最初の授業(2)
灰野は、何食わぬ顔で元いた場所へと戻っていった。
ほんの数秒前に人をひとり殺したというのに、そんな素振りは微塵も感じられない。いつもと同じく、おどおどした態度で扉を開ける。
教室では、女子たちが立ったまま輪になって話していた。灰野が入っていくと、皆の視線が一斉に注がれる。
「灰野、先生は何してるんだ?」
矢吹が、神妙な面持ちで尋ねた。先ほどは、怒りに任せ行動していた。しかし今になって、己のしてしまったことの重大さに気づいたらしい。
だが、灰野にとってそんなことはどうでもよかった。彼には、まだしなくてはならないことがある。
突然、灰野は思いつめた表情になった。もじもじしながら、口を開く。
「や、矢吹さん」
「ん?」
「前から思ってたんですが、矢吹さんって綺麗ですね。近くで見ると、本当に素敵だな、って……」
「は、はあ!?」
矢吹の表情が一変した。しかし、灰野の口からは、さらにとんでもない言葉が飛び出す。
「む、胸も、おっきくて……素晴らしいですね。おっぱい触らせてもらってもいいですか?」
途端に、矢吹の顔が赤くなった。もちろん照れているのではない。怒りのためだ。
「てめえ! こんな時に何を考えてんだ! 殺すぞ!」
怒鳴ると同時に、前蹴りを叩き込む。
灰野は、派手にぶっ飛んでいった。床に倒れたかと思うと、しかめ面で起き上がる。
次の瞬間、教室を飛び出した──
「い、痛い! 肋骨が折れた! 腕も折れた! 足も折れた! 首も折れた! 先生、あちこちの骨が折れました! 今すぐ入院させてください!」
そんなことを叫びながら、廊下を走っていく。あちこち骨折している割には、たいへん元気よく走っているのだ。
皆は、ただただ唖然となるばかりであった。
「あいつ、やっぱり頭おかしいんじゃないか……」
呟いたのは東原だ。高杉と鹿島も、同感だとでも言わんばかりに頷く。
だが、矢吹だけは違う理由から唖然となっていた。
あいつ今、あたしの蹴りを寸前で躱しやがった──
そう、矢吹の放った前蹴りは手応えがなかったのだ。足先が当たるか当たらないかというタイミングで、灰野は自ら後ろに飛んだ。そのため、ダメージはほとんどないだろう。
こんな芸当が出来るのは、高い格闘技術の持ち主だけだ。
灰野は、とんでもなく強いんじゃないか?
そんなことを思った時、灰野の声音が変わる──
「た、大変だあぁ! 西田先生が倒れてる! 誰か! お医者さんはいませんか!?」
「はあ? 倒れたって、どういうことッスか!? 見てくるッス!」
言いながら、飛び出して行こうとする鹿島。だが、東原に腕を掴まれた。
「ちょっと待て。勝手に廊下に出たら、何を言われるかわからない。教室にいよう」
その言葉に、鹿島は残念そうな顔をしながらも頷いた。そんな中、事態はとんでもない方向へと進んでいく。
突然、足音が聞こえてきたのだ。やがて、教室の前に警備隊が現れる。全部で三人だ。彼らは、ひとり廊下に出ている灰野を見て怪訝な表情になった。
「おい、お前がボタンを押したのか?」
「はい、そうです! とにかく、あっちに行って見てください! 西田先生が倒れてるんです!」
そんなやり取りが聞こえてくる。皆は、そっと廊下の方を見た。
灰野が警備隊を相手に、身ぶり手ぶりを交え説明している。少女たちは教室にて、事の成り行きを見守るしかなかった。
やがて、警備隊が動き出した。三人は、灰野とともに廊下を曲がっていく。
「西田の奴、そのまま死んじまえばいいのに」
東原が、憎々しげな表情で呟いた。すると、鹿島がクスリと笑う。
「本当ッスね。あいつ、最低だったッスよ」
そう言った時だった。外から声が聞こえてきたのだ。
「おい! これ死んでるぞ!」
少女たちは口を閉じた。呆然となりながら、互いに顔を見合わせる。まさか、本当に死んでいるとは……あまりの衝撃に、何も言えず固まっていた。
一方、廊下は大混乱であった。足音が聞こえてきたかと思うと、新手の警備隊が現れたのだ。先ほど来た者たちと同じく三名で構成されており、うちふたりが担架を運んできた。彼らは、西田の死体を担架に乗せ運んでいく。
さらに、松山までもが姿を現した。教室に入ってくるなり、面倒くさそうな表情で口を開く。
「あー、既に聞こえてるとは思うが、一応は説明する。西田先生はだ、たった今亡くなったそうだ。そんなわけだから、とりあえず今日の授業は取り止めだ。今から、寮に帰る。ちなみに、灰野は事情聴取のため、後ほど部屋に戻す予定だ。とりあえず付いて来い」
部屋に戻った少女たちは、あまりの出来事に何も言えずにいた。全員が床に座り込み、思い思いの方を向いている。
そんな中、口を開いた者がいた。
「みんなに、聞いて欲しいことがあるの……」
言ったのは高杉だ。
皆が彼女の方を向くと、高杉はためらうような仕草を見せた。ややあって、どうにか語り出す。
「あ、あの、私ね……」
そこで、言葉に詰まった。その時、東原が口を開く。
「言いたくないことなら、無理に言わなくてもいいよ」
「いや、聞いて」
高杉の声は震えていた。だが、その目からは強い意思が感じられる。東原は、何も言えず口を閉じた。
一方、高杉は再び語り出す。
「ウチは、お母さんが小学生の時に事故で死んじゃって、父親とふたりきりで暮らしてた……」
そこで、高杉は言葉に詰まった。しばしの沈黙の後、どうにか口を開く。
「父親は市議会議員でした。ヤクザとも付き合いがあり、ウチに若い組員を連れてきたり、麻薬みたいなのを注射器で打ってたり、本物の拳銃を自慢げに見せびらかしたり……何度か、拳銃を撃たされたこともありました。そんな父がさらにおかしくなったのは、私が中学三年生になった頃からでした」
いつもの敬語に戻していた。むしろ彼女にとって、その方が話しやすいのかも知れない。穏やかな口調で語り続ける。
もっとも、話の内容は穏やかなものではなかった。高杉とヤクザとは、もっとも縁遠そうなものだ。にもかかわらず、肉親がヤクザと関わりがあり、麻薬を打ち、本物の拳銃まで撃たされていたとは……。
しかし、本題はここからだった。
「ある日、私は自分の部屋で寝ていました。その時……あいつが、いや父親が布団の中に入ってきて、そのまま無理やり……」
そこで、高杉の目から涙が溢れる。
少女たちも、何があったのか言われなくても理解した。矢吹が近づき、そっと高杉を抱きしめる。
「もういいよ、わかったから。何も言わなくていい」
「いえ、最後まで言わせてください。私は毎晩、父親の相手を……それに耐えきれなくなって、NPOの運営する団体に駆け込みました。そこで父にされたことや麻薬を打っていたこと、拳銃を持っていること……全部話したんです。でも、誰も信じてくれなかった。私は嘘つき扱いされて、病院に入れられて……」
それが限界だった。高杉は、矢吹の胸にしがみつき嗚咽を漏らしていた。
矢吹は無言のまま、優しく彼女を受け止めている。東原と鹿島は、神妙な面持ちでふたりを見つめていた。
「で、友愛学園に入らされたんだね?」
しばらくして、矢吹がそっと尋ねる。
「そうです……」
高杉は、消え入りそうな声で答えた。すると、矢吹は彼女に鍛えられた拳を見せる。
「だったら、ここを出たら一緒にオヤジん所に行こう。議員だろうがヤクザだろうが関係ねえ。あんたの目の前で、あたしがオヤジをボコボコにしてやる。そん時に、言いたいことがあったら好きなだけ言ってやんな」
「その時は、あたしも手伝うよ」
「僕も手伝うッス」
東原と鹿島も、横から口を挟んだ。さらに、矢吹が優しく語りかける。
「高杉、あんたの過去に何があろうが、あたしらは気にしないよ。だから、あんたも気にすんな。みんなで、無事にここを出るんだよ。今は、それだけを考えるんだ」
「わかりました……ありがとうございます」
高杉が答えた時、足音が聞こえてきた。少女たちの表情が固くなる。おそらく、松山と灰野が来たのであろう。
「あいつ、余計なこと言ってなきゃいいけどな」
東原がボソッと呟いた時、扉が開いた。少女らの予想通り、立っているのは松山だった。その隣には灰野がいる。
松山は少女たちを見回すと、おもむろに口を開く。
「一応、確認なんだが……灰野の話によると、西田先生はとても楽しそうに授業をしていた。女子たちとの会話は盛り上がっており、灰野はひとり茅の外だった……と言っている。本当か?」




