表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

死に戻った私の幸せな人生

作者: 有栖悠姫

柚月(ゆづき)は自室の窓を開け、意味もなく景色を眺める。20年近く見慣れた景色に今更新鮮味を感じないが、もう見ることもないと思うと目に焼き付けておこうという気にもなった。柚月は窓から身を乗り出して下を見下ろす。ここは2階だから当然ながら高い。落ちたら大怪我を負いながらも助かるかもしれないし、打ちどころが悪ければ死ぬかもしれない。柚月は後者を望んでいた。


母が死んでから柚月は自分なりに努力し続けた。父親が自分を気まずそうに見ることも、再婚相手の義母が余所余所しいことも、3歳違いの妹にのみ両親の関心が向けられることも仕方がないと諦めた。それでも彼だけは柚月を見てくれるのだと、自分と同じ感情を抱いていないことは分かっていたけれどそれで良かった。結婚して、家族になればいつかはと淡い期待を抱いていた。だというのに、彼は柚月を裏切った。柚月を1番絶望に突き落とす方法で。


もっと早く打ち明けて欲しかった。恨み言の1つや2つ、いや自分の語彙力の限りを尽くし罵詈雑言をぶつけただろうが柚月の当然の権利であり、彼らは甘んじて受けるべきだ。しかし、今さっき告げられた事実は柚月の中からありとあらゆる気力を奪うには十分だった。そして彼が告げた一言。


「柚月は1人でも生きていけるだろ?美月(みづき)には俺が居ないと…」


その瞬間心がポキリ、と折れる音がした。甘えるのが下手で人に頼るのが苦手な人間、それが柚月だ。しかし、好きでそうなった訳ではない。そうならざるを得なかっただけだが、言ったところで無駄だと黙りこくった。その後も彼らが何かを話していたが耳には入らなかった。方々への説明と報告を彼らに押し付け、柚月は部屋に閉じこもっている。


もう、疲れてしまった。この後柚月に向けられる憐憫や同情の眼差し、そして嘲笑の眼差しを想像するだけで身体が勝手に震えてくる。彼らには非難の目が向けられるだろうが、元々柚月よりもお似合いだと言われていた2人だ。意外と早く周囲に受け入れられるかもしれない。それも柚月には耐えられない。


すると襖をノックする音が聞こえる。既にあのことは邸中に知れ渡っているだろう。好き勝手使用人達が噂する中、唯一柚月に付いてくれている侍女が心配して様子を見に来たのだ。柚月は不意に、とても残酷なことを思い付く。彼女に証人になってもらうのだ。これから起こることは決して事故ではなく、柚月による意思なのだと。


「…柚月様、失礼致します…っ!何をなさっているのです!危ないからこちらにお戻りください!」


侍女の栞が叫び、窓に駆け寄ろうとする。柚月は無理矢理作った笑みを顔に張り付けると、何の躊躇いもなく窓から飛び降りた。栞の耳を劈くような悲鳴、あっという間に近づいてくる地面。


身体が地面に叩きつけられ、全身に凄まじい痛みを感じた。走馬灯が頭の中に流れていき、ふとある人の顔が浮かんだ。話したのは1度きり。それからは遠目で見かけただけ。それでも彼のことは柚月の記憶に深く残っていた。


死ぬ前に思い出すのが幼い日の記憶なんて自分の人生はなんと虚しいものだったのだろう。もしやり直せるなら、自分を捨てる婚約者も無関心な家族も捨てて好きなように生きていきたい。


柚月の意識は段々と闇へと消えていく。東雲柚月の22年の人生はこうして幕を閉じた、はずだった。







「…ん」


目を覚ますと視界には見慣れた自室の天井が広がる。柚月はパチパチ、と目を瞬かせると勢いよく起き上がった。


(…何?私、死んだんじゃ…)


悪夢でも見たとかと思ったが柚月には地面に叩きつけられた時の激しい痛みの記憶がしっかりと残っている。そして、その選択を取るに至った忌まわしい記憶も全て残っていた。夢を見たのだと、全て笑い飛ばすには難しい状況だった。


(けど、ありえない。死んだと思ったらベッドで寝ていたなんて)


柚月は枕元に置いたスマホを手に取り、「え…」と困惑の声を上げた。スマホが柚月が死ぬまで使ってた最新機種ではなく、かなり古い型…柚月が小学生の時買ったものだったからだ。今はこの型は中古でも売ってないはずだ。柚月はスマホのロックを外し、中を調べると…信じられない事実が浮き彫りになった。


(2014年、10年前⁉︎何どういうこと)


柚月は驚愕の表情のまま、部屋を見渡した。記憶にある柚月の部屋とはやはり違う気がした。勉強机も高校卒業時に処分したものだし、本棚も昔使ってた小さいもので高校生の時に買い替えて処分したのだ。


(…私、10年前に戻ってる?)


柚月は頬を力一杯引っ張ると痛みが走る。夢ではないようだ。しかし、ありえない。非現実すぎる。だって柚月は死んだのだから。


すると襖をノックする音が聞こえ、失礼します、と人が入ってくる。柚月は目を見張った。入って来たのは栞だが、明らかに若い姿だったのだ。彼女は30近かったはずだが、今の彼女は20代前半に見えた。


「柚月様、おはようございます。朝食の準備が出来ておりますが部屋にお運びしても?」


「…おはよう栞。ねぇ、今って西暦何年か教えてくれない?」


「え…?2014年ですよ…柚月様大丈夫ですか?」


突然おかしなことを尋ねた柚月に怪訝な顔をしつつも栞は答えてくれる。冗談を言ってるようには見えなかった。柚月は顔が引き攣りそうになるのを何とか堪えて「ううん、ちょっと変な夢見ちゃっただけ」と適当に誤魔化すと、一応納得したらしい栞は朝食の準備をするために出て行った。


柚月はベッドから抜け出すと部屋にある鏡の前に立つ。そこに写っていたのは22の柚月よりもずっと幼い少女だ。もう疑いようがない。柚月は死んで、10年前に戻ったのだ。


何故こんな奇跡のようなことが起こったのか。若い命を散らした柚月を憐れんだ神がもう一度人生をやり直させてくれているのだろうか。柚月はあり得ない、と笑い飛ばせなかった。


この世界には人間の他にあやかしが存在し、そして共存している。いつからなのか詳しい記録は残ってないが、平安時代辺りからあやかしが人間社会に溶け込むようになり、人間もまた人地を超えた力を持つあやかしを頼りにすると共に、畏怖の念を抱いてきたらしい。


あやかしは人間よりも頭脳、身体能力、見た目の全てにおいて上回り妖術と呼ばれる不思議な術を使う。とはいえ、あやかしが人間社会で生きるにあたり様々な制限を課せられており状況によっては、人間を妖術で害すると処罰の対象となるという。


尤も、あやかしが人間に力で負けるなどあり得ないため妖術を使うことはほぼ無い。姿は人間と変わらないあやかしもいれば、耳や尻尾が生えている人、中には身体全体を変えられる者もいる。そういった者が存在する世界、時を戻す術があったとしても不思議では無いのだが…。


(誰が時を戻したの…雄一…な訳ないわよね。そもそも彼は血が薄いしそんな強力な術は使えないはず)


柚月の婚約者だった高峰雄一(たかみねゆういち)は鬼の血を引く一族、その分家の跡取りで柚月はいずれ嫁ぐはずだった。高校に入る前に親同士の話し合いで決まった関係だったが、柚月は2つ年上の彼を兄の様に慕い、その感情が恋愛感情に変わるまで時間はかからなかった。雄一は柚月をそういう風に見てないことは分かっていたが、まさか妹の美月と思い合い、妊娠までさせてしまうなんて思いもよらなかった。


美月はいつも柚月が欲しいものを何でもない顔をして、さらっと奪っていくのだ。向こうには奪った自覚はない。周囲が勝手に彼女に惹きつけられるのだ。柚月と美月、同じ父親の血を引いているのに何故こうも違うのか。


(…2014年なら私は初等部で来年には中等部、雄一との婚約が決まるのは15の時だったはず)


同じ人生をやり直しているのなら、雄一との婚約を回避しなければならない。かつて本当に好きだった相手だが、流石に実の妹と浮気をしたと知ると100年の恋も覚める。今にして思えば、雄一と美月に裏切られたからといって死を選ぶべきではなかった。当てつけで死んだとしても何にもならないのに。


さて、と柚月は頬をパンと叩いて気合を入れる。目標を頭の中で整理し始めた。


(雄一との婚約は回避、家族とは前以上に距離を取って、もしもの時に頼れる味方を作る、東雲の家にも愛着なんてないから跡を継ぐのもお断りよ)


前の人生、美月が雄一の子を孕ったと両親が知った場合何とか醜聞を最低限にしようと奔走しただろう。その皺寄せは必ず柚月に来たはずだ。柚月には無関心な癖に都合の良い時だけ「姉」であることを強要した両親。恐らく思い会う2人を祝福して身を引いた柚月は美月の代わりに美月の婚約者と結婚して東雲を継ぐ、といったそういった筋書きになっていたと思う。想像しただけでゾッとする。何が恐ろしいかと言えば、前の柚月なら両親に頼られたら頷いていたかもしれないことだ。


柚月は愛情に飢えていた。両親からの愛が得られないと分かると雄一に依存したが素直に好意を表に出すことが出来ず、雄一から見たら愛想の無い可愛げのない婚約者だったのだろう。だから雄一は柚月を切り捨てた。両親に対しても未練はない。政略結婚だった母と当主だった祖父が立て続けに亡くなると、喪が開けてすぐに義母と再婚した父。元々愛し合っていたのに、家のために引き裂かれた悲劇の2人。両親にとって大事なのは美月だけで、柚月には無関心だった。かつては縋っていたが、今は何も思わない。


せっかく与えられたやり直しの人生は好きな様に生きていくのだ。







柚月は早速行動に移した。今日は母方の祖父母に会いに行くつもりだ。祖父母は母の葬式で会ったきりで、前の人生では交流がほぼなかった。今にして思えば実家に居づらいのなら真っ先に頼るべき人達だったのに没交渉だった。


(使用人が、祖父母は嫁いだ母にもその娘にも関心が全く無いと私に散々吹き込んだのよね。両親に構ってもらえないからと向こうに行ったって迷惑なだけだから止めろと)


母は物心つく前に亡くなったので、祖父母のことや生家でどう過ごしていたか知らない。前の人生で柚月は両親や使用人にすら軽んじられていたせいか、誰からも必要とされないと思い込んでいた。だから使用人の話を聞いて、祖父母も味方にはなってくれないと頼ることを諦めた。


当然柚月は祖父母に真偽を確かめたことはない。顔を合わせても事務的な会話をして終わっていた。今にして思えば、使用人の話を鵜呑みして殻に閉じこもるなんて愚かであったと自嘲する。


(お祖父様たちが私に無関心かどうかなんて、聞かなければ分からないのに)


今回はそれを確かめるべく母の生家である影山家を訪ねる。栞の協力を得て影山家に大事な話があるので会いたい、と手紙を書いて送り一昨日その返事が来た。そして今日会う約束を取り付けたのだ。電車を乗り継ぎ、バスに乗って少し歩くと影山邸が見えてくる。東雲邸と同じくらい立派な日本家屋だ。門の前に立っている警備員に話しかけて名前を告げると「お待ちしておりました」と門を開けて柚月を中に入れてくれた。


玄関には家令らしき年配の男性が待っていた。


「ようこそお越しくださいました柚月様。お一人で来られたのですか?」


「はい、電車とバスを乗り継いできました」


「何とご立派な…ですが、お車で来られなかったのですか」


小学生で1人で電車やバスに乗るのは普通のことだが、東雲家は名家だ。車で送り届けるくらいするだろう、と考えて当然。


「…車を出すとお父様に怪しまれるので…」


モジモジと俯きながら答え、やんわりと父との関係が良好でないこと、今回の訪問が極秘であることを匂わせる。美月がどこかに行くのに車を出させても何も言わないのに、柚月の場合根掘り葉掘り聞かれるのだ。それが面倒でどうしても電車やバス、徒歩で無理な場合を除いて車を使わなくなった。無関心を貫いている癖に柚月が好き勝手に行動するのは嫌なのだろう。全くもって理不尽だ。家令は柚月が普段どの様な環境で過ごしているのか察したようで、痛ましげな表情を一瞬見せると「大旦那様達がお待ちです、こちらへ」と邸の奥へと案内してくれた。


連れてこられたのはこの邸で1番大きな客間。家令が襖を開けると真ん中に置かれたソファーに年配の男性と女性…幼い頃に会ったっきりの祖父母が座っていた。祖母が柚月の姿を認めると立ち上がる。


「柚月…!大きくなって。会うのは沙織のお葬式以来よね…あの子の子供の頃にそっくりだわ」


沙織とは母の名だ。母の話を聞く機会がほぼなかったので嬉しい。母方の親戚との交流がなかったのだから当然だ。隣でどっしりと構えている強面の祖父も口を開く。


「…1人でよく来たな。覚えてないもしれんが儂は柚月の祖父だ。取り敢えず座りなさい」


柚月は促されて向かいのソファーに座る。


「手紙をもらった時は驚いたわ。柚月は私たちに会いたくないと言ってると聞いていたから」


「え?私そんなこと言ってません」


祖母がポロリと溢した言葉に柚月は反応した。すると祖母と祖父は困惑を露わにしている。


「…儂らが何度も柚月に会わせろと言っても、本人が会いたくないと拒否していると取り合わなかった」


「誕生日プレゼントも送っていたのだけど、私たちからのプレゼントなんて要らないと壊して癇癪を起こしたと聞かされて…」


「私そんなこと言ってませんしプレゼントも渡されてません!」


「…謀られたか」


柚月の反論に祖父は不愉快そうに告げる。


「東雲の言い分を鵜呑みにし孫を放置していた儂らに責める資格はないな。もっと早く人をやって調べておくべきだった。家族の問題だと言われればこちらは強く出れんかったが、騙していたとなれば話は別だ」


「…お祖父様達は私のことをどうでも良いと思ってたのではないのですか」


「そんなわけなかろう!沙織が亡くなり、あの男は喪が開けてすぐ再婚した。後妻はあの男の幼馴染で柚月を蔑ろにするのではと心配していたのだ。定期的に釘を刺して、柚月の顔も見たかったが本人が拒否していると聞かされれば無理強いも出来んかった。こんな体たらくでは柚月が失望しても仕方ない」


「失望なんてしてません。ただ迷惑をかけたくないから何も言わなかったんです」


「迷惑?私達が柚月を迷惑がっていると誰かに言われたの?どこの誰?こんな子供に嘘を吹き込むなんて、抗議するわ」


おっとりしているように見える祖母の目が据わっていた。怒らせると怖い人らしい。


「…うちの使用人です」


「…なんてこと。使用人が雇い主の娘に嘘を吹き込むなんて。東雲さんは把握してないの?」


「した上で放置してるのかもしれんな。柚月をどう扱ってるか儂等に知られたくないのだろう。頼れる人間はいないと思い込ませたかったのか…」


柚月は前の人生での違和感や色んなことが腑に落ちた。祖父母が関わらなかったのは、柚月が拒否しているからと聞かされていたから。柚月も祖父母に関心を持たれていない、迷惑をかけるわけにはいかないと距離を取った。互いに拒否されていると思い込んでいたのだ。前の人生、妹と雄一の裏切りを明かして泣きつけば2人は助けてくれたかもしれない。今更後悔しても遅いが。


「だから儂は東雲の若造との縁談に反対だったんじゃ」


「仕方ありません。亡き先代はやり手でこちらに断る術はありませんでしたわ」


「先代は死に息子はボンクラ、こんなことならさっさと引き取るべきであったわ」


祖父は深く後悔してるようで溜息を吐いた。


「ご飯はちゃんと食べているの?まさか暴力を受けているなんて…」


勝手に柚月の境遇を想像した祖母の顔が青ざめる。柚月はそういったことはされていない、ただひたすらに無関心で美月が柚月に構いたがったり、物を欲しがった時に断ったりすると姉なら優しくしろ、と叱責されるくらい。顔を合わせると父も義母も気まずそうな顔をするから、柚月の方から食事は1人で摂っていると告げると祖父の表情が険しくなった。


「あの小僧…よし柚月、儂らの子になれ。あんな家にはもう帰らんで良い」


「あなた、流石に性急過ぎますわ」


「性急も何もあるか、こっちはずっと騙されとったんじゃ。そもそもあの後妻と再婚するのも早すぎると反対したのを押し切って再婚した挙句、嘘をついて儂らを遠ざけ孫を孤立させた。向こうに文句は言わせん」


柚月が切り出す前に祖父が話を進めてくれそうな勢いだ。祖父が自分を案じてくれているのは分かるが、父が簡単に自分を手放すとも思えない。父の思惑を全て理解したわけではないが、恐らく孤立させた柚月を自分達の思うように利用したかったのだ。美月が何かした場合尻拭いをさせるつもりだったのだろう。美月は天真爛漫と言えば聞こえは良いが、甘やかされて育ったせいか我儘で自分の思い通りにならないと機嫌が悪くなることや自分の欲望を抑えられないことがある。その結果が前の人生のあれでありそんな美月を宥めるのが「姉」である柚月の役目であった。祖父も父の思惑が想像ついたのか表情が恐ろしいものになっている。祖母が怒りのあまり父に連絡しかねない祖父を宥めにかかった。


「だから落ち着いてください…そうそう柚月、手紙に書いてあった大事な話ってなんなのかしら?やはり家に居づらいと相談したかったの?」


優しい顔で問う祖母に柚月は神妙な顔で頷く。


「それもあるのですが…お祖父様お祖母様、実は…」


柚月は22年生きた記憶があることと、婚約者と妹の裏切りに絶望し自ら命を断ち何故か10年前に戻っていたことを明かした。悪夢を見たとかそれらしい理由で誤魔化すことも考えたが、包み隠さず告げることにしたのだ。祖父母に限らず上流階級の人間は大なり小なりあやかしとの付き合いがある。荒唐無稽な話だと笑い飛ばされ虚言癖がある、と眉を顰められる可能性は低いと考えたし柚月の目的のためには隠すのは得策ではないと判断した。


2人は最初は怪訝な顔をしていたが、婚約者が妹を妊娠させた件で顔面蒼白になり祖母は口に手を当てて震えていた。12歳の子供の口から出てくる言葉ではないし、柚月の口調も表情も真に迫っていたからだろう。未だ動揺している祖母に代わり険しい顔の祖父が口を開いた。


「俄には信じられんが、お前がこんな与太話を聞かせるとも思えん」


「…そうね。とても嘘を吐いているようには見えないわ。でも…」


信じたいと思ってるようだが疑いは消えないようで祖母の歯切れが悪い。


「信じていただけなくて当然です。私ですらあれは悪い夢だったのではと思う時があるのですから。でも…あの時の絶望と…死んだ時の苦しさや悲しみが時折蘇るんです。あれは夢じゃない、本当に自分の身に起こったことなのだと訴えてくるんです」


柚月は自らの肩を抱いた。あれから数週間経つが未だにあの時の絶望は柚月の心を苛む。夜中飛び起きることも多々あった。あれは柚月の中でトラウマとして根を張っているのだ。2人はそんな柚月の様子を見て絶句している。これは嘘や冗談でないのだ、と確信しているように見えた。


「…だから私はかつての惨めな人生を歩まないために、今度は幸せな人生を歩むために行動に移すことにしました。それで2人に手紙を出したのです。確実に高峰雄一との婚約を避けるため、いずれ東雲の家から離れるために力を貸していただきたいと」


「高峰…鬼の一族の分家の長男か。確か柚月の2つ上だったな。あの男が用意したにしては家柄は申し分ない」


「でも婚約者の妹と浮気するなんて最低の下衆よ。人間性が分かっているのなら避ける以外の選択肢はありません」


「あの男が話を持ってくるのは3年後。その前に高嶺が口出しできん相手と婚約させれば穏便に済むだろうが…」


祖母は雄一の所業に怒り、祖父は落ち着いた口調で婚約回避の策を口にする。柚月は恐る恐る尋ねた。


「…信じてくれるのですか」


「先ほどのお前の表情、あれと同じ人間を儂は何人も見てきた。そいつらは全員どん底まで突き落とされた人間だった。演技であの表情は出来ん。お前が絶望を味わったことがあるのだと分かる」


「私も無駄に長生きはしてきたから人を見る目は確かなつもり。あなたは嘘を言ってないことは分かるわ」


祖母は立ち上がると柚月の隣に移動し、徐に抱きしめる。


「…前の私達はあなたが苦しんでいるのに気づきもせず、今回もあなたが来なければ何もしなかったのでしょう。大事な孫と言ったところで白々しく聞こえるかもしれないけれど、紛れもない本心よ。でもこれだけは言わせてちょうだい…今までよく頑張ったわ。これからは遠慮なく私達を頼って」


柚月は記憶にある限り初めて自分を労る言葉をかけられ、目頭が熱くなり大粒の涙がポロポロと溢れる。裏切りを告げられた時も泣けなかったし、泣くのは美月の常套手段だったからいつしか泣き方を忘れてしまっていた。柚月が泣いたところで煩わしそうな顔をされるだけだったから。けれど、柚月は声を上げて泣いた。祖母の服がびっしょりと濡れてしまうくらいに。祖父は成り行きを見守っていたが暫くすると柚月の隣に移動して、やはり不器用な性質なのか何も喋らずただ寄り添うだけだった。それでも柚月は初めて家族の温かさに触れた気がした。


泣き止んだ柚月は2人とこれからの方針を話し合った。直ぐにでも養子縁組をしたいと言う祖父を柚月は止めた。政略結婚した夫婦の仲が冷え切ってるのは珍しくないし、伴侶が亡くなり元々の恋人と再婚する者は少なくない。柚月のように継母や継父との仲が上手くいってない子供は一定数いる。柚月の境遇は上流階級では珍しくないのである。暴力を受けている、ネグレクトを受けているなら話は別だが衣食住は保障されているし、一応不自由の無い生活を送っている。柚月の置かれた環境を虐待だと糾弾したら、他の家も処罰を受けることになってしまう。


養子縁組は最終手段であり、柚月は祖父母に後ろ盾になってくれるよう求めた。柚月の意にそぐわない縁談を持ち込まない、無関心を貫くのは構わないが都合が良い時だけ「家族」だ「姉」だと責任を押し付けない、そして柚月が東雲家で侮られないよう、祖父母の息のかかった者を数人送り込むことに決まった。話し相手兼教育係だ。柚月は成績が優秀なので家庭教師は付けられてないが、それは表向きの理由だ。勉強嫌いの美月には家庭教師が付けられているので、その理由を察するにあまりある。美月を溺愛する両親は手元に残したいがために彼女を後継者に指名し、東雲の分家の者から見た目が整っていて美月の代わりに東雲を支えていける者を婚約者に選んだ。勝手に決められた柚月と違い、美月が選びに選び抜いた婚約者だったのに彼は裏切られたのだ。


(あの人とはあまり話したことがないけど、美月のことは気に入っていたから裏切りを知った後どうしたんだろう)


ある意味自分と同じ立場になってしまった美月の婚約者のことは気になってしまったが、柚月は死んだ後のことは知る術はない。気にするだけ無駄だと気持ちを切り替える。


「東雲との話し合いが済むまで柚月はここに居なさい。必要なものはうちの奴に取りに行かせる」


「部屋はたくさん余っているから、好きな部屋を使ってちょうだい」


影山家は邸をいくつか所有しており、柚月の叔父に当たる人に会社を任せてからこの別邸で悠々自適に過ごしているらしい。引っ越す際母の私物も全て持ってきたらしいので後で見せてもらう予定だ。  


ここの使用人は柚月に普通に接してくれる。すれ違いざまにヒソヒソとこれみよがしに悪口を囁くことも、部屋に紙屑を放り込むこともない。ポロリとこぼしてしまったら祖母がまた笑顔で静かに怒ってしまった。それを宥めることが1番大変だった。慣れてしまったから何とも思わなかったが、やはり柚月の育った環境は普通ではなかった。両親が軽んじている柚月を使用人も軽んじていいと思い込んでいたのだ。誰も自分のことを必要としていないとやや荒んでいた柚月の心は、影山家で過ごしていくうちにゆっくりと癒えていった。





影山家で過ごして1週間程経った頃、祖父が血相を変えて柚月の部屋に飛び込んで来た。


「お祖父様、どうしたのですか」


「柚月、お前神宮寺孝臣(じんぐうじたかおみ)と知り合いなのか」


神宮寺とは鬼の一族の本家。雄一の家が仕えている主であり財政界、経済界にも強い影響力を持つ一家である。孝臣とは神宮寺の現当主の1人息子であり次期当主だ。同じ学園に通う先輩でもある。


「神宮寺…2学上の先輩ですけど話したことはありません」


祖父には悪いが小さな嘘を吐いた。孝臣とは6年前、とあるパーティーに参加した際に実は1度だけ話したことがある。両親は美月に付きっきりで柚月は1人でスイーツを食べながらこっそり中庭に出たのだ。同じく抜け出してきた孝臣と偶然顔を合わせた。

当時の柚月は孝臣の素性を知らず、自分と同じようにパーティーの雰囲気に馴染めなくて抜け出してきたのだと、妙な親近感が湧いたことから他愛もない話をした。たったそれだけだが柚月にとっては大切な思い出であり、前の人生の死の間際思い出したのも孝臣だった。柚月の初恋だったが、分不相応な相手だと知りすぐさま自分の気持ちに蓋をしたのだ。


そんな彼の名前が出たことで少し驚いた柚月だが、自分以上に動揺している祖父は気づかなかった。祖父は恐る恐る、といった様子でこう切り出した。


「…実はな…神宮寺孝臣との婚約の打診が来たんじゃ。当主から直々に」


「…はい?」


柚月は祖父が何を言ってるか分からず聞き返してしまった。神宮寺孝臣はあやかしの頂点に立つ鬼、その本家跡取り。そして本家のあやかしは基本的に同種族同士で婚姻を繰り返し、その血を濃くしてきたのだ。血統主義甚だしいため所謂異類婚姻という、女子の憧れるシチュエーションが起こり得ないのでそういう上昇志向のある者は分家のものに狙いを定めているが。


「何かの間違いでは?神宮寺は本家ですよね。神宮寺孝臣様はその跡取り。普通分家の方から婚約者を選ぶのでは?」


「じゃが今の当主は人間の女性を伴侶に迎えておるからな。ないとも言い切れん」


柚月も知っている。だから彼は一族の者から「半妖」「半端者」と侮られていたがその卓越した頭脳と能力を周囲に示し続け、味方を増やし次期跡取りとしての立場を盤石なものにしてきたのだ。


(前の人生では婚約者は居なかったはず)


女嫌いと囁かれていた彼は地位や見た目に惹かれた女性達にはとても冷淡だと有名だった。そんな彼が柚月に婚約を申し込む。訳が分からない。


「…冗談では?」


「当主にしか使えない印章を使っとる。これは当主及び一族の総意という意味じゃ。冗談で使われるものではない。それでだ、明日当主と孝臣様がうちに挨拶に来る。東雲ではなくうちということは柚月の置かれた環境をご存知なのだろうな」


展開が早すぎて着いていくのがやっとだ。


「挨拶って、私承諾して…断れるわけありませんね」


「…すまん」


祖父が申し訳なさそうに謝った。神宮寺から送られた手紙は見てないが、送られた時点でこちらに断る術はないのだろう。相手はあやかしの頂点たる鬼だ。逆らえば影山は潰されてしまう。12歳にして柚月の将来が決まってしまったようだ。


(東雲との縁が得たいのなら美月を選ぶはず。私では役に立たない)


当主及び孝臣の思惑が全く分からず柚月は不安に駆られる。正直なところ東雲も影山も名家とはいえ神宮寺は勿論、あやかしの血を引く一族には劣り政略的な意味で旨みはあまりない。そもそも孝臣と柚月は接点が無い。昔1度話しただけで、柚月は覚えていても向こうはすっかり忘れているはず。


(けど、こちらから断ることは出来ない。直接会えば神宮寺様の考えが分かるかしら)


柚月は初恋の相手に会える、と浮足立つこともなく、ただただ冷静に考えていた。



翌日、神宮寺家当主である神宮寺孝也と孝臣が影山家にやって来た。黒髪に琥珀色の瞳を持つ2人は良く似ており、親子だと一目で分かる程だ。あやかしの血を引くものは総じて容姿端麗だが、孝也と孝臣は抜きん出ていた。彼らの周りだけ光っている。2人を応接室に通した祖父も家令も緊張が顔に出ていた。そして柚月もだった。


柚月は遠目で孝臣を見かけることはあってもこんな至近距離で話すのはパーティー以来。漆黒の髪に鋭さを帯びた琥珀の瞳、鼻筋の通った男性な顔立ちはとても14歳には見えないほど大人びていた。ツンと澄ました表情の孝臣は柚月に視線を向けている。何故だかガン見されており、柚月は落ち着かない。


「いやいや、この度は急に押しかけて申し訳ありません」


ニコニコと朗らかに笑う孝也。祖父は明らかに緊張していたものの孝也の友好的に見える態度に緊張を緩めた。


「まさか、神宮寺様直々にお声がけいただけるなど光栄でございます…今回、孫娘の柚月と御子息の孝臣様を婚約させたいとのことですが」


「そうそう、うちの息子6年前のパーティーで柚月さんに会って以来、ずっと忘れられなかったようで」


「おいクソ親父!」


信じられない言葉が孝也の口から放たれた瞬間、孝臣の綺麗な眉が吊り上がり暴言を放つ。怒り立つ息子に孝也は涼しい顔だ。


「何だ?意気地無しの息子に代わり父さんが一肌脱いでやったのに何故怒るんだ」


「…そういうのはいつか自分の口で」


「何年後になるんだろうねぇ。それにお前元々口数多い方じゃないだろ。父さんには見える、大事なことを何も言わない孝臣と柚月さんが拗れに拗れる未来が。父さんがそうだったからな。血は争えないんだよ」


「…」


孝臣は孝也の言い分に思うところがあったのか黙ってしまった。祖父と柚月はポカンと2人を見ている。孝也は構わず話を続けた。


「…まあ、私はこう見えて親バカでしてね。息子の願いを叶えてやろうと思った次第でして」


「…つまり御子息はその、柚月のことを」


「それ以上は勘弁してやってください。息子のメンタルが持ちませんので」


「失礼いたしました。しかし、何故私に話を持って来たのですか?柚月は私の孫ですがつい最近まで疎遠だったのですよ」


「柚月さんのことを調べさせてもらいましてね。東雲殿は親としても人としても信用出来ない。それなら交流がなくとも柚月さんを気にかけていた影山殿の方が、まだ信用出来ますから」


褒めてるのか微妙な言い回しに祖父は額に汗を掻く。父の言葉を鵜呑みにして柚月を放置していたことを遠回しに責められている気持ちになっているようだ。孝也が祖父を本当に責めているのかどうかは分からなかった。


「柚月さんからしたら迷惑でしょう。こちらは権力にものを言わせて無理矢理承諾させたようなものですから」


「いいえ、滅相もございません。神宮寺孝臣様は同年代は勿論、学園中の女子の憧れの的。そのような方から望まれるのは誉れです」


「あはは、柚月さんは12歳と聞いてましたが、言葉使いが子供とは思えませんね」


孝也の指摘に柚月はドキッとした。そうだ、今の自分は12歳なのに22歳のまま喋ってしまう。そんな柚月を孝臣は鋭い目つきで観察している。眼力が強く、柚月は心の中で悲鳴を上げた。まさか中身が22歳とは思われてないはずだが、怪しいものを見る目つきに戦々恐々とする。


「この子は年の割に大人びているのです。私達が不甲斐ないせいで苦労をかけてしまったので」


祖父が同情を誘う言い回しでフォローしてくれる。大人びている、で誤魔化せるのか疑問だ。


「成程、確かにあの東雲家で育ったのなら精神的に大人にならざるを得ないのでしょうね…柚月さん、息子と婚約すれば自分を蔑ろにしていたご両親を見返せますよ?どうですか?」


孝也は子供に対してとは思えない挑発的な言い方をする。祖父も孝臣も困惑していた。


(私を試してるのかしら。神宮寺様を利用したい思ってると判断されたらこの話は無かったことにされる?)


ただの小娘が鬼の一族の長たる孝也の思惑を読むことも腹芸も出来ない。出来ることと言えば。


「いいえ、正直に申し上げて両親のことも、妹のこともどうでも良いのです。見返したいとも思っておりません。私は自分を顧みない人に構うほど暇ではないですし、私らしく自由に生きたいのです。神宮寺様を利用しようなどと、恐れ多いこと考えたこともありません」


「ふーん、はっきり言いますね。ですがこれくらいの方が良いでしょうね」


孝也は意味深な笑みを浮かべると突然立ち上がった。


「私たちばかり話していても仕方ありません。孝臣と柚月さんは互いのことをよく知りませんから、少しでも仲を深めてもらいましょうか。いずれ家族になるのですから」


「…それもそうですね」


祖父も孝也に続き腰を上げると「若人2人でごゆっくり」と部屋を出て行った。いきなり2人きりにされてしまった。


「…」


「…お、お久しぶりです」


精神年齢的には年上だからと柚月の方から切り出した。孝臣が柚月を認識していることは純然たる事実なので、久しぶり、と挨拶することは間違ってないと自分に言い聞かせる。すると孝臣はツンとした表情を和らげた。


「…久しぶり。こうして話すのはあのパーティー以来?」


「そうですね。神宮寺様を見かけることはあってもこちらから話すことはありませんでした」


「…神宮寺様は止めて欲しいな。他人行儀過ぎる」


眉間の皺が濃くなった。柚月の呼び方が気に食わなかったようだ。そう言われても柚月はほとほと困ってしまう。


「…何とお呼びすれば」


「普通に孝臣と、呼び捨てで良いよ」


柚月は孝臣の提案にブンブンと首を振った。


「呼び捨ては流石に…」


「それもそうか。じゃあさん付けで。でもいつかは呼び捨てで呼んで」


「善処します」


「俺も名前で呼んで良い?」


「良いですよ」


拒否する理由はない。承諾を得た孝臣は「柚月」と呼んだ。たったそれだけなのに胸が高鳴ってしまう。そして彼は噛み締めるように「柚月」と繰り返す。


「…やっと名前で呼べた」


「え?」


「何でもない。柚月、これからよろしく」


孝臣はフワリと笑い琥珀色の瞳を細める。柚月は記憶にある孝臣との差が激しすぎて困惑していた。孝臣はいつも感情の読めない無表情で瞳も常に冷ややかだった。女性に対しては、こちらが相手に同情してしまうほど辛辣な対応をする人だった。今は14歳だから、これからあの孝臣になってしまうのか。


(前の人生では接点も無かったし、高等部に上がる直前に留学してしまったから情報も入ってこなかったわ)


確か大学進学に合わせて戻って来たと風の噂で聞いたが、その頃から冷酷だ何だと囁かれていたので留学先で何かあったのかもしれない。


(今回も留学するのかしら)


戻って来て急に別人のように冷たくされても困るが、柚月に孝臣の行動を制限することは出来ない。そうならないことを祈るしかない。婚約は逃れられないのだから、上手くやっていく他ないのだ。柚月は色々考えた後、「孝臣さん、こちらこそよろしくお願いします」と告げた。事務的な答えだったが、それでも満足したのか孝臣が少し口角を上げる。


「婚約者になるんだから、これからもっと仲良くなりたいと思ってる。クソ親…父が勝手に言ってしまったけど、俺パーティーで会った時からずっと柚月のことが気になってたんだ。可愛い子が美味しそうにケーキ食べてるって」


「かわ」


驚きのあまり柚月は固まってしまう。釣り目で気の強い印象を与える柚月は可愛いと言われたことがあまりない。免疫がないため、当然パニックに陥る。明らかに動揺してる柚月に孝臣は話を続けた。


「話しかけたら俺に媚びることもなく普通に接してくれる。自慢じゃ無いけど、俺は昔から女子に好かれる性質でね、肉食獣のような彼女達の目や態度に辟易していたんだ。だから余計に柚月と話すのが心地良くてね。出来ればこの先と一緒に居たいと思ったけど俺は立場が立場で、父と結婚して苦労してる母親のことも身近で見て来た。だから父と協力して、柚月との婚約にケチを付けそうな親族達を排除したり、こちらに引き入れて準備を進めて来た。6年もかかってしまったけど、こうしてまた会えて嬉しい。1度話しただけの人間にこんなことを言われても迷惑だろうけど、俺は柚月が好きでずっと一緒に居たいと思ってる。俺と婚約してくれませんか」


孝臣の表情も声音も真剣で、柚月を見つめる琥珀の瞳は甘く蕩けている。その瞳には見覚えがあった。雄一を見る柚月の目であり…雄一が美月を見る目だ。また嫌なことを思い出してしまった。


孝臣が嘘を吐いているとは到底思えないが、あの時ズタズタにされた心の傷が素直に受け入れることを許してくれない。ここで私の初恋はあなたです、と言えば丸く収まってハッピーエンド、なのにその一言が言えない。


「…私、孝臣さんのことをそういう意味で好きなわけではありません」


嘘を吐いた。万が一の時に自分が傷つかないような予防線を張る。孝臣は柚月の酷い言葉に悲しむ素振りを見せなかった。


「知ってる。これから俺と交流していって、いつか好きになってくれたら良いよ」


孝臣は徐に立ち上がると柚月の隣に移動した。そして左手を差し出してくる。


「改めて、これからよろしく柚月」


「…こちらこそ、よろしくお願いします」


柚月はおずおずと差し出した左手を彼の手に重ねた。自分よりも大きな手にぎゅっと包まれると、言葉にし難い安心感が生まれた。


そして孝臣が小声で何やら呪文を唱えると柚月の隣に真っ黒な毛に琥珀の瞳を持つ、孝臣と同じ色彩の猫が現れた。


「こいつ俺の眷属。俺は常に側に入れるわけじゃないから、何かあったらこいつが守ってくれるよ」


柚月はそっと現れた黒猫を撫でる。ゴロゴロと喉を鳴らす姿が可愛い。可愛いけれど柚月に害を成す相手には容赦なく反撃すると告げられた。とてもそうは見えないけれど、孝臣がそう言うのだからそうなのだろう。


柚月にはこの日、婚約者と頼もしい護衛が出来た。


孝臣との再会から更に1週間後、父との話し合いが終わったと告げられた。何でも柚月がこちらに来てすぐ手紙を送っていたようだ。柚月に送ったプレゼントの存在を本人が知らないこと、会いたがってないと聞いていたが本人はそんなことを言ってないこと等事の是非を問いただす圧力の籠った手紙を父に渡した。今まで大人しかった柚月がいきなり影山家に乗り込んだ事で父は大いに焦り、往生際悪く直接話し合おうという祖父の要望、いや命令を避け続けたせいでここまで時間がかかったと祖父は語る。


プレゼントを渡していなかった件は預かってすぐ美月に見つかり、欲しい欲しいと駄々を捏ねられてしまいつい…という呆れたものだった。1度目はそうでも祖父は毎年送っているが何1つ貰ってない。それらも全て美月に渡していたのだ。曰くただでさえ義母や美月とうまくいってない柚月が影山と関わる事でこちらの歩み寄りを拒絶することを恐れ、影山との繋がりを断つために行ったと白状した。


「うまくいってないって、あんなに嫌そうな雰囲気出す人と仲良く出来ません」


義母は母に似る柚月が気に食わないのか、関わろうとしなかったし美月との接し方にも差があった。柚月に責任があるような言い方に腹が立つ。祖父も「何言ってるんだ」と怒りを露わにしたらしい。


使用人が嘘を吹き込んだことは知らないと主張していたが、それは主人が使用人を管理出来ていないことになる。その辺りも容赦なく追求したら父は黙ってしまった。祖父はここぞとばかりに自分達の要求を突きつけ、父に強引に承諾させた。父方の祖父が生きていた頃はともかく、今の東雲と影山の家格の差はあまりない。その上父達は柚月に関して実の祖父母である影山夫妻に虚偽の申告をしていたのだ。それ以前に反対を押し切って早くに再婚した負い目が父にはある。拒否する術はなかった。


柚月はそれから更に1週間後東雲家に戻ることになった。1週間の間に柚月が快適に過ごすための準備をしていたのだ。まず両親や美月に迎合して柚月に嫌がらせをしていた使用人を探し出して解雇させた。主人が蔑ろにしている娘を軽んじて何が悪い、と反省してない様子の者には次の職場の推薦状もなしに追い出したそうだ。そして使用人に対しての注意喚起。柚月はれっきとした東雲の娘であり影山の孫。使用人如きが軽んじていい存在ではない。柚月付きの使用人として影山から数人送り、常に監視している。もし怪しい行動を取れば…とたっぷりと脅した。


「いつでも遊びに来るのよ。連絡くれたら迎えをやるから」


「ありがとうございますお祖母様」


祖父はいつも通り仏頂面だったが「…暇ならいつでも来い」とボソリと呟いた。柚月はにっこりと微笑んで影山家を後にしたのだった。


東雲家に戻った柚月には栞の他に2人の使用人が付いた。そのうちの1人は所謂監視役なので常時付いている訳ではないらしい。栞より少し年上の2人は柚月を仕えるべき主人として敬意を払ってくれている。それが初めての経験に近かったので戸惑いの方が大きいが、本来がこうなのであり慣れるべきだと言われれば頷くしかない。


影山家から派遣された2人、そして祖父の脅しの成果が出て柚月を軽んじる使用人は居なくなり、逆に恐れられるようになった。こんなあっさりと立場が逆転するとは。益々殻に閉じこもっていた前の人生が悔やまれる。自分を顧みない存在なんてさっさと見切りを付ければ良かった。


部屋から出て唯一良く出入りしている書斎に向かう途中、美月を見かけた。自分の物を欲しがる時しか話しかけてこない美月は両親から何か言われているのか、物言いたげな顔をしてこちらを見ている。足元にいる黒猫…ノアが全身の毛を逆立たせて警戒していた。


(前のあの子と今のあの子は違うと理解してるけど。全てを水に流して仲良く姉妹をやろうという気にはならない)


元々姉妹としての関係を築けていなかった。ただ我儘を叶え尻拭いをするためだけの姉だった。美月から悪口を言われた記憶はないが、両親が腫れ物に触るような扱いをしている柚月のことを内心見下していたのかもしれない。それも自覚していたのではなく、無意識に。悪意がなかったのだ。だからタチが悪い。雄一のことも「柚月」のものだから欲しくなったのか、それとも「人」のものだから欲しがるのか。


(今のあなたは少し我儘なだけの妹だけど。私からしたら絶望に叩き落とした妹なのよ)


だから仲良くなれそうにはない、と柚月は美月から視線を逸らした。








柚月が祖父母の元へ突撃し、孝臣と婚約して3年が経ち柚月は15歳になった。相変わらず東雲家で皆に守られながら生活しているし、孝臣との仲も良好だ。当然雄一との婚約話が持ち上がることも無い。


何と雄一は美月とここ最近親しいようだと、栞から聞かされて驚いた。


「美月お嬢様、柚月様が孝臣様と婚約してから躍起になって色んな男性に声かけてますからね」


その言い方だと美月が節操なしのように聞こえるが、あながち間違いでも無い。美月は孝臣に密かに憧れていたらしく、婚約した直後は何度か突っかかって来たことがある。孝臣をくれ、と耳を疑うことを言い出したのだ。


『無理よ』


『どうして!いつも私が欲しがったら譲ってくれたじゃない!』


『孝臣さんはものじゃ無いから譲ることは不可能よ。そもそも孝臣さんは私をご指名なの。美月では無理よ。お父様に泣きついてみれば?無駄だろうけど』


柚月は自分でもゾッとするほど冷たい声が出て、美月はビクリと華奢な肩を震わせると大きな瞳に涙を浮かべて泣き出した。美月の侍女がこちらを強く睨みつける。柚月が美月に言い返したことが気に食わないのだ。美月の侍女はどうしても柚月を見下しているから、仕方ない。


『お姉様に酷いことを言われたってお父様に言い付けるわ!』


泣きながら叫ぶ美月を冷ややかな声で一瞥すると『好きにすれば?』と吐き捨てる。


『私は間違ったことは言ってないわ。美月、お父様に泣きついたら何とかなるという考え方、改めた方が良いわよ』


柚月はそう言い残すとその場を去った。美月は予想通り父に泣きつき、孝臣が欲しいと訴えたそうだが聞き入れられなかった。当然であるが、父に願いを叶えてもらえなかった美月は父と父の味方をする義母を避けるようになったため、東雲家の雰囲気はギスギスし始めた。それから美月は孝臣以上の男をものにするために、パーティーやら学園やらで色んな男に声をかけるようになり、その言動がはしたないと周囲から白い目で見られるようになった。


それでも美月の庇護欲をそそる外見のおかげか、男には人気があるらしく、前の人生と同じく雄一が虜になったようだ。


(雄一は長男だから婿にはなれない。そういえばお父様は色んな親戚に連絡を入れてると聞いたわ。東雲を継いでくれる親戚を探しているのかしら)


美月の様子では婿を取るための婚約者探しは進まない。あれだけ可愛がっていたはずの美月を父も義母も持て余しているように見えた。前の人生では柚月が美月の我儘を引き受ける役目を負っていた。それを今回は放棄しているし父も柚月に強く言うことは出来ない。前は柚月が犠牲になることで家族として保っていただけで、その柚月が役目を果たさないだけで呆気なく形を保てなくなる脆い家族だったのだ。


柚月にはもう関係のない話だ。柚月はいずれこの家を出ていく。大学に進学したら孝臣とは一緒に住む話が出ているが、美月のとばっちりを喰わないように影山家に住む話も最近は出ている。孝臣はどうやら美月が嫌いらしく、前に突撃された際は不快感を露わにし、全身から冷気を発して威嚇していた。


『…君、人のものが欲しいだけで俺のことが好きなわけじゃないだろ』


『わ、私は本気です!お姉様みたいなきつい人より私の方が』


『あ?柚月を侮辱するなら許さないよ。柚月と半分血が繋がってるから今まで見逃してやったけど、これ以上関わるなら容赦しない…それにしても、自分の本当に欲しいものが分からないなんて、可哀想だね』


哀れみを込めた目で美月を一瞥すると、用はないとばかりに柚月を連れてその場を離れた。後ろを振り返ると呆然とした美月が立ち尽くしていた。そうか、美月は人のものだから欲しがるのか。では雄一のことも本当に好きだったのかどうか怪しいものだ。益々前の自分の人生は何だったのだと虚しい気持ちを抑えられないが孝臣のおかげで何とかやっていけている。


それから一層美月の男漁りが酷くなった気がするものの、どうすることも出来ない。美月自身が自分のことに気づかない限り。


柚月はというと孝臣との仲を順調に深めていっている。彼は口数が少ないと父親に言われていたがそんなことはなく、ストレートに好意を示してくれるのでこちらはタジタジだ。


そしてこの前、孝臣の英語の成績が飛び抜けて良いことから教師が短期留学の話を持ちかけている場面を目撃した。彼はその話を即座に断ってしまった。


「断って良かったんですか」


前の人生では短期どころか数年留学していたのに、今の孝臣は留学する気配すらない。すると孝臣は徐に柚月の肩を抱き寄せてくる。


(ぎゃ!)


「柚月と数ヶ月でも離れるなんて耐えられないからね」


孝臣は場所を問わず柚月への気持ちを決して隠さない。不思議なことに孝臣の婚約者という全ての女性から妬まれる立場のはずなのに難癖を付けられたことがあまり無いのだ。ある時柚月のことを釣り合ってないとか、みすぼらしいと直接言いに来た女子はノアが吹いた火に驚いて逃げた後、後日柚月に平謝りした上で怯えるようになった。


(孝臣さんが何かしたんだろうな)


彼はどうやら柚月に害を成す人間に容赦がないようだ。孝也に聞いたところ、幼い頃から何でもこなせた上に地位を狙って近づく人間が後を絶たず子供ながらとても冷めた性格だったよう。それが柚月と出会ってから人が変わったように、柚月と婚約するために邁進するようになったという。大したことはしてないのに、孝也に礼を言われて恐縮してしまった。


孝臣は毎日柚月を家まで迎えに行き、教室にも顔を出し昼は外せない用事がない限りは一緒に食べて、当然帰りも一緒である。あまりの溺愛っぷりに学園一の有名カップルになってしまった。柚月としては恥ずかしいやら何やらと複雑な気持ちだ。


柚月は孝臣に自分の気持ちを伝えていない。既にかなり好きなのだが勇気が出ないのである。態度でうっすらと孝臣にはバレている気がするが、柚月が自分の口で言うまで待っているのだろう。


(もう少し待ってください)


心の中で呟きながら柚月は孝臣の肩に自分の頭を乗せて、甘えて見せた。






***************






初めて会った時から目を奪われていた。話してみて「欲しい」という気持ちが強くなったが必死でその気持ちを押し込める。あやかしの一族の本家は血統主義で人間を見下している者が多い。周囲の反対を押し切って父は人間の母と結婚したものの、周囲の嫌がらせや蔑みの目線が酷く母はとても苦労したようだ。父が母を必死で守っているが、孝臣は子供ながら父のように出来ないと悟っていた。守る力もないのに、敵ばかりの世界に連れて来ることは出来ない。


いずれ適当な分家の娘と結婚し、神宮寺を継ぐのだろう。つまらないと思いながらも自分の運命を受け入れていた。


しかし彼女に婚約者が出来、その相手が一族の分家の者と知った時は言葉で言い表せない感情が吹き荒れた。とてもじゃないが彼女と婚約者の姿を見ることは出来ず、留学という名目で逃げた。大学は彼女と婚約者のいない所を選んで受験したので会うこともなく、それでも時折彼女のことは思い出していた。結婚すれば、この気持ちにも区切りをつけられると思ったのに。


彼女が亡くなったと知った時目の前が真っ暗になった。病死と言われていたがどうにも信じられず、調べた所自ら命を絶ったと分かった。理由は婚約者と妹の裏切り。孝臣は生まれて初めて誰かを殺したいと思った。こんなことになるなら、あんな屑共から引き離しておくべきだった。後悔したところでもう遅い。


孝臣は報復として婚約者と妹の不貞の事実をあちこちに流した。東雲家は柚月の死を病死と隠蔽し、病気が分かった柚月が身を引いたと胸糞悪くなる話をでっち上げたが柚月の侍女が柚月の死の真相を週刊誌で訴えた。次々と明るみになる柚月の不遇の人生。孝臣が手を下さずとも東雲と高峰の周囲から人が消えていき、孤立していった。雄一と美月は柚月を死に追いやった外道と責められ、仲が破綻するのはあっという間だった。仕方なく結婚し、子供も産まれたものの雄一は家に寄り付かず外で女を作り、やがて家族から切り捨てられた。最後はアルコール依存症になり街を彷徨っていた所を()()の事故で死んだそうだ。


美月はヒステリックになり、地方にある東雲の別荘に閉じこもるようになった。そしてある日訪ねてきた知人の男性に刺され、命を落とす。その男性は美月の元婚約者で()()()美月の居場所を突き止め、裏切った報復をしたのだ。元凶が死んでも孝臣の気が収まることはない。東雲と高峰も徹底的に潰した。


全てを終えた孝臣は無気力に日々を過ごしていた。屑共が死んでも柚月は戻って来ないのだから。


そんな孝臣を見かねた父が「禁術」を教えてくれた。自分の命と引き換えに時間を戻せるというもの。死ぬと同時に大事な者のことを強く思うのが発動条件らしい。


「母さんはお前が5歳の頃、父さんの婚約者候補だった女に襲われて死んでしまった。だから時を戻したんだ」


俄には信じがたかったが、父の胸には刺されたような傷がある。本人は海水浴で転んだ時に出来たと言っていたが、本当に刺した傷だと知り納得したのだ。


「戻ったのは孝臣が生まれた直後だった。俺はあの女にありもしない罪を着せて問題のある分家の老人に嫁がせた。家族も苛烈で加虐性のあるあの女に苦労していたから、庇わなかったよ。今は監視されながら何とか生きてるみたいだ」


父は古びた短剣を孝臣に差し出した。良く見れば古くなった血液がこびり付いている。父以外も使った者がいるのだろう。


「戻って運命を変えても安心しては駄目だ。死ぬはずの運命を変えた歪みが出ないとも限らない。母さんには常に護衛を付けていて、裏切ることがないように()()()()()()()()


冷ややかな笑みを浮かべる父は孝臣に言えないこともしてるようだ。それを聞くことはしない。


「使用者の記憶は残るが相手に残るかどうかは人によるようだ。自分が死んだ記憶に耐えられない者には残らないという説もあるが、定かじゃない。いつに戻るのか時間も決められないが、使うかどうかはお前の意思に任せる」


そう言い残すと父は部屋を出て行った。孝臣の選択は話を聞いた時からとっくに決まっている。


戻ったらまず、柚月を迎えることに異を唱えるであろう頭の硬い老人共を排除して、孝臣の妻の座を狙ってる娘のいる家も抑える。弱みがあればそれをネタに、なければ作れば良いのだから。父がやったように。


柚月に記憶は残るのだろうか。出来れば全て忘れて欲しい。あんな屑共のことも、死を選んだ絶望も全て。どうせ孝臣のことは覚えてないだろうから、記憶が無くとも問題無い。


最初からやり直すのだ。柚月と婚約して、彼女を傷つけるもの全てを排除する。出来れば自分のことを好きになって欲しいが、生きていてくれるだけで良い。あの時の絶望を味わうのは二度とごめんだ。


孝臣は何の躊躇いもなく自らの心臓を短剣で刺した。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ