最初の授業(3)
少女たちは、唖然となっていた。
灰野の話は、デタラメ以外の何ものでもなかった。あの授業が、楽しそうに見えるわけがない。特に矢吹は、西田と殺り合う寸前の状態だったのだ。
こいつは何を言っているんだ……と困惑する矢吹だったが、代わりに答える者がいた。
「いや、それは違います。盛り上がってたのは確かですけど、西田先生があたしたちに向かって、ひとりでエロいこと言って喜んでただけです。あたしらは、先生に合わせて笑ってたんですよ。あの先生、下ネタが多くて……話してて疲れました」
東原である。彼女は平静な表情で、すらすらと返したのだ。横にいる鹿島と高杉は、目を白黒させている。
矢吹はというと、すぐに状況を理解した。灰野は、矢吹と西田の喧嘩を隠すため、松山にデタラメな話をしたのだ。
それをすぐに察した東原は、瞬時に話を合わせた。さすがである。伊達に、繁華街を遊び歩いていたわけではなさそうだ。
聞いた松山は、苦笑しつつ頷いた。
「だろうな。話を戻すが、西田先生と女子たちが盛り上がっていた時、廊下から先生を呼ぶ声がした。灰野、間違いないな?」
「はい。何か声がしました。でも、先生は気づいていなかったんです。他の人たちも、気づいていませんでした」
話を振られた灰野は、おどおどした表情で答えた。いつもと同じ態度である。
「で、外からの声はなおも呼び続けた。しかし、先生や他の生徒たちは気づかない。すると、声の内容も変わった。そうだな灰野?」
「はい。そこのメガネのチビ、廊下に出てこい……と言われたんです」
「で、お前は廊下に出て声のする方にいった。そしたら、ひとりの男がいた。そうだな?」
尋ねる松山に向かい、灰野は頷いた。
「はい。その人に、外で平良正彦が呼んでいると西田先生に伝えろ、と言われました」
「なるほど。念のため、もう一度聞く。その平良正彦と名乗った男は、どんな奴だった?」
「ええと、年は二十歳から三十歳くらいでしたか……スーツ姿で髪は短く、怖い顔でした。あと、左の眉のところには、傷がありました。刀傷みたいな、おっきい傷痕です。僕は学校の関係者だと思い、先生を呼びに行ったんです」
無論、矢吹たちはそんな男など見ていない。そもそも、そんなやり取りがあったことすら知らない。
「どういうことだよ……」
松山は下を向き、呟くように言った。明らかに動揺している。
だが、すぐに顔を上げた。
「ここからは違う件だ。灰野、お前は入学式の時から、矢吹のことが気になっていたんだな?」
「は、はい」
灰野は答え、横にいる矢吹は顔をしかめた。自分は、曲がりなりにも灰野に手を……いや、足を出している。それが知られたら、どうなるのだろう。
他の少女たちも、微妙な表情を浮かべている。しかし、松山は気付いていないらしい。灰野に向かい話を続ける。
「で、西田先生と平良正彦が話をしている間、お前は教室に戻った。すると、矢吹が話しかけてきた……そうだな?」
「はい、そうです」
頷いた灰野。すると、松山は矢吹の方を向いた。
「矢吹、今の話に間違いはないな?」
「は、はあ」
そう答えるしかなかった。
松山はふうと溜息を吐き、再び灰野の方を向く。
「お前は大好きな矢吹に話しかけられ、胸がドキドキし頭は混乱した。結果、わけのわからないことを口走ってしまったと。そうだな?」
「そうです……」
灰野は下を向き、恥ずかしそうに答えた。だが、松山は続けて尋ねる。
「なんと言ったんだ?」
「矢吹さんて、綺麗ですねと……」
「それだけか? それだけじゃないよな?」
「は、はい」
「何と言ったんだ? 正直に言え」
松山に詰められたが、灰野はずっと下を向きもじもじしている。
苛立ったのか、松山は動いた。灰野の足に、軽く蹴りを入れる。
「いた!」
呻いた灰野を、松山はじろりと睨みつけた。
「先生が聞いてんだろうが。ちゃんと答えろ」
「あ、あの、おっぱい触らせてもらっていいですか、と言いました……」
灰野は、恥ずかしそうに答えた。だが、松山はそれだけでは終わらせない。
「それだけじゃないよな? その後、何をしようとしたんだ? 正直に言え」
「ええと、む、胸を触ろうとしました」
「おい矢吹、間違いないか?」
「はい」
仕方なく、矢吹も頷いた。その瞬間、松山が灰野の頭を小突く。
「いた!」
「ったく、しょうもねえことすんじゃねえよバカ。で、どうなったんだ? 灰野、言ってみろ」
「矢吹さんに蹴られました。めちゃくちゃ痛かったです」
灰野が答えた途端、誰かがチッと舌打ちした。おそらく東原だろう。
矢吹も同じ気分だった。灰野なら、上手くごまかしてくれるかと思っていたのだが……期待外れだったらしい。
「間違いないか、矢吹?」
そんな矢吹らの気持ちなどお構いなしに、松山は聞いてきた。こうなると、正直に答えるしかない。
「はい」
その時、聞こえてきたのは松山の溜息だった。
「本来なら、お前らは暴行の容疑で取り調べになる。場合によっては、ふたりして懲罰房いきだ。ここじゃ、喧嘩両成敗が基本だからな。しかし、今はそれどころじゃない。なので、不問とする。その後どうなったんだ? ほら灰野、言ってみろ」
ホッとした矢吹の前で、灰野は下を向いたまま答える。
「めちゃくちゃ痛くて、僕はブッ飛びました。骨が折れたと思い、廊下で話している西田先生のところに行きました。医者に診てもらいたかったんです」
「そしたら、西田先生が倒れていたんだな。平良正彦と名乗った男は消えていた。これで間違いないな?」
「はい、間違いありません」
灰野の返事を聞いた松山は、矢吹の方を向いた。
「おい矢吹、この灰野はどうしようもなくキモい奴だが、我慢して一緒に生活するんだぞ。これは命令だ。嫌だと言うなら懲罰房……いや、反省室に行ってもらう。いいな?」
「わかりました。我慢します」
矢吹が答えると、松山は灰野の方を向く。
「灰野、お前は二度と不埒な真似をするな。気持ちはわかるけどな、今は我慢しろ。でないと、矢吹にタマ潰されるぞ」
「はい、わかりました」
その言葉を聞いた松山は、おもむろに灰野の右手を掴む。さらに、矢吹の右手も掴んだ。
「じゃあ、仲直りの握手だ」
何をさせるのかと思いきや、こんなことを言ったのだ。昭和の学校で教師がいじめを無理くり解決させる時に用いた手口である。
しかし、ここで逆らうわけにもいかない。矢吹は、仕方なく握手する。
灰野は、相変わらずもじもじしていた。しかし顔はニヤけている。恥ずかしくてたまらない、でも嬉しい……そんな様子だ。
有り体に言って不気味だ。先ほど、前蹴りを躱してのけた者と同一人物とは思えない。
しかも、ただ避けるのではない。足が触れるのと同じタイミングで、自ら後方に飛ぶ……周りには、当たって吹っ飛んだようにしか見えていないだろう。
その時、松山がまた溜息を吐いた。
「おい灰野ぉ、気色悪い顔してんじゃねえよ。いくら大好きな矢吹の手を握れたからってなあ、今のはキモ過ぎだぞ。だから、お前はイジメられんだよ」
「す、すみません」
「これで終わりだ。もうじき昼飯の時間だから、しっかり食っとけよ」
そう言うと、松山は扉を閉めようとした。が、矢吹が声をかける。
「あの、西田先生はなんで死んだんですか?」
「ああ、西田先生な。どうやら、心臓麻痺を起こしたみたいなんだよ」
「心臓麻痺?」
「そうだ。もともと心臓が悪かったらしくてなあ。ま、仕方ねえよ。お前は、何も心配しなくていいから。それよりも、灰野と上手くやってくれよ」
「はい、わかりました」
釈然としないものを抱えつつも、矢吹は頭を下げた。
松山の姿が完全に消えたことを確認すると、東原は灰野に顔を近づけていった。
彼を睨み、低い声で凄む。
「おい灰野、わかってると思うけどな……今度、ヤブっちゃんに変なこと言ったら、ただじゃすまさないよ。マジ殺すからな」
「は、はい! すみませんでした!」
今にも泣きそうな顔で頭を下げる灰野を睨みながら、東原はさらに言葉を続けた。
「ヤブっちゃん、今度こいつが変なことしてきたら、タマ蹴っちゃいなよ」
「えっ、あっ、うん。わかった」
一応は、そう返事をした矢吹だった。が、顔には釈然としない表情を浮かべている。その視線の先にいるのは灰野だ。
しかし、東原はそれに気づかず灰野を小突いた。
「ったく、松山にチクリやがって。本当にさ、タマ潰れるくらい強烈な蹴り入れてやっていいよ。こんな奴、去勢したっていいんだから」
その時、鹿島が口を挟む。
「ところで、西田が心臓麻痺で死んだって本当ッスかね? あいつ、教室ではピンピンしてたじゃないッスか。なのに、いきなり心臓麻痺ッスよ。なんか、おかしくないッスか?」
「いや、心臓麻痺って、いきなりくるみたいだよ。ピンピンしてたオヤジがさ、いざ若くて可愛いコとヤったりすると、興奮し過ぎてポックリいっちゃったりするみたい」
東原が、訳知り顔で答えた。
「へえ、そうなんスか」
「あたしの知り合いの娘もさ、小遣いくれるオヤジとホテル行ったら、いきなりポックリいっちゃって大変だったって言ってたよ」
「うわあ、本当ッスか。シャレになんないッスね」
呑気な会話をしている鹿島と東原だったが、矢吹は別のことを考えていた。
灰野の奴が、相当強いのは間違いない。
あの蹴りを躱した動きは、あたしには出来ない芸当だ。
しかも、あたしと西田の喧嘩を松山に言わなかった。なのに、あたしに蹴られたことは喋った。
こいつ、何を考えてるんだ?




