階段修行、あるいは優雅なる一歩
それは、風のない午後だった。ガラス戸越しの陽光は、ただ静かに庭のつる薔薇の葉を撫で、中原家の一階某居室には、夢の澱のような静謐な幸福が満ちていた。だが、その安寧に微かな波紋を広げたのは、誰あろう白き夢想家、ノエルである。
「……のぼりたい……きょうこそ、あのさきへ……ぼうけん」
天性の好奇心を原動力とし、不屈の魂を持つ彼女は、近ごろ二階に住まう狩人たちの気配に触発され、まるで古の神殿の階を見上げるかのように、階段を再び見つめていた。
三段目の結界を破りしは、数日前。その後、幾度となく挑もうとしたが、二段目で「なんかおなかすいたかも」という、甘美にして抗いがたい誘惑に身を任せ、毎回、夢の途中で引き返していたのだ。
だがしかし、今日は、違う。彼女の瞳には、小さき炎が悠久の時を映すように揺らめいている。
──いや、正確には「お母さんが持ち帰りし、愛猫用おやつ:カツオジャーキーの秘められし場所が、その天辺にあると信じて疑わない」だけのこと。
まずは、軽やかなストレッチ。
背中を丸め、しっぽをピンと立てる。
それは、舞台の幕開けを告げる静かなる儀式。
「せーの、いちだん……にだん……」
そして、三段目──結界突破。
「ふふ、わたし、いま、かいだんのようせい……!」
何を言っているのか本人にも分かっていないが、その響きのよさに気分は最高潮。その刹那、背後から凍てつくような視線がノエルに絡みつく。
マーブルである。
「若いわねぇ……まあ、いいけど……ところで、今日のご飯、またマグロ……」
ごはん皿を覗きこみ、その全身で「これは、果たして猫が口にすべきものなのか?」という深遠なる問いかけを投げかけるマーブル。一瞥して更に背を向けると、音もなく去っていった。次の食事が十時間後という、残酷な時間の淵が待っていることを、彼女はまだ知らない──。
一方、階段の中腹で誇らしげに座すノエル。
そして次の一段へ──四段目、五段目……。
「ぜー……はー……これ、うんどうってやつ……」
階段六段目。すでに太もも(的な部位)が、微かな震えを刻んでいる。それでも、ここで彼女は止まらない。なぜなら、先ほど上からミーがちらっと顔を出し、まるで囁きかけるようにこう告げたからだ。
「ノエちゃん、のぼれたら……秘密の毛玉ぼーる。貸してあげるよ?」
ぼーる。
──それは、紐の次に尊い魂の輝き。
「のえる……いける……」
お姉さんの影響で韻を軽く踏んでみつつ、階段をもっちりもっちりあがる白猫。その姿は、あたかも餅つき機のなかで生命を得たかのように、軽やかに舞うお餅のようである。
ようやく八段目まで到達した時、二階の影が再び動いた。チコとエリの姉妹が、階段上の闇に音もなく現れる。
「……案外、根性あるわね」
「うん、ちょっと感心……だけど、まだ半分にも届いてない……」
ノエルは気づいていない。この一連の様子はすべて、二階の狩人会議という名の、冷徹なる査定会の議題に上がっていたことを──。