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第三話 それは敵か、味方か

皆さんどうも!


今回も是非お楽しみください!


また感想や評価も是非お願いします!モチベ向上につながります!

呆然と立ち尽くす壮真の耳にジャリッ、と鋭い音が届いた。


 


 


 ハッとして振り返ると、風除室の入り口で折り重なっていた『やつら』が次々と立ち上がり始めていた。割れたガラス片を素足で踏み砕きながら血走った瞳を壮真に向けゆっくりと、しかし確実な足取りでこちらへ向かってくる。


 


 


 一体、二体、三体……その数は後から後から湧き出し途切れることがない。


 


 


「チッ……!」


 


 


 壮真は鋭く舌打ちをした。世界が終わっていようが地獄だろうが関係ない。今ここで立ち止まれば自分もあの肉の塊の一部になるだけだ。


 


 


 生き延びる。そして妹である栞を見つけ出す。その強烈な意志だけを頼りに壮真は再びアスファルトの地面を蹴って走り出した。


 


 


 ペタッ、ペタッと、薄っぺらいビニール製のスリッパが地面を叩く頼りない音が響く。病院の広大なロータリーを駆け抜けながら壮真は素早く周囲の状況を分析した。


 


 


 敷地の外の道路には見渡す限りの放置車両が連なり、その隙間を縫うようにして無数のやつらが徘徊している。あの中へ無策で突っ込むのは自殺行為だ。まずはどこか安全な場所に身を隠し、状況を整理しなければならない。それにこのパジャマとスリッパという無防備な格好では逃げ切る前に足を怪我して終わる。


 


 


(どこか隠れられる場所……!)


 


 


 走りながら視線を巡らせると、ロータリーの出口付近に数台の車が玉突き事故を起こしたまま放置されているのが見えた。そのうちの一台、横転した黒いワンボックスカーの陰なら病院から出てくるやつらの視線を一時的に遮ることができるかもしれない。


 


 


 壮真は息を殺し、姿勢を低くしてそのワンボックスカーの裏側へと滑り込んだ。冷たい車体に背中を預け、ズルズルと座り込む。


 


 


「ハァ……ハァ……」


 


 


 口を両手で覆い、荒い呼吸音が外に漏れないように必死に抑え込む。すぐ数十メートル先を病院から出てきたやつらが足を引きずりながら通り過ぎていく気配がした。


 


 


「ウァ……」 「ガルァ……」


 


 


 低く濁った唸り声が風に乗って鼓膜を撫でる。壮真は目を閉じ、全身の筋肉を硬直させてやつらが通り過ぎるのをただじっと待ち続けた。


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 やがて唸り声と足音が少しずつ遠ざかっていく。どうやらやつらは壮真を見失い、ただあてもなく周囲を徘徊し始めたようだ。


 


 


 壮真はそっと目を開け、ワンボックスカーの車体の下から道路の様子を窺った。視界に入るだけでも数十体のやつらが放置車両の間をゆらゆらと歩き回っている。音を立てれば一斉にこちらへ向かってくるだろう。


 


 


(まずは靴と服だ。それからまともな武器……)


 


 


 壮真は自分の足元を見下ろした。スリッパはすでにボロボロで足の裏にはアスファルトの熱と小石の感触が直に伝わってきている。このままでは遠く離れた郊外の大学にいる栞の元へ辿り着くどころか、この通りを抜けることすら不可能だ。


 


 


 壮真はワンボックスカーの陰に身を潜めたまま周囲の放置車両や道路の向かい側にある店舗の看板に鋭い視線を走らせ、次なる行動の糸口を必死に探し始めた。


 


 


 放置車両の間を縫うように徘徊する『やつら』の群れ。その動きは不規則で予測が難しい。


 


 


 しかし、じっと目を凝らしていると道路の斜め向かい側──少し奥まった交差点の角付近だけ奇妙なほどやつらの姿がまばらであることに気がついた。


 


 


 その視線の先、色褪せた黄色と黒の看板が壮真の目に飛び込んできた。『プロ向け作業用品・作業服』と書かれた中規模の作業着屋だ。


 


 


(あそこなら丈夫な服も安全靴も手に入るかもしれない)


 


 


 今のパジャマとスリッパという無防備な状態から抜け出すにはこれ以上ない絶好の場所だった。


 


 


 だが、そこへ辿り着くためには片側二車線の広い道路を横断しなければならない。距離にして約三十メートル。もし途中でやつらに気づかれれば遮るもののないアスファルトの上で四方から囲まれることになる。


 


 


 壮真は丸腰のまま拳を白くなるほど強く握りしめ、じっと「その時」を待った。


 


 


 焦るな。確実に視界から外れる瞬間を見極めろ。警察時代に培った張り込みの忍耐力が極限状態の中で壮真の精神を冷たく研ぎ澄ませていく。


 


 


 一台の大型トラックの陰から現れた三体のやつらがゆっくりと左方向へ歩き去っていく。右側から近づいてきていた一体が風で転がった空き缶の音に反応し、ふらりと背を向けた。


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 ──視線が途切れた。


 


 


 


 


(今だ……!)


 


 


 壮真は息を完全に止め、ワンボックスカーの陰から弾かれたように飛び出した。スリッパが脱げないよう足先に不自然な力を込めながら、かつ足音を殺してアスファルトの上を駆け抜ける。


 


 


 心臓の音が耳の奥で早鐘のように鳴り響く。背中を見えない無数の視線が撫で回しているような強烈な錯覚に襲われ、背筋に冷たい汗が噴き出した。放置された乗用車のボンネットを滑るように越え、横転したバイクを飛び越える。


 


 


「アァ……」という唸り声がすぐ数メートル横から聞こえた気がしたが壮真は決して横を向かず、ただ作業着屋の入り口だけを見据えて走り続けた。


 


 


 


 


 


 


 そして──。


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 壮真は作業着屋の店舗の脇、自動販売機の陰へと滑り込むようにして身を隠した。


 


 


「ハァッ……ハァッ……」


 


 


 喉の奥で血の味がする。壮真は壁に背中を押し当て周囲の様子を窺った。どうやらやつらに気づかれることなく道路を横断しきったようだ。


 


 


 少しだけ呼吸を整え、壮真は作業着屋の入り口へと視線を向けた。ガラス張りの自動ドアは電力が落ちているためか、大人が一人ようやく通れる程度の隙間を開けたまま半開きになっていた。ガラスが割られた形跡はないが店内は照明が落ちており、昼間だというのに薄暗く奥の様子は全く見えない。


 


 


 壮真は自分の両手を見下ろした。


 


 


 病院を脱出する際、ガラスを割るためにダストボックスを持ち上げた時唯一の武器だったモップは手放してしまっていた。今の自分は林から貰った袋、パジャマにスリッパ、そして完全に丸腰という最悪の状態だ。


 


 


(中にやつらがいるかもしれない……)


 


 


 外を徘徊しているやつらも恐ろしいが、逃げ場のない閉鎖空間で鉢合わせる恐怖は病院で嫌というほど味わっている。半開きの自動ドアの隙間に体を滑り込ませ、音を立てないように慎重に店内へと足を踏み入れた。


 


 


 鼻を突いたのは新品の布地とゴムの匂い。血や腐肉の悪臭は今のところ感じられない。暗闇に目を慣らしながらまずは身を守るための『何か』を探すべく静まり返った店舗の奥へと一歩ずつゆっくりと進む。


 


 


 薄暗い店内は外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。陳列棚には色とりどりの作業着やヘルメット、手袋などが整然と並べられている。商品が荒らされた形跡はない。どうやらパニックが起きた際に人々はここへ逃げ込むよりも食料品店や自宅へと急いだらしい。


 


 


 壮真は棚の陰に身を隠しながら慎重に歩を進めた。


 


 


 耳を澄ませてもあの低く濁った唸り声や足を引きずるような音は聞こえない。血の匂いもしない。


 


 


(誰もいないのか?)


 


 


 少しだけ安堵の息を吐き出し、壮真は店舗の奥──『関係者以外立入禁止』と書かれたバックヤードの扉へと向かった。丸腰のままでは外の世界を生き抜くことはできない。まずは身を守るための武器が必要だ。


 


 


 扉のノブをゆっくりと回し、音を立てないように押し開ける。


 


 


 バックヤードの中は段ボール箱が山積みになっており、事務机とロッカーが置かれていた。壮真は素早く室内を見渡し、部屋の隅に置かれた工具箱に目を留めた。


 


 


 工具箱の蓋を開けるとドライバーやペンチなどに混じって柄の長い鉄製のハンマーが入っていた。釘抜き用のバールと一体になったずっしりと重い『ネイルハンマー』だ。


 


 


「これなら……」


 


 


 壮真はハンマーを手に取り、その重みとバランスを確かめるように軽く振ってみた。モップの柄のように距離を取ることはできないが、殺傷能力はこちらの方が遥かに高い。頭を壊せない自分にとってはやつの膝を砕いて機動力を奪ったり、腕を折って攻撃を防いだりするための強力な相棒になるはずだ。


 


 


 武器を手に入れたことで壮真の心に少しだけ余裕が生まれた。


 


 


 彼はバックヤードを出て再び店舗の売り場へと戻った。次に行うべきはこの無防備なパジャマとスリッパからの脱却だ。壮真は陳列棚を物色し、自分のサイズに合うものを見繕い始めた。


 


 


 まずは足元だ。ガラス片や瓦礫が散乱する外の世界を歩くためにつま先に鉄板が入った頑丈な『安全靴』を選んだ。紐をしっかりと結び上げると、足元に確かな重量感と安心感が生まれる。


 


 


 次に服だ。パジャマを脱ぎ捨て、厚手の長袖の作業シャツと摩擦や引き裂きに強いカーゴパンツに袖を通す。色は汚れが目立ちにくく暗闇に溶け込みやすいダークグレーを選んだ。


 


 


 さらにやつらの爪や歯から少しでも身を守るため革製の作業用グローブを両手にはめ、腰には工具を吊るせる頑丈なツールベルトを巻きつけた。ベルトのループに先ほどのハンマーを差し込むと、ようやく『戦える』形になった気がした。


 


 


(よし……これで少しはマシになった)


 


 


 壮真は鏡の前に立ち、自分の姿を確認する。


 


 


 数週間の昏睡で頬はこけ、無精髭が伸びているがその瞳には確かな生気が宿っている。パジャマ姿のひ弱な患者からこの狂った世界を生き抜くための『サバイバー』へと、壮真は完全に生まれ変わっていた。


 


 


「待ってろよ、栞」


 


 


 壮真は革手袋をはめた手で拳を握りしめ低く呟いた。


 


 


 装備は整った。次はここからどうやって郊外の大学まで移動するかだ。歩いて行くには遠すぎる。車は渋滞で使えない。


 


 


 壮真は店舗の窓から外の道路を覗き込み、移動手段となる『何か』を探し始める。


 


 


 窓越しに見る外の世界はやはり絶望的な光景だった。


 


 


 片側二車線の広い道路は衝突し、乗り捨てられた無数の車で完全に埋め尽くされている。その金属の墓標の間を数十、あるいは百を超える『やつら』があてもなくゆらゆらと徘徊している。


 


 


(車は駄目だ。エンジン音を鳴らせば一瞬で囲まれるし、そもそもこの渋滞じゃ数メートルも進めない)


 


 


 壮真は窓枠からそっと身を引き思考を巡らせた。郊外の大学までは直線距離でも二十キロ以上はある。歩いて行くには時間がかかりすぎるし、常にやつらの脅威に晒されることになる。必要なのは車の隙間を縫って走れる小回りの良さとやつらを引きつける「音」を出さない移動手段だ。


 


 


(となると……自転車か)


 


 


 それも瓦礫や段差を乗り越えられる頑丈なマウンテンバイクやクロスバイクがいい。


 


 


 壮真は再びバックヤードへと足を踏み入れた。先ほどは武器を探すのに必死で気づかなかったが、バックヤードのさらに奥には搬入口と思われる鉄扉があった。腰のツールベルトからハンマーを引き抜き、右手でしっかりと握りしめた。


 


 


 そして鉄扉の冷たいノブに手をかけ、ゆっくりと押し開ける。


 


 


 ギィ……と微かな音を立てて扉が開くと、そこは店舗の裏側に続く狭い路地だった。


 


 


 


 表通りの喧騒が嘘のように薄暗く、じめっとした空気が漂っている。壮真は周囲を素早く見渡し──思わず口元に笑みを浮かべそうになった。


 


 


 搬入口のすぐ脇、従業員用の駐輪スペースに泥除けのついた頑丈そうな黒いマウンテンバイクが停められていたのだ。太いブロックタイヤにサスペンション。これなら荒れた道路でも問題なく走れる。


 


 


 しかも鍵はワイヤーロックではなく後輪に備え付けられた簡素なリング錠だけで、鍵穴にはキーが刺さったままになっていた。パニックの中で持ち主が乗って逃げる余裕すらなく放置されたのだろう。


 


 


(運がいい……!)


 


 


 壮真は周囲の安全を確認し自転車へと歩み寄ろうとした。


 


 


 だが、その足は二歩目でピタリと止まった。


 


 


「アァ……ガァァ……」


 


 


 路地の奥、ゴミ箱の陰から一つの人影がふらりと姿を現したのだ。壮真が今着ているのと同じこの店のロゴが入った作業着を着ている。おそらくこの自転車の持ち主だった従業員の成れの果てだろう。


 


 


 首筋から肩にかけてごっそりと肉が欠損しており、赤黒い血が作業着をどす黒く染め上げている。やつは壮真の足音に気づき、白濁した瞳をこちらへ向けた。


 


 


 そして獲物を見つけた獣のように両腕を突き出し、足を引きずりながら迫ってくる。


 


 


 距離は五メートル。


 


 


 逃げ道はない。自転車を奪うためにはこいつをどうにかするしかない。壮真はハンマーの柄を強く握り込み、低く構えた。


 


 


 頭を壊せば一撃で終わる。だが壮真の脳裏にはやはりあの乾いた銃声と飛び散る血の幻影がこびりついていた。頭を狙おうとすれば必ず体が硬直する。


 


 


(なら……頭以外を壊す!)


 


 


 壮真は逃げることなく、逆にやつに向かって一歩踏み出した。


 


 


「ガァァッ!」


 


 


 やつが血まみれの腕を振り下ろしてくる。壮真はそれを紙一重でスウェーして躱すと、やつの無防備になった右膝の側面めがけてハンマーの鈍い鉄の塊を全力で振り抜いた。


 


 


 


 


 ゴキァッ!! 


 


 


 


 


 生木をへし折るようなおぞましい骨の砕ける音が路地に響いた。


 


 


「アァ……!?」


 


 


 痛覚はないはずだが、物理的に関節を粉砕された右足はもはや自重を支えることができなかった。やつは不自然な方向に曲がった右足から崩れ落ち、無様に地面へと這いつくばる。


 


 


 だがやつは諦めない。這いずりながらなおも壮真の足首に食らいつこうと手を伸ばしてくる。壮真は冷酷な目でそれを見下ろし、今度はやつの伸ばしてきた右腕の肘関節めがけて容赦なくハンマーを振り下ろした。


 


 


 


 


 バキィッ! 


 


 


 


 腕の骨が砕け、あららぬ方向へ折れ曲がる。


 


 


 これでやつは立ち上がることも腕で掴みかかることもできなくなった。ただ地面で芋虫のように身をよじり、空しく顎を鳴らすだけの存在に成り下がったのだ。


 


 


 壮真は短く息を吐き出し、ハンマーを腰のベルトに収めた。そして這いずるやつを跨いでマウンテンバイクへと駆け寄り、刺さったままの鍵を回してロックを解除する。


 


 


 サドルに手をかけまさに跨ろうとしたその瞬間だった。


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


「──いやあお見事。鮮やかな手並みですね」


 


 


 


 


 


 


 不意に背後から人間の声が響いた。壮真はビクッと肩を震わせ、反射的に腰のハンマーに手をかけながら振り返る。


 


 


 路地の奥、積み上げられた廃棄段ボールの陰から一人の男がゆっくりと姿を現した。


 


 


 年齢は三十代半ばといったところか。無精髭を生やし、くたびれたウインドブレーカーを着ているが、その身なりはパニックから一か月程を生き延びてきたにしては妙に小綺麗だった。


 


 


 男の右手には先端が赤黒く汚れた鉄パイプが握られている。しかし男はそれを敵意がないと示すようにだらりと下へ向けていた。


 


 


「驚かせてすみません。俺、ずっとあそこの陰に隠れてたんですよ」


 


 


 男は人当たりの良さそうな笑みを浮かべ、両手を軽く上げて見せた。


 


 


「あの化け物がずっとそこをうろついてて店に入れなくて困ってたんです。あんたが倒してくれて本当に助かりましたよ」


 


 


「……あんたは?」


 


 


「俺は小林(こばやし)って言います。あんたと同じただの生存者ですよ」


 


 


 小林と名乗った男は警戒を解かない壮真を安心させるようにゆっくりとした足取りで数歩近づいてきた。その顔には愛想の良い笑みが張り付いている。


 


 


 だが、壮真の元警察官としての本能──幾多の犯罪者と対峙してきた経験が背筋に冷たい警鐘を鳴らしていた。


 


 


(何かがおかしい……)


 


 


 男の言葉と態度には決定的な違和感があった。本当に化け物が邪魔で店に入れなかったのならなぜ壮真が店の中から出てきた時に声をかけなかったのか。それに男の視線は壮真の顔ではなく、壮真が身につけている真新しい作業着や安全靴、そして腰のハンマーとマウンテンバイクを値踏みするようにねっとりと舐め回している。


 


 


「その自転車、乗っていくんでしょう? いいですね~機動力があって」


 


 


 小林はさらに一歩距離を詰めてきた。


 


 


「実は少し離れたところに仲間と安全なキャンプがあるんです。食料も水もそこそこ備蓄がありますよ。あんた一人みたいだし……どうです? その自転車とあんたのその『戦える力』を貸してくれるなら俺たちのグループに歓迎しますよ」


 


 


 一見するとこの絶望的な世界においてこれ以上ないほど魅力的な提案だ。


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 だが、壮真はハンマーの柄から手を離さなかった。


 


 


 


 


「……悪いが俺は行くところがある。グループに入る気はない」


 


 


「ええっ、もったいない。一人で生き抜くには限界がありますよ?」


 


 


 小林は残念そうに肩をすくめたがその直後、張り付いていた笑みがほんのわずかに歪んだ。


 


 


「……でも、その自転車と装備はこれから『みんな』のために必要になると思うんですよね。あんた一人で独占するのはちょっと不公平じゃないですか?」


 


 


 男の声のトーンが一段階低く冷たいものに変わった。だらりと下げられていた鉄パイプを持つ手にギリッと力が込められるのが見えた。


 


 


 好意的な生存者などではない。こいつは他人が危険を冒して手に入れた物資を言葉巧みに──あるいは暴力で奪い取って生き延びてきた『ハイエナ』だ。


 


 


 壮真は自転車を背にかばうように立ち塞がり、腰のハンマーをゆっくりと引き抜いた。化け物だけではない。法と秩序が崩壊したこの世界では生きている人間こそが最も恐ろしい敵になる。その残酷な現実が壮真の前に立ちはだかっていた。


 


 


「あんたとは無用な争いをしたくない」


 


 


 壮真は低く、しかし芯のある声で告げた。右手に握ったハンマーの柄は決して緩めず、いつでも振り抜ける態勢を保ちながらもその切っ先はわずかに下へと向けた。元警察官としての理性が人間同士で血を流し合うという最悪の結末を全力で回避しようとしていた。


 


 


「平和的に交渉しないか?」


 


 


 その提案に小林は鉄パイプを肩にトントンと当てながら、「う〜ん」とわざとらしく首を傾げた。


 


 


「平和的、ですか。いい響きですね。俺も野蛮なことは嫌いなんですよ。でも……条件次第ですね。あんた、俺たち『みんな』のために何を提供してくれるんです?」


 


 


 小林の口元には獲物をいたぶるような薄ら笑いが浮かんでいる。


 


 


 壮真は奥歯を噛み締め、林から託されたビニール袋の中身を頭に思い浮かべた。命を繋ぐための貴重な水と食料。だがここでこいつと殺し合いになるリスクを考えれば安い代償だ。


 


 


「ペットボトル一本とカロリーメイトを二つ。……それにこのハンマーもやろう」


 


 


 壮真はそう言って右手のハンマーを軽く持ち上げて見せた。


 


 


「その代わりこの自転車は譲ってほしい。俺にはどうしてもこれに乗って行かなきゃならない場所があるんだ」


 


 


 水と食料、そして殺傷能力の高い武器。この崩壊した世界においてそれらがどれほど価値のあるものか小林も分かっているはずだ。これで手を引いてくれれば互いに傷つくことなく別れられる。


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 だが、小林は壮真の提案を聞くや否や鼻でふっと笑い飛ばした。


 


 


「いやいや、それはつり合いが取れてないですよね〜」


 


 


 小林は肩をすくめ、大げさに両手を広げてみせた。


 


 


「少しの水と食料? そんなもの数日もすれば無くなっちまう。それにハンマーなんて俺のこの鉄パイプがあれば十分ですしね。あんた、交渉の基本が分かってないな」


 


 


 そして小林は広げていた両手をゆっくりと下ろし、肩の鉄パイプを両手で握り直した。張り付いていた笑みが消え、その細められた双眸の奥にむき出しの強欲と冷酷な光が宿る。


 


 


「……その自転車で手を打ちますよ」


 


 


 地を這うような、ねっとりとした声だった。


 


 


「それと、あんたが着てるその真新しい服と靴もだ。全部置いていくなら命だけは助けてやりますよ。平和的にね」


 


 


 小林の要求は交渉などという生易しいものではなかった。ただの強盗だ。すべてを奪い取り、この死者の溢れる街に丸腰で放り出す。それは実質的に「死ね」と言っているのと同じことだった。


 


 


「……それはダメだ」


 


 


 壮真は静かに、しかし絶対的な拒絶の意志を込めて言い放った。


 


 


「この自転車だけは絶対に渡さない」


 


 


 妹の栞が待つ大学へ向かうための唯一の希望。それをこんなハイエナに奪われるわけにはいかない。


 


 


 壮真がハンマーを再び胸の高さに構え直したその瞬間、小林の顔から完全に表情が抜け落ちた。


 


 


「……そう。じゃあ交渉決裂ですね」


 


 


 小林が鉄パイプを振りかぶり、一歩踏み出そうとしたまさにその時だった──


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


「待て」


 


 


 


 


 路地の空気を切り裂くような低く、しかし腹の底に響くような声だった。その一言に込められた圧倒的な威圧感に壮真も、鉄パイプを振りかぶっていた小林も弾かれたように動きを止めた。


 


 


 二人が声のした方向──路地の入り口側へと視線を向けると、そこには一人の男が立っていた。


 


 


 身長は百八十センチを優に超え、分厚い胸板と丸太のような腕を持つ筋骨隆々としたガタイの良い男だ。短く刈り込んだ髪に精悍な顔つき。着ているマウンテンパーカーやカーゴパンツは汚れが少なく、身なりはそこそこ整っている。


 


 


 男の手には武器らしい武器は握られていなかったが、その立ち姿だけで素手でも十分に人を殺せるだけの暴力の匂いが漂っていた。


 


 


 その男の姿を認めた瞬間、小林の顔からサッと血の気が引いた。


 


 


「よ、横山(よこやま)さん……」


 


 


 小林の声が上擦る。先ほどまでの強気な態度はどこへやら、彼は怯えたように鉄パイプをゆっくりと下ろし後ずさりした。


 


 


「どうしてここに……?」


 


 


「お前一人だけに物資の調達を行かせたと聞いてな。不安になって俺も様子を見に来たんだ」


 


 


 横山と呼ばれた男は低い声でそう答えながらゆっくりとした足取りで路地を歩み寄ってきた。その足音には一切の迷いがなく、周囲を徘徊する化け物たちへの恐怖など微塵も感じさせない。


 


 


「それで……これはどういう状況だ?」


 


 


 横山は小林の目の前まで歩み寄ると、その巨体で見下ろすようにして威圧した。


 


 


 小林はビクッと肩を震わせ張り付いたような好意的な笑みを浮かべたが、その顔には先ほどまでの余裕は欠片もなく額には脂汗が滲んでいた。


 


 


「い、いやですね横山さん! 俺はただこの人が一人で危なっかしいから俺たちのグループに誘ってあげてたんですよ! そしたらこの人が急にハンマーを振り回してきて……俺は身を守るために仕方なく……!」


 


 


 小林は身振り手振りを交えながら焦った早口でまくしたてた。だがその言葉のどれもが息を吐くように並べ立てられた嘘だった。壮真は奥歯を噛み締め、「ふざけるな」と反論しようと口を開きかけた。


 


 


 しかし、それより早く横山が壮真の方へと鋭い視線を向けた。


 


 


「それは本当か?」


 


 


 横山の双眸が壮真の目を真っ直ぐに射抜いた。その目はただの暴力的な男のそれではない。嘘や誤魔化しを一切許さない、確固たる『信念』と『規律』を持った人間の目だった。警察時代、壮真が尊敬していた上司が取り調べの際に見せていた目とよく似ている。


 


 


 壮真は大きく一息つき、ハンマーを握る手の力を少しだけ緩めた。この男には小手先の嘘や言い訳は通用しない。そう直感したからだ。


 


 


「……嘘だ」


 


 


 壮真は横山の目から視線を逸らさず静かに、しかしはっきりとした声で真実を語り始めた。


 


 


「俺はこの作業着屋で物資を調達し、裏口でこの自転車を見つけた。そこへこいつが現れて俺の装備と自転車をすべて置いていけと脅してきたんだ。俺が水と食料、それにこのハンマーを渡すから自転車だけは譲ってくれと交渉したが、こいつは鉄パイプを振り上げて俺を襲おうとした」


 


 


 壮真はそこで言葉を区切り、背後にあるマウンテンバイクを指差した。


 


 


「俺にはどうしても行かなければならない場所がある。郊外の大学にいるたった一人の妹を探し出すために……この自転車は絶対に譲れない」


 


 


 壮真の言葉には一切の虚飾がなかった。ただ純粋な、生き延びて妹を助け出すという執念だけが込められていた。


 


 


 横山は壮真の目をじっと見つめたまま数秒間沈黙を保った。


 


 


 路地に吹き込む風の音と、遠くから聞こえる化け物たちの唸り声だけが三人の間を通り抜けていく。


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 やがて横山はゆっくりと視線を外し、隣で青ざめている小林へと顔を向けた。横山は小林の顔をじっと見下ろしたまま、ふう、と短く息を吐いた。


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 そして次の瞬間、一切の予備動作なしに横山の太い右腕が閃いた。


 


 


 


 


 ドスッ!! 


 


 


 


 


「ガハッ……!?」


 


 


 鈍く、重い打撃音が路地に響き渡った。横山の巨大な拳が小林の腹部──みぞおちのど真ん中を正確に打ち抜いていた。


 


 


 小林の目が見開き口から胃液混じりの空気が吐き出される。彼は鉄パイプを取り落とし、腹を両手で抱え込むようにしてその場に崩れ落ちた。


 


 


「ゲホッ、ゴホッ……! あ、あぁ……っ」


 


 


 アスファルトにうずくまり、苦悶の表情で喘ぐ小林を横山は冷ややかな目で見下ろした。


 


 


「前にも言ったよな、小林」


 


 


 横山の声は怒鳴り声ではなかった。だが静かであるがゆえにその奥に潜む怒りの深さが際立っていた。


 


 


「世界がどんなになろうと人の道だけは外れるなと。弱者を脅し、奪うような真似をすれば俺たちはあの外を歩いている化け物以下の存在に成り下がる。……お前はそのルールを破った」


 


 


「す、すみま……せん……横山、さん……っ。もう、二度と……」


 


 


 小林は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら地面に額を擦りつけるようにして謝罪した。横山はそれ以上小林を責めることはせず、ゆっくりと壮真の方へと向き直った。


 


 


 そして、壮真の目を真っ直ぐに見据えたまま深く頭を下げた。


 


 


「うちの小林が多大な迷惑をかけた。……すまない」


 


 


 そのあまりにも潔い謝罪に壮真は呆然と立ち尽くした。


 


 


 法も警察も機能していないこの狂った世界で他人のために、しかも見ず知らずの相手に対して頭を下げる人間がいるなど想像もしていなかったからだ。


 


 


 壮真は握りしめていたハンマーを下ろし、慌てて首を振った。


 


 


「あ、いや……気にしないでください。俺も怪我をしたわけじゃないですし」


 


 


 壮真がそう答えると横山は顔を上げ、少しだけ安堵したような表情を見せた。


 


 


 そして彼は背負っていた大きめのリュックサックを肩から下ろし、ジッパーを開けて中を探り始めた。


 


 


「……これを」


 


 


 横山がリュックから取り出し、壮真に差し出したのは真空パックされたレトルトの白米と缶詰が二つだった。


 


 


 決して多くはない。だが食料が文字通り命の重みを持つこの状況下においてそれは破格の施しだった。


 


 


「これでこいつの事を許してやってくれ……とは言わない。だが……もし郊外の大学まで一人で行くつもりならここから先はかなり険しい道になるはずだ。少しでも役に立ててくれ」


 


 


 横山はそう言って壮真の手に食料を押し付けた。その手は分厚く、温かかった。


 


 


「……いいんですか? あんたたちだって食料は必要なはずだ」


 


 


「構わん。俺たちはまだ自力で調達できるだけの余力がある。それに……」


 


 


 横山は壮真の背後にあるマウンテンバイクと壮真の顔を交互に見て、ふっと口元を緩めた。


 


 


「妹さんを助けに行くんだろう? ならしっかり食って体力をつけておけ。腹が減っていては守れるものも守れなくなるからな」


 


 


 その言葉はかつて警察官として市民を守ろうと誓った壮真の胸の奥に、深く、温かく響いた。この絶望に満ちた世界にもまだ『人間』であることを諦めていない者がいる。その事実が壮真の冷え切っていた心に小さな希望の火を灯してくれた。


 


 


「……ありがとうございます。恩に着ます」


 


 


 壮真は食料をしっかりと受け取り、深く頭を下げると横山は短く頷き返した。


 


 


だが次の瞬間にはその顔から温和な表情が消え、再び規律を重んじる厳しいリーダーの顔へと戻っていた。


 


 


 横山はうずくまっている小林の襟首を掴み、強引に引きずり起こす。


 


 


「おい、もう帰るぞ。……立てるよな?」


 


 


「は、はい……立てます……っ」


 


 


 小林はまだ腹の痛みに顔を歪めながらも地面に落ちていた鉄パイプを拾い上げ、ふらつく足取りでどうにか直立した。横山の威圧感の前にもはや反抗する気力すら残っていないようだった。


 


 


 横山は小林の様子を一瞥すると、再び壮真の方へと向き直った。


 


 


「それじゃあ俺たちは行く」


 


 


 そう言って背を向けかけた横山だったがふと何かを思い出したように立ち止まり、カーゴパンツのポケットに手を入れた。そして折りたたまれた一枚の紙切れを取り出し、壮真に差し出した。


 


 


「……もし、何か困ったことがあればここまで来い」


 


 


 壮真が受け取ったそれは周辺の市街地が手書きで簡略化して描かれた地図だった。地図の端、川沿いにある大きな公園らしき場所に赤いペンで丸印がつけられている。


 


 


「その丸が付いた部分に俺たちのキャンプがある。そこに来ればいつでも歓迎する」


 


 


「いいんですか? 俺みたいな素性の知れない人間を」


 


 


「お前は嘘をつかなかった。それに妹を助けるために一人でこの地獄を走ろうとする度胸がある。俺のグループにはそういう『芯』のある人間が必要なんだ」


 


 


 横山はそう言って初めて声を出して短く笑った。


 


 


「まあ、まずは妹さんを見つけるのが先だな。死ぬなよ」


 


 


「ありがとうございます。横山さんも」


 


 


 壮真が地図をポケットにしまい改めて礼を言うと、横山は背を向け小林の背中を小突くようにして路地の奥へと歩き出した。


 


 


 小林は一度だけ振り返り壮真を恨めしそうに睨みつけたが、横山に急かされてすぐに前を向き、二人の姿は薄暗い路地の角を曲がって見えなくなった。静寂が戻った路地で壮真は手の中にある食料とポケットの地図の重みを感じていた。


 


 


 世界は終わった。だがすべてが狂ってしまったわけではない。横山のような人間がいる限りまだ希望はある。


 


 


 壮真はもらった食料を林から託されたビニール袋にまとめ、自転車のハンドルにしっかりと結びつけた。そしてマウンテンバイクのサドルに跨り、ペダルに足を乗せる。


 


 


「……行くか」


 


 


 壮真は小さく呟き、ペダルを力強く踏み込んだ。自転車は路地を抜け、再び化け物たちが徘徊する表通りへと飛び出していく。


 


 


 目指すは二十キロ先の郊外にある大学。たった一人の肉親である栞の元へ。


 


 


 灰色の雲に覆われた空の下、壮真の孤独なサバイバルが今、本格的に幕を開けた。


 


 


 


 


 


 


 


 




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