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入学式(4)

 皆の見守る中、矢吹は浜口と向かい合った。

 近くで見ると、その体格差には圧倒されるものを感じてしまう。矢吹は思わず、ゴクリと唾を飲んだ。

 それも仕方なかった。浜口は身長こそ百八十センチであり、矢吹と比べ十センチほどしか違わない。だが、この男の体重は百二十キロだ。矢吹と比べ、五十キロの体格差がある。

 素手の格闘において、この体格差は絶望的なまでの差を生み出す。単純な腕力のみならず、打撃の強さやダメージへの耐久力などなど、闘いにおいて重要視される能力が桁違いなのだ。

 ボクシングでは、二十キロ違えば勝負にすらならないと言われている。フライ級の世界チャンピオンも、ヘビー級の四回戦選手には惨敗してしまうのだ。

 ましてや、浜口と矢吹には男女の差もある。性別の違いから生まれる身体能力の差……こればかりは、どうあがいても埋められるものではない。

 それでも、今さら引き下がるわけにはいかなかった。矢吹は、両拳を顔の前に挙げ構えた。

 と、浜口が口を開く。


「ほら、どうした。好きなようにかかってこいよ」


 自信たっぷりの態度で言い放ったのだ。両手を前に出した構えで立っており、顔には余裕の笑みすら浮かんでいる。

 そんな浜口を見た瞬間、矢吹の心に火がついた。


「この野郎! ざけんじゃねえぞ!」


 怒鳴った矢吹は、前手でフェイントをかけつつ浜口の周囲を回る。だが、浜口は微動だにしていない。いつでも来い、とでも言わんばかりの態度だ。

 ならば……矢吹の口から、鋭い気合いの声が出た。と同時に、瞬時に間合いを詰め右足を走らせる。

 直後、矢吹の全体重をかけた右のローキックが放たれる。浜口の左太ももに命中した──


 ローキックは、一般的には単なる痛め技としてしか認識されていない。

 しかし、それは大きな誤りである。ローキックの衝撃力は、蹴り技の中ではトップクラスだ。単純な威力だけならば、派手なKO劇に繋がりやすいハイキックよりも上である。

 フルコンタクト空手の黒帯所持者が、同じくらいの体格の素人にローキックを放ったとしよう。金属バットで殴られたような衝撃が、足全体に走るのだ。

 その痛みに耐えられる者など、まずいないだろう。ほとんどの場合、一発で崩れ落ちてしまうのだ。


 今、矢吹が浜口に食らわしたローキックは……タイミングも体重の乗せ方も完璧であった。一般男性のほとんどが、このローキックを食らえば耐えられず崩れ落ちてしまうはずだった。

 ところが、浜口は微動だにしていなかった。体重を乗せた渾身の蹴りをまともに受けたはずなのに、表情ひとつ変えてない。その場に突っ立ったまま、へらへらした顔つきで矢吹を見つめている。

 その表情が、矢吹の闘志をさらに燃え上がらせた──


「クソ! なめやがって!」


 吠えた直後、矢吹の右足が再び動く。鞭のようにしなる蹴りが、浜口の左太ももに炸裂した。先ほどと、ほぼ同じ位置にローキックが命中したのだ。当然、ダメージも積み重なっていく。

 しかし、浜口に変化はない。全く効いていないらしい。


「あのな、ぜんっぜん痛くねえぞ。それ、本気で蹴ってるのか?」


 からかうような口調で聞いてきた浜口に、矢吹はギリリと奥歯を噛み締める。

 これまで、暇さえあればサンドバッグに蹴りをぶち込んできた。蹴った本数は、何千という数であろう。蹴りこみ(決められた時間キックミットを蹴り続ける練習)と呼ばれるハードなトレーニングも、毎日こなしてきた。

 そうやって磨き上げてきたローキックが、浜口には全く効いていないのだ。

 絶望感と無力感が、矢吹の心を蝕んでいく。その時、浜口がニヤリと笑った。


「どうした? もう終わりか? まあ、お前のやってた空手なんかな、しょせん遊びなんだよ」


 その言葉が、矢吹の萎えかけていた闘争心に再び火をつける


「ざけんじゃねえ! 遊びでやってたんじゃねえんだよ!」


 怒鳴り、再び構える。矢吹にとって、空手は人生そのものだった。今まで、自分の全てをかけて打ち込んできた。

 その思いを、このクズ野郎にバカにされたのだ──


「調子に乗るんじゃねえよ!」


 喚きながら、矢吹は右の正拳を放つ。狙うは、浜口の顔面である。顔面に正拳が当たれば、さすがに無傷では済まないはずだ。

 ところが、予想もしていなかった事態が起きる。浜口は、涼しい表情で矢吹の正拳を払いのけたのだ。平手で軽く払い、パンチの軌道を逸らせる。

 ボクシングには、パーリングという防御技術がある。顔面に放たれたパンチを、こちらの手で払う技術だ。今、浜口はそれとほぼ同じことをやってのけたのだ。


 そ、そんな!


 矢吹は、今度は左の正拳を叩き込む。が、これまた簡単に払われた。矢吹はヤケになり、気合いとともにまた右の正拳を放つ。

 無駄な行動であった。浜口は、先ほどよりも楽に払いのける。

 直後、呆れたようにかぶりを振った。


「あのな、柔道には組み手争いってのがあるんだよ。お前のパンチを避けるのなんざ、組み手争いに比べりゃ楽なもんだよ」


 そう、柔道には組み手争いという局面がある。組み合う前に、相手のどこを掴むか? または、相手にどこを掴ませないか? というせめぎあいだ。

 相手が、こちらを掴もうとして伸ばしてきた手を、バチンと払いのける……これは、組み手争いではよくある攻防である。組み手争いに慣れた者なら、素人のパンチくらいなら簡単に払い除けられる。

 無論、矢吹のパンチは素人レベルではなかった。強く、そして速い。

 しかし、浜口もまた常人ではない。オリンピック強化選手に選ばれた過去を持つ男である。矢吹のパンチを、完全に見切ってしまったのだ。


 こ、こんなことが……。


 矢吹の心は、折れかけていた。自分がこれまで、膨大な時間をかけ磨いてきた技が、全く通用していないのだ。

 そんな矢吹の心中を読みきったらしい。浜口は、余裕綽々といった表情で口を開く。


「じゃあ、次はこっちから行くぞ」


 言った直後、浜口が動く。力みのない自然体で、すっと間合いを詰めてきた。

 矢吹は、弾かれたように後ろへ飛び退く。だが、何かにぶつかった。

 そこには、松山が立っていたのだ。


「おい、逃げるなよ。せっかく、元オリンピック強化選手の浜口先生が相手してくれてるんだ」


 そんなことを言った直後、彼はドンと両手で押した。

 押された矢吹は、思わずバランスを崩し前によろめく。外野からの予想外の攻撃を受け、無防備な体勢で前に出てしまったのだ。

 そこに立っていたのは浜口である。すかさず、矢吹の襟と袖を掴む。

 次の瞬間、矢吹の体が宙を舞った――


「はい、一本」


 松山がふざけたセリフを吐いたが、矢吹の耳には届いていなかった。

 それも当然だろう。矢吹は、浜口の投げ技をまともにくらい畳に叩きつけられていたのだ。口からは、ゴフッという異様な音が漏れる。

 柔道は、オリンピック競技になっているし小学生や中学生の部活動としても一般的だ。世間的には、武道であると同時にスポーツとしても捉えられている。

 だが、その投げ技は実戦的であり、また大変に危険なものなのだ。もし、アスファルトの上に叩きつけられていたら……命を落としたとしても不思議ではない。

 幸いにも、矢吹が投げられたのは畳の上である。しかも、背中から落としていた。したがって、命に別状はない。

 それでも、矢吹の受けたダメージは相当なものだった。全身を激痛が走り、動くことが出来ない。

 闘いは、それで終わりではなかった。浜口は、倒れている矢吹の体にのしかかる。馬乗りの体勢になり、勝ち誇った表情で口を開く。


「お前の負けだ。そんなわけだから、約束は守ってもらうぞ。裸になって土下座だ。今日のところは、それで許してやろう」


「ふざけんな……あたしは、まだ負けてない」


 息も絶え絶えになりながら、矢吹は言い返した。そう、こいつにだけは絶対に負けられない。負けを認めるくらいなら、死んだ方がマシだ。

 浜口は、そんな矢吹をせせら笑った。


「おいおい、往生際の悪い奴だな。ここからじゃ、どう足掻いても俺に勝つことは出来ないぞ」


「うるせえ、豚野郎」


 なおも言い返す矢吹に、浜口の表情が変わった。


「ほう、まだそんな口が利けるのか」


 言った直後、浜口は右手をゆっくりと上げた。


「先生に向かって、豚野郎とは何だ!」


 吠えながら、浜口は手を振り下ろす。矢吹の顔面にビンタを食らわせたのだ。

 バチンという音が響き渡る。その強烈な威力に、矢吹の顔が歪んだ。脳が揺れ、視界がグラングラン揺れる。

 浜口は、それで終わらせる気はなかった。さらなる一撃を放とうと、再び右手をあげる。

 その時、叫んだ者がいた──


「もうやめて!」


 声をあげたのは高杉だ。新入生の中でも、もっとも内気で引っ込み思案に見えた彼女が、凄まじい形相で叫んだのである。

 しかも、それは一回では終わらなかった。


「やめてえぇぇ!」


 金切り声をあげながら、浜口の方にふらふらと歩いているのだ。東原と鹿島は、唖然となり彼女の奇行を見ていた。

 だが、高杉の前に立った者がいる。松山だ。


「やめて、じゃないだろ。やめてください、だろ」


 猫なで声で言いながら、彼女を見下ろす。その顔には、いやらしい表情が浮かんでいる。

 高杉は悔しそうな表情になりながらも、言われた通りのセリフを吐く。


「やめて……ください」


「まだ足りないな。お願いします、は?」


「やめてください。お願いします」


 高杉は、どうにか要求通りのセリフを吐き出した。しかし、松山の要求は止まらない。


「だったら、まずは服を脱いでもらおうか。で全裸になって、俺の前で土下座しなさい。そうすれば、矢吹のことを許してあげるよう、俺の方から頼んであげるよ」


 聞いた瞬間、東原と鹿島は顔を見合わせた。この教師たちは、どうあがいても彼女たちに辱めを受けさせるつもりなのだ。

 さすがの高杉も、震えながらかぶりを振る。


「そ、そんな……」


「出来ないなら黙ってろ。矢吹は今、浜口先生に教育的指導を受けているんだ。他の者たちも、ちゃんと見ておけ。ああなるのが嫌なら、反抗はするな」


 冷酷な口調で、松山は言い放った。一方、浜口は矢吹を睨みつける。


「おい、早くしろ。お前が、許してくださいお願いしますと言うんだ。でないと、入学式が進められないんだよ」


「ふざけんな……このクソ豚」


 苦痛に顔を歪めながらも、矢吹は言い返した。と、浜口は嬉しそうな表情になった。


「ほう、まだそんな口が利けるのか。これは、痛めつけがいがあるな。先生は、お前みたいな女をいたぶるのが大好きなんだよ」


 そう、浜口は女性に暴力を振るうことで性的快感を得る根っからのサディストなのだ。

 彼がオリンピック代表になれなかったのも、大学時代に後輩女子たちへ振るった暴力が原因である。負けた後輩女子部員たちを一列に並べ、顔を平手打ちしたり腹を殴ったりして、苦痛に顔を歪める女子たちを見て悦に入っていたのである。

 さすがにマズいと感じた松山が、それとなく止めに入る。


「浜口先生、顔はヤバいですよ。顔に傷でもつけたら……」


「それもそうだな」


 答えたかと思うと、浜口はスッと立ち上がった。次に、矢吹の髪を掴み力ずくで立ち上がらせる。

 次の瞬間、腹に拳を叩き込んだ── 


「ぐふぅ!」


 矢吹の口から、声が漏れる。浜口は打撃のプロではないが、それでも百二十キロの全体重をかけたパンチだ。その威力は凄まじい。男性でも、この一発を喰らえば悶絶するだろう。

 鍛え抜かれた肉体を持つ矢吹でも、このパンチほ効いた。腹を襲う強烈な痛みに耐えきれず、そのまま崩れ落ちそうになった。

 だが、倒れることは出来なかった。浜口が、髪を掴み無理やり立たせているからだ。 

 さらに、浜口は耳元で囁く。


「ほら、どうした? まずは、許してくださいって言ってみろよ。そうすれば、腹パンは止めてやる」


 だが、矢吹は何も言わなかった。というより、言えなかったのだ。痛みのあまり、声を出すことが出来ない。

 すると、浜口はウンウンと頷いた。


「そうかそうか。もっと殴って欲しいのか。お前、実はドМだったんだな」


 言った直後、またしても腹を殴る──


「ぐふうぅ!」


 矢吹の口から、無様な声が漏れる。凄まじい衝撃だった。見えない凶器が、内臓を貫いているかのような激痛だ。耐えきれず、彼女は膝から崩れ落ちる……が、浜口は倒れることを許さない。

 さらに、もう一撃。激痛のあまり、矢吹の口からまたしても声が漏れる。その声と歪んだ表情が、浜口をますます興奮させていく。

 直後、続けざまに二発のパンチを叩き込んだ。呻いている矢吹の耳元で、そっと囁く。 


「どうだ? もう一発いくか?」


 楽しそうに言いながら、矢吹の目の前に拳を突き出した。

 その瞬間、矢吹の目から涙が溢れた。必死でかぶりを振る。もう、これ以上殴られたくない。また、あの痛みを味わうのは嫌だ……その思いが、彼女を完全に支配している。

 そう、矢吹の心は折れた。浜口の圧倒的な暴力に、敗北を認めてしまったのである。


「なんだぁ? はっきり言えよ。でないと、もう一発いくぞ?」


 サディスティックな表情で迫る浜口に、矢吹は涙を流しながら懇願する。


「お願いです……もう……許して……」


 そこまで言った時だった。突然、違う場所から声が響き渡る──


「おいコラ! 何だ今のは!?」








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