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麦の穂を守る人 (S-08)  作者: 橙ノ縁
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 共同生活三日目。やっぱり一番困るのは、食事だ。二人も人が増えれば、二倍の速度で食材は減っていく。

 その上ウィミの治療費も必要だし、かなり危機的状況であることは間違いない。

 春麦の収穫が終わるまではまとまったお金も入ってこないとなると、何か金目の物を質屋に入れなければならないだろう。

「こんな時に、あのクソ親父が帰ってきてくれたら」

 幼少の時以外にあの父に早く帰ってきてほしいと思ったことはなかったが、まさかそんな帰ってこいと願う日が来るとは思ってもみなかった。

 もともとこの家と春麦畑は母の実家の持ち物で、母が嫁入りの時に譲渡された物だった。

 母は麦を育てるのがとても上手く、毎年村で一番の出来の良さを誇っていた。

 しかし私が五歳の時、母は風邪を拗らせて呆気なくこの世を去った。本当にあっさりで、発熱で一晩横になると言って眠って、次の日の朝には冷たくなっていた。その異変に気付いたのは私だった。あの日の母の手の冷たさを今でも鮮明に覚えている。

 父は怒り狂ってお爺ちゃん先生に掴みかかっていた。普段は無口で何を考えているかわからない父があんなに大声で怒鳴って、泣いているのを初めてみた。

 それからルシオラに歌われている時も、墓穴を掘っている時も、父は無表情で、声をかけても反応がなく、まるで父まで一緒に死んでしまったのではないだろうかと感じたのだった。

 母の葬儀が終わり、父は突然私を残して家を出た。近所のおばさんが世話をしてくれたからどうにか生活できたが、この小さな家に独りで置いていかれたのだ。

 妙に静かな室内と、妙に広大すぎる外の風景にと、どこまでも真っ青な青空に、寂しさよりも恐怖が私を覆い被さって離れなかった。

 泣いても怒っても、誰も聞こえない。誰も気づかない。そんな寂しい毎日だった。

「それから、私はあのクソ親父が大嫌いになった」

 卓上に飾った小さな絵には、母の似顔絵が鉛筆で描かれていて、誰が描いたのかは不明だが、この似顔絵は私の記憶の中の母によく似ていてる。

「お母さん。どうしてあいつはああ、なの?」

 一年のほとんどを外国で暮らし、春麦の収穫前にだけ帰ってくる。そして収穫に参加し、収穫後の麦を荷台に積んで、再び外国へ売りに出る。

「サブリナさん。山に行ってきますね」

 ソラヤさんが私の背中に声をかけた。背中に籐籠を背負って薬草採取に向かうのが日課になっている。その籐籠を背負う姿を見ていると、魂を集める種族のプルモみたいだ。

「うん。気をつけて」

「その似顔絵、もしかしてサブリナさんのお母様ですか?」

「そう。私が小さい時に亡くなったの」

「サブリナさんに似ていますね」

「そうかな?」

「これを描いた人はとても絵が上手なんですね。こうやって見比べてもそっくりです」

 母は明るくて元気で、男の子よりも活発な人だったと聞いた。この絵も瞳が生き生きしていて、とても健康的な人であることがよく見て取れる。

「私とは違って、母は太陽みたいな人だったってみんな言うんです。私は暗くて、人付き合いが悪くて、自分の気持ちを言うのも下手で。変なとことが父似みたいです」

 私が嫌っている男と私はよく似ていると気付いた時、心底吐き気がした。見た目は母に似ているのかもしれないが、この口の重い暗い性格は父とそっくりで、損したことしかない。

「いいな。誰かに似てるって」

 ソラヤさんが小声でそう呟いた。その悲しげな瞳を見て、私の心がギュッと苦しくなるのだった。

「ソラヤさん、あの」

「では、薬草採取に行ってきますね。食べられそうなキノコとか木の実も採ってきます」

「毒キノコには気をつけてください」

 昨日は毒キノコを両手一杯に摘んできてびっくりした。薬草にはあんなに詳しいのに、キノコや木の実には詳しくないなんて、不思議でつい大笑いしてしまった。

「今日は気をつけますと言いたいところなんですが、とりあえず持って帰ってくるので、サブリナさん、見極めてくれませんか?」

「仕方ないな。採取の時は手袋をしてくださいね。肌にあたるのも悪い植物だってたくさんあるんですから」

 見た目は私よりもお姉さんなのに、話をしていると年上というよりは同年代の人という感覚がする人だ。キュフ君と話している時も、姉と弟といよりは、兄と妹という雰囲気で、キュフ君のほうがしっかりしていて大人っぽい。

 ソラヤさんを見送って、今度はキュフ君がバタバタと朝の支度を始めている。

「サブリナさん、おはようございます」

「おはよう。キュフ君。今日も早いんだね」

 口にパンを咥えながら、靴の紐を結んで上着を羽織る。私が水を差し出すと、勢いよく一気飲みした。

「お仕事は大変?」

「ううん、楽しいですよ。包丁や鎌の刃を研ぐのって面白いんですね」

 キュフ君は金物屋の手伝いをすることになったそうだ。春麦の収穫前に鎌や包丁などの刃物の研ぐ依頼が多いらしく、人手不足なのだそうだ。

 昨日も練習がしたいと言うので、我が家の鎌も研いでもらった。

「くれぐれも怪我には気をつけてね」

「はい。行ってきます」

「いってらっしゃい」

 足早に少年は楽しそうに家を飛び出して行った。うちにも男の子が居てくれればもっと活気があっただろうか。父も私が男の子だったら、一緒に旅に連れて行ってくれたのだろうか。

 そんなどうでも良いことを考えてしまって、自分で情けなくて頭を左右にブンブンふって振り払った。

「さ、仕事しよう」

 畑の手入れの他にこの時期は他の植物も育たないので、内職をするのが一般的た。北から羊毛が入ってくるので、編み物をして手袋や膝掛けなどを作る。

 冬の間は春麦を育てつつ、編み物で生計を立てるのが女の勤めなのだと、村長さんが昔言っていた。

 ウィミも編み物なら出来ると言って、毎日寝台に座って黙々と編み物をしている。ゼノは器用だから彼らの作る手袋はとても良い値で売られるらしい。

 私は不器用だからいつも同じ図柄の襟巻きしか作れない。

 手芸屋のゼノが今日も毛糸を持ってやって来た。両手に大きな手提げカゴを持っていて、気に入った物を購入できるようになっている。冬の間はこんなふうに毛糸や編み棒を売り歩くのだ。

「じゃあ、今日はこれとこれをください」

「いつもありがとうございます」

 手芸屋のゼノは父と同じ歳くらいの男性で、日焼けた肌に皺皺の手をしている。

 ソラヤさんはこの村の人が日焼けしていることに驚いていたが、冬に雪の中畑仕事をする村人は、みんな雪焼けで夏のように焼けている。

「ウィミは大丈夫ですか?」

 はじめてこの人と売買以外の話をしたような気がする。昔から知っている人だけど、名前も知らない。

「ええ。薬が効いているようで痛みも少なく、安静にしています」

「そうですか。痛みがないのなら良かった」

 とても優しそうに微笑んでいて、本当にウィミを心配しているようだ。

 手芸屋は「それでは、また」と言って来た道を戻ろうとする。その時、その背中を見て一瞬、昔の記憶が蘇った。

 この人をどこかで会ったことがある。

 それは父が外に出て独りぼっちて家に残された時のことだ。あの時もこの人は毛糸を売りに来た。

「あの、ちょっと待ってください」

 骨が浮き出た背中が止まって、ゆっくりこちらを振り向く。昔はもっと背筋がピンとしていたけど、確かに間違いない。あの時のおじさんだ。

「昔、あやとりをしてくれましたよね」

「え?」

 一つを思い出すと次々に思い出が蘇ってくる。私が一人で留守番をしていることを知ると、売れ残りの毛糸を少し切ってあやとりをして遊んでくれた。

「そうそう、編み物のやり方も教わりました。私不器用で、今でもおじさんの教えてくれた編み方しか出来ないんです。ちょっと待っててください、今、作りかけの物を持って来ますので」

 そうだ。毎日顔を出してくれて、編み物のやり方まで教えてもらったのだった。

 私は作りかけの襟巻きを取りに戻り、急いで玄関を飛び出た。手芸屋はちゃんと待っていてくれていて、私は近づいて下手な編み物を彼に見せる。

「下手ですが、教えていただいたおかげでどうにか、生活の足しになっています。ありがとうございます」

 男は無言でじっと私の不出来な編み目眺めている。久しぶりに再会できたのに反応が薄い。もしかして、このおじさん、覚えていないのかもしれない。

「最近お見かけしなかったんですが、どこかに行かれていたんですか?」

 去年までは手芸屋の若いゼノの女の子が歩き回っていたはずだ。そういえば、今年になってあの女の子を見かけていない。

「ええ。仕事で地方に行っていました」

「そうでしたか。またお会いできた嬉しいです」

「ひ、人違いです。それでは」

 逃げるようにおじさんは去って行ってしまった。

「人違いなわけないよ」

 狭い村で人口も少ない。村人の顔はほとんど覚えている。それに、おじさんの手の甲に描かれた刺青の絵柄を覚えているから。

「トンボの刺青は忘れないよ」

 編み方を必死に覚える時、ずっとそのトンボが見えていたから。

 名前、名前がどうしても思い出せない。




「ウィミ、教えて欲しいことがあるんだけど」

 毛糸をウィミの布団の上にドサっと置いて、私はさっき訪ねて来た男性のことを訊いてみた。

「ほら、昔、手芸屋で働いていたゼノで、クソ親父と同じ年くらいの男の人。手の甲にトンボの刺青がある。名前なんて言うんだっけ?」

 網目の数を数えていたウィミが顔をあげて、驚いた表情を浮かべた。

「手芸屋の男の人?」

「そうそう。さっきね、毛糸を売りに来てくれたんだけど、名前が思い出せなくて」

「ええっと。わ、私も忘れちゃった」

 慌てた様子で再び網目に目線を向け直す。何か様子が変だけど、同じ種族の人の名前が出てこなくて、動揺しただけだろうか。

「そっか。また思い出したら教えて」

「サブリナはその人と知り合いなの?」

「昔ね、編み物とかあやとりを教えてもらったことがあるの」

「そうなんだ」

 あのトンボの人を見かけなくなったのは、確かウィミがこの家にくる前くらいだったような気がする。ということは、ほとんど知らない仲なのかもしれない。

「ねえ、あの手芸屋で配達していた女の子、最近見かけないね」

「ジェルのこと?」

「そうそう。職場が変わったの?それとも体調が悪いとか?」

 確か、ウィミは手芸屋のあの背の小さな癖毛の女の子ジェルとは仲良くしていたはずだ。うちに配達に来てくれた時も、二人は仲良く笑いながら噂話をしていたから。

「ジェルは今は違う仕事をしているの。お店の中で在庫の整理とか、仕入れの手伝いとか」

「そうなんだ。賢そうな女の子だもんね」

 凛とした雰囲気で、瞳がいつも真っ直ぐで、目を合わせているのがしんどくなる程だ。暗算も早いし、十代前半とは思えないくらい、言葉遣いもとても丁寧。

 私は畑を見て回ろうと立ち去ろうとした時、ウィミが言いにくそうにこう質問して来た。

「サブリナ。その手芸屋の男の人は、私に何か言ってなかった?」

「ウィミが怪我したことを知っていて、大丈夫ですか?って聞かれて、薬が効いていて痛みが少ないって答えたけど」

「それで、その人はなんて言ってた?」

「痛みがないのなら良かったって」

 ウィミの丸い瞳に影がかかるような感じがして、私はどうしてそんな表情をしているのか、疑問を持った。

 これでも長年一緒に暮らして来て、姉妹同然なのだから、少しの心の変化も見て取れる。しかし、私はウィミの全てを知っているわけではない。

 彼女にはここでの暮らし以外に、ゼノとしての生活があるのだから。

「ウィミ。私、変なこと言ったかな?」

「え?ううん。何も変じゃないよ。そうだ。この新しく買った毛糸、私に使わせてくれない?寝たきりじゃ、暇だから編み物をさせて欲しいの」

「いいけど、根を詰めないでよ」

 ウィミはとても頑張り屋で、私なんかよりもよく働くし、仕事は最後まできっちりこなすし、誰かが途中で止めない限りは編み物も一日中ずっとしている。

 定期的に声をかけないとな。と思いながら私は畑に向かった。収穫まであと少し、鳥に食われるわけにはいかない。

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