入学式(5)
その声を発したのは、谷部であった。鋭い目で、ひとりの生徒を睨みつけている。
視線の先にいるのは、唯一の男子生徒である灰野茂だった……。
「は、はひ?」
灰野は、困惑した表情で返事をした。なぜ、自分が睨まれているかわからないらしい。
しかし、谷部はさらに問い詰めていく。
「何だ今のは、って聞いてんだよ! さっさと答えろ!」
「えっ? な、何のことですか?」
震えながらも聞き返す灰野に、谷部はフウと大きな息を吐いた。面倒くせえなあ、とでも言いたげな表情が浮かんでいる。
直後、谷部は歩き出した。灰野に、ゆっくりと近づいていく。
皆の注目は、今やこのふたりに集まっていた。さっきまで、サディスティックな表情で矢吹の腹を殴っていた浜口ですら手を止めていた。ふたりの動向を見ているのだ。
「お前、さっきからずっと窓を見てたなあ。しかも、ひとりでブツブツ言いながらよ。それだけでも、充分に許しがたいことだが……」
言いながら、谷部は歩いている。目線の先にいるのは、もちろん灰野である。
灰野の方は、怯えた様子で後ずさっていった。だが、すぐに立ち止まる。背中が、壁にぶつかったのだ。
同時に、谷部も足を止めた。両者の距離は、五十センチから七十センチほど。谷部が手を伸ばせば届く距離だ。
そんな距離で、谷部は再び語りだす。
「今、俺を見て笑ったよな? 何がおかしいんだ? 俺の顔は、そんなに面白いか?」
「いえ、笑っていません」
灰野は、首を小刻みに振りながら否定した。恐怖のせいか、死人のような顔色になっている。
しかし、谷部に容赦する気配はなかった。
「そうか。お前は、笑ってないと言うんだな。よくわかった」
言った直後、谷部が動く。その右足を、すっと上げた。かと思うと、鋭い横蹴りを放ったのだ──
ドスン、という音が響き渡る。谷部の足裏は、壁に炸裂したのだ。灰野の顔面から、僅か数センチの位置である。今の状況は、さしずめ「蹴りによる壁ドン」だ。
一瞬遅れて、灰野の体がガタガタ震え出した。さらに、そのまま畳に崩れ落ちる。蹴りの衝撃を間近に感じ、腰が抜けてしまった……と、周囲の者には見えた。
そんな灰野を見て、谷部は足を引っ込めた。冷静な表情で、彼を見下ろしつつ語りだす。
「順を追って聞いていくとしよう。まず、お前は何で外を見ていたんだ?」
「あ、あの、ぼぼぼ僕は殴りあいとか、ここ怖くて見れないんです。だだだから、そそそ外を見てました」
灰野の体は震えており、放っておけば上下の歯がガチガチと当たる状態である。そんな中、どうにか言葉を絞り出したのだ。
しかし、その答えは谷部を満足させるものではなかったらしい。
「お前、俺をナメてんのか? バカにしてんのか? 一度、死なないとわからんのか?」
静かな口調である。だが、谷部の瞳には冷酷な光が宿っていた。本物の殺気とは、こういうものなのではないか……周りで見ている者は、皆そう感じていた。
そんな男に詰められ、灰野は泣きそうな顔で叫ぶ。
「は、はひ!?」
「俺はな、日本でいろんなガキを見てきた。元暴走族、半グレの使いっ走り、ヤクザの準構成員、その他もろもろだ。はっきり言って、どいつもこいつも口ばかりだったよ。ちょっと痛め付けたら、すぐにピイピイ泣きを入れやがる。情けねえ連中だった。本当、どうしようもねえよ」
言いながら、谷部はクスリと笑う。だが、その笑顔は一瞬で消えた。
「お前は違う。こうやって間近で見るとな、はっきりわかるんだよ。お前は、俺が日本で見てきたクソガキどもの中でも最悪だ。いや、最強と言った方が正確かな」
「ち、違います。ぼぼ、僕は弱いです」
かぶりを振り否定する灰野だが、谷部は語り続ける。
「とぼけんな。もう一度言うぞ。俺には、わかるんだよ。お前はな、人殺しの目をしてる。体からも、血の匂いがプンプンしてるぜ」
そこで、谷部はニヤリと笑った。直後、とんでもない言葉が飛び出る──
「正直に言えや。お前、人殺したことあんだろ?」
「あ、ありません!」
叫ぶ灰野。横で聞いている松山と浜口も、さすがに顔を見合わせた。今の谷部は、どう見てもおかしい。狂っているとしか思えない。
そして、谷部の狂気はさらにエスカレートしていく──
「そうか。あくまでシラを切るんだな」
「谷部先生……あの、どうされたんですか?」
松山が近づいて行き、案じるような顔で尋ねた。対する谷部は、冷酷な表情で彼の方を向き語り出す。
「この灰野だがな、とんでもない奴だよ。浜口先生と矢吹が闘っている間、こいつはほとんど見ていなかった。外の様子を観察していやがった」
「観察?」
「そうだよ。こんなおっかないふたりが、すぐ目の前で殴り合っているんだぜ。なのに、こいつは横目でチラッと見るだけだ。冷静な表情で、外に目を向けていたんだよ」
そこで、谷部の視線は灰野に移る。
「俺はな、おかしいと思いずっと監視していたんだ。そしたら、灰野は俺の視線に気づいた。そこまではいい。だがな、こいつは俺の方を向いたかと思うと、笑いやがったんだ。つまり、俺を挑発したんだよ。殺れるもんなら殺ってみろと……そうだろうが?」
鋭い目つきで尋ねた時、灰野の目から涙が溢れる。
次の瞬間、狂ったように騒ぎ出した──
「許してください! 何でもしますから、暴力だけはやめてください!」
泣きながら喚きちらす灰野に、今度は松山がそっと近づいて行った。
しゃがみ込むと、少年の肩をポンポンと叩き、笑顔で語りかける。
「わかった。わかったから、ひとまず落ち着こうか。な? な?」
言われた灰野は、ピタリと動きを止め涙を拭った。
だが、彼の口からとんでもない言葉が飛び出る──
「わかりました! とにかく、僕も脱ぎます! 脱げば許してもらえるんですね!」
「おい、大丈夫だから。お前は脱がなくていいよ」
松山が、引きつった表情で止めようとした。この男、当然ながら女性が大好きである。灰野のような少年の裸など、毛ほどの興味もない。はっきり言うなら、見たくなかった。
しかし、灰野は既に動き出していた。
「いえ! 脱ぎます!」
叫んだかと思うと、いきなり立ち上がった。さらに、その場でズボンを脱いでしまったのだ。
おかしな格好だった。ジャージの上は着たままなのに、下半身はパンツだけなのだ。しかも、履いているのは白いブリーフである。コントで、芸人が履いているようなデザインのブリーフなのだ。
皆、唖然となり灰野の奇行を見ている。しかし灰野は、この程度で終わらせるつもりはないようだった。
「あっ、パンツも脱ぐんですね! 今すぐ脱ぎますから、暴力はやめてください!」
叫びながら、両手を己のパンツにかける。かと思うと、瞬時に脱ぎ捨ててしまったのだ。
当然ながら、灰野と谷部のやり取りは少女たちも見ている。にもかかわらず、この少年は下半身を丸出しにして立っているのだ。
その時、谷部の表情が険しくなった。
「そうか。それでごまかすつもりなんだな。だったら、本気を出さなきゃならねえようにしてやる」
訳のわからないことを言ったかと思うと、谷部は右手をポケットに入れた。
直後、右拳を灰野に向かい突き出す。その手には、ナイフが握られていた。さほど大きなものではないが、刃は鋭く尖っている。人を殺傷するには充分だろう。
これは、日本では所持が禁止されているオートマチックナイフだ。スイッチひとつで、刃が飛び出る仕掛けになっている。そんなナイフをちらつかせ、谷部は残忍な笑みを浮かべた。
一方、灰野はガタガタ震えながら後ずさっていく。ナイフの刃は鈍く光っており、見ている者の恐怖心を煽る。
しかし、谷部に逃す気はないようだった。ナイフを構え、灰野に詰め寄る。
「おら、来いよ。どうした? 本気でかかって来い。来ないなら殺す」
「ぞ、ぞんなあ……許じでえ……ごろざないでぐだざい」
泣きながら懇願する灰野。次の瞬間、さらにとんでもないことが起きる。
チョロチョロという音が聞こえてきたのだ──
「おいおい……こいつ、やりやがったよ」
松山の口から、虚ろな声が漏れ出た。顔は、ひどく歪んでいる。
それも当然だろう。灰野は、皆の目の前で失禁してしまったのだ。小便が放出され、畳に水溜まりを作っている。
教師たちも生徒たちも、唖然となるばかりであった。まさか、こんな公衆の面前で小便を漏らすとは思ってもいなかったのだ。
「ゆるじで……だずげでえ……ごろざないでえ」
灰野はというと、見るも無残な姿だった。メガネをかけたままの顔は、涙と鼻水にまみれていた。口からは、許しを乞う言葉だけが断続的に出ている。
その奇行に皆が唖然となる中、最初に動いたのは松山だった。
「おい、こんなに汚しやがって……どうしてくれんだよ」
言いながら、灰野につかつか近づいて行く。かと思うと、いきなり少年の腹に蹴りを入れたのだ。
蹴られた灰野は、畳の上を転がっていく。止まると同時に、再び叫び出した。
「ひぎゃあ! いだい! だずげで! ごろざないでえ!」
その無様な姿を見て、松山は呆れた表情で谷部の方を向いた。
「谷部先生、こいつクソザコ以下ですよ。先生の顔見て笑ったのも、いきなりヤバいもの見て情緒不安定になったからじゃないですかねえ」
すると、谷部はフウと息を吐いた。
「いいよ。今回は、そういうことにしとく」
謎の言葉を吐き、谷部はナイフをしまった。と、今度は浜口が口を開く。
「さすがに、男のお漏らしは萎えるなあ。やる気が失せちまったよ。しょうがねえ、今日んところはここまでにしてやる。入学式は終わりだ。松山、悪いけど新入生を寮に連れていってくれ」
「わかりました」
松山は頷いた。次に浜口は、灰野の方を向く。
「灰野、お前は居残りだ。畳の上を、自分で掃除しろ」
「は、はい!」