結界の向こう側
──時は、雨上がりの静謐なる朝。
夜の帳はとっくに引かれ、空は鈍色を脱ぎ捨てる途中にある。けれど、空気は未だ冷たく、庭の草木は露のしずくを抱いたまま、光を恋しげに待っている。
一階のリビングでは、白く丸い神秘の猫、ノエルがふたたび目を覚ました。
この世に拾われしは一年前、庭の片隅、寒き雨の朝。推定二歳。金蒼の彩られる瞳に、ふくふくぽよよんとした輪郭。
昨夜からぬくぬくと主張し続けるホットカーペットの恵みに、彼女は深い忠誠心を抱いている。
──だが、この日、ノエルはふと思った。
「……きになる、あのうえ……あのさき……」
そう、階段である。
この家にはもうひとつの世界がある。すなわち、二階。
しかし、ノエルの冒険は一階までに制限されており、上階は禁域として扱われていた。特に、階段三段目には、ノエル自身が名付けた『結界』なる不可視の境がある。
その向こうには、気配──。ただならぬ、三つの。
意を決し、彼女は一歩、また一歩と踏みしめる。
一段目はまだ優しい。二段目も、ホットカーペットの延長のよう。
そして──三段目。
──パチッ。
微細な振動、あるいは幻聴か。触れると微かにピリつくような。
そして、気配が……動いた。
その時、階段の頂きより、影が三つ、ぬるりと現れる。
最初に姿を見せたのは、サバトラのミー。狩人気質を獣医師からも太鼓判を押されたその体は、軽やかにして静かだ。天然の仮面をかぶるが、人間への愛情は溢れて止まない。
「下から来たのは……ノエルちゃん?」
続いて、白黒ブチに三毛混じりの姉妹。
一歩前に出るはチコ。鋭き視線でノエルをじっと見つめるその様は、まるでお姉さんの影法師。日がな一日、お姉さんの歩みに寄り添い、その愛は執念にも似て。
そして、最後にエリ。
同じく白黒に三毛混じり。姉妹の中では最も繊細にして、最も優しい瞳を持つ。怯えがちな足取りの奥に、深い慈愛の光が宿っている。
三匹の視線が、階段の中腹に座り込んだノエルに注がれる。
それはまるで──初めて巣に近づいた子うさぎを眺める猛禽たち。
「……わ、わたし……ぬくもりのようせいです……」
とっさに放った謎の供述。
ミーが笑い、チコが片眉を上げ、エリがそっと前足を一歩出す。
「なら……温めてくれる?」
問いかけにノエルが返答する間もなく、三姉妹は姿を消した。まるで風。まるで幻。
気づけば背後より、年老いた猫又候補──マーブルの声がする。
「試されたね、白猫の娘。階段の向こうはただの上階ではないのよ……」
ノエルはそっと、結界の向こうを見上げた。
世界は広い。二階は、遠い。
だが、今日も心はあたたかい。
ぬくもりを携え、彼女はすこしだけ勇者になった。