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紐と数独と夜の咆哮

 ──人生において、心を奪われる瞬間というものがある。


 人によってはそれが恋であり、食であり、或いはラップバトルであったりもする。

 だが、ノエルにとってそれは──紐であった。

 しかも、ただの紐ではない。エプロンの、それもお姉さんの腰の後ろで揺れる――とくべつなひも。


 あれが揺れれば、この世は無限の遊び場へと変貌し、捕まえれば、存在そのものの深淵を覗き込むかのような啓示が訪れる。それは、ただの糸切れではない。世界の深淵を、宇宙の真理を凝縮した、輝ける導線なのだ。


「……きょうも、ふるふるしてる……!」


 ノエルは小さく息を飲み、カーペットの上からそっと身を起こす。

 お姉さんは昼食の準備中。たすきがけのエプロンが軽やかに揺れている。

 彼女はそれを――降臨する誘惑。と名付けた。

 金蒼の瞳に映るは、翻る布の先に揺れる、夢幻。一瞬の跳躍が、運命の輪を掴む試みか、ただ美しきものへの純粋な希求か。


「にがさにゃ、い……!」


 ぽよよんぽよよん、と少しお腹を揺らして飛びかかる白猫。が、寸前でお姉さんがくるりと振り返り、結果、空振りの前転で転がっていく。


「ノエちゃん、危ないってば〜」

 

 愛くるしい姿には慈愛に満ちた微笑みが落とされる。

 なおも前脚を宙にのばす白猫。嗚呼、愛しき紐よ、なぜそんなにも遠いのか。


 リビングの隅では、マーブルがひなたの窪みに収まってまどろんでいた。

 齢二十一、眼光鋭くとも、今はただ静かに夢を見る。

 陽だまりに溶ける老躯は、まるで朽ちた千年杉の老木。眼差しに宿る鋭さは、今は過去の記憶の残滓を追うかのように深遠なる夢の淵に沈み、密やかな叙事詩を紡いでいるかのようだ。


 そして、そんな愛猫達のドラマとは無関係に、お母さんはダイニングテーブルの静かなる戦場で、数独と対峙していた。鉛筆の先は、数字の織りなす無限の迷宮を黙々と辿る。

 天然にして温厚、世の喧騒を「面倒」と一蹴するこの女性の指先がなぞるのは、無数の数字が織りなす、完璧な調和へと至る道程。


「8が……ここかしら……あれ、ちがう?」

「……ちがうにゃ」とノエルが呟いたかは、定かではない。


 そんな昼下がりが静かに終わり、夜。

 この家のテレビに灯が入ることは稀だ。

 だが今宵、奇跡は起こる──。


 某ラップバトルで人気作品のライブBlu-ray、降臨。

 夜の帳が降りた頃、静寂を破り、箱舟より音楽という名の奇跡が解き放たれる。液晶の光が部屋を満たし、魂は音の渦へと誘われ、日中の理性は霞となって彼方へと消え去った。


「サマサマきた! サマサマきたーーー!!」


 叫ぶお姉さん、すでに腕はプチョヘンザ(Put your hands up!!)。

 お母さんも、なぜか数独をそっと閉じ、立ち上がり、しれっと「ブクロ~!」と叫ぶ。

 時刻は草木も眠る刻を過ぎ。

 ノエルは、膝に前脚をぽんと置く。


「おねえさん……ねんねのおじかん……よ。おせなか……とんとん……しないとだめ、ですょ……」


 そう、この白猫にとってのライブのハイライトは「寝かしつけ」なのだ。

 ラップのビートに包まれながら、お姉さんの膝で舟をこぐ。最高の眠りの導入儀式であった。


「待ってノエちゃん、サマサマしゃべってるよ?  ほら、語りパートだよ?」

「……にゃ」


 静かなる夜、リビングでは三者三様の情熱が揺れている。

 紐に恋する猫。数字に挑む母。推しに魂を預ける娘。


 ──これは冒険ではない。これは、日常だ。


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