5
.5
みぞれ雪もいつの間にか止んで、陽が上りはじめたのか空は明るくなっている。
玄関から伸びる赤いシミがより赤く見え、その赤い雪の中で人が一人立っていた。
中年男性で、日に焼けた、手の甲にトンボの刺青のある人。手芸屋のあの男性だ。名前は確か……。
「ウィミ、君が怪我をしているから代わりにしてあげたよ」
男の正面に立つウィミが薄着で男を見上げる。
「勝手なことはしないで。私の担当だったはずです」
「はじめから君には無理だと思っていた。だから男達の間で前々から話し合っていたことだ」
二人は一体何の話をしているのだろう。
「ジェル様はどこですか?」
ウィミが一歩つづ進みながら男に近づいていく。
「ここでは言えない」
「分かりました。おじさんは重症です。もういいでしょう?これ以上は近づかないでください」
「サブリナはどうする?」
男に名前を呼ばれて、私は胸の奥がぐっと苦しくなった。恐怖と懐かしさと不安が混ざったような感覚だ。そして男の名前を思い出した。
「あなたには関係ありません。それより、私をジェル様の元に連れて行ってください」
ウィミがそう言うと男はウィミに肩を貸して歩き出すのだった。
「ウィミ!」
キュフ君が玄関扉をすぐに閉めると、急いで荷物をまとめ始めた。その間、ソラヤさんが止血剤を塗って傷口を布巾で塞いでいる。
「ロア。ここに停まっててくれる?」
赤い鳥がゆっくり飛んできて、付近の上に行儀良く停まった。どうやら止血をしてくれるらしい。
「サブリナさん、今のうちに支度をしましょう。この村は何かがおかしいです」
「でも、父が」
クソ親父でも怪我をしているのに一人、置いていく訳にはいかない。
「血が止まれば一緒に行けます。ルシオラの止血剤は強力ですから大丈夫ですよ。とにかく急ぎましょう」
私は暖かい上着を羽織り、背負える鞄に母の似顔絵とお金、日持ちのする食材と、薬を詰め込んだ。そしてウィミの上着を持って父の元に駆け寄る。
「血は止まった?」
「いいから、行け」
赤い鳥の足元の布は真っ赤に染まっていて、まだ止血できていそうにない。
「ソラとサブリナさんは先に橋を越えたほうがいい。ボクはおじさんの血が止まってからロアと一緒に行くから」
「キュフ君、私が残るからソラヤさんと逃げて」
「ううん。残るのはボクのほうがいいよ。ボクはルシオラだから大丈夫」
二人は何かを知っているようだ。この状況に慌てることもなく、淡々と行動していて、しかも逃げ道すら確保しているような言い方だ。
「サブリナさん行きましょう」
「でも、ウィミが」
「ウィミさんはゼノだから大丈夫です」
「さっきから大丈夫、大丈夫って何の話をしているの!」
私が声を荒げた時、父が私の足を軽く叩いて、玄関扉の方を指差した。
「つべこべ言わず行け」と言われたような気がした。
ソラヤさんが私の手を引いて、玄関を勢いよく開けて走り始める。私は仕方なく付いていくしかない。
手を引かれながら、父の姿を見つめ、ぐっと奥歯を噛み締めるのだった。
畑から裏山に伸びる道を走り、山の中に入っていく。そして細い獣道を進みながら見晴らしの良い場所に出た。
「サブリナさん。ハサミ川を越えて首都メルへ行きましょう」
「川は通行書がないと通れないんですよ」
「川の下に渡し船があるそうです。穀物を運輸する船でそこに乗せてもらうように頼んでいます。穀物の中に隠れることになりますが、我慢してください」
「いつの間に」
「薬を売っていると色んな人に教えてもらって」
ソラヤさんが頭巾を被り直して、斜めがけの鞄を腹部から背中側に移動させる。小さな鞄で硬いものが入っているようだった。そしてその上から大きな鞄をかけて隠すように背負う。
ここからは村の南側が一望できる。子どもの頃よくここでウィミと一緒に村を眺めた思い出がある。
ソラヤさんが私に伏せるように言うので、二人で雪の上に這いつくばる。
とある家から誰かが出て来るのが見えた。男だ。その男は家の中から何かを引きずりながら外に出て、無造作に手にしたものを放り投げる。
ごろんと転がったのは、人だ。そしてその人は「助けてくれ」と懇願しているが、男は無反応で、手にしていた鎌で目の前の人を簡単に切りつけ始めた。
私は悲鳴が出そうになるのを両手で口を塞いで止めた。
悲鳴が響き渡る。他の家からも悲鳴や物の壊れる音が聞こえてくる。
騒音の中、鎌は何度も振り下ろされ、血飛沫が雪の上を赤く染めていく。そして切りつけられた人は無言でその場に人形のように倒れた。
私の体の中の血液がさーっと遠ざかって、心臓の音が耳の横でばくばくと大きく聞こえる。
恐怖が体を支配して恐ろしいはずなのに、この光景をなぜか目を逸らすことができなかった。
鎌を振り回していた人が踵を返して歩き始めると、ふと立ち止まり上を向いた。
喉元に刺青が見えた。
「見つかった。サブリナさん行きましょう」
刺青の男はウィミが怪我した日、すぐに見舞いに来たあの若い男性のゼノだ。鎌を握り直し、走り始めるのを確認すると、ソラヤさんはすぐに立ち上がって、私の手を引っ張る。
「行きましょう」
「でも、川に向かうには必ず村長の家の前を通らなければならないんです。今、下に降りたら危ないんじゃ」
「とにかくついて来てください」
今はソラヤさんを信じて付いていくしかない。じっとしていてもあの刺青の青年が鎌を持ってやってくるだけだ。
悲鳴が止まない。両耳を塞いで聞こえないようにしても耳を刺すように響いてくる。
走ったせいで荒くなった呼吸を無理やりに鎮めて、私たちは体を小さくしてことが過ぎるのを待っている。
山道を通り抜けて、村の北側に出るとすぐに近くの民家の裏側に入っていく。
そこには農業用の水路があり、水路は村長の家のそばから南下するように作られている。
この水路はハサミ川が氾濫した時のことを想定してしっかり作られていて、深さもあるので、人が隠れることができる。
水路を進んで村長の家の側に辿り着き、梯子を登って村長の馬小屋に隠れる。
馬達は暴れずに私たちを隠してくれた。
「どうしてこんなことをする!」
村長の声が聞こえて、私たちは心臓がドキドキと跳ね回りはじめる。
ゼノの男二人が村長を引っ張り出し、家の前で跪かせていると、女の子が歩み寄ってくるのが見えた。
あの子は確か、手芸屋の女の子。とても賢そうな女の子で、年齢は十代前半くらいだったはずだ。
ジェルちゃんがどうしてここにいるのだろう。
ジェルは耳に飾りを付けていて、以前見た時よりも大人っぽく見える。
「鐘が聞こえたからだ。なので私たちゼノの償いの時間は終わったのだ」
鐘?償いの時間?私には分からない。
「エアルの罪はまだ終わっていない。ゼノが勝手に終わらせるな」
村長は殴られたのか、頭部から血を流している。七十歳で最近は寝込むことの多い村長には少しの傷も命取りになるはずだ。
「エアルの罪だと。お前達は相変わらずエアルを悪党にすることしか脳がないんだな。だから返してもらう。愚かな奴らからこの土地を返してもらう」
若い女の子が偉そうな言い方でそう言うと「やれ」と大人の男性に命令した。そして村長に包丁が二本突き立てられる。
悲鳴が出るのを抑えて、私とソラヤさんは自分の口を必死に塞いだ。
「ジェル様」
「ウィミ。足を怪我したのではなかったのか」
足を引きずりながらウィミが現れてその場に座り込んだ。
「私の仕事をどうして他の人に任せたのですか?」
「何のことだ?」
「養父が刺されました。それは私の仕事だったはずです」
ウィミが父のことを「養父」と言った時、ジェルがお腹を抱えて笑い始めた。
「養父だと。ウィミを金で買ったただの男じゃないか。本当に父だと思っているのか?」
「話の論点はそこではありません。なぜ貴女さまの父にさせたのかと訊いているんです」
ジェルの父があのトンボの刺青の人?私はゼノたちのことに関心がなく、本当に誰が親子で、誰と誰が同じ歳などまったく知らなかった。知ろうとしてこなかった。
「父は私の言うことを必ず訊いてくれるからだ。鉄の一族の首長は女である私だ。私の決定をウィミは逆らうと言うのか?」
鉄の一族って何?ゼノ達が山にこもってしている仕事というのは鉄の採掘だったのだろうか。鉄の出る山を治めるゼノの首長がジェルだなんて、信じられない。彼女はまだ成人していない女の子だ。
本当に、この状況はどうなっているのだろう。頭の中がどうしても整理できない。もっと勉強を頑張って賢い人になれていたら、こんなことも予測して対策を練ることができていただろうか。
「私の家族のことは私に任せて欲しいって言っているんです」
ウィミが「家族」と口にすると、その場に居合わせたゼノ達が鼻で笑い、冷たい目線でウィミを睨みつける。
「あんなのを家族なんて呼ぶな」
村長を蹴り飛ばして現れたのは、あの首に刺青のある若い男だった。
「私がどう呼ぼうが勝手です」
「ウィミのことを奴隷のように働かせ、教育を受けさせなかった。あいつらはゼノのことを知ろうともせず、まるで無関係だという顔をしていたな」
私たちを追いかけて来た男が私と父の悪口を言いながら、こちらに向かってゆっくり歩を進める。もしかして気づかれたのだろうか。
「お前を金で買った男は放ったらかしにし、労うわけでもなく優しくするわけでもなく、実の娘と同じようには扱わなかっただろう?それを奴隷って言うんだ。一番イラつくのはサブリナだ」
足音が近づいてくる。馬小屋の板の隙間から覗いていたソラヤさんと私は、息を潜めて体を小さくさせる。
「サブリナはいつも不幸そうな顔をして、自分は両親から見放されたんだという、拗ねた面をしていた。まるで自分が一番不幸なんだと自慢しているような顔だ。俺はあの顔が一番胸糞が悪かった。ここに集められて来たゼノの子どもの多くが孤児だ。親や家族から無理やり引き離された奴もいる。サブリナよりも不幸な奴なんていくらでもいるんだ。そんなことも知らずに、自分だけが可哀想と思ってもらえるように演出していた、そうだよな、サブリナ!」
声は私の頭の上から聞こえた。そして男は手を伸ばして、私の髪を鷲掴みにし、私を馬小屋から引きずり出した。
「やめてください」
ソラヤさんが私の髪を掴んだ手を振り解こうとするが、「邪魔だ」と振り払われてしまった。
「痛い」
「だから?ほら、いつものあの不幸そうな顔をしてみろよ」
髪がぶちぶちと何本も引きちぎられて、私は私の髪をおもちゃのように掴む男を睨みつけた。
「被害者ぶってんじゃねえよ」
そう吐き捨てて、私を蹴り飛ばすと、ウィミが足を引きずりながら駆け寄って来た。
「サブリナ!」
「ウィミ、いい加減に理解しろよ。お前が思っているような人間じゃないんだ、こいつらは。お前が家族だと思っている関係は家族なんかじゃないんだ」
男の首の刺青を凝視してみてようやく、何の絵柄が彫られているのかようやく分かった。トンボの羽根模様だ。
「私がどう思うかは自由です」
「ならどうする?家族のために何をする?サブリナを逃すか?それとも一緒に逃げるつもりか?分かっているよな、始まったからにはもう、後戻りはできない。鉄の蜻蛉は決して引き返さないし、後悔もしない。レピュス人とアピス人は全員殺す」
彼の恨みは深いようだ。このクジラ地方と呼ばれる土地には、原住民と呼ばれる大昔からこの地に住んでいたとされる、ゼノ、プルモ、ルシオラ、ランテルナの四種属と、移民である山から来たレピュス人と、海から来たアピス人がいる。
この村の多くはレピュス人だが、少数だがアピス人も住んでいた。しかし、見た目では簡単に見分けがつかないし、先祖を辿れば混血の場合もよくある。人種で分けるのは難しい。
「それで、そこの余所者はなんだ?レピュス人か、それともアピス人か?」
余所者と呼ばれたソラヤさんは困ったように目を泳がせる。
ここで原住民と名乗らなければ私たちと同じく殺されるだろう。
「その人はこの村の人じゃないから、見逃して」
ウィミガそう叫ぶが、男は「この状況を見られたからには、もう無関係じゃない」と冷たく答える。
ソラヤさんは荷物をおろして、一番小さな肩掛け鞄をあけ、中身を取り出す。
誰もが目を細めて、取り出された物体に驚きを隠せず、言葉を失うのだった。
「私は、ランテルナです」
燦々と美しく光を放つランタン。その光を今までに見たことがない。強い光なのに優しく、あたたかな、澄んだ光。きっと昔話に書かれている、ランテルナの「祝福の灯」に違いない。