秘密の毛玉ぼーる
──この世界には、未だ白き猫ノエルがその存在すら知らぬ至宝が隠されている。
そのひとつが、毛玉ぼーるであった。
それは、ある深き夜の帳が降りた刻。
二階の、人知れぬ高みより、ふわりと、あまりにも幽かに、謎のふわふわなる球体が舞い落ちてきたのだ。
触れれば、生命を宿したかのように弾む。追えば、道なき道を、時に理不尽に転がり、刹那、泡と消えるがごとく、どこかへ姿をくらます。まさに、泡沫なる幻影。
「うんめいの、もちもち……?」
若き白猫はその球体にすっかり心を奪われた。
だがそれは、二階に棲まう狩人たる三姉妹の秘蔵の所有物──即ち、一階の白猫には触れることすら許されぬ禁制の玩具の一つであったのだ。
あの日、陽気なるミーは、悪戯めいた眼差しで、かく語りき。
「毛玉ぼーるはね、のぼれたら貸してあげるのよ〜」
その言葉は、まるで遥か太古の、神殿の番人が示す、厳然たる条件提示のごとく、ノエルの心に深く刻まれた。
そんなわけで、ノエルは今日も、来る日も来る日も、階段という名の修行の道に励んでいた。温かな昼寝と、満たされぬ夕食の合間に
「いっ、にっ……ぜー、はー……、よ、よんだんめ……おやすむ……」
もはや階段の三段目は、リビングの隅に置かれたお気に入りのベッドにも等しい、日常の安息地と化していた。
しかし、四段目から先は気圧が違う気すらする。未知なる高み。
酸素が薄い(気がする)。
リビングでは、マーブルがまた朝食のカリカリを胡乱に眺め「これもしかしたら草食動物のエサでは?」という顔をしていたが、今、その瑣末な出来事は、ノエルの心に届くはずもなかった。
さて、その頃。二階の【シャカシャカゾーン】では、狩人会議(臨時開催)が、秘密裏に開かれていた。
議題は、ただ一つ。「ノエルに毛玉ぼーるを渡すのは、時期尚早か否か」である。
ミーは、その話題の中心たる自前のぼーるを抱えて、無邪気に転がりながら、天真爛漫に宣う。
「でもね〜、一生懸命なのは伝わってくるのよ〜」
「ええ、でもこの前、階段でおやつも落としちゃって戻ったじゃない。五段目から」
チコが、お姉さんへの愛のごとく、冷静なる眼差しで過去を振り返る。
エリは、小鳥のさえずりのように、控えめな声で訴えかける。
「……がんばってるし、そろそろちょっとだけ、遊ばせてあげたくない?」
そう、会議はいつだって紛糾するのがこの世の理。
「貸し出しは条件付きで」
「紐に飽きたかどうか確認を」
「どうせ寝ちゃうから渡しても問題ない」など、さまざまな意見が、絢爛たる花火のように飛び交った。
──そして、幾度かの議論の末、ついに絶対の方針が決定された。
その夜。リビングには微かな音がした。
さながら、夜風の囁きのように響く。
ころろん。
毛玉ぼーるが、一階と二階を繋ぐ、まさに境界線の上に、そっと置かれている。
「……!」
白猫の金と蒼の瞳が恋焦がれるよう煌めく。
紐に次ぐ尊さが、あるいはそれ以上の尊き宝物が、ついに手の届く、いや、肉球の届く位置に。
「これは……かみの、さいはい……!」
てしっ。ふにゅ。ころころ。
毛玉ぼーると格闘しはじめた無邪気な白猫を横目に見ながら、夜の静寂を破るように呟く。
「私寝るわよ。猫が騒いでるときに寝ないと損なのよね~」
「いや、見てママ、ノエちゃん、どたんどたんって転がって階段おちてきた。お餅みたーい」
案の定、ぼーるに夢中で自分が回転してしまい、ノエルは三段目で、のしもち状態になっていた。その後、何事も無かったかのような顔をして、甘美なる声で鳴いた。
「……わたしねます……すこし……ふわふわのゆめ……」
そして全ての冒険の疲れを癒やすかのように、すとんと眠る白猫。
家猫修行は、今日もまた、その長く険しい道のりの途上にある。
されど、今日も小さな大冒険が、この温かな家の中で、静かに完了した。