥が流れ込んでいる。
百年花の根元まで濁った水が来ていた。
その周囲に、人がいた。
若い男が四人。
女が二人。
ミナの夫もいる。
土嚢を積んでいた。
「おい!」
ロアンが叫んだ。
「何やってる!」
一人が振り返った。
「見りゃ分かるだろ!」
「家の方をやれ!」
「やってる!」
「川の方は!」
「人いる!」
「こんなもん後でいい!」
若者が土嚢を置いた。
「後じゃ遅いだろ!」
ロアンは言葉を失った。
その言葉を、昔どこかで聞いた気がした。
「こんなのより家守れ!」
「こっちは百年待ってんだぞ!」
「まだ四十年だ!」
ロアンが怒鳴ると、若者も怒鳴り返した。
「じゃあ四十年無駄になるだろ!」
誰かが笑った。
「そういう問題か?」
「知らねえよ!」
「早く積め!」
泥水の中で、若者たちは土嚢を運んだ。
ミナの夫が杭を打った。
女たちは土を袋へ詰めた。
誰もロアンへ相談しなかった。
誰も許可を求めなかった。
誰も、これは未来のためだとか、希望を守るのだとか、そんなことは言わなかった。
ただ、
四十年も育ててきたものを、ここで駄目にするのは惜しい。
それだけだった。
ロアンは百年花を見た。
太くなった幹。
戦争で折れた跡。
何度も剪定した枝。
ミナが子供のころ水をこぼした土。
エレナと眺めた窓。
その周囲へ、ロアンの知らない若者たちが土嚢を積んでいる。
そのうちの一人は、戦争が終わったあとに生まれた男だった。
ロアンが百年花を買った日には、この世にすらいなかった。
「爺さん!」
「なんだ!」
「そこ邪魔!」
「俺の庭だぞ!」
「だから邪魔なんだよ!」
「何だその言い方は!」
「転ぶぞ!」
「転ばん!」
次の瞬間、足が泥に滑った。
「うおっ」
三人に支えられた。
「ほら!」
「今のは泥が悪い!」
「帰れ!」
「うるさい!」
結局、ロアンは家の軒下へ座らされた。
そこから皆が働くのを見た。
雨は夕方まで続いた。
水は土嚢の手前まで来た。
それ以上は上がらなかった。
翌朝。
川の水位が下がり始めた。
町にはかなりの被害が出た。
床上まで浸かった家もあった。
畑も荒れた。
家畜も何頭か流された。
百年花は残った。
根元は泥だらけだった。
葉も何枚か落ちた。
けれど、生きていた。
ロアンは杖をつきながら、その前へ立った。
ミナも来た。
「残ったね」
「ああ」
「良かった?」
「まあな」
「もっと喜びなさいよ」
「家の掃除が先だ」
「そうね」
二人で泥を掻き出した。
ロアンは途中で腰が痛くなり、椅子へ座った。
ミナが続けた。
その娘も来た。
近所の若者も手伝った。
百年花の周囲に積まれた土嚢を外すころには、昼になっていた。
ロアンは一つの土嚢に腰掛けた。
「なあ」
「何?」
ミナが泥のついた手で額を拭った。
「俺、誰にも頼んでないよな」
「何を?」
「これ守れって」
「言ってないね」
「水やれとも」
「私は言われたことある」
「いつ」
「子供のころ」
「一回だけだろ」
「そうだったかも」
ロアンは百年花を見た。
「変だな」
「何が?」
「俺の花だったはずなんだが」
ミナも百年花を見た。
「まだそう思ってたの?」
ロアンは顔を向けた。
「違うのか」
「知らない」
「何だそれ」
「でも昨日守ってた人たち、爺さんのためじゃないと思うよ」
「分かってる」
「花のためでもないかも」
「じゃあ何だ」
ミナは肩をすくめた。
「ずっとあるからじゃない?」
ロアンは黙った。
ずっとあるから。
それだけ。
毎朝誰かが水をやった。
春になれば葉が出た。
夏には影を落とした。
秋には葉を落とした。
冬には枝だけになった。
花は咲かない。
何の役にも立たない。
それでも、ずっとそこにあった。
町の子供たちの中には、生まれたときから百年花があった者もいる。
ロアンが植えたことすら知らない子供もいる。
その日の夕方。
ロアンは日記を開いた。
洪水。
川が増水。
東側の畑に被害。
百年花、水没しかける。
若い連中が勝手に土嚢を積んだ。
余計なことをする。
そこまで書いた。
少し考えた。
もう一行書いた。
助かった。
さらに少し考えた。
筆を置きかけて、また持った。
どうやら、俺が水をやらなくても、誰かがやるらしい。
そこまで書いて、ロアンは窓を見た。
夕暮れの庭に百年花が立っている。
その根元へ、小さな人影が走ってきた。
ミナの娘だった。
手に水差しを持っている。
「今日はやらなくていいぞ!」
ロアンは窓から叫んだ。
「雨いっぱい降ったから!」
少女が叫び返した。
「知ってる!」
「じゃあ何してる!」
「見に来ただけ!」
「ならいい!」
「うるさい!」
少女は百年花の幹を一度撫でて、走って帰っていった。
ロアンはその背中を見送った。
それから日記へ戻り、最後に小さく書いた。
エレナ。
お前が言った通りになりそうだ。
誰かは見るかもしれん。
書いてから、少し気恥ずかしくなった。
線を引いて消そうとした。
やめた。
日記を閉じた。
翌朝。
ロアンはいつもの時間より少し遅く目を覚ました。
腰が痛かった。
昨日の泥掃除が効いたらしい。
「歳だな」
誰もいない家で呟いた。
ゆっくり服を着た。
水差しを取ろうとして、やめた。
窓を開ける。
百年花の根元では、昨日の若者の一人がしゃがんでいた。
土の状態を指で確かめている。
ロアンは声をかけなかった。
若者もこちらに気づかなかった。
やがて立ち上がり、何事もなかったように仕事へ向かっていった。
ロアンは窓辺に立ったまま、その背中を見送った。
百年花はまだ咲いていない。
あと六十年ほど。
ロアンが見ることはない。
それはもう分かっていた。
けれど、その朝初めて、ロアンは自分がいなくなったあとの水やりを、ほんの少しだけ想像することができた。
誰かが来る。
土を触る。
乾いていれば水をやる。
濡れていれば何もしない。
それだけ。
名前も知らない誰かが。
ロアンは窓を閉めた。
湯を沸かした。
今度は最初から、茶葉を一人分だけ入れた。
そして少し考えてから、もう一つの空の杯を戸棚の奥へしまった。
長いこと、しまえなかった杯だった。
外では朝の光が百年花の葉を照らしていた。
今日も咲いていなかった。
それでよかった。
第六部 百年後があることにして
八十を過ぎると、できなくなったことを数える方が簡単になった。
朝、寝台から起き上がる。
できる。
ただし時間がかかる。
服を着る。
できる。
ただし靴紐を結ぶのは難しい。
湯を沸かす。
できる。
ただし鍋いっぱいの水は持てない。
庭へ出る。
できなくなった。
それが最後まで、いちばん腹が立った。
「車椅子なら出られるでしょう」
ミナが言った。
「庭は土だ」
「板を敷けばいい」
「邪魔だ」
「誰に?」
「俺に」
「あなたが出るためでしょう」
「景観が悪い」
「庭師って本当に面倒ね」
「今さら気づいたのか」
結局、板は敷かなかった。
ロアンは窓際の椅子へ座るようになった。
そこからなら百年花が見える。
ずいぶん大きくなった。
庭の半分近くへ枝を伸ばし、夏には濃い影を落とした。幹には戦争で折れた跡がまだ残っていて、洪水の年についた傷もある。
人間なら皺だらけの老人だろう。
けれど花にとっては、まだ途中だった。
あと何年だったか。
ロアンは、ときどき分からなくなった。
日記を開けば分かる。
けれど、最近は日記の文字も少し見づらい。
「あと五十何年だったかな」
「五十三年」
ミナが答えた。
「よく覚えてるな」
「毎年聞いてるから」
「俺が?」
「町のみんなが」
ミナも老けた。
もちろんロアンよりは若い。
けれど髪には白いものが混じり、目尻には皺が増え、昔のように木戸を飛び越えて庭へ入ってくることもなくなった。
「お前も婆さんになったな」
「帰るよ」
「待て」
「何よ」
「事実だろ」
「自分の顔を鏡で見てから言って」
「最近見てない」
「見た方がいい」
「嫌だ」
「でしょうね」
ミナは笑った。
その笑い方は、子供のころからあまり変わらなかった。
窓の外では、ミナの孫が百年花の下を走っていた。
もう水やりをしているのは誰なのか、ロアンには把握できていなかった。
ミナの日もある。
その娘の日もある。
近所の若者の日もある。
町の庭師が様子を見に来ることもある。
学校帰りの子供が水差しを持っていることもある。
いつの間にか、庭の木戸には鍵をかけなくなった。
そもそもロアン自身が開けに行けないからだったが、誰かが勝手に入り、勝手に土を触り、勝手に枯れ枝を拾っていった。
「俺の庭なのにな」
「まだ言ってる」
「税は俺が払ってる」
「そこは現実的ね」
「大事だぞ」
昼になると、パン屋から焼いた麦の匂いが流れてきた。
昔のパン屋ではない。
戦後にできた店でもない。
その息子が継いでいる。
店先には甘い菓子まで並ぶようになった。
戦争中、水で薄めた豆の煮込みを食べていたころには考えられなかった。
ロアンはその匂いを嗅ぐたびに、エレナへ言いたくなった。
最近のパンは柔らかすぎる。
お前なら好きそうだ。
そう思う。
声には出さない。
エレナが死んでから何年も経った。
悲しみが消えたわけではない。
ただ、形が変わった。
最初は家中にいた。
台所にも寝室にも、卓の向かいにもいた。
今では、ときどきだった。
パンの匂い。
雨の日。
窓を開けたとき。
百年花を見るとき。
そういうところにエレナはいた。
ある夏の日。
ミナが二つの杯を持ってきた。
「茶?」
「ああ」
「珍しい」
「何が」
「お前が淹れるの」
「嫌なら飲むな」
「飲む」
ロアンは受け取った。
ぬるかった。
「ぬるい」
「老人に熱いもの飲ませると危ないでしょう」
「老人扱いするな」
「八十過ぎて何言ってるの」
二人で窓の外を見た。
百年花の葉が風に揺れていた。
その下で子供が二人、何かを拾っている。
「爺さん」
「なんだ」
「本当に咲くと思ってる?」
ロアンは茶を飲んだ。
「知らん」
即答だった。
ミナが吹き出した。
「そこは信じてるって言いなさいよ」
「何でだ」
「何十年育てたと思ってるの」
「だからって咲くとは限らん」
「夢がない」
「植物に夢で花は咲かん」
ロアンは窓の外を見た。
「そもそも、あの店主も怪しかった」
「今さら?」
「百年花だって言ってたが、本当かどうか分からん」
「ただの木だったらどうするの」
「腹立つな」
「でしょうね」
「店主もう死んでるしな」
「文句言えないね」
「逃げ切りやがった」
二人で笑った。
笑い終わると、少し静かになった。
「じゃあ」
ミナが言った。
「何で続けたの?」
ロアンは答えなかった。
昔なら、
買っちまったから。
生きてるから。
枯らすのが嫌だから。
そう答えただろう。
どれも嘘ではない。
けれど今なら、もう少し違うことも分かった。
窓の外を見た。
百年花。
その向こうの家。
煙突から煙が出ている。
道を荷車が通る。
子供が走る。
パン屋から声がする。
どこかで夫婦が喧嘩している。
内容まで聞こえない。
どうせ、くだらないことだろう。
「百年後があることにして生きた方が」
ロアンは言った。
そこで一度止まった。
別に格好いい言葉を探しているわけではなかった。
ただ、長く生きすぎて、言葉にするのが面倒になっていた。
「今日が少し楽しかったんだよ」
ミナは黙っていた。
「戦争のときも?」
「ああ」
「エレナさんが死んだときも?」
「……あのときは楽しくない」
「でしょうね」
「でも」
ロアンは杯を膝へ置いた。
「明日、水やることはあった」
ミナが百年花を見た。
「来年、芽が出るか見ることもあった。五年後、枝がどこまで伸びるか考えることもあった。お前が大人になるのも見た。結婚もした。子供も生んだ」
「孫もいるよ」
「そうだった」
「忘れないでよ」
「多いんだよ」
「二人しかいない」
「十分だ」
ロアンは笑った。
「百年後が本当にあるかどうかなんて、最初から知らん」
「うん」
「明日だって知らん」
「うん」
「でも、ないと思って生きるより、あることにして生きた方が、俺には合ってた」
ミナは泣かなかった。
ただ鼻をすすった。
「変な爺さん」
「知ってる」
その秋、ロアンは日記を整理した。
何冊もあった。
若いころから書いていた庭仕事の記録。
百年花を買った日。
戦争。
避難。
焼けた町。
芋。
エレナの病気。
ミナの結婚。
洪水。
腰痛。
天気。
虫。
パンの値段。
ほとんど、どうでもいいことだった。
ロアンは木箱を用意させた。
「何これ」
ミナが聞いた。
「日記」
「知ってる。何で箱に入れてるの」
「埋める」
「どこに」
「あれの近く」
百年花を指した。
「なんで?」
「置いといても邪魔だろ」
「それだけ?」
「それだけ」
ミナは疑わしそうな顔をした。
「百年後の人に読んでほしいとか?」
「恥ずかしいから読むな」
「じゃあ燃やせば?」
「それは嫌だ」
「面倒ね」
「だから埋める」
箱には油紙を巻いた。
湿気を防ぐためだった。
ロアンは自分では穴を掘れない。
町の若い庭師に頼んだ。
「根を傷つけるなよ」
「分かってます」
「そこは太い根がある」
「分かってます」
「もう少し右」
「分かってますって」
「浅い」
「爺さん」
「なんだ」
「うるさいです」
ミナが笑った。
ロアンも笑った。
箱は百年花から少し離れた場所へ埋められた。
目印はつけなかった。
翌年。
ロアンはほとんど寝台から起きられなくなった。
それでも窓の近くへ寝台を移してもらった。
百年花が見える。
春。
新芽が出た。
夏。
葉が茂った。
秋。
落ちた。
冬。
枝だけになった。
そして、もう一度春が来た。
ある朝。
ロアンは目を覚ました。
身体がひどく重かった。
窓の外は明るい。
ミナが来ていた。
「起きてる?」
「ああ」
「水飲む?」
「あとでいい」
ロアンは窓を見た。
「今日も咲かなかったな」
ミナも見た。
「咲かないね」
「あと何年だ」
「五十一年」
「長いな」
「今さら?」
「ああ」
ロアンは少し笑った。
呼吸が浅かった。
それでも苦しいというほどではなかった。
ただ、眠かった。
「ミナ」
「なに」
「水」
「飲む?」
「違う」
ミナは少し黙った。
「花?」
「ああ」
「もうやったよ」
「誰が」
「うちの孫」
「量は」
「ちゃんと教えてある」
「多くないか」
「大丈夫」
「根腐れするぞ」
「大丈夫だって」
ロアンは目を閉じた。
「ならいい」
しばらくして、また目を開けた。
百年花が見えた。
風で葉が揺れていた。
最初に市場で見たときは、葉が五枚しかなかった。
土も乾いていた。
半額だった。
エレナに笑われた。
近所の男にも笑われた。
百年後なんて国があるかも分からないと言われた。
その通りだった。
今だって分からない。
五十一年後。
この町があるか。
この国があるか。
花があるか。
誰も知らない。
「まあ」
ロアンが小さく言った。
「明日だ」
ミナは聞こえた。
何も答えなかった。
ロアンはもう一度目を閉じた。
その日の夕方まで眠った。
夜、一度だけ目を覚まして水を飲んだ。
それから、また眠った。
翌朝。
ロアンは起きなかった。
窓は閉じていた。
椅子には昨日の上着が掛かっていた。
卓には、読みかけの本。
壁には古い剪定鋏。
庭には百年花。
朝早く、ミナの孫が木戸を開けた。
小さな水差しを持っていた。
家の中がいつもより静かなことには、まだ気づいていなかった。
少女は百年花の前へしゃがんだ。
指で土を触った。
少し乾いている。
水をやった。
いつもの量。
多くもなく。
少なくもなく。
その朝も、花は咲かなかった。
第七部 名前がなくなっても
ロアンが死んだ春、百年花はいつも通り葉を出した。
葬儀の日も、花は咲かなかった。
町の人間はそれを少し可笑しそうに、少し寂しそうに眺めた。
「結局、爺さんは見られなかったな」
誰かが言った。
「そりゃそうだろ。あと五十年あるんだから」
「本当に五十年か?」
「五十一だったかな」
「どっちだよ」
そんな話をしながら、皆、墓地から帰っていった。
ミナだけが少し遅れて庭へ戻った。
ロアンの家は、まだ何も片づけられていなかった。
窓際の椅子。
古い剪定鋏。
壁の棚。
使い込まれた水差し。
それらが全部残っているのに、家の中にはもうロアンだけがいなかった。
ミナは庭へ出た。
百年花の根元へしゃがむ。
土を触る。
湿っている。
「やった?」
後ろから孫が聞いた。
「何を?」
「水」
「まだ」
「じゃあ私やる」
「昨日もやったでしょう」
「今日は私の日だもん」
「誰が決めたの?」
「みんな」
「みんなって誰よ」
孫は答えず、水差しを持ってきた。
ミナは止めなかった。
その年の夏。
ロアンの家は町の庭師見習いが使うことになった。
正式に誰かが決めたわけではない。
空き家のままにしておくより、庭を見られる人間が住んだ方がいい。
それだけだった。
若い庭師は百年花について、ロアンほど細かくなかった。
枝の形にも少し無頓着だった。
水の量も、たぶんロアンが見れば文句を言った。
けれど枯らしはしなかった。
春には肥料を入れた。
夏には虫を取った。
冬には根元へ藁を敷いた。
そして翌年も。
その次の年も。
ミナも水をやった。
娘もやった。
孫もやった。
近所の子供も、気が向けばやった。
いつしか、誰が担当なのか誰も分からなくなった。
朝、土が乾いていれば誰かが水をやる。
濡れていれば何もしない。
ただそれだけになった。
ロアンの死から十年。
ミナは杖をつくようになった。
娘が言った。
「もう私たちに任せなよ」
「まだ歩ける」
「それ、昔ロアン爺さんも言ってた」
「私はあそこまで頑固じゃない」
娘は笑った。
「同じこと言ってるよ」
「うるさい」
ミナは庭へ行った。
百年花はさらに大きくなっていた。
幹は二人で抱えるほどではない。
けれど子供が隠れるには十分な太さだった。
枝の下には木陰ができた。
夏になると、老人たちがそこへ椅子を持ってきた。
誰かが言った。
「昔はこんなに大きくなかったよな」
「当たり前だ」
「誰が植えたんだっけ」
「ロアン」
「誰?」
若い男が聞いた。
ミナは顔を上げた。
「庭師」
「どんな人?」
「うるさい人」
「それだけ?」
「細かい」
「他には?」
ミナは少し考えた。
「……水の量にうるさかった」
皆が笑った。
ミナも笑った。
それでよかった。
ロアンを立派な人物として語る気にはなれなかった。
英雄でもない。
聖人でもない。
ただ、変な花を買った庭師だった。
それからさらに十年が過ぎた。
ミナは朝、庭へ行けない日が増えた。
娘が代わりに行った。
孫が行った。
孫の子供も、ときどきついてきた。
百年花の下では、学校帰りの子供たちが遊んだ。
かくれんぼ。
石投げ。
枝へ縄をかけて遊ぼうとして、大人に怒られた。
「折れるでしょう!」
「こんな太いの折れないよ!」
「百年待ってるんだから大事にしなさい!」
子供が聞いた。
「何を待ってるの?」
「花」
「咲かないの?」
「まだ」
「いつ?」
「あと……三十年くらい?」
「長っ!」
その言葉に、大人たちは笑った。
昔、ロアンも同じことを言われていた。
誰もそのことを知らなかった。
やがてミナも死んだ。
冬の終わりだった。
葬儀の日、百年花は枝だけだった。
誰かが言った。
「ミナ婆さん、ずっと世話してたよな」
「子供のころからだって」
「最初に植えた人知ってたらしい」
「名前何だっけ」
「ロアン?」
「そうだったかな」
少しずつ、名前が曖昧になった。
ロアン。
ロオン。
ローン。
ある記録にはロアン。
別の古い帳簿にはロアン・ベルと書かれていた。
本当に同じ人物なのか分からなかった。
エレナの名前は、もっと早く忘れられた。
彼女が百年花を植えたわけではない。
町の役人でもない。
戦争の英雄でもない。
記録に残る理由がなかった。
ただロアンの妻だった。
ただ一緒に笑った人だった。
だから忘れられた。
けれど、百年花は残った。
さらに年月が流れた。
町はまた大きくなった。
古い城壁の外にも家が建った。
市場には遠い国の品物が並ぶようになった。
石畳は一部舗装し直され、東門の脇には新しい見張り塔が建った。
学校も大きくなった。
戦争を知る者はほとんどいなくなった。
そして、また戦争になった。
最初の戦争とは違う国が相手だった。
理由も違った。
けれど戦争になれば、町の空気は似たものになった。
兵が通る。
麦が上がる。
若者が消える。
市場が静かになる。
役所には毎日新しい紙が貼られる。
ある日、町の防衛を担当する役人が、百年花のある庭へ来た。
「この木」
役人が言った。
「切れば使えるな」
庭師が顔を上げた。
「何にです」
「防壁補強。枝だけでもかなり取れる」
百年花はもう大木に近かった。
幹も太い。
枝も多い。
木材として使えないわけではない。
戦争中。
物資不足。
使えるものは使う。
正論だった。
「切らない方がいいですよ」
庭師が言った。
「理由は?」
「百年花です」
「知っている」
「あと十五年くらいで咲くらしいです」
「らしい?」
「昔からそう言われています」
役人は木を見上げた。
「戦争は今年だ」
「はい」
「花は十五年後」
「はい」
「なら今は木材の方が大事だ」
庭師は黙った。
役人の言うことは正しい。
兵士の命。
町の防壁。
家。
食料。
花より優先するものはいくらでもある。
その日の夕方、広場で話し合いがあった。
「切ればいい」
そう言う者もいた。
「いや、残せ」
そう言う者もいた。
「ただの木だろ」
「ただの木じゃない」
「じゃあ何だよ」
誰かが聞いた。
若い男が立った。
まだ二十代だった。
百年花を植えた人間の名前すら知らない。
「なんで残したい?」
聞かれた。
若者は困った顔をした。
「……分からない」
「分からないのかよ」
「でも」
少し考えた。
「昔から、水やってるから」
広場が静かになった。
誰かが笑った。
「それ理由か?」
「知らねえよ」
若者も笑った。
「でも俺の婆さんもやってたし、その前も誰かやってたんだろ」
「だから切るな?」
「まあ」
若者は頭を掻いた。
「俺らの代で終わらせるの、なんか嫌じゃないか」
それだけだった。
結局、百年花は切られなかった。
代わりに、古い倉庫を解体した。
倒壊しかけていた家も木材へ回した。
百年花も一部の枝を剪定し、防壁には使わないことになった。
戦争は二年で終わった。
町は多少傷ついた。
それでも残った。
百年花も残った。
あと十三年。
あと十年。
あと七年。
数字が減るにつれ、町の人間は少しずつ本気になった。
「本当に咲くのか?」
「分からない」
「記録ある?」
「古い庭師の日誌にあるらしい」
「どこ?」
「町の倉庫じゃないか」
「探した?」
「面倒だから探してない」
「百年待ってそれかよ」
あと五年。
百年花の周囲に、簡単な柵が作られた。
子供が枝を折らないように。
あと三年。
町の学校で、百年花について調べる授業が行われた。
誰が植えたのか。
いつ植えたのか。
本当に百年で咲くのか。
記録は曖昧だった。
戦争で焼けた文書も多い。
洪水で失われた記録もある。
町の古い帳簿。
市場の取引記録。
庭師組合の記録。
教会の死亡記録。
いくつも調べた。
そして、ある古い紙に名前が残っていた。
ロアン。
庭師。
百年花購入。
それだけ。
「この人が植えたの?」
子供が聞いた。
「たぶん」
「どんな人?」
教師は答えられなかった。
記録には何もない。
英雄ではない。
役人でもない。
王族でもない。
歴史書に載るような人物ではなかった。
「庭師だったみたい」
「それだけ?」
「それだけ」
子供は少し残念そうな顔をした。
それから百年花を見た。
巨大になった幹。
何十年分もの傷。
戦争。
洪水。
冬。
夏。
その全部を越えて立っている。
あと一年。
町中が少し騒がしくなった。
本当に咲くのか。
咲かなかったらどうする。
百年という話が嘘だったら。
百一年かもしれない。
百十年かもしれない。
そもそも花など咲かないかもしれない。
誰も分からない。
そして百年目の春。
まだ寒さの残る朝。
いつものように一人の子供が庭へ来た。
水差しを持っていた。
土を触る。
少し乾いている。
水をやる。
立ち上がる。
帰ろうとした。
そこで足を止めた。
「……あれ?」
枝の先。
葉の間に、丸いものがあった。
小さい。
親指の先ほど。
緑色。
まだ固い。
子供はしばらく見た。
近づいた。
「……蕾?」
その日の昼には、町中が知っていた。
百年花に蕾がついた。
学校の子供が走って見に来た。
店を抜け出した大人も来た。
杖をついた老人も来た。
役人まで来た。
「本当に蕾か?」
「たぶん」
「触るな!」
「触ってない!」
「押すな!」
「見えないんだよ!」
「百年待ったんだから一日くらい待て!」
「俺は百年待ってない!」
「誰も待ってない!」
笑い声が上がった。
その日の夕方。
蕾は少し膨らんだ。
翌朝。
さらに大きくなった。
三日目。
先端に色が見えた。
白とも、薄い金とも見える。
そして町の古い記録を調べていた教師が、一枚の紙を持って庭へ来た。
「見つかった」
皆が振り返った。
「何が?」
「植えた人」
「ロアンだろ」
「その先」
教師は古い記録を広げた。
字は薄い。
端は破れている。
けれど読めた。
ロアン。
庭師。
戦後復興時、共同墓地造成に参加。
町の植栽管理。
それだけ。
「……これだけ?」
「これだけ」
「百年花のことは?」
「ない」
「何で?」
「知らないよ」
皆、少し拍子抜けした顔をした。
百年後まで残るほどの花を植えた人物なら、もっと何かあると思っていた。
偉大な言葉。
立派な功績。
特別な理由。
何もなかった。
ただの庭師。
ロアン。
それだけ。
その夜。
百年花の周囲には人が集まった。
明日咲くかもしれない。
今夜かもしれない。
誰にも分からない。
老人が椅子を持ってきた。
若者が酒を持ってきた。
子供は毛布にくるまった。
商人は屋台を出した。
「商売するなよ」
「百年に一度だぞ」
「まだ咲いてない」
「だから今から売るんだよ」
誰かが笑った。
夜は冷えた。
それでも人は帰らなかった。
百年花の枝先。
一つの蕾。
誰もロアンを知らない。
エレナも知らない。
ミナも知らない。
それでも水だけは百年続いた。
そして今。
町中の人間が、その続きを待っていた。
第八部 百年後
花は、夜明け前に咲いた。
誰も、その瞬間を見ていなかった。
見逃したわけではない。
百年も待ったのだからと、町の人間はずいぶん粘った。
老人たちは椅子を持ち込み、若者は毛布へくるまり、子供たちは最初こそ興奮していたものの、夜半を過ぎるころには親の膝で眠り始めた。
酒を持ち込んだ男たちは、三杯目あたりから花の話をしなくなり、昔の恋人の話や仕事の愚痴を始めた。
屋台を出した商人は、
「百年花まんじゅう!」
などという、百年花とは何の関係もない菓子を売っていた。
「中に花入ってるの?」
子供に聞かれ、
「入ってるわけないだろ」
と即答して叱られていた。
夜が深くなるにつれ、人は少しずつ減った。
「朝までいるんじゃなかったのか」
「明日仕事なんだよ」
「百年に一度だぞ」
「仕事は毎日なんだよ」
そう言って帰る者。
「腰が痛い」
と立ち上がれなくなる老人。
「だから家で待てって言ったでしょう」
と妻に怒られる老人。
結局、最後まで残った者も、夜明け前のほんの短い時間だけ眠った。
そして。
朝。
最初に気づいたのは、七歳の少女だった。
夜中に眠ってしまい、母親に背負われて一度家へ帰った子供だった。
目を覚ますとまだ薄暗く、母親は寝ていた。
けれど少女は昨日の蕾が気になって仕方がなかった。
一人で服を着た。
靴を履いた。
家を抜け出した。
水差しを持って。
百年花の庭へ着いた。
朝靄が低く漂っていた。
人はまだほとんど起きていない。
昨夜使われた椅子が散らばり、空になった杯が卓の上に残り、誰かが忘れた毛布が柵に引っかかっていた。
少女はいつものように根元へ行った。
しゃがむ。
土へ指を入れる。
湿っている。
「今日は、いらないか」
水差しを置いた。
立ち上がった。
そのとき。
白いものが見えた。
少女は目を細めた。
枝の先。
昨日まで丸かった蕾が、なくなっていた。
代わりに。
花があった。
大きくはなかった。
人の顔ほどもない。
両手で包めるくらい。
花弁は細長く、幾重にも重なっていて、中心に近づくほど淡い金色を帯び、外側は夜明けの光を吸ったような柔らかい白だった。
風が吹くと、花弁がわずかに震えた。
香りもあった。
強くはない。
雨上がりの草と、少し甘い蜜を混ぜたような匂い。
百年待たせる花なのだから、もっとすごいものだと、誰もがどこかで思っていた。
光を放つとか。
夜空まで染めるとか。
町中に香りが満ちるとか。
そんなことは何もなかった。
ただ。
「……きれい」
少女は言った。
それだけだった。
やがて一人が来た。
そして二人。
三人。
「咲いてる」
「え?」
「咲いてるぞ!」
声が広がった。
昨日より速かった。
窓が開いた。
戸が開いた。
通りを走る足音が増えた。
「咲いたって!」
「本当か!」
「待て、靴!」
「靴なんか後でいい!」
「履け!」
数分もしないうちに庭へ人が集まり始めた。
「押すな!」
「見えない!」
「子供を前へ出せ!」
「俺も見たい!」
「爺さんが子供に勝とうとするな!」
「八十まで待ったんだぞ!」
「百年じゃないだろ!」
「いいから見せろ!」
誰かが笑った。
老人が泣いた。
「何で泣いてんだ」
「知らん」
「知ってる人いたのか?」
「誰を」
「植えた人」
「知らん」
「じゃあ何で」
「百年だぞ」
「だから?」
「知らん!」
また笑いが起きた。
パン屋が店を開けた。
焼き上がったパンの匂いが通りへ流れた。
昨日の屋台商人は寝不足の顔で戻ってきて、
「百年花まんじゅう! 開花記念!」
と叫んだ。
「昨日と同じだろ!」
「値段が違う!」
「上げるな!」
「記念価格だ!」
「高くなってるじゃないか!」
花の下で夫婦喧嘩も始まった。
「あなた、昨日あれだけ飲むなって言ったでしょう!」
「百年に一度なんだぞ!」
「あなたの酒は毎日でしょう!」
「昨日は特別だ!」
「毎日そう言ってる!」
赤ん坊が泣いた。
誰かが酒をこぼした。
犬が走り込んだ。
子供が追いかけた。
教師は人を押し分けながら、花弁の数を数えようとしていた。
「触るなよ!」
「触ってない!」
「近い!」
「記録なんだ!」
「百年待って最初にやることがそれか!」
誰かが腹を抱えて笑った。
朝日が昇った。
花の白が、少しだけ金色に変わった。
それは確かに美しかった。
けれど。
それ以上に。
町がうるさかった。
生きている人間の声で、うるさかった。
百年前。
この場所に一本の苗を植えた男は、この光景を知らない。
このパン屋を知らない。
この子供たちを知らない。
この夫婦を知らない。
赤ん坊の名前も知らない。
町の新しい東門も知らない。
新しくできた学校も知らない。
もう存在しない店もある。
知らない道もある。
知らない家もある。
知らない墓もある。
それでも。
町は、あった。
人がいた。
子供がいた。
笑う者がいた。
泣く者がいた。
腹を空かせる者がいた。
働く者がいた。
喧嘩をする夫婦がいた。
朝になればパンを焼く人間がいた。
そのことだけで、百年という時間には十分すぎるほどのものが詰まっていた。
花は昼まで咲いていた。
午後になると、外側の花弁が少しずつ落ち始めた。
「もう?」
子供が残念そうに言った。
「百年待って一日なの?」
「そうみたいだな」
「短い」
「花なんてそんなもんだ」
老人が言った。
「でも、もったいない」
「そうだな」
「百年なのに」
「だからいいんじゃないか」
「なんで?」
「知らん」
老人は笑った。
夕方。
花弁は半分ほど散った。
白い花びらが根元へ落ちていた。
その一枚を拾おうとした子供が、何かにつまずいた。
「痛っ」
「どうした?」
「ここ、変」
土が少し盛り上がっていた。
百年花の根が、長い年月の間に地面を押し上げていた。
その横に。
腐りかけた木の角が見えた。
「何だこれ」
庭師が土を払った。
「箱?」
皆が集まった。
「掘っていいのか?」
「根を傷つけるなよ」
「分かってる」
「もう少し右」
「分かってるって」
誰かが笑った。
「何だよ」
「いや。昔の庭師も、こんな感じだったのかなと思って」
「知らないだろ」
「まあな」
慎重に土を掘った。
古い木箱が出てきた。
表面はかなり腐っていた。
けれど、内側には油紙が何重にも巻かれていた。
それを開く。
本が入っていた。
一冊。
二冊。
三冊。
もっと。
古い日記だった。
「字、読める?」
「見せて」
教師が受け取った。
表紙の内側。
名前があった。
ロアン。
庭師。
皆が顔を見合わせた。
「植えた人?」
「たぶん」
「日記?」
「そうみたいだ」
その場で読むのは危ないということになった。
紙は脆い。
町の記録所へ運ばれた。
乾かした。
破れないよう、一枚ずつ慎重に開いた。
数日後。
広場で一部が読まれることになった。
町中の人間が来た。
百年前の人間が、どんな立派なことを書いたのか。
皆、少し期待していた。
教師が最初の頁を開いた。
「……晴れ」
皆、黙った。
「百年花購入。半額」
笑いが起きた。
「そこ書くのかよ!」
次。
「雨。支柱を立てる。エレナに怒られた」
また笑った。
「エレナって誰?」
「妻らしい」
さらに読む。
「市場で麦が上がった」
「ミナが水をこぼした」
「芋、今年は出来がいい」
「腰が痛い」
「虫が多い」
「エレナと喧嘩」
「理由は書いてない」
「何でだよ!」
「本人も忘れたんじゃない?」
笑い声が広場に響いた。
戦争の記録もあった。
焼けた町。
墓を掘った日。
百年花が折れた日。
エレナが死んだ日。
洪水。
ミナ。
町が復興していくこと。
パン屋。
子供。
何十年にもわたる生活が、そこにあった。
立派な文章ではなかった。
英雄の記録でもなかった。
ただ。
生きた人間の記録だった。
そして。
最後の頁。
教師は少し黙った。
紙の端は黄ばんでいた。
文字は震えていた。
ロアンが晩年に書いたものだった。
教師は読んだ。
今日も水をやった。
咲かなかった。
当たり前だ。
百年後だからな。
広場から、小さな笑いが漏れた。
教師は続けた。
本当に百年後なんて来るのか、俺には分からない。
また戦争になるかもしれない。
この町がなくなるかもしれない。
花だって途中で枯れるかもしれない。
そこで。
広場は少し静かになった。
風が吹いた。
百年花の枝が揺れた。
昨日まで咲いていた花は、もうほとんど散っていた。
教師は読んだ。
それでも今日は、ミナのところの赤ん坊が笑った。
パン屋もまた店を開けた。
隣の馬鹿夫婦は、朝から喧嘩していた。
広場のどこかで、誰かが笑った。
教師の声は、少しだけ震えた。
たぶん、こういうものが明日も続くことを、俺は未来と呼んでいたんだと思う。
だから明日も水をやる。
誰かが笑ってくれるなら、それでいい。
読み終わった。
拍手は、すぐには起きなかった。
誰も泣き崩れなかった。
誰も叫ばなかった。
皆、ただ少しの間、黙っていた。
その静けさの中で。
赤ん坊が泣いた。
大きな声だった。
一瞬のあと。
広場のあちこちから笑い声が上がった。
「いいところだったのに!」
母親が慌てて赤ん坊を抱いた。
「ごめんなさい」
「謝るなよ」
老人が言った。
「たぶん、それでいいんだ」
その日。
百年花の実が見つかった。
花が散ったあと、小さな実がいくつも残っていた。
中には種があった。
「植える?」
誰かが言った。
「これ全部?」
「十二粒ある」
「全部植えたら?」
「どこに」
「町中」
「百年花だぞ」
「だから?」
子供たちが種を持った。
学校の庭。
市場の端。
東門の近く。
墓地の入口。
パン屋の裏。
川沿い。
昔、戦争で焼けた家があった場所。
町のあちこちに穴を掘った。
大人が手伝った。
子供が種を入れた。
土をかけた。
一人の男が言った。
「それ、咲くの百年後だぞ」
「うん」
「お前ら、見られないぞ」
子供たちは少し黙った。
その中の一人が、首を傾げた。
「じゃあ」
考える。
「誰かが見るよ」
男は何も言えなかった。
「水!」
別の子が叫んだ。
「まだ多い!」
「これくらい?」
「半分!」
「少ない!」
「十分だ!」
大人たちが笑った。
土が濡れた。
翌朝。
最初の百年花は、完全に散っていた。
枝にはもう花がない。
百年待った花は、一晩でほとんど終わった。
それでも。
朝になればパン屋は店を開けた。
学校へ行く子供が走った。
市場では値段を巡って商人と客が言い争った。
川では漁師が網を投げた。
夫婦が喧嘩をした。
赤ん坊が泣いた。
誰かが笑った。
そして町のあちこちには、昨夜までなかった小さな盛り土があった。
十二か所。
それぞれの土の下に、一粒ずつ種が眠っている。
まだ芽すら出ていない。
咲く保証もない。
百年後、この町がある保証もない。
誰かが水をやり続ける保証もない。
それでも。
朝になると、学校へ行く途中の少女が立ち止まった。
一つの盛り土へ触れる。
乾いていた。
水差しを持ってくる。
少しだけ水をやる。
隣にいた子が言った。
「何してるの?」
「水」
「今日やらなくてもいいんじゃない?」
少女は首を振った。
「明日、枯れてたら遅いから」
それだけ言って、学校へ走っていった。
百年前。
一人の庭師が植えた花は、一晩で散った。
その春。
百年後に咲く花が、町に十二本植えられた。
まだ、どれも咲いていない。
――終。
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