のんびり
さて、一夜明けて、翌日。
いつ二層から魔物性大災害が起こるとも知れないこの状況で、どうにも二層を離れる気になれなかった私は、普段拠点としており、自宅すらある第九層のルクセントには帰らずに、二層の宿に泊まることにした。
これからは、潜っても六層くらいまでにしておこうと思っている。
緊急依頼があって、難易度が高いのならそちらを優先するのだが。
なんども言うように、これでも私は現在攻略最前線である十二層をメインにソロ探索していたハンターだ。
指名依頼制度なんてものもあるために、私にだってたまに高難易度な依頼が舞い込むこともある。
大抵それは、強力ゆえに流通が少ない魔物の素材を採ってきてくれだとか、危険地帯にのみ存在する希少素材を採ってきてくれだとか、そういった研究所とか工房からの依頼ばかりなのだが。
しかし中には、放っておけばかなり不味いタイプの依頼も存在する。
そういった依頼が出た場合は、この二層を離れて深層に向かうのも吝かではない。
また下層や深層付近での救援要請ともなれば、それに向かうことができるハンターというのは限られてくる。
そのため、ギルドは緊急で実力者に対して依頼を出す場合が存在する。
そういった場合も、私はこの二層を離れるつもりだ。
といっても、ほとんどの救援要請は、応急処置と付近の安全地帯までの護衛を行えば済むので、大して時間がとられるわけでもないのだが。
さて、たとえ五層級の魔物が現れた日の翌日だと言えども、その情報が周知されることがない以上、ロロテアひいては二層のこの付近は、なんら変わりない日常が流れていく。
まだ薄暗い朝日を受けながらランニングをする人だとか。
開いた窓から入ってくる、屋台の焼き物の香りだとか。
下の階から聞こえてくる、鍋を叩く心地よい音だとか。
そして鏡に映る、髪がボサボサになった私の頭だとか。
また夜中まで賑やかになるこの街の朝は、いつだって変わることがない。
多少変わったと言えば、遠く外壁の上に目を凝らしたときに、見張り役の人員が増えているくらいのものだろうか。
さらによく見れば、その軽鎧には、ハンターズギルドの紋章がついている。
どうやら水面下ではあるが、対策は進んでいるようだった。
「──ぺっ」
口に含んだ水と歯磨き粉の混合物を、洗面台に吐き捨てる。
そのまま顔を上げて鏡を見てみれば、どこまでも眠そうな水色の瞳をした、真っ白な少女がいた。
私である。
「髪、ぼっさぼさ……」
人と会話するのが苦手な私は、美容院というものに決して小さくない抵抗がある。
そして髪を切りに行くという行為に対しても、面倒くさいという感想が真っ先に出てしまうくらいには、かなりのめんどくさがり屋だ。そういった自覚がある。
最後に髪を切ったのは、今から三年前くらいだろうか。
おかげで膝裏ほどにまで伸びてしまった私の白髪は、朝起きるといつだってぼっさぼさに乱れまくっているのである。
まあ、髪を伸ばしているのはきっとそれだけが理由ではないのだろうけれど。
そんな私の毛先はぐるぐると巻き、ところどころの髪はぴょこんと跳ねている。
これも日常だ。
洗面台の前に椅子を置いて、乱れた髪に櫛を入れていく。
存外ストレート気味な私の髪は、その程度でもしっかりと真っすぐ直ってくれる。
三十分くらい熱心に髪を梳かしていたら、それだけでいつも通りのもと通りだ。
暇つぶしにエンタメ的なダンジョン配信を行っているハンターの配信を垂れ流しながら、三十分も髪を梳かしていれば、必然目も覚めてきて、時刻は午前九時くらい。
そろそろ出る頃合いかと、私は私服に着替える途中で、思い至る。
そのまま思い至ったままに、サルベージ用の装備を装着。
私がハンター稼業をする際に、いつも身に付けている装備だ。
普段は私服で街を歩き、結構お高い魔導具である“換装”の魔術が組み込まれたチョーカーを起動して、街の外に出るときには装備に着替える。
基本的に私は、そうして装備を身に付けている。
しかし今回は、わかりやすくするためにも、最初から装備していくことにした。
そんなこれは、行きつけの工房に頼んで作ってもらった特注品。
魔物素材をふんだんに使用し、十二層探索にも十分通用する、現状のハンターの装備の中でも最高級品と言ってもいいかもしれない、私の自慢の一着。
高い防御力を持ちながら機動性を確保し、マナ伝導性も高い。
機動性のためにだいぶと太ももが露出してしまっていることはちょっとだけ不満ではあるが、それを差し引いたとしても、非常に満足高評価。
デザインは工房主である高宮さんの奥さんが監修したらしい。白基調に縁が金色のフード付きマントに、青色の胸部装甲。腰のベルトに鞘二本、ホルスターいくつか。
白と淡青を基調に、差し色として金と黒を混ぜたような、そんな感じ。
脇腹や肩の露出は、高宮さん曰く『妻の趣味が露骨に出ている』とのこと。
さて、そんな私が向かうのは、ロロテア南東部産業区にほど近い、ロロテア防衛隊の訓練庁舎。
ハンターという民間の戦闘屋がいる都合上で一般開放されているそこで、やりたいことができてしまったのである。
*****
到着。時刻は九時二十分ほど。
空間魔術を応用した転移門が各所に設置されているダンジョン街は、全体的に面積が広いという事実に反して、移動に要する時間はさして大きくないというのが現状だ。
もちろんここロロテアも同じで、直径百キロメートルを超える超大規模城塞都市だというのに、基本的にどこに行くにも移動時間は三十分あれば事足りる。
車が通らないのも、そもそも車を使うことを前提にしていなかったり、ガソリンスタンドを作るような環境整備に費用が掛かりすぎたり、色んな要因があるのだが、最も大きいのは、そもそも徒歩でもなんとかなるから、これに尽きるだろう。
例にもれず徒歩で目的地に向かっていた私は、宿を出たその時に、とある人物に要件を示すメッセージと位置情報を送信していた。
当人曰く、九時半くらいに着きます、とのこと。
しばらく待っていれば来るだろう、そう思って待っていたのだが。
「……早くない?」
「急ぎましたから」
その相手とは、愛衣もとい、ユイ。
昨日知り合った、見どころのあるルーキー。
今日のユイは、装備を付けていない。完全な私服だ。
なぜかと言えば、昨日のプラーミアグリズリーとの遭遇によって、武器も防具も破損してしまったから。
壊れた防具を身にまとっていても、意味なんてそうそうない。
それにユイのそれは、見るからに修復不可能なものだった。
そんな彼女に武器防具を見繕い、時間があればそのまま軽く探索にでも出よう。
私が彼女に送ったメッセージに書いてある要件は、そんな感じである。
完全ソロ専の私が、まさか自分から一緒に探索に出ようなんて誘いを誰かにかけるとは、人生何が起こるのかわからないものだ。
産業区にほど近いこの訓練庁舎を選んだのは、目印としてちょうどよかったから。
先ほどからちらちらと視線を受けているが、別にハンターとして訓練しに来たわけではないので、そそくさと退散させていただこうと思っている。
「二層のいい工房。こっち」
訓練庁舎から足早に抜け出して、工房へと向かう。
煤けた匂いや金属音が充満する産業区のシンボルである“大歯車”を超えたそこは、この二層に暮らす職人がひしめき合う、職人たちの区画だった。




