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静かなる情熱

 五月は終わり、いよいよ六月。

 だが、空は墨絵のごとく重く、肌寒い空気は、季節の過ちのように、依然としてリビングの奥底に居座っていた。

 

 その静謐な空間に、白きふくふくとした、まるで雪の塊が命を得たかのような毛玉が鎮座していた。名をノエルという、その生き物。生物学上は猫――が、今宵、新たな獲物の甘美な罠に、その心を深く絡め取られていた。


 ぽあぽあとした球体は、まるで雲の切れ端が地上に舞い降りたかのよう。


「……くるくる、ぽよんぽよん……はぁ、しあわせ……」


 紐に並び称されるその尊き存在が、今、ノエルの肉球の中にあった。ころころ。無心にぼーるを追いかけるノエルの姿は、まさに魂を宿した餅、あるいは巨大な蒸しパンの、愛らしい躍動そのもの。その動きは、空間にささやかな色彩と、微かな音楽を添えていた。


 その様子を、リビングの隅、時の流れすら超越したかのような冷めた眼差しで見ていたのは、齢二十一を越えた古老、マーブルである。


「まったく……ああも容易く惑わされるとはねぇ……」


 美食家の彼女にとって、一途に一つの遊びに熱中するノエルは、まるで人生の深淵を知らぬ、未熟な子供のように映るのだろう。

 昨日の朝も、高齢猫向けカリカリを前に哲学的な疑念を宿した表情を浮かべ、断固拒否する孤高の背中を、まるで石像のようにお母さんに向けていた。食に対する執念は、遊びへのそれとはもはや次元の異なる、魂の叫びなのだ。


 一方、二階では相も変わらず、古の儀式のように、狩人会議が再開されていた。

 議題は【ノエルと毛玉ぼーるの行く末】である。


「まさかあれほど夢中になるとはねぇ」


 爪とぎ台の裏に隠れていたミーが、ひょこっと、まるで森の精のように顔を出す。その声には、わずかな驚きと、どこか楽しげな響きが、朝露のきらめきのように宿っていた。


「しかも、ぼーるを追いかけて階段を自らのぼってきたのよ? いつもはぴえんぴえんって鳴いて戻るのに!」


 チコが興奮気味に言う。彼女の目は、お姉さんの影のごとく寄り添う時と同じく、獲物を射抜くかのような鋭さと、秘めたる情熱の炎を帯びていた。


「うん……あの『ぴゃあああ』っていう声、ちょっと可愛かったね……」


 エリがぽつりとつぶやく。彼女は窓際で、階段を落ちおもち状態になったときの、愛らしい、まるで絵画のような姿を、心のキャンバスに描き出していた。


 三姉妹は、ノエルを狩人(ハンター)としては期待していない。

 それは天空に刻まれた星の運命のように、全会一致の結論である。

 だが、『愛され型』としての可能性については、満場一致で『大』の評価が、天啓のように下されている。


 この毛玉ぼーるの一件で、その評価はさらに揺るぎない、堅固なものとなったのだ。


「ノエちゃん、これからも観察継続、だね!」

 ミーが宣言し、チコとエリも静かに頷く。二階の狩人たちは、ノエルの行動に、新たな楽しみを見えない宝物のように見出していた。それは、獲物を追う狩りとは異なる、もっと平和で、もっと暖かい『見守り』という名の、静謐にして慈愛に満ちた狩りであった。


 夜も更け、お姉さんとお母さんが就寝の準備を始める頃、ノエルは満足げにお姉さんの膝に、ぽすっと前足を置く。

「……たくさんあそびました……ねます…………もふもふのゆめ……」

 いつものように、ノエルは秒の速さで、夢幻の世界へと滑り落ちる。その寝顔は、夢の中で毛玉ぼーるを追いかけているかのように、わずかに口元が緩んでいた。


 お姉さんが優しくノエルの頭を撫でる。

「はーここで寝られると暫く二階行けないんだよね~。ノエちゃん、今日も楽しかった?」

 隣でお母さんがくすくす笑う。

「うちの子達、本当に見てて飽きないわね」


 暖かなリビングの空気は、今日も猫たちの小さな冒険と、それを優しく包み込む人間たちの愛情に、満たされ、輝いていた。


 それぞれの場所で、それぞれの形で、猫たちは愛され、人間たちは癒される。

 そして、新しい朝は、また新たな発見と、温かい日常という名の、尽きせぬ物語を連れてくるのだ。



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