夜に届いたもの
「お前ら、食事の時間だぞ」
声を発したのは、中肉中背の中年男だ。廊下で見た警備隊と同じ制服を着ている。この男も、警備隊の一員なのだろう。
後ろには、白衣を着て頭巾とマスクを着けた者たちがいる。男なのか女なのか、それすらわからない。大きな台車のようなものを囲み、無言のまま立っている。
制服の男は、ジロリと室内を一瞥し口を開く。
「今から飯を入れていくからな。そこの奴、受け取れ」
そう言うと、中年男は灰野を睨みつけた。灰野は、慌てた表情で答える。
「は、はい! わかりました!」
まず入ってきたのは、プラスチックの容器であった。大きめの御椀が五つだ。続いて、やや小さめの御椀が五つ入ってきた。しっかりと蓋が閉められており、中に何が入っているか見えない構造になっている。
灰野は、それらをひとつずつ受け取り、畳の上に並べていった。そこで、ようやく他の者も動く。鹿島が、御椀をちゃぶ台へと並べていった。
直後、今度は大皿が入ってきた。肉と野菜炒めとグレープフルーツが乗せられている。灰野は、これらも受け取り畳の上へと並べていく。
「後で、器を回収しに来るからな」
そう言うと、男は再び扉を閉め去っていった。
少女たちは、プラスチックの蓋を開ける。片方には御飯、片方にはワカメの味噌汁が入っていた。
美味しそうな匂いが、室内に漂う。少女たちは、そこで初めて空腹に気づいた。全員、船で昼食をとって以来、何も口に入れていない。
「とりあえず、食べようか」
東原の言葉に、少女たちはちゃぶ台を囲む。だが、灰野だけは相変わらず扉の前に座っていた。自身の分の御椀と皿は確保しており、畳に直接おいている。そこで食べる気のようだ。
見かねた東原が、声をかける。
「あのさ、あんたそこで食べる気?」
「は、はい」
「それは、ちょっとマズいよ。あたしらがイジメてるみたいに見られるじゃん」
「じゃ、じゃあ、テーブルで食べていいんですか?」
「いいよ。ただし、食事の間だけだからね」
こうして、五人は食べ始めた。
「意外と、味は悪くないね」
「そうッスね」
東原と鹿島が感想を語り合った時、高杉がためらいがちに声をかけてきた。
「あの、私あんまり食べられないんですけど……残して、怒られたりしないですか?」
「幼稚園じゃあるまいし、いくらなんでも怒られたりしないでしょ」
軽い口調で東原が答え、鹿島も頷く。
「しおりに書いてあったんスけど、残飯は容器に入れて出すそうッスよ」
「わかりました。ありがとうございます」
そう言って、高杉は微笑んだ。
やがて、少女たちは食べ終えた。食器は、先ほどと同じく警備隊の男と白衣を着た者たちが回収していく。
その後はテレビを観ながら、あれやこれやの話をする。だが、矢吹は会話に加わらない。食べ終わると、ぼんやりテレビを観ているだけだった。
灰野もまた、会話には加わらなかった。食事が終わると、またしても扉の方を向き体育座りを続けている。時おり、何か呟くかのような調子で口を動かしてもいる。
異様な雰囲気ではあったが、少女たちは彼のことなど見ていなかった。全員、話をしながらも、内心では不安でいっぱいだった。これからどうなるのだろうか、という思いが消えてくれなかった。
そんな中、突然テレビの画面が消える。電源が切れたらしい。
「あれ、どうしたんだろ?」
東原の疑問に、鹿島が答える。
「しおりに書いてあったんですけど、八時四十五分になったら自動的にテレビが消えるらしいッス。で、九時になったら明かりが消えるみたいッスよ。そっからは寝る時間ッスね」
「そっか。じゃあ、寝る用意しなきゃだね」
少女たちは、ちゃぶ台を端に片付けた。それから寝る支度をして、思い思いの場所に布団を敷く。唯一の男子である灰野も、少女たちから離れた位置に布団を敷いた。
やがて、明かりが消えた。
布団に潜った少女たちは、明日からの生活を思い不安を募らせていた。
だが、それは長く続かなかった。この島に来てから、思いもかけぬ出来事を幾つも体験している。その衝撃は、精神と肉体のエネルギーを奪っていた。起きていられる気力などない。
彼女たちは、ものの数分で眠りに落ちていく。ただし、例外もいた。
皆が寝静まった頃、灰野は音もなく上体を起こした。周りをそっと見回す。
ひとりを除き、全員が熟睡しているのがわかった。起きているひとりが、どんな状態なのかは想像がつく。
ふと、かつての記憶が蘇った──
・・・
大柄な少年が、幼い灰野の腹を殴っている。
周りには数人の少年がいるが、誰も止めようとしない。ヘラヘラ笑いながら見ているだけだ。
やがて、耐えきれなくなった灰野の口から、胃の中のものが吐き出される──
(うわ! こいつゲロ吐きやがった!)
(汚えな!)
(ゲロ吐いてんじゃねえよ!)
・・・
灰野は、思わず顔をしかめる。嫌なものを思い出してしまった。
記憶の奥底に封じ込めていたはずなのに……。
やがて彼は、すっと立ち上がった。足音を立てず、トイレへと入っていく。
入ると、まずメガネを外した。首をぐるぐる回しながら、さりけなく中の様子を見る。
そして、何を思ったか上着を脱いだ。天井に、パッと引っ掛ける。トイレットペーパーを手にし、幾重にも折りたたんだ。
次いで、メガネの左側のテンプルを軽く捻る。
と、簡単に外れた。先端には、ボールペンの芯が付いている。
トイレットペーパーに何やら書きつけると、ちぎってポケットに入れる。
その後、元通りに上着を着た。何事もなかったかのような表情で水を流し、トイレを出る。
だが、直後になぜかよろけた。音を立てずに転び、床に手を着く。同時に、近くにある布団の中に手を入れる。
次の瞬間、俊敏に動き自身の布団へと戻る。
就寝時間になり、明かりが消えた時……矢吹は掛け布団を頭からスッポリ被る。
その中で、うつ伏せになり泣いていた──
入学式での出来事が、今になって心に重くのしかかっていた。涙と鼻水を撒き散らしながら、恥も外聞もなく許しを乞うてしまった場面が頭に浮かんでくる。
絶対に吐いてはならなかった言葉が、口から出てしまった瞬間──
(お願いです……もう……許して……)
思い出すたび、全身をかき乱されるような感覚に襲われる。矢吹は唇を噛み締め、拳を握った。溢れる涙が、枕と布団を濡らしていく。
あんなゲス野郎に敗北を認めてしまった、それが許せなかった。誰よりも何よりも、自分が自分のことを許せない。
そして……痛みに負け心が折れてしまった事実が、悔しくて悲しくて耐えきれない。
あたしは今まで、何のために練習してきたんだ……。
サンドバッグを叩き、蹴り、さらに師範である丹波との組手。時には吐きそうになりながらも、厳しい稽古を続けてきた。
そんな稽古を続けてきた理由は……考えるまでもなかった。強くなりたいから、だ。
小さい頃に、テレビで観たヒーロー……いや、ヒロイン。ふたりの女の子がスーパーヒロインに変身し、悪の手先と戦うアニメだ。強い敵や、困難な状況にもめげずに正義を貫き通す主人公の姿に、幼い矢吹は胸ときめかせていた。
あのヒロインたちに憧れ、強くなりたいと本気で願った。そんな時に空手と出会う。それからは、ひたすら鍛え続けた。己の時間のほとんどを、強くなるための稽古に費やしてきた。
何のために強くなるのか?
その答えも簡単だ。あのスーパーヒロインのように、正義を貫き通すためである。理不尽な暴力に屈せず、弱者を守るためには力が必要だ。
だからこそ、体を鍛え強くなった……はずだった。にもかかわらず、あの浜口には全く通用しなかった。
自分が今までしてきたことは、何だったのだろうか。
(ヤブっちゃん、気にすんなよ)
(そうッスよ。あの浜口って奴、ほとんどゴリラッスから。あんな奴、勝てるわけないッスよ)
東原と鹿島の言葉を思い出す。
彼女らの言っていたことは間違いではない。圧倒的な体格差、格闘技のキャリア、何より埋めがたい男女の違い……それらを考えれば、敗れるのは当然だと言える。
東原や鹿島なら、「負けても仕方ない」と納得できるのだろう。だが、矢吹の中にある何かが、それを良しとしなかった。自らの裡にあるものは「負けても仕方ない」という言葉で、屈辱の記憶を終わらせることを許してくれない。
そう、あんな理不尽の象徴のごとき浜口にだけは、負けてはいけなかったのだ。
挙げ句、ゲスの極みのような男に許しを乞うてしまった──
「ちくしょう……」
涙に濡れる瞳を拭い、呟いた時だった。
突然、妙な音がした。次いで、布団の中に何か入ってくる──
何!?
矢吹は反射的に、布団を跳ね上げ立ち上がっていた。だが、誰もいない。
今、確かに何者かが横にいたのだ。布団に手を入れてきた。この感覚、間違いであるはずがない。
その時、おかしなものを発見した。薄明かりの中、敷布団の上に見覚えのないものがある。
矢吹はしゃがみ込むと、それを手に取った。トイレットペーパーを幾重にもたたんだものに、何やら文字が書かれている。
その内容は、こんなものだった。
(あなたは、このままでは殺されます。心を殺され、体を殺され、そして奴らの言いなりとなる奴隷にされてしまうでしょう。あなたは、この程度で潰されるほどヤワな鍛え方はしていないのではないですか? 真の強者は、たとえ敗北しても屈することなく再び立ち上がるものです。あなたなら立ち上がれると信じています。なお、これは読み終えたら千切って捨ててください)
殺される、だと!?
ざけんじゃねえぞ!
あんなクズ共に、殺されてたまるかよ!
矢吹の中に、ドス黒いものが満ちていく。全身には力がみなぎっていった。先ほどまでの死んだような表情は、完全に消え去っている。
直後、体がわなわな震え出す。それは恐怖ではない。怒りのためだった。
「クソがあぁ! ブッ殺してやる!」
喚くと同時に、拳を畳に叩きつける。その音に、眠っていた者たちが目を覚ました。
「な、何?」
「どうしたんスか?」
「今の何だよ?」
寝ぼけ眼で言う少女たちに、矢吹は慌てて答える。
「ごめん。ちょっと変な夢見たから……騒いじゃって、本当にごめん」
そう言うと、再び布団を被る。先ほどと同じ体勢であるが、心の中では真逆の思いが渦巻いていた。
このまま、終わってたまるかよ。
誇りを取り戻すんだ。
もう一度、浜口と闘ってやる。
何があろうと、絶対に屈しない。
たとえ殺されるとしても、最後まで闘い抜いてやる──




