影なる守護者
六月のある晴れた午後。
リビングには、窓から差し込む光の梯子が淡い陰影を落とし込み、庭の紫陽花の葉は、夜雨の名残を、きらめかせていた。ノエルは毛玉ぼーるを転がしながら、夢と現の狭間を漂うかのような、穏やかなまどろみの中にいた。その一方、マーブルはソファに鎮座し、古の賢者のような佇まいでひげを揺らしている。
一見、ありふれた、そして平和な日常。
だが、その静けさの裏で、密やかに、そして絶え間なく繰り広げられる、研ぎ澄まされた愛ゆえの監視があった。
その主は、二階のチコである。
彼女にとって、この家で最も尊い存在、それがお姉さんだった。
チコの一日は、太陽が昇るがごとく、お姉さんの気配を追うことから始まる。
朝、目覚めの微かな気配を感じ取れば、まるで夜明けを告げる使者のように、頬にそっと寄り添い、眠りから覚めるその瞬間を待つ。お姉さんがリビングに降りてゆけば、彼女は二階の階段上から、あるいは廊下の物陰から、その一挙手一投足を、息を潜めて見守るのだ。
「お姉さんが座れば、すぐに視界の端に入り込む」
二階のミーは、チコのそんな様子を観察しながら、よくそう呟いていた。
「まるで狛犬みたいだよねぇ」とエリも同意する。
チコのお姉さんへの愛は、嵐の中の灯台のように、一途で、揺るぎない。彼女の視線の先には常に、この世界で最も輝かしい星のように、お姉さんが存在している。その角度は斜め四十五度。時折、お姉さんが心配してチコの首をさすってくれるのも計算済みの角度であった。
この日も、お姉さんがリビングで書類仕事をしていると、チコは音もなく、まるで幽霊のように二階の階段口近くに鎮座した。ぴんと立った尻尾、一点の曇りもなく対象を捉える瞳。その眼差しは、まさしく獲物を狙う孤高の狩人のそれ。だが、彼女が狙っているのは、獲物ではない。
階段下の『なんとものぼれにゃん』だかそういう名前の背の高い柵が恨めしい。
ノエルが修行する時のみに、開かれる、真理の門でもある。
お姉さんが立ち上がれば、チコもまた、二階で身を低くする。
キッチンへ向かえば、階段の手すり越しに、その動きを追う。
振り返るお姉さんの視界に、ふと、二階の影として現れる。その動きは滑らかで、ほとんど気づかれない。
お姉さんは、常日頃から「私の指の間からはね~猫寄せフェロモン出てるんだよ~」と言っているが、チコにとっては、それはフェロモンなどという軽々しい物などではなく、すべてを引き寄せる、絶対的な魔力だった。
夜、お姉さんが自室に戻る時間になれば、チコは部屋の入口で待ち構えている。そして、一歩、また一歩と部屋へ入るお姉さんの後を、忠実な従者のように、ぴったりと追っていく。ベッドに横たわったお姉さんの頬に、ぐぐいと全身を押しつける。
「チコちゃん顔舐めるのやだってば~」
「今日も一日、ご無事に過ごされたようね……」
チコは、目を閉じたお姉さんの寝息を聞きながら、そう安堵しているのかもしれない。彼女にとって、お姉さんの安全と平穏こそが、何よりも大切な、唯一無二の『獲物』なのだ。
ノエルが紐や毛玉ぼーるに夢中になるその傍らで、マーブルが食の哲学を追求するその隣で、チコは今日も、ただ静かに、そして狂おしいほどに、愛するお姉さんの影であり続ける。それは、自己を消し、ひたすら他者を守る、究極の献身であった。
日常は、猫たちの、ささやかながらも壮大な愛情によって、緻密に、そして温かく織りなされているのだ。